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人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学 単行本(ソフトカバー) – 2018/1/23
加藤 諦三
(著)
ラジオの「テレフォン人生相談」で、すでに半世紀近く回答者をつとめてきた加藤諦三氏。その番組の冒頭の言葉は、「あなたの認めたくないものは何ですか? どんなに辛くてもそれを認めれば道は拓けます」である。加藤氏が、ある心理学の先哲の文章を元に考えたものという。本書の内容は、それをどのように実践してゆくかについて、心理学の先哲たちの言葉をひもときながら解説したものである。あらゆる不安、悩み、苦しみに対処するに付いて、前提として持っていなければならない心の在り方を読者に教える。まず、●「人に見せるための生き方」をやめること、そして、●「目の前の現実」から悪い意味で「逃げない」こと、この二つを徹底して心に刻んでゆくレッスンというべき思考トレーニングが展開される。現在の先進国に生きる人々の、「人生観の一般常識」をパラダイムシフトする、驚きの人生論の誕生である。
まえがき
あなたの認めたくないものは何ですか br> 一つの決意が人生のパラダイムを変える
人生の中で「内面の自由と力」を獲得しなければならない
「人間が生きる」ということの本質を正しく理解しよう
人生を間違えるとはどういうことか
自分が対峙している現実にきちんと向き合えるか
「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」は違うものである
「人生を後悔することになる人」にならないために
第一章 苦しみから逃げるほど、幸せから遠ざかる
「苦しみに向き合って生きる」ことがなぜ大切なのか
人間の中にある「善の力」と「悪の力」
現実に耐えられるようになるように「苦しみ」がある
社会的に成功しても、なぜ人生が楽しくならないのか br> 苦しまなければ、人の心がわからない
苦しみからの逃げ道は、孤独と地獄に通じている
苦しみのない「人生プログラム」はない
第二章 「間違った人生観」を捨てれば、人生が変わる
「幸せにはなりたいが、苦しみは嫌だ」というおかしな考え方
心の葛藤に直面せよ
「今の自分」に固執する人は価値観が歪んでいる
「本当の感情」を認めることが最も辛い
社会的成功者の心が意外にもろい理由
必要なのは「人生の要求」に応じる姿勢
「人間は不平等」「人生は不公平」と考えたほうがいい
先哲が教える「人生のパラダイムシフト」
第三章 「安全第一」の考え方が、つまらない人生を作る
素直になれない原因は「欲求不満の積み重ね」
努力して心を成長させることが幸せへの道
努力しても意味がないと思うことから「苦難の人生」が始まる
成長しない人は「どうしたら傷つかないですむか」と考えている
現実から逃げている人は、「人間がいかに生きるべきか」を見失った人
「どこまで自分自身になれるか」こそが人生の勝負
心が成長していない人は、自分が「不幸だ」「惨めだ」と思っていたい
「人生はままならない」と諦めてしまった人の末路
人生をつまらなくするキーワードは「安全第一」である
大切なのは、「自分の悩みや苦しみの原因は何か」を知ろうとする努力
「自分を棚に上げる人」の苦しみは一生消えない
「自分が何に支配されているのか」にほとんどの人が気づかない
「隠された憎しみ」が、幸せの大敵
幸せになるのを妨害する力は非常に強い
自分の欲望の底に潜んでいるもの
「もっと不幸な人生がある」という考えで、自分をごまかす
安全な人生を求めて、やりたいことをやらずに生きている
人間の成長は、不服従から始まる
自立した人になるための「人生を賭けた戦い」
悟ったような屁理屈は、人生の戦場から逃げる人のいいわけ
感情を素直に出せる環境が幸せの源泉
「成長欲求に従って生きる」しか人間を磨く道はない
自分と他人の類似性・相違性を認識することも、人生のヒント
一つのことをきちんと成し遂げることの大切さ
「神経症的」な親に育てられる子どもの悲劇
「人に見せるための生き方」はおやめなさい
「他人からの評価などどうでもいい」と思うだけで楽になる
「自分には自信がないのだ」と気づくだけで、人生は好転し始める
第四章 他人に評価されるように生きるなんてバカげている
人生には欠乏動機という落とし穴がある
ダメな夫と別れられない妻の心を支配しているもの
自分の本性を裏切り続けることの恐さ
「未練が未来を閉じ込める」ことを心に刻め
成長欲求に従って生きることが意外に難しい理由
孤独や不安に弱い自分を恥じずに受け入れればいい
SNSに「死にたい」と書き込む人が陥っているもの
「死ぬまで不幸な人」にならないためにどうするか
