書名から想像つかないが、今まで関家新助著『近代日本の反権力思想』など研究書でしか読めなかった「藩論」を全文現代語訳付きで載せているのが素晴らしい。
「藩論」は直接龍馬の業績とはいえないが、明らかに海援隊つながりで龍馬の思想の延長にある。
「藩論」に注目することで自由民権運動につながる龍馬の重要性が明らかになるだろう。
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龍馬暗殺の謎 (PHP新書) 新書 – 2007/3/16
木村 幸比古
(著)
幕末最大のミステリー・坂本龍馬暗殺事件。それは、大政奉還か
ら戊辰戦争へと時代がうねる中で起きた惨劇だった。
当初、実行犯と目されたのは新選組、だがそれを覆す供述で見廻組が浮上。それ
ら幕府側の組織を統轄したのは会津藩である。一方、討幕側の薩摩藩にも陰謀め
いた思惑が見え隠れする。徳川慶喜の処遇を巡って龍馬の存在が目障りとなった
のか? さらに、新史料から、意外な藩の影が浮かび上がる。はたして、真
犯人、そして黒幕とは? 龍馬が駆け抜けた混迷の政局を読み解き、諸説を検証
する。
[目次より]第一章 維新への道「:土佐の国ではあだたぬ奴」/新史料・嵯峨
根良吉意見書/第二章 龍馬暗殺事件の謎:新選組説の謎/近藤勇への嫌疑/薩
摩藩陰謀説の謎/容疑者・今井信郎を助けた西郷隆盛/見廻組説の謎/暗殺か職
務か/諸説の謎/狙われたのは中岡のほうだった?/第三章 見廻組異聞:新
発見・佐々木只三郎の鎖帷子/龍馬を斬った刀
ら戊辰戦争へと時代がうねる中で起きた惨劇だった。
当初、実行犯と目されたのは新選組、だがそれを覆す供述で見廻組が浮上。それ
ら幕府側の組織を統轄したのは会津藩である。一方、討幕側の薩摩藩にも陰謀め
いた思惑が見え隠れする。徳川慶喜の処遇を巡って龍馬の存在が目障りとなった
のか? さらに、新史料から、意外な藩の影が浮かび上がる。はたして、真
犯人、そして黒幕とは? 龍馬が駆け抜けた混迷の政局を読み解き、諸説を検証
する。
[目次より]第一章 維新への道「:土佐の国ではあだたぬ奴」/新史料・嵯峨
根良吉意見書/第二章 龍馬暗殺事件の謎:新選組説の謎/近藤勇への嫌疑/薩
摩藩陰謀説の謎/容疑者・今井信郎を助けた西郷隆盛/見廻組説の謎/暗殺か職
務か/諸説の謎/狙われたのは中岡のほうだった?/第三章 見廻組異聞:新
発見・佐々木只三郎の鎖帷子/龍馬を斬った刀
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2007/3/16
- ISBN-104569690653
- ISBN-13978-4569690650
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2007/3/16)
- 発売日 : 2007/3/16
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4569690653
- ISBN-13 : 978-4569690650
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,342,611位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年6月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ある程度の情報はあったが、あまり新しい知識が増えたとは言い切れない。
2017年5月28日に日本でレビュー済み
『龍馬暗殺の謎』というストレートなタイトルとは違い、大政奉還論の成り立ちやら京都見廻組の内情やら、刊行時点(2009年)の最新トピックを盛り込んだ四方山研究話。まあ龍馬暗殺をかかげておいたら読者が買ってくれるからね。
『龍馬を殺したのは誰か』『龍馬暗殺最後の謎』を直前に読んでいたので、検証が雑といおうか、消化不良な読後感であります。
基本的に京都見廻組説を支持しつつ、陰謀論にも未練たっぷり。著者は本職の学芸員(京都東山霊山歴史館の当時・学芸課長→現・副館長)なのですが、史料の取捨選択や評価に首を傾げる点が多々あり。校正も杜撰なのか、相馬肇と横倉甚五郎を取り違えていたり、田中光顕がNHK京都の番組に出演していたり(!)します。本当はどんな文章のおつもりでしたのかしらん。
