産経新聞の連載コラムで、小気味よい筆致で左翼進歩派を批判してきた著者ですが、
長い文章になると別なんでしょうか?
司馬史観や半藤一利、保阪正康らをバッサバッサと斬りまくるのはよいのですが、
〜には違和感がある、〜は理解できない、随分な言い様だ、開いた口がふさがらない、
などと情緒的な感想ばかり並べていて全然反論になっていません。
著者の主張には賛同できるのですが、つまらない揚げ足取りばかりが目について
およそ説得力がありません。
なにやらそこらの右派ブログの文章を読まされている気がして、時間とカネの無駄、
買って後悔しました。
それでも参考になる話もあって、たとえば日清戦争の発端は、豊島沖の清国軍艦からの
砲撃を受けた日本側の応戦という定説ではなく、最初の一撃は種々の状況証拠から
日本側に間違いなかろうというものでした。
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司馬史観と太平洋戦争 (PHP新書 467) 新書 – 2007/6/16
潮 匡人
(著)
ダブルポイント 詳細
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「日清・日露だけを美化し戦前・戦中の昭和を断罪した司馬遼太
郎の感覚がわからない。なぜ昭和の戦争だけを負ける戦争、無謀な戦争と決めつ
けるのか。清国、ロシアという大国を一国で相手にした戦争も無謀であった。あ
のまま戦争が続いていれば負けていた可能性が濃厚であった。日清・日露こそ僥
倖の勝利であり、大東亜戦争にも勝機はあった。」
郎の感覚がわからない。なぜ昭和の戦争だけを負ける戦争、無謀な戦争と決めつ
けるのか。清国、ロシアという大国を一国で相手にした戦争も無謀であった。あ
のまま戦争が続いていれば負けていた可能性が濃厚であった。日清・日露こそ僥
倖の勝利であり、大東亜戦争にも勝機はあった。」
日清・日露戦争だけを美化し、戦前・戦中の昭和を断罪した司馬遼太郎の歴史観
が、戦後の日本人に与えた影響は計り知れない----。護憲派は大戦を「侵略
戦争」と称し、保守派は彼らの歴史認識を「東京裁判史観」と批判する。我々に
とってかけがえのない過去は、左右両派のイデオロギーによって書き換えられて
しまった。一方で、朝日新聞と読売新聞は"共闘"して「戦争責任」を追及。しか
し、罪を問う資格のある日本人などいるのだろうか? 我々は昭和の歴史をどう
振り返るべきか。先の戦争をあらためて問う。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2007/6/16
- ISBN-104569693075
- ISBN-13978-4569693071
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2007/6/16)
- 発売日 : 2007/6/16
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 4569693075
- ISBN-13 : 978-4569693071
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上位レビュー、対象国: 日本
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2009年12月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者は「なぜ日清・日露が美化されて太平洋戦争は貶められるのか」と昭和の戦争を悪玉として扱う司馬史観に反論し、結果論的に「日清・日露は勝ったが、昭和の戦争で負けたから」と断罪しただけだと大東亜戦争だけに善悪の判断を持ち込んだ歴史観を糾弾している。『統帥権の干犯』から日本の軍部が専横を極めるようになったのは多くの人の認めるところであるし、司馬遼太郎もそれが昭和の戦争を起こした起点であり、ノモンハン事件ではさらに敗北を国民から隠した大事件として昭和が暗転するターニング・ポイントと断定しているのだが、著者の反論はその点に関しては十分な紙数を割いていない。著者の望む日清・日露と同様な大東亜戦争の扱いは、戦争を支えた政治背景の解釈に十分な反論を加えなければ読者は納得しないだろう。