人生好転の時を、焦らずに待つという姿勢も大事である
ワーカホリックもアルコール中毒も原因は同じ
「他人に認められなければ」という焦燥感から離れる方法
「人を評価する立場」に立って、人生の見方を変えてみる
他人に貼られたレッテルを、「自分の性格」と思い込んでいないか
受身の人生を送っている人ほど深く傷つきやすい
欠乏動機の人と成長動機の人との決定的な違い
「幸せになれるパーソナリティー」に自分を変える
第五章 だから、目の前の現実にきちんと向き合うことから始めよう
「心の病んだ人」の周りには「心の病んだ人」が集まる
「人生なんてどうってことない」という人はウソつきである
自分の周りにいる人は、やる気のある人か、やる気のない人かに気づこう
画一的な「幸せのイメージ」を求めて、息苦しく生きる
「典型的な幸せ」を得たはずなのに楽しくない
心に楽をさせることで失う、大事なもの
なんの実績もないのに「自分は凄い」と思っている人の心理
好きな人に振られたことを認められる人が成長する
トラブルが人を成長させるという言葉の意味
自分の意思で何かに挑めば、失敗しても成長につながる
「最も心理的に安定している人」の心の姿
「苦しみは成長と救済に通じる」と信じることのメリット
認めたくないことを認めるときに、人は成長する
「無名兵士の言葉」という詩が伝える、現実を認めることの有用性
苦労人だったアドラーが身に着けていた知恵
他人からの賞賛がなければ満足できない人になるな
「断念」できる力が、あなたの人生を救う
狭い価値観から広い価値観へ、視野を転換する
「現実を認めるぐらいなら死んだほうがいい」といって自殺する人
名声追求で心の葛藤を解決しようとすると失敗する
人間として最高の価値を実現するということ
自殺する人の本音
自分が出来ることをすることで、人は強くなる
現実から逃げることは、死ぬことに等しい
自分が直面すべき本当の問題から目をそらすと、事態はさらに悪化する
「不幸は心の苦しみである」と理解することから幸福は始まる
幸せな人生を創造するために「苦しみ」がプログラムされている
あとがき
人間の生き方の基本的態度
大きなことをするよりも、小さなことを成し遂げること
マルクスだって「現実のこの世を楽しめ」といっている
人類の究極の知恵は「逃げるな」ということ
天国と地獄の分かれ道を先哲から学ぶ
まえがき
あなたの認めたくないものは何ですか br> 一つの決意が人生のパラダイムを変える
人生の中で「内面の自由と力」を獲得しなければならない
「人間が生きる」ということの本質を正しく理解しよう
人生を間違えるとはどういうことか
自分が対峙している現実にきちんと向き合えるか
「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」は違うものである
「人生を後悔することになる人」にならないために
第一章 苦しみから逃げるほど、幸せから遠ざかる
「苦しみに向き合って生きる」ことがなぜ大切なのか
人間の中にある「善の力」と「悪の力」
現実に耐えられるようになるように「苦しみ」がある
社会的に成功しても、なぜ人生が楽しくならないのか br> 苦しまなければ、人の心がわからない
苦しみからの逃げ道は、孤独と地獄に通じている
苦しみのない「人生プログラム」はない
第二章 「間違った人生観」を捨てれば、人生が変わる
「幸せにはなりたいが、苦しみは嫌だ」というおかしな考え方
心の葛藤に直面せよ
「今の自分」に固執する人は価値観が歪んでいる
「本当の感情」を認めることが最も辛い
社会的成功者の心が意外にもろい理由
必要なのは「人生の要求」に応じる姿勢
「人間は不平等」「人生は不公平」と考えたほうがいい
先哲が教える「人生のパラダイムシフト」
第三章 「安全第一」の考え方が、つまらない人生を作る
素直になれない原因は「欲求不満の積み重ね」
努力して心を成長させることが幸せへの道
努力しても意味がないと思うことから「苦難の人生」が始まる
成長しない人は「どうしたら傷つかないですむか」と考えている
現実から逃げている人は、「人間がいかに生きるべきか」を見失った人
「どこまで自分自身になれるか」こそが人生の勝負
心が成長していない人は、自分が「不幸だ」「惨めだ」と思っていたい
「人生はままならない」と諦めてしまった人の末路
人生をつまらなくするキーワードは「安全第一」である
大切なのは、「自分の悩みや苦しみの原因は何か」を知ろうとする努力
「自分を棚に上げる人」の苦しみは一生消えない
「自分が何に支配されているのか」にほとんどの人が気づかない
「隠された憎しみ」が、幸せの大敵
幸せになるのを妨害する力は非常に強い
自分の欲望の底に潜んでいるもの
「もっと不幸な人生がある」という考えで、自分をごまかす
安全な人生を求めて、やりたいことをやらずに生きている
人間の成長は、不服従から始まる