京都見廻組説は実行犯が告白しているのに長らく売名扱いされてきて、渡辺篤の証言に信憑性が認められるようになったのは昭和の終わりになってからだということには驚き。前掲の二書では一番信用できるという高い評価の渡辺篤証言ですが、本書では通説とは違っているので信用できないという扱いです。
なお、他のレビューではなぜか薩摩藩陰謀説の本みたいに紹介されている本書ですが、ここまで書いてきた通り、京都見廻組説ですから御注意を。
巻末には坂本龍馬が手がけ、長岡謙吉の手で出版されたとされる『藩論』の原文+現代語訳掲載。ですが、これ、本当に明治元年に刊行されたものなのでしょうか? あまりに時代を先取りした内容でして、龍馬に仮託した偽書なんじゃないかと疑いたくなります。原本が見つからないまま英語訳で紹介されたという発表の経緯も何だか出来すぎ。
『龍馬を殺したのは誰か』『龍馬暗殺最後の謎』を直前に読んでいたので、検証が雑といおうか、消化不良な読後感であります。
基本的に京都見廻組説を支持しつつ、陰謀論にも未練たっぷり。著者は本職の学芸員(京都東山霊山歴史館の当時・学芸課長→現・副館長)なのですが、史料の取捨選択や評価に首を傾げる点が多々あり。校正も杜撰なのか、相馬肇と横倉甚五郎を取り違えていたり、田中光顕がNHK京都の番組に出演していたり(!)します。本当はどんな文章のおつもりでしたのかしらん。
京都見廻組説は実行犯が告白しているのに長らく売名扱いされてきて、渡辺篤の証言に信憑性が認められるようになったのは昭和の終わりになってからだということには驚き。前掲の二書では一番信用できるという高い評価の渡辺篤証言ですが、本書では通説とは違っているので信用できないという扱いです。
なお、他のレビューではなぜか薩摩藩陰謀説の本みたいに紹介されている本書ですが、ここまで書いてきた通り、京都見廻組説ですから御注意を。
巻末には坂本龍馬が手がけ、長岡謙吉の手で出版されたとされる『藩論』の原文+現代語訳掲載。ですが、これ、本当に明治元年に刊行されたものなのでしょうか? あまりに時代を先取りした内容でして、龍馬に仮託した偽書なんじゃないかと疑いたくなります。原本が見つからないまま英語訳で紹介されたという発表の経緯も何だか出来すぎ。
2016年10月7日に日本でレビュー済み
龍馬暗殺に関してはいろいろな説を聞いていましたが、
ひとつひとつを丁寧に検証しており
最終的な結論も理にかなっていると感じさせるものでした。
また、明治時代になって「龍馬ブーム」が来た時に
いろいろな人が「実は自分が暗殺した!」と言い出したという話には、
いつの時代にも野次馬はいるのだな・・と、思わず笑ってしまいました。
初心者にも読みやすく、非常にわかりやすい内容でした。
ひとつひとつを丁寧に検証しており
最終的な結論も理にかなっていると感じさせるものでした。
また、明治時代になって「龍馬ブーム」が来た時に
いろいろな人が「実は自分が暗殺した!」と言い出したという話には、
いつの時代にも野次馬はいるのだな・・と、思わず笑ってしまいました。
初心者にも読みやすく、非常にわかりやすい内容でした。
2017年9月15日に日本でレビュー済み
最初にこの著者は、資料文献中心主義の研究者たちを文献をつなぎ合わせるだけの評論として批判から始まる。
坂本龍馬暗殺薩摩藩説は資料文献で否定できます。元々、寺田屋事件にて、暗殺されそうになった坂本龍馬は西郷隆盛の誘いで、薩摩は霧島に湯治に夫婦で来ています。それは日本最初の新婚旅行だとして有名で、龍馬から姉に当てた手紙に旅行の様子がイラスト入りで書かれています。また、薩摩はそのまま身を隠すよう坂本龍馬を引き止めましたが、長崎は五島列島沖で海援隊の商船が難破し沈没しました。多くの船員の犠牲に、坂本龍馬はすぐさま上五島へ遺体を葬ってくれた島民への感謝と慰霊碑建立の希望を伝えに来ています。また、京都に戻った坂本龍馬に薩摩藩邸に身を隠すよう薩摩は申し出るものの、迷惑を掛けたくないと断っています。そして、近江屋での暗殺。坂本龍馬と一緒に襲撃を受けた中岡慎太郎がなくなる前に書いた暗殺事件の詳細な手紙も残っており、それらを歪めてまでも、書かれた内容に怒りすら覚える内容です。坂本龍馬、中岡慎太郎記念館にぜひ訪れて、みなさま確かめて見てください。