後半では東京裁判と戦犯分祀論に反論している。著者は「勝った戦争で誤爆などの責任を賠償するというなら分かるが、敗戦した以上、その結果自体が責任ではないだろうか」と主張しているが、一方的に侵略され、多くの死者を出した東南アジア、併合された韓国・台湾、長年の戦火に巻き込まれた中国の国民は負けただけで責任が問われなくなるのでは納得しないであろう。また、戦犯分祀論は司馬史観だけの主幹ではないので、後半は別個の独立した論文とすべきであったろう。
後半では東京裁判と戦犯分祀論に反論している。著者は「勝った戦争で誤爆などの責任を賠償するというなら分かるが、敗戦した以上、その結果自体が責任ではないだろうか」と主張しているが、一方的に侵略され、多くの死者を出した東南アジア、併合された韓国・台湾、長年の戦火に巻き込まれた中国の国民は負けただけで責任が問われなくなるのでは納得しないであろう。また、戦犯分祀論は司馬史観だけの主幹ではないので、後半は別個の独立した論文とすべきであったろう。
2015年7月25日に日本でレビュー済み
内容は数本の論考の寄せ集めで、タイトル関連は一部だから、タイトルに惹かれた私を含む一部の人には期待外れの感はある。しかし、全体としては、そんなに悪くないと思う。著者の舌鋒は相変わらずで、それが気になる人もあろうが、私としては、次のようなところは勉強になった。
○「太平洋戦争」は「大東亜戦争」と正式呼称で呼ぶべき!という人がいるが、「日清戦争」も正式ではない。同じ理屈で、より正確に呼ぶなら、「明治二十七八年戦役」(陸軍省の記録等の公式文書や法令等)と呼ばないと。【大東亜戦争という呼称に固執しても。今更仕様がないとおもうけどなあ。今の法律の名にも使われているし。】
○大東亜戦争だって、正式決定(閣議決定)までは「対米英蘭戦争」と呼ばれ、これに支那事変を含んで「大東亜戦争」となった。
○(いわゆる)日清戦争の契機となった豊島沖海戦は、清国側ではなく、実は日本側から仕掛けたものであり、従来の解釈の基本となった参謀本部の説明や記録は、日本側のねつ造ではないか。はないか。軍事的合理性からしても。朝鮮戦争も、ソ連の最高機密公文書が公開されて北からしかけたのがハッキリしたのだから。【定説が真実ではない。】
○クリント・イーストウッド曰く「人生も戦争も、どちらが正義でどちらが悪ということはなく、戦争で命を落とした人々は、どちらの側であっても、敬意を受けるに余りある存在である。」
○対米戦備増強はしていたが、米国との戦争など起こるまいという安易な楽観・対米戦争という現実に対する認識を欠いたままであった・・・これが敗因の一つ。【今の対中国も同じになりませんように】
○2・26事件で裁判所が標的とならなかったのは、菊の御紋が戦前までは正面に掲げられていたから。
○靖国問題で話題となる「分祀」というのは、魂の一部(例えばA級戦犯の者の魂だけを)を「「分」けて」「祀る」という意味ではなく、(他の御霊と合わさり)一つの炎になった全体を、コピーするが如くもう一つの炎を作る・分離すること。(だからA級戦犯の分祀は不可能)【反論をどこかで読んだような・・・】
○A級戦犯容疑者の正力松太郎について、読売新聞が言及しないのはおかしい。
○国内に蔓延する歴史観は自虐的だ、と非難する者の多くが、大東亜戦争は米国が仕掛けた・日本がはめられた・ルーズベルトは真珠湾攻撃を傍受して分かっていた等陰謀史観を持っているようだが、これこそ自虐史観。なぜなら世界の軍事史に残る奇襲の成功も全て児戯にすぎないことになるから。
○「太平洋戦争」は「大東亜戦争」と正式呼称で呼ぶべき!という人がいるが、「日清戦争」も正式ではない。同じ理屈で、より正確に呼ぶなら、「明治二十七八年戦役」(陸軍省の記録等の公式文書や法令等)と呼ばないと。【大東亜戦争という呼称に固執しても。今更仕様がないとおもうけどなあ。今の法律の名にも使われているし。】
○大東亜戦争だって、正式決定(閣議決定)までは「対米英蘭戦争」と呼ばれ、これに支那事変を含んで「大東亜戦争」となった。