自立した人になるための「人生を賭けた戦い」
悟ったような屁理屈は、人生の戦場から逃げる人のいいわけ
感情を素直に出せる環境が幸せの源泉
「成長欲求に従って生きる」しか人間を磨く道はない
自分と他人の類似性・相違性を認識することも、人生のヒント
一つのことをきちんと成し遂げることの大切さ
「神経症的」な親に育てられる子どもの悲劇
「人に見せるための生き方」はおやめなさい
「他人からの評価などどうでもいい」と思うだけで楽になる
「自分には自信がないのだ」と気づくだけで、人生は好転し始める
第四章 他人に評価されるように生きるなんてバカげている
人生には欠乏動機という落とし穴がある
ダメな夫と別れられない妻の心を支配しているもの
自分の本性を裏切り続けることの恐さ
「未練が未来を閉じ込める」ことを心に刻め
成長欲求に従って生きることが意外に難しい理由
孤独や不安に弱い自分を恥じずに受け入れればいい
SNSに「死にたい」と書き込む人が陥っているもの
「死ぬまで不幸な人」にならないためにどうするか
人生好転の時を、焦らずに待つという姿勢も大事である
ワーカホリックもアルコール中毒も原因は同じ
「他人に認められなければ」という焦燥感から離れる方法
「人を評価する立場」に立って、人生の見方を変えてみる
他人に貼られたレッテルを、「自分の性格」と思い込んでいないか
受身の人生を送っている人ほど深く傷つきやすい
欠乏動機の人と成長動機の人との決定的な違い
「幸せになれるパーソナリティー」に自分を変える
第五章 だから、目の前の現実にきちんと向き合うことから始めよう
「心の病んだ人」の周りには「心の病んだ人」が集まる
「人生なんてどうってことない」という人はウソつきである
自分の周りにいる人は、やる気のある人か、やる気のない人かに気づこう
画一的な「幸せのイメージ」を求めて、息苦しく生きる
「典型的な幸せ」を得たはずなのに楽しくない
心に楽をさせることで失う、大事なもの
なんの実績もないのに「自分は凄い」と思っている人の心理
好きな人に振られたことを認められる人が成長する
トラブルが人を成長させるという言葉の意味
自分の意思で何かに挑めば、失敗しても成長につながる
「最も心理的に安定している人」の心の姿
「苦しみは成長と救済に通じる」と信じることのメリット
認めたくないことを認めるときに、人は成長する
「無名兵士の言葉」という詩が伝える、現実を認めることの有用性
苦労人だったアドラーが身に着けていた知恵
他人からの賞賛がなければ満足できない人になるな
「断念」できる力が、あなたの人生を救う
狭い価値観から広い価値観へ、視野を転換する
「現実を認めるぐらいなら死んだほうがいい」といって自殺する人
名声追求で心の葛藤を解決しようとすると失敗する
人間として最高の価値を実現するということ
自殺する人の本音
自分が出来ることをすることで、人は強くなる
現実から逃げることは、死ぬことに等しい
自分が直面すべき本当の問題から目をそらすと、事態はさらに悪化する
「不幸は心の苦しみである」と理解することから幸福は始まる
幸せな人生を創造するために「苦しみ」がプログラムされている
あとがき
人間の生き方の基本的態度
大きなことをするよりも、小さなことを成し遂げること
マルクスだって「現実のこの世を楽しめ」といっている
人類の究極の知恵は「逃げるな」ということ
天国と地獄の分かれ道を先哲から学ぶ
- 本の長さ283ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2018/1/23
- 寸法13 x 2 x 19 cm
- ISBN-104569837530
- ISBN-13978-4569837536
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出版社より

商品の説明
著者について
早稲田大学名誉教授
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2018/1/23)
- 発売日 : 2018/1/23
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 283ページ
- ISBN-10 : 4569837530
- ISBN-13 : 978-4569837536