坂本龍馬暗殺薩摩藩説は資料文献で否定できます。元々、寺田屋事件にて、暗殺されそうになった坂本龍馬は西郷隆盛の誘いで、薩摩は霧島に湯治に夫婦で来ています。それは日本最初の新婚旅行だとして有名で、龍馬から姉に当てた手紙に旅行の様子がイラスト入りで書かれています。また、薩摩はそのまま身を隠すよう坂本龍馬を引き止めましたが、長崎は五島列島沖で海援隊の商船が難破し沈没しました。多くの船員の犠牲に、坂本龍馬はすぐさま上五島へ遺体を葬ってくれた島民への感謝と慰霊碑建立の希望を伝えに来ています。また、京都に戻った坂本龍馬に薩摩藩邸に身を隠すよう薩摩は申し出るものの、迷惑を掛けたくないと断っています。そして、近江屋での暗殺。坂本龍馬と一緒に襲撃を受けた中岡慎太郎がなくなる前に書いた暗殺事件の詳細な手紙も残っており、それらを歪めてまでも、書かれた内容に怒りすら覚える内容です。坂本龍馬、中岡慎太郎記念館にぜひ訪れて、みなさま確かめて見てください。
2012年1月20日に日本でレビュー済み
西郷隆盛が坂本龍馬暗殺の黒幕だという証拠があるのか。『龍馬暗殺の謎――諸説を徹底検証』(木村幸比古著、PHP新書)は、状況証拠をいくつか挙げている。
●龍馬は真剣に徳川慶喜を新政府の議長席に座らせるつもりでいた。天皇親政が実現するならば、265年間、政権を担ってきた徳川幕府の長に議長ポストという恩典を与えてもよいと龍馬は考えていた。ところが、あくまで武力討幕を貫こうとする薩長は龍馬の考えに猛反対であった。薩長同盟のコーディネイターであった龍馬も、薩長にとって今や邪魔な存在と化し、密かに暗殺が企てられたのだ。
●慶応3年10月14日の慶喜の大政奉還と同時に討幕の密勅が薩長に下っていた。前年に成立した薩長同盟は武力討幕を決めていたが、龍馬が推進する平和革命の大政奉還のせいで、討幕計画挫折の可能性が高まってきた。薩摩は土佐とも盟約を結んでいたが、このままでは討幕の大義名分を失ってしまう。薩摩は、あくまでも武力討幕を実現させたかったのだ。龍馬暗殺事件直後、西郷が同志宛てに「今回のこと土佐にとっては不幸中の大幸なり」と書き送り、疎ましい存在となっていた龍馬の暗殺を肯定的に評価している。
●薩長にとって、龍馬の存在が新政府を樹立する上で目障りであったのは事実だが、これには龍馬が薩長間を往来する間に両藩の内情を知り過ぎたという一面もあった。
●越前藩の前藩主・松平春嶽が、「薩摩藩が武力討幕に失敗した結果、龍馬を逆恨みして陰謀を企てたに違いないと政治形勢から直感した」と書状の中で綴っている。
●明治2(1869)年、今井は、箱館(現在の函館)戦争の降伏人として反乱罪で取り調べを受け、龍馬暗殺に関わっていたことも加えられて検挙されたが、西郷の助命措置により一命を取り留めている。
西郷は暗殺というような手段を弄する人物なのか。勝海舟の言葉を集めて編まれた『氷川清話』(勝部真長編、角川文庫)で、勝はこう語っている。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ。横井は、西洋のことも別にたくさんは知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、およばぬと思ったことがしばしばあったよ。・・・その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。・・・横井の思想を、西郷の手で行なわれたら、もはやそれまでだと心配していたのに、はたして西郷は出て来たわい」。「坂本(龍馬)が薩摩から帰ってきていうには、『なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばか(馬鹿)なら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう』といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ」。
このように西郷も龍馬も傑出した人物であり、互いに実力を認め合っていた。当時、西郷は薩摩の実質的なリーダーであり、武力討幕は彼の信念であり、基本戦略であった。西郷というのは、己の信念のためならば、自分の命を捨てても惜しくないという男であった。その信念の前に立ちはだかる敵対者の命についても、同じように考えたと、私は推考している。まして、龍馬は侮れない実力、影響力の持ち主であったのだから。
