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歴史教育を考える: 日本人は歴史を取り戻せるか (PHP新書 42) 新書 – 1998/2/1
坂本 多加雄
(著)
- 本の長さ213ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日1998/2/1
- ISBN-104569559751
- ISBN-13978-4569559759
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
象徴天皇制度の意味づけ、戦争におこる正義と正常の違いなど、近・現代史を中心に戦後的敵視教育を見直すための重要な論点を提示。今日の日本に必要な「歴史像」を問う。
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (1998/2/1)
- 発売日 : 1998/2/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 213ページ
- ISBN-10 : 4569559751
- ISBN-13 : 978-4569559759
- Amazon 売れ筋ランキング: - 706,956位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月6日に日本でレビュー済み
歴史教育問題の核心
歴史教育とは何か
国の歴史とは国民の物語
歴史における正義と正常
倫理的視点と戦争犯罪
愛国心と歴史の連続性
近代史を見直す
世界史への日本の貢献
歴史の重さについて
歴史教育とは何か
国の歴史とは国民の物語
歴史における正義と正常
倫理的視点と戦争犯罪
愛国心と歴史の連続性
近代史を見直す
世界史への日本の貢献
歴史の重さについて
2015年6月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何回も繰り返して読んでいる著作で、手持ちの本が赤線や書き込みだらけになっているので、新しく買いなおして、書き込みのない本で新鮮な気分で再度読了しました。何度よんでも教えられます。
2012年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
米国傀儡敗戦政府の欽定自虐史観は論外
だが、左翼ひとつ覚えの空想的な平和主義に
も辟易して、ジャポニカ理想の歴史を考えよ
う、と提唱したもの。
ただ、考えましょうと言うだけで、その
考えた成果、日本版の史観は何もないに等
しい。著者の力は及ばない、、そうです。
史観論としては「勝てば官軍」「歴史は
勝者が書く」を指摘したレベル。章建て雑で
論文としては疑問。ひたすら空想的平和主義
の批判。作る会の内ゲバ? 絶版やむなし。
だが、左翼ひとつ覚えの空想的な平和主義に
も辟易して、ジャポニカ理想の歴史を考えよ
う、と提唱したもの。
ただ、考えましょうと言うだけで、その
考えた成果、日本版の史観は何もないに等
しい。著者の力は及ばない、、そうです。
史観論としては「勝てば官軍」「歴史は
勝者が書く」を指摘したレベル。章建て雑で
論文としては疑問。ひたすら空想的平和主義
の批判。作る会の内ゲバ? 絶版やむなし。
2005年10月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私が本書から学んだ点で特筆すべきことは、歴史教育の問題よりも、我々が深く考えることをせずに、如何に多くの間違った思い込みをしているかである。
例えば、『アンネの日記』の主人公・アンネを戦争犠牲者として捉えてしまうことだが、彼女の命日より以前、ドイツの支配が近隣諸国に及んでいた段階で停戦が実現していたとしても、彼女が強制収容所から解放されていた可能性は低い。なぜなら、ユダヤ人抹殺は戦争行為の一環でなく、ナチスの政治目的だったからである。彼女はユダヤ人抹殺計画によって殺されたのであり、戦争犠牲者ではないのである。
こう言った『アンネの日記』を反戦作品としてしまうような思い込みを払拭していくと、今までとは違った歴史が見えてくる。その点で非常に参考になるのが本書である。
例えば、『アンネの日記』の主人公・アンネを戦争犠牲者として捉えてしまうことだが、彼女の命日より以前、ドイツの支配が近隣諸国に及んでいた段階で停戦が実現していたとしても、彼女が強制収容所から解放されていた可能性は低い。なぜなら、ユダヤ人抹殺は戦争行為の一環でなく、ナチスの政治目的だったからである。彼女はユダヤ人抹殺計画によって殺されたのであり、戦争犠牲者ではないのである。
こう言った『アンネの日記』を反戦作品としてしまうような思い込みを払拭していくと、今までとは違った歴史が見えてくる。その点で非常に参考になるのが本書である。
2012年10月10日に日本でレビュー済み
本書は日本の戦後、日本の歴史教育のあり方を
肯定的にとらえている方に読んでもらえると、
それへの疑問を感じることが出来るのではないか思う。
坂本氏はいくつか歴史教科書の記述を紹介しながら、
元来、歴史とは、歴史教科書とは何を書くべきなのか、
