浅学の徒である自分に総てが理解できたとは思えない。
演繹的にテキストを読み込んで初めて思い至らしめんとする部分も
日本文学や文学史に極めて暗い為、その本当に意味するところも
解りかねる。でも今まで漠然と感じていたことに理論的な意味づけや
解釈がなされている点がスリリングで、文芸批評というものの醍醐味を
少しは感じ得た気がする。殊に村上氏の文体の持つ軽みや透明さは
重く底に沈みこんだものの上澄みのようだとかねてより感じていたので
日本文学史の扱ってきた重い首題を現代的な視点で捉え直しているとの
村上氏の作品解釈という点で首肯することひとしおであった。
三島由紀夫との比較で批評を試みたのはこれが最初ではないはずだが
論理的な完成度と言う意味で推定の域を超えてここまで納得させられた
のは確かに初めてのこと。ここから翻って鴎外や志賀、太宰、三島を
新たな気持ちで読んでみようかという気にさせられるのも筆者の力量。
ダンス×3に至るまでの批評で一旦筆を置いておられるが(編集の都合)
そこに紙面を割くくらいなら、むしろその後の作品群に関する批評が
読みたかったという思いも極めて強い。暫定的な解釈、批評でも良い
ので、今の時点でのアンダーグラウンドや海辺のカフカ、アフターダークへのアプローチを
垣間見たかったのはおそらく小生だけではないと思う。
また何年か後に続編も出ることだろうが早くも続きが待ち遠しい。
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村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。 (PHP新書 391) 新書 – 2006/3/1
佐藤 幹夫
(著)
「作家の発言は多かれ少なかれみんな嘘だと思っています」。そう語る本人が25年間ついてきた<嘘>——「日本の小説はほとんど読まなかった」。作品にちりばめられた周到な仕掛けに気づいたとき、村上春樹の壮大な自己演出が見えてきた。
しかしそれは読者を煙に巻くためだけではない。
暗闘の末に彼が「完璧な文章と完璧な絶望」を叩き込まれ、ひそかに挑んできた相手はだれか? 夏目漱石、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫……。「騙る」ことを宿命づけられた小説家たちの「闘いの文学史」が、新発見とともに明らかになる!
[小説家という人種]「志賀直哉氏に太宰治氏がかなわなかったのは、太宰氏が志賀文学を理解していたにもかかわらず、志賀氏が、太宰文学を理解しなかったという一事にかかっており、理解したほうが負けなのである」(三島由紀夫)……そんな三島こそ太宰の最大の理解者だったのでは? そして、その三島由紀夫の最大の理解者は?
しかしそれは読者を煙に巻くためだけではない。
暗闘の末に彼が「完璧な文章と完璧な絶望」を叩き込まれ、ひそかに挑んできた相手はだれか? 夏目漱石、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫……。「騙る」ことを宿命づけられた小説家たちの「闘いの文学史」が、新発見とともに明らかになる!
[小説家という人種]「志賀直哉氏に太宰治氏がかなわなかったのは、太宰氏が志賀文学を理解していたにもかかわらず、志賀氏が、太宰文学を理解しなかったという一事にかかっており、理解したほうが負けなのである」(三島由紀夫)……そんな三島こそ太宰の最大の理解者だったのでは? そして、その三島由紀夫の最大の理解者は?