ここで、西郷の戦略家としての心理と行動を如実に物語る証拠を挙げておこう。大政奉還に続く、慶応3年12月9日の王政復古の直後、政治的に慶喜の息の根を止める必要があると考えた西郷は、江戸で浪人を組織して、乱暴狼藉の限りを尽くさせた。御用党と称するこの集団は、強盗、殺人まで起こして江戸の町を荒らし回った。怒った幕府は、遂に薩長軍に対して宣戦を布告する。鳥羽・伏見の戦いが起こり、イギリスの後押しを受け軍備に勝る薩長主力の新政府軍が圧勝する。こうして西郷の狙いは見事に当たり、目的を遂げたのである。
●龍馬は真剣に徳川慶喜を新政府の議長席に座らせるつもりでいた。天皇親政が実現するならば、265年間、政権を担ってきた徳川幕府の長に議長ポストという恩典を与えてもよいと龍馬は考えていた。ところが、あくまで武力討幕を貫こうとする薩長は龍馬の考えに猛反対であった。薩長同盟のコーディネイターであった龍馬も、薩長にとって今や邪魔な存在と化し、密かに暗殺が企てられたのだ。
●慶応3年10月14日の慶喜の大政奉還と同時に討幕の密勅が薩長に下っていた。前年に成立した薩長同盟は武力討幕を決めていたが、龍馬が推進する平和革命の大政奉還のせいで、討幕計画挫折の可能性が高まってきた。薩摩は土佐とも盟約を結んでいたが、このままでは討幕の大義名分を失ってしまう。薩摩は、あくまでも武力討幕を実現させたかったのだ。龍馬暗殺事件直後、西郷が同志宛てに「今回のこと土佐にとっては不幸中の大幸なり」と書き送り、疎ましい存在となっていた龍馬の暗殺を肯定的に評価している。
●薩長にとって、龍馬の存在が新政府を樹立する上で目障りであったのは事実だが、これには龍馬が薩長間を往来する間に両藩の内情を知り過ぎたという一面もあった。
●越前藩の前藩主・松平春嶽が、「薩摩藩が武力討幕に失敗した結果、龍馬を逆恨みして陰謀を企てたに違いないと政治形勢から直感した」と書状の中で綴っている。
●明治2(1869)年、今井は、箱館(現在の函館)戦争の降伏人として反乱罪で取り調べを受け、龍馬暗殺に関わっていたことも加えられて検挙されたが、西郷の助命措置により一命を取り留めている。
西郷は暗殺というような手段を弄する人物なのか。勝海舟の言葉を集めて編まれた『氷川清話』(勝部真長編、角川文庫)で、勝はこう語っている。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ。横井は、西洋のことも別にたくさんは知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、およばぬと思ったことがしばしばあったよ。・・・その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。・・・横井の思想を、西郷の手で行なわれたら、もはやそれまでだと心配していたのに、はたして西郷は出て来たわい」。「坂本(龍馬)が薩摩から帰ってきていうには、『なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばか(馬鹿)なら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう』といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ」。
このように西郷も龍馬も傑出した人物であり、互いに実力を認め合っていた。当時、西郷は薩摩の実質的なリーダーであり、武力討幕は彼の信念であり、基本戦略であった。西郷というのは、己の信念のためならば、自分の命を捨てても惜しくないという男であった。その信念の前に立ちはだかる敵対者の命についても、同じように考えたと、私は推考している。まして、龍馬は侮れない実力、影響力の持ち主であったのだから。
ここで、西郷の戦略家としての心理と行動を如実に物語る証拠を挙げておこう。大政奉還に続く、慶応3年12月9日の王政復古の直後、政治的に慶喜の息の根を止める必要があると考えた西郷は、江戸で浪人を組織して、乱暴狼藉の限りを尽くさせた。御用党と称するこの集団は、強盗、殺人まで起こして江戸の町を荒らし回った。怒った幕府は、遂に薩長軍に対して宣戦を布告する。鳥羽・伏見の戦いが起こり、イギリスの後押しを受け軍備に勝る薩長主力の新政府軍が圧勝する。こうして西郷の狙いは見事に当たり、目的を遂げたのである。