神道の特徴は、儀式はあるが、教義はなく(古代)、思想を体系化しようとすると、仏教・儒教・道教・キリスト教等を援用し、こじつけ的な解釈が横行しましたが(中世・近世・近代)、神道系学者の神道入門書も、歴史の解説以外、大概がそうなりがちで、話が散漫なうえ、誰かの引用が大半です。
本書もおおむね、それを踏襲しており、著者独自の箇所としては、得意分野だからか、スピリチュアル(霊的)な話題が散見されます。
ですが、神社で祈願・祭祀する人々の大半は、自然の霊性を感じに行くのではなく、仏家・社家・儒家神道等の思想はもちろん、神社の由緒も詳しく知らず、祭神・御利益程度の情報しかないのは、形式(儀式)自体を経験することで、自分の気分を転換させようとしているだけなのではないでしょうか。
これだと、「何かを感じる」というノリのいい人も、「何も感じない」というシラケた人も、極端な両者が祈り・祭りの対象になれます。
御守り・御札や祈祷・厄払い等も、形式の一種で、それらを霊的な宿り・働き(アミニズム・シャーマニズム等)に、安直に結び付けては、一般人にはまったく理解できず、大勢の人々に広く長く受け入れられている祈り・祭りと逆行するので、せめて人の心までで説明すべきです。
そして、そもそも、霊・神・仏の区別が曖昧で、ほぼ同等に取り扱っているのは、「習合」させすぎです。
仏教では、高僧達が、人は誰でも、生前・死後にかかわらず、仏になれるといいましたが、神道では、一般の人々は死後、霊になり、神にはなれず、天上の神の子孫とされる天皇でさえも全員、祭神にはなっておらず、大半の歴代天皇は、祖霊(祖神ではない)として祭祀・崇拝されています。
神になれるのは、日本初の御霊会(ごりょうえ)で祭祀された6人や菅原道真・平将門等、祟りを鎮めたい人物か、豊臣秀吉・徳川家康等、功績があったとされる人物のみなので、人格神は、人の霊とは別格の存在なのです。
たとえば、靖国神社の祭神は、旧幕府軍等の逆賊は対象外で、新政府軍等の官軍の戦没者のみで、それは功績があるからでしたが、おそらく第二次世界大戦の戦犯が合祀される際に、人は誰でも神になれると、変更されたと解釈するしかなく、どうもこれが影響したとみられます。
本書の「はじめに」で、神道を、神からの道と神への道に二分し、それらを贈与と返礼の関係に比定していますが、返礼は、「祈り・祭り」等と具体的な一方、贈与は、「永遠の宇宙的創造行為」「存在世界における根源的贈与」等と抽象的で意味不明ですが、ここは「自然からの恩恵」というべきでしょう。
贈与と返礼の関係が支配的な、狩猟・採集社会では、集団の構成員の平等が原則で、極端に突出した個人を創り出さないので、神も、人の願いに対して応えられなければ、棄てられてしまいます(呪術の神)。
この時代は、アミニズム(精霊信仰)・シャーマニズム(祈祷師の霊・神との交信信仰)が支配的な世界ですが、人や動植物・道具等の霊とは別格の、自然からの恩恵があったり、山・水・巨木・巨石等の巨大自然物が、神として認知されるようになったはずです。
そののちの、国王の保護と人民の服従の関係が支配的な、農耕社会では、国王が人民を統率し、治水・灌漑施設を整備することで、収穫量が大幅に向上したり、戦争に勝利することで、敵国を配下とし、勢力拡大できました。
よって、国王は、シャーマン(祈祷師)よりも超越的な存在になりましたが、農耕を左右する天候や大地には無力なので、神も、人の願いに対して応えられなくても、棄てられずに、超越的な存在になります(宗教の神)。
そのうえ、この時期から、自然神だけでなく、祖霊信仰から発展した人格神(天つ神・国つ神等)も創り出され、現在までの神道の系譜は、人の願いに対して応えられなくても、棄てられない神なので、アミニズム・シャーマニズム等の霊的感覚を持ち出しても、説明にならないのではないでしょうか。
神道も、仏教・儒教・道教・キリスト教等の他宗教と同様、時代の変遷とともに、揺れ動いてきており、呪術の神と宗教の神の間には、断絶があり、ここから巫女が、祭祀の主役から脇役へと変化し、国王等が台頭・祭主になっていったと推測できます。
そうなると、日本の宗教・文化等の基層は何かということになりますが、私は、それを自然の摂理と同化しようとする形式のみで、人間の英知としての思想の内容はほとんどないと思っており、自然の摂理と同化しようとする形式とは、永遠な循環と、多様な物事の共存と考えています。