- 寸法 : 13 x 2 x 19 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 327,608位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1938年、東京に生まれる。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学准研究員をつとめる。現在、早稲田大学名誉教授、ハーヴァード大学ライシャワー研究所准研究員(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『不安のしずめ方 40のヒント』(ISBN-10:4569791247)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
また気付きを沢山いただきました。舵を切り、自分に問いかけていきます。逃避はもうやめ、立ち向かい、戦います。絶賛、今までのツケの支払い、毒だし期間中の現在ですが、最近良くなってきていることを感じます。先生の本は不思議で、魂や心の鍼治療かクスリのようで、脳が活性化します。大変助けられており、感謝いたしております。ありがとうございます。
2023年7月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
しっかり読み込んだが、なかなか頭に入ってこなかった。しかし大いに勉強になった
2021年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
僕はかつてオウムにいたことがある。カルトとオウム事件について改めて考えるのに参考になると思い購入した。
購入動機が一般の人とは異なるために、レビューも独自のものになってしまうかもしれない。オウム事件の背景を共に考えていく過程で、本書の内容を一部書き出して(ネタバレ)しまうので、それが嫌な人は読まないでほしい。
2018年麻原彰晃こと松本智津夫の死刑執行があった。それを機会に改めてオウム真理教と麻原彰晃について考えてきた。僕がいつまでも麻原について考えているのは、似たものは集まるという僕自身の経験則と、宗教がそれぞれの思い込みによって成り立っているために教祖を自分自身の鏡のようなものと見ることができる気がしているからだ。だから麻原にもあった問題は、同じように弟子たちにもあったはずだと思う。それはいったい何なのかを知りたかった。
加藤諦三氏は社会学者で心理学者でもある。2017年5月にNHK第二放送での「加藤諦三の幸福論~何が人を幸せにするのか~」を聞いたのが出会いだった。1時間で4回放送だったが、ながら聞きも含めてそれぞれ20回は聞き直したと思う。講演でも本書でも共通しているのは自説を説かずに、海外の心理学者の言葉に分かりやすい例えをつけて解説しているところだ。マズロー、カレン・ホルナイ、フランクル、シーベリーなどの引用が多い。「自己実現の幸福論」と言っていいと思う。オウム真理教の教えとはある意味逆行している部分もあるので元関係者には違和感を感じる人もいるだろう。
オウム問題は親子問題だとして今までにもレビューで書いてきた。麻原は小学生から盲学校に通わされていて、普通校の教育を受けていない。全寮制というわけではないが、彼は寮に住まわされた。彼は貧しさからの口減らしのために親に捨てられたと思っていた。僕はこれについて、なぜ盲学校には彼の親代わりになれる人がいなかったのか、不審に思ったことがある。それは的外れな考えであった。なぜならそこは寮付きの盲学校であって、親のない子を預かる児童養護施設ではないからだ。彼のいた盲学校では週末になると親が迎えに来て一家の団欒を過ごしていったという。だから職員が親代わりをする必要はなかった。週末のたびに麻原には迎えがなく一人ぼっちだった。本書を引用する。
【引用文】愛のある家に生まれてくるか、愛のない家に生まれてくるかには責任がない。しかしその人生にどういう態度をとるかには責任がある。母なるものを持った母親の愛に恵まれて成長する人もいる。虐待されながら成長する人もいる。それはその人の運命である。
麻原が母なるもの(後述)を経験できなかったこと自体は彼の責任ではないが、その人生にどういう態度をとるかには彼に責任がある。
【引用文】人はなぜ権力依存症、名声追求依存症になるのか。権力や名声で幸せになれるとは誰も思っていない。しかしそれを求める。それは保護と安全を与えてくれるのが「力」であると思っているからである。
加藤氏は別の書籍で「母なるもの」を保護と安全を与えてくれるものと表現している。一般には親や祖父母などの保護者に感じるものだが、その経験のできなかった麻原は「力」こそがそれを与えてくれるものと錯覚した。心理学には「代理満足」もしくは「代償行動」という言葉もあるらしく、これは普通の家庭を経験している人には理解できない強い感情だと思う。理屈の上では僕たちが親に抱くのと同じくらいの感情を「力」に対して抱いていたことになる。麻原は神経症的必要性から権力を追い求めたと言えるだろう。