○(いわゆる)日清戦争の契機となった豊島沖海戦は、清国側ではなく、実は日本側から仕掛けたものであり、従来の解釈の基本となった参謀本部の説明や記録は、日本側のねつ造ではないか。はないか。軍事的合理性からしても。朝鮮戦争も、ソ連の最高機密公文書が公開されて北からしかけたのがハッキリしたのだから。【定説が真実ではない。】
○クリント・イーストウッド曰く「人生も戦争も、どちらが正義でどちらが悪ということはなく、戦争で命を落とした人々は、どちらの側であっても、敬意を受けるに余りある存在である。」
○対米戦備増強はしていたが、米国との戦争など起こるまいという安易な楽観・対米戦争という現実に対する認識を欠いたままであった・・・これが敗因の一つ。【今の対中国も同じになりませんように】
○2・26事件で裁判所が標的とならなかったのは、菊の御紋が戦前までは正面に掲げられていたから。
○靖国問題で話題となる「分祀」というのは、魂の一部(例えばA級戦犯の者の魂だけを)を「「分」けて」「祀る」という意味ではなく、(他の御霊と合わさり)一つの炎になった全体を、コピーするが如くもう一つの炎を作る・分離すること。(だからA級戦犯の分祀は不可能)【反論をどこかで読んだような・・・】
○A級戦犯容疑者の正力松太郎について、読売新聞が言及しないのはおかしい。
○国内に蔓延する歴史観は自虐的だ、と非難する者の多くが、大東亜戦争は米国が仕掛けた・日本がはめられた・ルーズベルトは真珠湾攻撃を傍受して分かっていた等陰謀史観を持っているようだが、これこそ自虐史観。なぜなら世界の軍事史に残る奇襲の成功も全て児戯にすぎないことになるから。
2007年7月12日に日本でレビュー済み
大東亜戦争を自衛戦争だったとし、旧軍否定論者を批判した。でも、批判が的を射ない上、ダブスタ、身内びいき、都合のいい論理のすりかえ、押し付けだらけ。ページ毎に誤りを指摘したいのだが、ごく一部だけ挙げる。
読売新聞の戦争責任連載で書かれた南京大虐殺の記述を批判する際、秦郁彦氏の本を「論拠としてあまりに弱い。同書は専門家の批判・反証に晒されてきた」といい、さらには「(読売は)論拠を示すことなく『南京虐殺』と断定した」とすりかえ。しかも、虐殺否定派の東中野「南京事件証拠写真を検証する」については、ネット・本で同書の反論が多く出ているにもかかわらず、「論証を覆すことができるのか、私には疑問」と言う。批判されることが論拠とならない理由になるなら、東中野本も同様ではないか。
また、同連載で正力松太郎を批判しないことを批判して、「A級戦犯が社主だった読売新聞はどうなる。不起訴だから問題ないと考えるなら、占領軍の決定に戦争責任の判断を委ねる文字通りの東京裁判史観である」と指弾するくせに、自分の身内の潮恵之輔(広田内閣内相)は「仮に不当な弾圧をしたとしても、正当な職務行為。そうでなければ戦後GHQと天皇の求めに応じ、枢密院副議長となった経緯は不自然というほかない」。正力の正当性を占領軍に求めることを批判するのに、身内の正当性は占領軍に求めるダブスタぶり。
日本語もよく知らないらしい。ナベツネが自分の死を「昇天」と書いたことについて、「通常、イエスに対して使う言葉(中略)。(無宗教の渡辺氏が)イエスの如く天に昇るはずもない」と見当違いな批判。確かに本義はそうだけど、「昇天」が「死」の婉曲語であることは辞書にも載ってる用法だし…。
論法の間違いを探す本という意味でいえば、本書はいい本かも。でもたぶん時間の無駄なので薦めない。
読売新聞の戦争責任連載で書かれた南京大虐殺の記述を批判する際、秦郁彦氏の本を「論拠としてあまりに弱い。同書は専門家の批判・反証に晒されてきた」といい、さらには「(読売は)論拠を示すことなく『南京虐殺』と断定した」とすりかえ。しかも、虐殺否定派の東中野「南京事件証拠写真を検証する」については、ネット・本で同書の反論が多く出ているにもかかわらず、「論証を覆すことができるのか、私には疑問」と言う。批判されることが論拠とならない理由になるなら、東中野本も同様ではないか。
また、同連載で正力松太郎を批判しないことを批判して、「A級戦犯が社主だった読売新聞はどうなる。不起訴だから問題ないと考えるなら、占領軍の決定に戦争責任の判断を委ねる文字通りの東京裁判史観である」と指弾するくせに、自分の身内の潮恵之輔(広田内閣内相)は「仮に不当な弾圧をしたとしても、正当な職務行為。そうでなければ戦後GHQと天皇の求めに応じ、枢密院副議長となった経緯は不自然というほかない」。正力の正当性を占領軍に求めることを批判するのに、身内の正当性は占領軍に求めるダブスタぶり。