まず、自然の摂理と同化しようとする形式の第1は、朝→昼→夕→夜→…、春→夏→秋→冬→…と、永遠に循環するように、日本の人々の行為・表現も、そのように繰り返し移り変わらせることです。
万物は、必死必滅で、おおむね誕生期→増進期→最盛期→減退期→死滅期と移行しますが、死滅期と誕生期をつなぎ、そこを仮死・再生期とみなせば、永久不死不滅になります。
神道での祭祀は、不浄な状態(ケガレ/穢れ・ツミ/罪・タタリ/祟り)を清浄な状態(ハライ/祓い・ミソギ/禊ぎ・キヨメ/清め)へと転換する行為で、仏教での修行は、迷いや苦しみを捨て去り、悟りを開き(無・空の境地)、そこから立ち戻る行為といえます。
つまり、これらは、いずれも、減退期(ネガティブ)→仮死・再生期(ゼロ)→増進期(ポジティブ)と、移行しようとするのが共通しており、神道が目標とする、清(きよ)き明(あか)き心も、汚く暗い心からの回復で、人生で落ち込んだ時期が、神道祭祀・仏教修行の出番としています。
鈴木大拙は、日本的霊性を基層とし、禅を、それが知性方面で発現した姿、浄土教を、それが情性方面で発現した姿と主張したようですが、親鸞の念仏は、ネガティブな穢土(えど)の現世とポジティブな浄土の来世を行き来し、道元の座禅は、ネガティブな迷いとゼロの悟りを行き来することが前提です。
実は、筆者が頻繁に取り上げている、神道の本質が、自然崇拝や、自然への畏怖・畏敬の感覚にあるというのも、ネガティブな畏怖からポジティブな畏敬への転換で、自然との共生でなく、属生・拠生というのも、自然との形式的な一体化としてみることもできます。
本書の「あとがき」で、筆者は、君が代の国歌への強引な法制化を、心なき形式主義として批判していますが、神道での祈り・祭りの形式が永遠に反復されるのと同様、日本では、いったん形式(儀式)になれば、それが定例化・定型化し、とても容易に変更できないことは、充分承知でしょう。
つぎに、自然の摂理と同化しようとする形式の第2は、多様な生物の住み分けで、自然界の生態系が維持・永続されるように、日本の人々の行為・表現も、多様な物事を共存させ、適時適材適所で使い分けることです。
梅原猛は、日本文化を、日本列島の土着・固有の要素(「縄」「和」)と、中国大陸・朝鮮半島や欧米の先進・外来の要素(「弥」「漢」「洋」)の、2つの焦点をもつ楕円構造とみれば理解しやすく、もともと「縄魂弥才」だったのが、古代には「和魂漢才」、近代には「和魂洋才」になったと説明しました。
日本には、一切の拒絶・排除という態度はあまりなく、自分達の都合のいい物事を受け入れつつ、折り合いをつける姿勢が基本といえます。
そこには、完全・完結の一元化は、不変・不動なので、それ以上の発展がなく、やがて必死必滅、未完全・未完結の多元化は、変化・変動なので、それ以降の増殖も可能で、永久不死不滅に結び付くという志向があるようで、二元以上あれば、自由度が確保できるので、創意工夫の余地があります。
また、日本の歴代為政者は、古代から近世までに、天皇→有力貴族→上皇→有力武士と代わりましたが、公地公民制が荘園制・封建制に侵食されても、律令制と太政官制は残し、摂関政治が衰退しても、摂関家は残し、武家政治に移行しても、院政や公家は残しました。
これは、古い時代が終わり、新しい時代が始まるといった、人工的・作為的な転換を敬遠し、自然な四季の移り変わりの中での気候変動のように、微細な変化からはじめる巧妙な手法といえ、実際には、新勢力は、新規の制度で乗っ取りつつ、旧勢力の従来の体制を存続・形骸化させました。
多様な物事の共存ができた背景として、朝鮮半島は、中国大陸から近く、攻め込みやすいので、先進制度・技術・文化等を、外圧で全面的に取り入れるか、それに反発して独自性を発揮するか、いずれも一元化しやすくなりがちです。
一方、日本列島は、中国大陸から遠く、攻め込みにくいので、それらを、選択的に取り入れられ、物事を等価に吟味できたことが、多元化につながりました。
本来なら、物事を都合よく使い分けて説明すべきなのに、本書は、見境なく際限なく「習合」させているので、それが散漫な話と、大半の誰かの引用の要因となっています。