- 本の長さ308ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2006/3/1
- ISBN-104569649343
- ISBN-13978-4569649344
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2006/3/1)
- 発売日 : 2006/3/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 308ページ
- ISBN-10 : 4569649343
- ISBN-13 : 978-4569649344
- Amazon 売れ筋ランキング: - 410,017位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,073位PHP新書
- - 73,529位ノンフィクション (本)
- - 110,091位文学・評論 (本)
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2006年12月25日に日本でレビュー済み
「日本の小説はほとんど読まなかった」と自ら口にし、
アメリカ文学の影響ばかりが取り沙汰される村上春樹の作品だが、
実は、漱石・太宰・三島ら、日本近代文学の「正典」を徹底的に読み込んだ上で
それらと格闘するようにして書かれたものに違いない、
とする著者の基本的な論点は妥当なものだと思う。
(著者は気づいているのかどうか知らないが、
『ノルウェイの森』が鴎外の短編「普請中」を
下敷きにして書かれていることはほぼ確実である。)
村上作品において繰り返し描かれる根本的な主題として、
「死者を全身で抱え込んでしまった人間は、易々と死ぬわけにはいかない」
というテーゼを取り出してくるあたりもなかなか秀逸なのだが、
全体を通して読むと、後半になればなるほど論証が甘くなり、
とくに最後の章で、三島の『奔馬』と『ダンス〜』を比較する段になると、
さほど似ているとは思えない人物配置・ストーリーの類似性ばかりが強調され、
それ以外には大して説得的な理由も挙げられないまま、
「はじめに結論ありき」で強引に押し通そうとしているような印象を受けた。
すでに述べたように、著者の基本的な論点は妥当なものと思うし、
卓見も随所に見られるのだが、他方、消化不足の強引な議論も散見され、
(例えば、pp.219-222で披露される一種の「座興」だが、
果たしてこれを本書に収録する必要が本当にあったのか)
全体としては生煮えのまま放り出されたという印象が否めない。
本文中で、「数日間考え込んでようやく結論にたどり着いた」
といった意味のことが何度か書かれていたように思うが、
しょせん数日間でたどり着ける結論など高が知れているのだから、
もっと時間をかけてゆっくりと熟成させるべき本だったと思う。
アメリカ文学の影響ばかりが取り沙汰される村上春樹の作品だが、
実は、漱石・太宰・三島ら、日本近代文学の「正典」を徹底的に読み込んだ上で
それらと格闘するようにして書かれたものに違いない、
とする著者の基本的な論点は妥当なものだと思う。
(著者は気づいているのかどうか知らないが、
『ノルウェイの森』が鴎外の短編「普請中」を
下敷きにして書かれていることはほぼ確実である。)
村上作品において繰り返し描かれる根本的な主題として、
「死者を全身で抱え込んでしまった人間は、易々と死ぬわけにはいかない」
というテーゼを取り出してくるあたりもなかなか秀逸なのだが、
全体を通して読むと、後半になればなるほど論証が甘くなり、
とくに最後の章で、三島の『奔馬』と『ダンス〜』を比較する段になると、
さほど似ているとは思えない人物配置・ストーリーの類似性ばかりが強調され、
それ以外には大して説得的な理由も挙げられないまま、
「はじめに結論ありき」で強引に押し通そうとしているような印象を受けた。
すでに述べたように、著者の基本的な論点は妥当なものと思うし、
卓見も随所に見られるのだが、他方、消化不足の強引な議論も散見され、
(例えば、pp.219-222で披露される一種の「座興」だが、
果たしてこれを本書に収録する必要が本当にあったのか)
全体としては生煮えのまま放り出されたという印象が否めない。
本文中で、「数日間考え込んでようやく結論にたどり着いた」
といった意味のことが何度か書かれていたように思うが、
しょせん数日間でたどり着ける結論など高が知れているのだから、
もっと時間をかけてゆっくりと熟成させるべき本だったと思う。
2006年8月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
村上春樹ファンにとっては、気に入らない点もままあると思われるが、文芸批評の一つとして読めば腹も立つまい。村上氏自身も、批評は読まないと公言されているのであるから、作家に忠実な読者なら、この批評は無視して結構かとも思う。しかし、批評としてはよくできた一冊である。作品の構造においてテクストを解読する手法は、すでに目新しいものではないが、村上春樹と三島由紀夫が何故結びつくのか、興味のある方は一読に値するであろう。小生、両方の作家のファンとして、しばしば頷く箇所があった。しかし、もし村上氏がこの批評を目にした場合は、もちろん「ふーん、そんなものかなあ」といって肯定はすまい。テクストの読解とは、著者の意識しない部分を読み取る作業だからである。