彼を盲学校に預けたのは養育費の軽減もあったと思われるが、兄弟に全盲者がいて彼も生まれつき片目が不自由だったため、将来を心配した親が全盲になっても働けるよう盲学校に入れたといわれている。問題なのはこの親の愛が麻原には伝わっていなかったことにある。彼は親に体裁の良いかたちで捨てられたのだと信じ込んでいた。盲学校には長兄も預けられていたから、親は長兄が面倒を見るだろうと思っていたのかもしれない。麻原に親として気持ちをきちんと説明できていなかったことが、のちに戦後最大の刑事事件となった地下鉄サリン事件に至るまでの発端だったと思われる。事件の悲惨さと、その端緒となった説明不足・コミュニケーションの不足という些少な原因との対称性のなさに、一体どうすれば事件を防げたのかと悲しくなる。
母なるものを体験できなかったことが彼の権力依存の原因であるならば、いっそのこと児童養護施設に預けられた方がよかったのかもしれない。
【引用文】どんなに西田哲学を学んでも、道元を学んでも、自分の悩みの原因を知らなければ、意味がない。それは哲学を学ぶ危険である。自らの不幸の原因をはき違える。こういう人にとって哲学を学ぶことは自らの絶望感を合理化するのに役立つだけである。
オウムの場合「哲学」を「宗教の教え」に「絶望感」を「問題」に置き換えて考えると分かりやすい。つまり「自分の悩みの原因を知らなければ、自らの不幸の原因をはき違える。こういう人にとって宗教の教えは自らの問題を合理化するのに役立つだけである。」
カルマの理論(因果応報)はオウムの中心的な教えだが、これが機能するためには魂の輪廻転生を想定する必要がある。自分の今の苦しみの原因は過去生の自分の悪業にあると考える。しかし過去生のいつの何が原因か、僕たちは思い出すことができない。引用文にあるように「自分の悩みの原因を知ることができない」。そのためカルマの理論は、実質的に「苦しみの原因を過去世のせいにし、いまの自分のせいと思わないですむこと」と同じである。
オウムの後継団体は、現在の生きづらい環境を、過去世のカルマ落としと思っているかもしれないが、亡くなった人とその他の被害者の人数を、オウムの元死刑囚と受刑者の数とで比較するならば、自分たちは一連の事件でもっと大きな悪業を積んでいて、そのカルマ落としにもなっていない。そもそもがいまの世で、自分たちが蒔いた種である。過去生のカルマのせいではない。これを過去生のカルマの清算と考えることで、するべきことをしないのを合理化してしまっている。引用文の通り「自らの不幸の原因をはき違え、宗教の教えで自らの問題を合理化」している。オウムでは自分たちの身に起こることを何事も過去のカルマと考えていた。自分たちが現在周囲に迷惑をかけていることが原因で責められても「これも前生のカルマだ。カルマが落ち切るのを待とう」といって改善しようともしなかった。このように本末転倒したまま解決せずに思考停止していることが多く、問題を蓄積してしまう原因になっていた。
カルマの理論は見方によっては崇高な教えで、救いになったり社会的には治安の維持や福祉の推進にも役立つかもしれないが、少なくとも麻原とオウム真理教にとっては、現実逃避や思考停止を合理化するための手段として機能している。
加藤氏は最後の方で「信じる宗教は何でもよい。その自分の『信じる考え』にどういう態度で向き合うかということである」としている。
【引用文】「母なるもの」を体験していない人は、生きるのに必要なエネルギーがない。それにもかかわらずイヤなことを、その場で一つ一つ対処をして生きて来た人がいる。それが真に勇気のある人である。誇りは、自分の今までの生き方からつくられる。ずるく立ち回って大成功しても、誇りはもてない。自我喪失して大成功しても、誇りはもてない。どんな小さなことでもいい。一つのことをきちんと成し遂げることからはじめる。それが勇気。ことに心に傷があった時には、小さなことを一つ一つクリアしていくこと。その体験が「母なるもの」の力を与えてくれる。(中略)「母なるもの」を体験していない人、つまり愛情飢餓感の強い人は、つい大きな望みを実現することが自信になると錯覚する。
麻原を知っている人は、あの人はエネルギーが強かった。だからこの文章は当てはまらないと思うかもしれない。丁寧に読めばこのエネルギーは「イヤなことを、その場で一つ一つ対処をして生きる」ためのエネルギー、いわばendurance(忍耐力や持続性、辛抱など)であると推察できる。麻原の犯罪を一部示す。
1980年 保険料の不正請求が発覚し、その返還を求められている。当時は「亜細亜堂」という鍼灸の診療室兼漢方薬局を経営していた。
1982年 ニセ薬を売ったとして薬事法違反で逮捕される。
1984年 ヨーガ道場「オウム神仙の会」発足。
1988年 宗教法人認証のため信徒の事故死を隠蔽。
1989年 その事実を知る出家者が還俗したいとの意志を曲げなかったため秘密の漏洩を恐れて殺害。