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神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる (PHP新書) 新書 – 2000/4/1
鎌田 東二
(著)
神道の精神は自然との共生にある??その歴史と著者自身の体験から、日本人に宿る自然性を明らかにし、アニミズム的生き方を再考する。
神社や森で突如感じる神々しさや畏怖の念??このような感覚に宿る生命中心主義、自然崇拝こそ神道の本質である。
従来、弥生時代に起源を持つとされることが多かった神道。しかし本書は、縄文時代、さらにはそれ以前から人々に宿るアニミズムの感覚に遡る、より大きなスパンで神道を捉え直すことを提唱。その視点から神仏習合、吉田神道の登場、神仏分離令に至る、神道の歴史を読み解く。
さらに、「日常に神道は生きているか?」という現在に直結する疑問に答える形で、ディープエコロジーにつながる神道の原像を明らかにしていく。そして、大いなる自然から贈られ続ける生命に驚き、感謝して生きる「かみのみち」こそが、環境破壊・宗教不信など多くの問題を乗り越え、新たな世界を開く、と説くに至る。
宗教学者でありながら、神主、祭りの主催者、神道ソングライターとして伝承文化の見直しと調和ある共同社会の創造を実践する著者による、壮大なる神道文明論。
神社や森で突如感じる神々しさや畏怖の念??このような感覚に宿る生命中心主義、自然崇拝こそ神道の本質である。
従来、弥生時代に起源を持つとされることが多かった神道。しかし本書は、縄文時代、さらにはそれ以前から人々に宿るアニミズムの感覚に遡る、より大きなスパンで神道を捉え直すことを提唱。その視点から神仏習合、吉田神道の登場、神仏分離令に至る、神道の歴史を読み解く。
さらに、「日常に神道は生きているか?」という現在に直結する疑問に答える形で、ディープエコロジーにつながる神道の原像を明らかにしていく。そして、大いなる自然から贈られ続ける生命に驚き、感謝して生きる「かみのみち」こそが、環境破壊・宗教不信など多くの問題を乗り越え、新たな世界を開く、と説くに至る。
宗教学者でありながら、神主、祭りの主催者、神道ソングライターとして伝承文化の見直しと調和ある共同社会の創造を実践する著者による、壮大なる神道文明論。
- 本の長さ219ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2000/4/1
- ISBN-104569610854
- ISBN-13978-4569610856
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
弥生時代に起源を持つとされることが多かった神道を、縄文時代以前から人々に宿るアニミズムの感覚に遡り、より大きなスパンで捉え直す。さらに、神仏習合、神仏分離令に至る、神道の歴史を読み解く。
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2000/4/1)
- 発売日 : 2000/4/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 219ページ
- ISBN-10 : 4569610854
- ISBN-13 : 978-4569610856
- Amazon 売れ筋ランキング: - 177,033位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2018年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
国外の人と文化差を話す際に、日本の神道について知っている必要がどうしてもある。そうした理由と、松岡正剛氏の書評を見て購入。
内容的には著者の感じる、考える神道等は何か、が書かれていて、学問的専門性や歴史事実の詳述よりも、感性的な記述が圧倒的に多い。共感する部分はあるが、自分が新たに欲しかった情報とは少々異なった。
神道のアニミズム的な神秘性自体に関心を持ち始めている人に、入門的に読むのにはとてもよい一冊。