2018年2月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
正直言って、著者の「論」が論であるかどうか疑問に思います。不勉強な者の生意気な意見かもしれませんが、よくもこんな内容を出したなぁと思っています。今迄一番後悔した買い物でした。
2006年3月20日に日本でレビュー済み
村上春樹は彼に先行する日本の作家たち、なかでも三島由紀夫の文学と格闘しながら彼のオリジナルな作品(本書では、デビュー作から『ダンス・ダンス・ダンス』まで)を創造してきたのだという説を細かに検証する本です。春樹の文章をなめるように読みこんで、いわゆる「謎解き」を執念深くおこなうのが主な目的であります。ただし、それだけでなく本書は、著者の日本の小説に対する「愛」の告白の書としてもあり、またその「愛」の正しい表現の仕方をよく考えぬいた独自の文芸批評論でもあるとも言えるでしょう。
春樹を日本の小説の流れのなかに位置づける、というのは、それほど新しい視点ではないよねえ、というのが正直な感想ですが、しかし、あくまで三島文学への対抗意識において(とりわけその死生観をめぐって)春樹を読み直したことが、本書に圧倒的な魅力と独創性を与えています。デレク・ハートフィールドの正体は三島と太宰治だ、という新説になるほど。『ノルウェイの森』と『春の雪』の構造は酷似しており、そして三島を間において春樹と漱石(『こころ』)がつながり、三者の作品にはそれぞれの時代背景と作家の感性が読みとれる、という話も興味ぶかい。たとえば大塚英志が、「デレク・ハートフィールド=庄司薫」仮説を唱えたりしていますので、この辺、お互いの説に対する意見を聞いてみたいところです。
気にかかるのは、では、村上春樹は「日本文学史」の正統であり直系なのか?ということです。たとえば三浦雅士は、春樹の小説をあくまでもアメリカ文学の影響下にあるものと捉え(作家の語る言葉を「白=白」つまり素直に受け取った批評です)、春樹の小説やあるいは柴田元幸の扱っているような作品は世界文学の大転換と呼応しているのだ、と論じています。こちらも、説得力があります。「日本(語)」だけでは視野が狭いのでは、と思ってしまいます。
著者は『海辺のカフカ』や『アフター・ダーク』についても一家言あるようで、今後、どこかで改めて議論する予定のようですが、本書で残されたいくつかの疑問点も含めて、さらなる展開が楽しみであります。
春樹を日本の小説の流れのなかに位置づける、というのは、それほど新しい視点ではないよねえ、というのが正直な感想ですが、しかし、あくまで三島文学への対抗意識において(とりわけその死生観をめぐって)春樹を読み直したことが、本書に圧倒的な魅力と独創性を与えています。デレク・ハートフィールドの正体は三島と太宰治だ、という新説になるほど。『ノルウェイの森』と『春の雪』の構造は酷似しており、そして三島を間において春樹と漱石(『こころ』)がつながり、三者の作品にはそれぞれの時代背景と作家の感性が読みとれる、という話も興味ぶかい。たとえば大塚英志が、「デレク・ハートフィールド=庄司薫」仮説を唱えたりしていますので、この辺、お互いの説に対する意見を聞いてみたいところです。
気にかかるのは、では、村上春樹は「日本文学史」の正統であり直系なのか?ということです。たとえば三浦雅士は、春樹の小説をあくまでもアメリカ文学の影響下にあるものと捉え(作家の語る言葉を「白=白」つまり素直に受け取った批評です)、春樹の小説やあるいは柴田元幸の扱っているような作品は世界文学の大転換と呼応しているのだ、と論じています。こちらも、説得力があります。「日本(語)」だけでは視野が狭いのでは、と思ってしまいます。
著者は『海辺のカフカ』や『アフター・ダーク』についても一家言あるようで、今後、どこかで改めて議論する予定のようですが、本書で残されたいくつかの疑問点も含めて、さらなる展開が楽しみであります。
2007年8月9日に日本でレビュー済み
『風を歌を聴け』のデレク・ハートフィールドの正体を論じた、本書の前半部のは、結構度肝を抜かれると共に、深く納得しました。そもそも、昔のインタビューを読んでいても、春樹氏は何気に、日本文学をたくさん読んでるんですよね。まあ、やはり用意周到な作家ですね。
「三島は嫌い」とか言うのは、「好き」の裏返しであるのに違いないと、本書を読んで半ば言い切りたい気もします。
ところが後半部が、やや意味不明だったことと、無理なこじ付けに思えるような箇所も全体的に多少あったことと、折角画期的な論考なのだから、もう少し書き言葉をうまくしたほうがよかったんじゃないかな、ということとで、減点させてもらいます。それでも、その他の取るに足らない大多数の春樹本よりは、確実に確信を突いていると思います。