日本語もよく知らないらしい。ナベツネが自分の死を「昇天」と書いたことについて、「通常、イエスに対して使う言葉(中略)。(無宗教の渡辺氏が)イエスの如く天に昇るはずもない」と見当違いな批判。確かに本義はそうだけど、「昇天」が「死」の婉曲語であることは辞書にも載ってる用法だし…。
論法の間違いを探す本という意味でいえば、本書はいい本かも。でもたぶん時間の無駄なので薦めない。
2007年8月16日に日本でレビュー済み
題名だけ見て購入。失敗しました。雑文の寄せ集めで、一貫した論旨が存在しない。
一応、大東亜戦争をどのように考えるか、というのが主題なのだろうが、軍事常識上致命的な誤認識を平気で書いています。
たとえば半藤さんの『昭和史』を批判するくだりでミッドウェー海戦の「運命の五分間」を「定説である」と述べている。いまどき「運命の五分間」の実在を信じている人がいるとは思いませんでした。
また終章でチャーチルの『第二次大戦回顧録』を引くあたり。文章の流れからして、どうも筆者は、ハワイ海戦ではイギリス主力艦も撃沈されたと思っているようです。自衛隊ではこんな粗略な軍事史しか教えてないんですかね(チャーチルが戦慄したのはマレー沖海戦の結果について。「真珠湾の謀略」とは全く無関係な話です)。
こんな粗雑な言論が刊行されることに、保守派の人間として義憤を覚えます。
一応、大東亜戦争をどのように考えるか、というのが主題なのだろうが、軍事常識上致命的な誤認識を平気で書いています。
たとえば半藤さんの『昭和史』を批判するくだりでミッドウェー海戦の「運命の五分間」を「定説である」と述べている。いまどき「運命の五分間」の実在を信じている人がいるとは思いませんでした。
また終章でチャーチルの『第二次大戦回顧録』を引くあたり。文章の流れからして、どうも筆者は、ハワイ海戦ではイギリス主力艦も撃沈されたと思っているようです。自衛隊ではこんな粗略な軍事史しか教えてないんですかね(チャーチルが戦慄したのはマレー沖海戦の結果について。「真珠湾の謀略」とは全く無関係な話です)。
こんな粗雑な言論が刊行されることに、保守派の人間として義憤を覚えます。
2007年8月15日に日本でレビュー済み
潮さんはいつから、他人のふんどしで相撲を取るようになったのか?まえはもっと切れがよかったのに。他人の評論はいいから、自分から物語を作って欲しいものです。期待してますよ。
2007年10月23日に日本でレビュー済み
「この文章の「右」を「左」に置き換えても主張は成立する」ってくだりがあるんだけど、まさにその通り。「立場が違うと見える風景も別様となるのだろうか」って言葉もあるけど、もっとストレートに言えば「右」と「左」はまさにポジ/ネガの関係で、決して交わることがない。
最近、「ねじれ国会」って言葉をよく耳にするけどけど、今の日本を指して「ねじれイデオロギー」ってのも成り立つと思う。団塊世代が先導してきた「戦後民主主義」ってのが今や保守であり、「ナショナリズム」のほうがカウンターに見えて、そこに若者は食いついてる。だいたい「右」が反動ってのも言葉的にねじれてるよね、「左」が護憲だし。
本書で面白かったのは「垂直次元」「水平次元」って捉え方。つまり、「右」=「垂直次元」の思考、「左」=「水平次元」の思考って切り方。これには納得っていうか、なぜ「右」と「左」が相容れないのかが氷解した。
著者は「そうした人々(山本七平、福田恆存といった「元祖タカ派」)には拠って立つべき垂直次元の軸がある。だから言動がブレない。守るべきものがある」って書く一方で、「水平次元でしか生きられない「リベラル派」〜」って言い方をしているんだよね。これ、「左」の人だったら、「垂直次元」「水平次元」に対する評価が真逆に出ると思う。「左」の人は「垂直次元」ってのが大きらいで、「水平次元」の何にも拘束されないどっちつかずが好きなんだからさ。
「右」と「左」ならまだしも、「垂直」と「水平」はベクトルが違うんだから、絶対、交わらない訳だよね。いやぁ、この絶対に交わらないってことを認識するために、「右」の人は「左」の言説に、「左」の人は「右」の言説に耳を傾けるべきだね。ほんと、面白い!