内容的には著者の感じる、考える神道等は何か、が書かれていて、学問的専門性や歴史事実の詳述よりも、感性的な記述が圧倒的に多い。共感する部分はあるが、自分が新たに欲しかった情報とは少々異なった。
神道のアニミズム的な神秘性自体に関心を持ち始めている人に、入門的に読むのにはとてもよい一冊。
2022年8月13日に日本でレビュー済み
PHP新書なので安心して購入しましたが、
まさかの左巻き神道解説書でした。
神道そのものの解説については、役に立つ部分もあるにはあったのですが、
神道から逸脱している解説の方が分量としては多く、そこでは自説を展開し、
弥生時代の朝鮮人大量渡来説や
朝鮮民族と日本人が遺伝的に同じである、
といった科学的に完全に否定されている説を採用していたり、
ありえないことに
君が代を国歌として否定する
天皇制という共産党用語を使用する
など、
読むに耐えません。
どのような思想を信じるかは自由ですが、
神道を利用して自身の信じる思想を撒き散らすのはやめてほしいと思います。
禊祓。
まさかの左巻き神道解説書でした。
神道そのものの解説については、役に立つ部分もあるにはあったのですが、
神道から逸脱している解説の方が分量としては多く、そこでは自説を展開し、
弥生時代の朝鮮人大量渡来説や
朝鮮民族と日本人が遺伝的に同じである、
といった科学的に完全に否定されている説を採用していたり、
ありえないことに
君が代を国歌として否定する
天皇制という共産党用語を使用する
など、
読むに耐えません。
どのような思想を信じるかは自由ですが、
神道を利用して自身の信じる思想を撒き散らすのはやめてほしいと思います。
禊祓。
2004年9月12日に日本でレビュー済み
稲作文化との起源に纏わる濃密な結び付き。吉田神道や国家神道にみられる教義的な
匂い。神道にはそんな漠然としたイメージを持っていたのだが一掃された。
神道のコアにあるのは、まず何より自然の荒ぶる力や世界が存在することに対する
畏怖の念、「ありがたみ」の念だという。明快な教義や形をもたず、外来の神や仏と
混交しながら共生していく様を、著者は「神神習合」と呼んでいる。「神仏習合」は
その一例に過ぎない。半ば予想したとおりに、環境問題的な視点との親和性を後半で
展開し、カーソンを引きながら「センスオブワンダー」と叫んでしまうあたりは、
本著でも度々登場する「となりのトトロ」の裏解説書といった趣だ。
著者自身も神主資格を持ち、細野晴臣他様々な音楽家、芸術家と新しい「まつろい=
祭り」の試みを行っているらしい。廃仏稀釈や合祀で解体された土着性を新たに回復
する狙いだろうか。吉田兼倶は吉田神社に日本中の神々を終結させ、新たなトポスた
る事をめざしたと本書でも紹介されているが、何かそれと似てないかなあ…
匂い。神道にはそんな漠然としたイメージを持っていたのだが一掃された。
神道のコアにあるのは、まず何より自然の荒ぶる力や世界が存在することに対する
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混交しながら共生していく様を、著者は「神神習合」と呼んでいる。「神仏習合」は
その一例に過ぎない。半ば予想したとおりに、環境問題的な視点との親和性を後半で
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祭り」の試みを行っているらしい。廃仏稀釈や合祀で解体された土着性を新たに回復
する狙いだろうか。吉田兼倶は吉田神社に日本中の神々を終結させ、新たなトポスた
る事をめざしたと本書でも紹介されているが、何かそれと似てないかなあ…
2003年12月23日に日本でレビュー済み
著者の鎌田氏については、占いライター兼研究家の鏡リュウジ氏との共著や、マスコミ報道で知り、この本を読んでみたいと思いました。神道といっても、以前は国家神道のイメージが強く、戦争とも結びついて、なんとなく近づきたくない印象を持っていました。しかし、この本を読んで、神道はもともと自然崇拝に基づくものであり、むしろ国家神道的な色彩を強めたのは明治政府以降のことだと分かり、神道についてもっと知りたいと思いました。特に、大正時代に急拡大したけれども、国家的な弾圧を受けた大本教については、文献も少ないので、大変参考になりました。