同年11月 オウム真理教と麻原にとって脅威となりつつあった坂本堤弁護士を家族とともに殺害。
麻原の犯罪の背景には明らかに飛び道具を使うような上手いことをやって楽に稼ごうとか、一つ一つ問題に対処せずに逃げようとする傾向が見える。假谷さん拉致事件も地下鉄サリン事件も同じである。本書の主題は現実を受け入れようということであり、受け入れずに逃げることで神経症はより深刻になるとの警告でもある。彼の行動は本書から見れば非常に神経症的である。犯罪の汚名の付いた松本智津夫の名を捨て「救世主」麻原彰晃に変身して成功しても中身は同じである。本人には充実感も誇りも持てなかっただろう。麻原に完全に依存し自我喪失して教団内で成功しても、それは得たものではなく、すべて自我喪失の代償として与えられたものであって、本当の意味での誇りとは言えないだろう。
最も多くの犯罪に加担していたとされる幹部、新実智光元死刑囚が獄中で書いていた日記には麻原について「自制心が足りない」とか「自己顕示欲が強い」などの引用文に関連する特徴が指摘されている。死刑を前にして「もっと別の人生があったんじゃないか」と考えるのは教団内での彼が自我を喪失していたことを示している。新実はマハームドラーの成就者である。教団内の定義でいえば「自己の完成」ということができる。「自己の完成」をしたとされる人物が、実際には自我喪失している。オウム真理教の修行の本質を問うヒントと見ることができるだろう。
【引用文】1997年にヘブンズ・ゲイトというカルト集団の信者たち39人が集団自殺する事件があった。その直前に、その中の一人の信者が次のようにいった。「私はこれ以上良い選択は出来ない。」これは退行欲求の選択を続けて、まさに、デッド・エンドになった状態である。(中略)こういう人たちは、指示なくして動けない人たちである。強い指示がある人についていくしかない。自己不在だからである。この「どうしようもない気持ち」を処理してくれる人が教祖である。教祖が母親になっている。
退行欲求とは、苦しみを避けるために、現実を受け入れようとしないことである。現実を受け入れずに逃げ続けたために、行き詰ったカルトの結末である。僕は地下鉄サリン事件の決行は、麻原自身が意識せずに出した集団自殺の指示だったのかもしれないと思う。行き詰っても過ちを認めたくないために、集団自殺という形をとれなかったのではないだろうか。しかし結果論としては、死刑の同日執行によってそうなってしまった。もし麻原が現実を受け入れ、一つ一つ問題に対処して、成長欲求に従っていたなら、追い詰められることはなかったはずだ。上のヘブンズ・ゲイトの信者の言葉も、自我価値を守るために、最後まで現実を受け入れまいと思うが故である。カルトが行き詰まると、現実を受け入れるくらいなら死んだ方がましだ、というところまで行きついてしまう。
いままで麻原を怪物と見るべきではない、彼を特別視するべきではないと言い続けてきた。彼の問題行動を本書の内容から考えれば、心理学的に説明のつく範疇の、一人の人間だということができる。新実が言うように、麻原が最終解脱者を名乗ってからも神経症的だったことから、また先に挙げた事件からも結局麻原は自己の殻を破ることはできていないと見ることができる。そもそも神経症は、自我価値の崩壊を恐れるために、安全と保護を選ぶ人がなるものだからである。彼が教えと弟子たちを使って自我価値の保護に努めていたことが推測される。これは仏法僧の逆構造と言ってもいいかもしれない。本来は仏陀が法を説き、僧を解脱に導くのに対して、僧が法によって、教祖を守ってしまう、もしくは美化する。教祖を守ることは与えられた「ステージ(肩書)」という自我価値を守ることになるからである。オウム真理教が何ゆえにカルトになったのかをこの構造から考えることもできるだろう。このことから麻原も僕たち弟子も、自我価値を守るために宗教を利用していた共通点に気付く。これは僕たちが世間の一般的な価値観で生きることを受け入れられず、独自のルールが支配する世界で生きることを望んだことを示している。
麻原が怪物と見られるのは、彼の妄想を実現してしまう優秀な弟子たちに恵まれたからである。その典型はサリンを製造した土谷正実元死刑囚である。麻原の言うことを誰も相手にしなければ、彼はただの妄想を語ってばかりいる人であり、そういう変わった人はこの世に意外とたくさんいるものである。
どうして彼をそのままにしておけなかったのか、麻原と僕たち構成員との共通点は、現実を受け入れられないということにある。彼も僕たちもそれまでに苦労してきたのだろう。現実の世界で苦しんできたために、本質は非現実の世界にあり、現実はその現れに過ぎないと考えた。僕たちは「オウム真理教劇場」で修行者・解脱者・救世主の3役を演じる麻原を現実と思い込んだ。麻原は麻原で「松本智津夫としての自分」を否定し続けた。どちらも現実の苦しさや虚しさから逃避するためだったのかもしれない。僕たちは麻原に麻原は僕たち信徒・サマナに、互いに依存しながら幻想を信じていた。さきの文章を借りるならば、僕たちは現実を受け入れないことを合理化するために麻原とその教えを信じたのだ。