何だかんだいって日本文学史は深い根で存続している、ということにゾッとする因果を感じました。飄々としているように見せかけている春樹氏の精神の戦いを、まざまざと感じました。
というか、時には「こんなの日本文学じゃない」とまで言われたりする、アメリカナイズされた春樹氏の文学は、アメリカナイズした現代日本のありのままの姿として、変に時代錯誤している懐古趣味的な作品よりも、極めて「日本的」ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
「三島は嫌い」とか言うのは、「好き」の裏返しであるのに違いないと、本書を読んで半ば言い切りたい気もします。
ところが後半部が、やや意味不明だったことと、無理なこじ付けに思えるような箇所も全体的に多少あったことと、折角画期的な論考なのだから、もう少し書き言葉をうまくしたほうがよかったんじゃないかな、ということとで、減点させてもらいます。それでも、その他の取るに足らない大多数の春樹本よりは、確実に確信を突いていると思います。
何だかんだいって日本文学史は深い根で存続している、ということにゾッとする因果を感じました。飄々としているように見せかけている春樹氏の精神の戦いを、まざまざと感じました。
というか、時には「こんなの日本文学じゃない」とまで言われたりする、アメリカナイズされた春樹氏の文学は、アメリカナイズした現代日本のありのままの姿として、変に時代錯誤している懐古趣味的な作品よりも、極めて「日本的」ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
2006年4月9日に日本でレビュー済み
村上春樹は十代後半から二十代後半にいたる10年間、ずっと読み続けていて、たくさんの評論家の批評も読んだ。評論家たちの言うことに、納得できた部分もあったが、どこか腑に落ちなかった。でも、この本を読んで、初めて納得がいった。著者の言うことにハズレもあるだろうが、それも含めて、おおむね納得できる。俺は、村上春樹は「神の子どもたちはみな踊る」で方向性を変え、「アフターダーク」で新しい世界へ抜けきったなと感じていたので、著者と意見が似ている。アフターダークのページをめくったところに、女性の乳房に顔をあてる男の絵が載っている。女性の乳房というのはもっとも原始的な受容の象徴だ。「甘えたい、誰かに完全に受容してほしい、赦されたい、肯定されたい」というのは人間の素直な欲求だと思う。村上春樹においては、かかわること(コミットメント)、かかわらないこと(デタッチメント)が主題の一つになっていると思う。甘えたいというのは、他人に自分を預けきること、つまり最も深いコミットメントだ。「海辺のカフカ」で三人称で書くことができるようになったということは、それだけ、事物を対象化できるようになったということだ。対象化できて、一息つけたからこそ、さらに対象化を押し進めて、一歩ひいた広い視野で事物を捉えた「アフターダーク」が書けた。村上春樹は常に変容している。村上春樹が三島由紀夫を忘れ、初めて二律背反を振り切ったあとに見える光景はどのようなものなのだろうか。次の作品が楽しみだ。
2011年9月14日に日本でレビュー済み
本書、「序となる文章」において著者が危惧していたことが現実のものとなってはいないか。
「本書でなされている検証作業は強引なこじつけであり、ためにするだけの論及だ、と意図的に受け取られかねない恐れがあります。(中略)価値を貶めるような事態は筆者のもっとも望まないものです。」
しかし、実際はどうか。
「これ以上の論及は下司の勘ぐりになるというところまでは踏み込んでいます」と自負している割には、独りよがりでこじつけめいた甘い検証ばかりが目につく。
村上作品を解読するうちに見えてきた真実、と言うよりは、著者が自説を読者に押しつけたくて村上作品やその他媒体から都合のよいところだけを引用してきた感が否めない。
たいした根拠が無いにもかかわらず、断定口調でつづられる本書は批評とすら言えない。
著者も認めているとおり「村上氏の作品を読んで、気持ちよくなりたいと考えている人にはおそらく不向きです。」
文芸批評として読もうとする人にとってもあまりに説得力を欠いた本書はおそらく不向きです。
「本書でなされている検証作業は強引なこじつけであり、ためにするだけの論及だ、と意図的に受け取られかねない恐れがあります。(中略)価値を貶めるような事態は筆者のもっとも望まないものです。」
しかし、実際はどうか。
「これ以上の論及は下司の勘ぐりになるというところまでは踏み込んでいます」と自負している割には、独りよがりでこじつけめいた甘い検証ばかりが目につく。
村上作品を解読するうちに見えてきた真実、と言うよりは、著者が自説を読者に押しつけたくて村上作品やその他媒体から都合のよいところだけを引用してきた感が否めない。
たいした根拠が無いにもかかわらず、断定口調でつづられる本書は批評とすら言えない。
著者も認めているとおり「村上氏の作品を読んで、気持ちよくなりたいと考えている人にはおそらく不向きです。」
文芸批評として読もうとする人にとってもあまりに説得力を欠いた本書はおそらく不向きです。