ちなみに、この本、「司馬史観」についてはさわりだけでほとんど言及されていないので、タイトルで買った人はちょっと肩透かしのはず。
最近、「ねじれ国会」って言葉をよく耳にするけどけど、今の日本を指して「ねじれイデオロギー」ってのも成り立つと思う。団塊世代が先導してきた「戦後民主主義」ってのが今や保守であり、「ナショナリズム」のほうがカウンターに見えて、そこに若者は食いついてる。だいたい「右」が反動ってのも言葉的にねじれてるよね、「左」が護憲だし。
本書で面白かったのは「垂直次元」「水平次元」って捉え方。つまり、「右」=「垂直次元」の思考、「左」=「水平次元」の思考って切り方。これには納得っていうか、なぜ「右」と「左」が相容れないのかが氷解した。
著者は「そうした人々(山本七平、福田恆存といった「元祖タカ派」)には拠って立つべき垂直次元の軸がある。だから言動がブレない。守るべきものがある」って書く一方で、「水平次元でしか生きられない「リベラル派」〜」って言い方をしているんだよね。これ、「左」の人だったら、「垂直次元」「水平次元」に対する評価が真逆に出ると思う。「左」の人は「垂直次元」ってのが大きらいで、「水平次元」の何にも拘束されないどっちつかずが好きなんだからさ。
「右」と「左」ならまだしも、「垂直」と「水平」はベクトルが違うんだから、絶対、交わらない訳だよね。いやぁ、この絶対に交わらないってことを認識するために、「右」の人は「左」の言説に、「左」の人は「右」の言説に耳を傾けるべきだね。ほんと、面白い!
ちなみに、この本、「司馬史観」についてはさわりだけでほとんど言及されていないので、タイトルで買った人はちょっと肩透かしのはず。
2007年6月30日に日本でレビュー済み
雑誌に掲載された論文をまとめたためでしょうか?前後のバランスがいまいちとれず、タイトルとの整合性も一見取れていないかのような印象も与えています。中身はそれぞれが熟読に値する論点が満載ですが、やはりスペースが足りないという欠陥も見受けられます。朝日も読売も購読したことがなく、日経も読むのを止めてしまった私には、朝日と読売の共謀が起きていたというのは絶望的な驚きでした。ただ”司馬史観”などと秩序づけるほどの内実があるほどの構築物は、はたして、そこにはあるのでしょうか。それは史観というよりも、むしろ無責任で幼稚で成熟することのない精神状態です。そこには、直感と想像力と人間へのcompassionが決定的に欠落した、ただの個人的なガラクタの奇妙な集積物と捉えたほうがいいのでしょう。そういう意味では,夏のメディアの祭典を”オカルト教”位置づけたのは慧眼です。”太平洋戦争”などという人工的な構築物はその空虚な反映なのでしょう。著者は”靖国問題”などという作品も、実態は知的ジャーゴンの多用による空虚なオカルト作品以上のものではないことを喝破しています。しかし、本書の中で取り上げられた防衛大学校の校長や新聞社の会長の異様とも思える思考構造はどう理解したらいいのでしょうか。戦争が引き起こした個人的な悲劇が昇華されることは、決してないことがそこでは例示されているかのようです。終章の”大東亜戦争という悲劇”は、この作品のまとめですが、基本的には、小林秀雄の有名な悲劇論と陸奥宗光の蹇蹇録に多くを負っています。