苦しみの解決を安易なところに求めようとしたのだと思う。現実を受け入れ一つ一つの問題に対処するのではなく「麻原に帰依していれば万事OK」というのが安易なのである。こうした安易な解決法を求めるのが、神経症者の特徴だと本書にもある。
現実の問題に遭遇したとき、本人にとって心の課題だから「問題」として認識されている。現実を受け入れ問題を解決することは苦しいけれど、心の課題に直面することでもある。何度か同じ問題に取り組むことで慣れが生じて「問題」と感じなくなったとき、心の課題は解決されたと考えていいのだろう。それによって自分自身への信頼感(自信・母なるものの力)を得ることができる。その積み重ねで僕たちは真に自立した人生を生きることができるようになるのだ。
僕たちが趣味や娯楽を「問題」として認識しないのは、それらが心の課題ではないからだ。
特に元オウムの人で人生の指針を失ったままでいる人には読んで欲しい。本当にパラダイムシフトするはずだ。
※本書の趣旨と異なるレビューになっていることをお詫びします。
購入動機が一般の人とは異なるために、レビューも独自のものになってしまうかもしれない。オウム事件の背景を共に考えていく過程で、本書の内容を一部書き出して(ネタバレ)しまうので、それが嫌な人は読まないでほしい。
2018年麻原彰晃こと松本智津夫の死刑執行があった。それを機会に改めてオウム真理教と麻原彰晃について考えてきた。僕がいつまでも麻原について考えているのは、似たものは集まるという僕自身の経験則と、宗教がそれぞれの思い込みによって成り立っているために教祖を自分自身の鏡のようなものと見ることができる気がしているからだ。だから麻原にもあった問題は、同じように弟子たちにもあったはずだと思う。それはいったい何なのかを知りたかった。
加藤諦三氏は社会学者で心理学者でもある。2017年5月にNHK第二放送での「加藤諦三の幸福論~何が人を幸せにするのか~」を聞いたのが出会いだった。1時間で4回放送だったが、ながら聞きも含めてそれぞれ20回は聞き直したと思う。講演でも本書でも共通しているのは自説を説かずに、海外の心理学者の言葉に分かりやすい例えをつけて解説しているところだ。マズロー、カレン・ホルナイ、フランクル、シーベリーなどの引用が多い。「自己実現の幸福論」と言っていいと思う。オウム真理教の教えとはある意味逆行している部分もあるので元関係者には違和感を感じる人もいるだろう。
オウム問題は親子問題だとして今までにもレビューで書いてきた。麻原は小学生から盲学校に通わされていて、普通校の教育を受けていない。全寮制というわけではないが、彼は寮に住まわされた。彼は貧しさからの口減らしのために親に捨てられたと思っていた。僕はこれについて、なぜ盲学校には彼の親代わりになれる人がいなかったのか、不審に思ったことがある。それは的外れな考えであった。なぜならそこは寮付きの盲学校であって、親のない子を預かる児童養護施設ではないからだ。彼のいた盲学校では週末になると親が迎えに来て一家の団欒を過ごしていったという。だから職員が親代わりをする必要はなかった。週末のたびに麻原には迎えがなく一人ぼっちだった。本書を引用する。
【引用文】愛のある家に生まれてくるか、愛のない家に生まれてくるかには責任がない。しかしその人生にどういう態度をとるかには責任がある。母なるものを持った母親の愛に恵まれて成長する人もいる。虐待されながら成長する人もいる。それはその人の運命である。
麻原が母なるもの(後述)を経験できなかったこと自体は彼の責任ではないが、その人生にどういう態度をとるかには彼に責任がある。
【引用文】人はなぜ権力依存症、名声追求依存症になるのか。権力や名声で幸せになれるとは誰も思っていない。しかしそれを求める。それは保護と安全を与えてくれるのが「力」であると思っているからである。
加藤氏は別の書籍で「母なるもの」を保護と安全を与えてくれるものと表現している。一般には親や祖父母などの保護者に感じるものだが、その経験のできなかった麻原は「力」こそがそれを与えてくれるものと錯覚した。心理学には「代理満足」もしくは「代償行動」という言葉もあるらしく、これは普通の家庭を経験している人には理解できない強い感情だと思う。理屈の上では僕たちが親に抱くのと同じくらいの感情を「力」に対して抱いていたことになる。麻原は神経症的必要性から権力を追い求めたと言えるだろう。