何を教えるべきか、を問いかける。
ひとつ例をあげると、
「初等・中等の歴史教育は国民の意識を養成する教育
であり、基本的に日本の国民がどのような来歴を持ち、
その来歴が将来に対するどのような構えを築いていく
のかを念頭においてなされるべきものである。」p69
また、日本の近現代の来歴にもふれられており、
その歩みをどう捉えるべきかを提示する。
氏の言われるように、歴史を戦前・戦後、または近代日本・
世界史の流れ、といずれかに立つというより、それを超えた
公平な見地から眺めることも必要であると思う。
その視点が特にこれまでの教科書には足りないのではないだろうか。
サブタイトルの「日本人は歴史を取り戻せるか」は、
吾々が少しでも早く実現すべき課題であると思う。
肯定的にとらえている方に読んでもらえると、
それへの疑問を感じることが出来るのではないか思う。
坂本氏はいくつか歴史教科書の記述を紹介しながら、
元来、歴史とは、歴史教科書とは何を書くべきなのか、
何を教えるべきか、を問いかける。
ひとつ例をあげると、
「初等・中等の歴史教育は国民の意識を養成する教育
であり、基本的に日本の国民がどのような来歴を持ち、
その来歴が将来に対するどのような構えを築いていく
のかを念頭においてなされるべきものである。」p69
また、日本の近現代の来歴にもふれられており、
その歩みをどう捉えるべきかを提示する。
氏の言われるように、歴史を戦前・戦後、または近代日本・
世界史の流れ、といずれかに立つというより、それを超えた
公平な見地から眺めることも必要であると思う。
その視点が特にこれまでの教科書には足りないのではないだろうか。
サブタイトルの「日本人は歴史を取り戻せるか」は、
吾々が少しでも早く実現すべき課題であると思う。
2007年6月4日に日本でレビュー済み
左翼をしても「非常に反論しづらい」と言わしめる本。
新書なので、一般の人でも読みやすい。
著者は、歴史教育とはそもそもなぜ行われるのか、というところからきちんと論じていく。
これは現在の教育論においても欠いている視点ではないだろうか。
著者と意見を異にする人でも、考えるに値する問いかけであろう。
そして、唯一・客観的な歴史なるものが存在し得ないことを指摘した上で、歴史教育は歴史を共有することによって国民意識を形成するものであるとする。
そして、それを軸に据えて、何を歴史の中で教えるべきか、を論じていく。
新書なので、一般の人でも読みやすい。
著者は、歴史教育とはそもそもなぜ行われるのか、というところからきちんと論じていく。
これは現在の教育論においても欠いている視点ではないだろうか。
著者と意見を異にする人でも、考えるに値する問いかけであろう。
そして、唯一・客観的な歴史なるものが存在し得ないことを指摘した上で、歴史教育は歴史を共有することによって国民意識を形成するものであるとする。
そして、それを軸に据えて、何を歴史の中で教えるべきか、を論じていく。
2006年4月23日に日本でレビュー済み
本書は、2002年に惜しくも早逝された坂本多加雄・学習院大学教授の遺著だが、今読み返してみても、その歴史等に対する良質な思考の意義は全く薄れていない。従って、昨今の歴史教科書問題や皇室典範改正問題を考えるとき、著者が語る「国の歴史とは国民の物語」という観点が、実は大事なポイントになってくる。そもそも「歴史とは、常に解釈された歴史」であり、「事実の集まりがただ歴史を構成するわけではない」(佐伯啓思『「市民」とは誰か』)からである。
ところで「物語」というと、それは“フィクション(虚構)”ではないか、と口を尖らす向きもあるだろう。だが、この世界の中で、国家(国民)の来歴を“フィクション”で彩りしていない国はないし、「国家はまず、完全に想像力の産物として生まれるものである」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)のだ。それぞれの国は、当然の事ながら、固有の由来を持っている。故に、他国と共通する歴史教科書など絶対に作れないし、皇室の問題もこうした視点から論議されるべきであろう。
本書は、2002年に惜しくも早逝された坂本多加雄・学習院大学教授の遺著だが、今読み返してみても、その歴史等に対する良質な思考の意義は全く薄れていない。従って、昨今の歴史教科書問題や皇室典範改正問題を考えるとき、著者が語る「国の歴史とは国民の物語」という観点が、実は大事なポイントになってくる。そもそも「歴史とは、常に解釈された歴史」であり、「事実の集まりがただ歴史を構成するわけではない」(佐伯啓思『「市民」とは誰か』)からである。
ところで「物語」というと、それは“フィクション(虚構)”ではないか、と口を尖らす向きもあるだろう。だが、この世界の中で、国家(国民)の来歴を“フィクション”で彩りしていない国はないし、「国家はまず、完全に想像力の産物として生まれるものである」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)のだ。それぞれの国は、当然の事ながら、固有の由来を持っている。故に、他国と共通する歴史教科書など絶対に作れないし、皇室の問題もこうした視点から論議されるべきであろう。