彼を盲学校に預けたのは養育費の軽減もあったと思われるが、兄弟に全盲者がいて彼も生まれつき片目が不自由だったため、将来を心配した親が全盲になっても働けるよう盲学校に入れたといわれている。問題なのはこの親の愛が麻原には伝わっていなかったことにある。彼は親に体裁の良いかたちで捨てられたのだと信じ込んでいた。盲学校には長兄も預けられていたから、親は長兄が面倒を見るだろうと思っていたのかもしれない。麻原に親として気持ちをきちんと説明できていなかったことが、のちに戦後最大の刑事事件となった地下鉄サリン事件に至るまでの発端だったと思われる。事件の悲惨さと、その端緒となった説明不足・コミュニケーションの不足という些少な原因との対称性のなさに、一体どうすれば事件を防げたのかと悲しくなる。
母なるものを体験できなかったことが彼の権力依存の原因であるならば、いっそのこと児童養護施設に預けられた方がよかったのかもしれない。
【引用文】どんなに西田哲学を学んでも、道元を学んでも、自分の悩みの原因を知らなければ、意味がない。それは哲学を学ぶ危険である。自らの不幸の原因をはき違える。こういう人にとって哲学を学ぶことは自らの絶望感を合理化するのに役立つだけである。
オウムの場合「哲学」を「宗教の教え」に「絶望感」を「問題」に置き換えて考えると分かりやすい。つまり「自分の悩みの原因を知らなければ、自らの不幸の原因をはき違える。こういう人にとって宗教の教えは自らの問題を合理化するのに役立つだけである。」
カルマの理論(因果応報)はオウムの中心的な教えだが、これが機能するためには魂の輪廻転生を想定する必要がある。自分の今の苦しみの原因は過去生の自分の悪業にあると考える。しかし過去生のいつの何が原因か、僕たちは思い出すことができない。引用文にあるように「自分の悩みの原因を知ることができない」。そのためカルマの理論は、実質的に「苦しみの原因を過去世のせいにし、いまの自分のせいと思わないですむこと」と同じである。
オウムの後継団体は、現在の生きづらい環境を、過去世のカルマ落としと思っているかもしれないが、亡くなった人とその他の被害者の人数を、オウムの元死刑囚と受刑者の数とで比較するならば、自分たちは一連の事件でもっと大きな悪業を積んでいて、そのカルマ落としにもなっていない。そもそもがいまの世で、自分たちが蒔いた種である。過去生のカルマのせいではない。これを過去生のカルマの清算と考えることで、するべきことをしないのを合理化してしまっている。引用文の通り「自らの不幸の原因をはき違え、宗教の教えで自らの問題を合理化」している。オウムでは自分たちの身に起こることを何事も過去のカルマと考えていた。自分たちが現在周囲に迷惑をかけていることが原因で責められても「これも前生のカルマだ。カルマが落ち切るのを待とう」といって改善しようともしなかった。このように本末転倒したまま解決せずに思考停止していることが多く、問題を蓄積してしまう原因になっていた。
カルマの理論は見方によっては崇高な教えで、救いになったり社会的には治安の維持や福祉の推進にも役立つかもしれないが、少なくとも麻原とオウム真理教にとっては、現実逃避や思考停止を合理化するための手段として機能している。
加藤氏は最後の方で「信じる宗教は何でもよい。その自分の『信じる考え』にどういう態度で向き合うかということである」としている。
【引用文】「母なるもの」を体験していない人は、生きるのに必要なエネルギーがない。それにもかかわらずイヤなことを、その場で一つ一つ対処をして生きて来た人がいる。それが真に勇気のある人である。誇りは、自分の今までの生き方からつくられる。ずるく立ち回って大成功しても、誇りはもてない。自我喪失して大成功しても、誇りはもてない。どんな小さなことでもいい。一つのことをきちんと成し遂げることからはじめる。それが勇気。ことに心に傷があった時には、小さなことを一つ一つクリアしていくこと。その体験が「母なるもの」の力を与えてくれる。(中略)「母なるもの」を体験していない人、つまり愛情飢餓感の強い人は、つい大きな望みを実現することが自信になると錯覚する。
麻原を知っている人は、あの人はエネルギーが強かった。だからこの文章は当てはまらないと思うかもしれない。丁寧に読めばこのエネルギーは「イヤなことを、その場で一つ一つ対処をして生きる」ためのエネルギー、いわばendurance(忍耐力や持続性、辛抱など)であると推察できる。麻原の犯罪を一部示す。
1980年 保険料の不正請求が発覚し、その返還を求められている。当時は「亜細亜堂」という鍼灸の診療室兼漢方薬局を経営していた。
1982年 ニセ薬を売ったとして薬事法違反で逮捕される。
1984年 ヨーガ道場「オウム神仙の会」発足。
1988年 宗教法人認証のため信徒の事故死を隠蔽。
1989年 その事実を知る出家者が還俗したいとの意志を曲げなかったため秘密の漏洩を恐れて殺害。
同年11月 オウム真理教と麻原にとって脅威となりつつあった坂本堤弁護士を家族とともに殺害。
麻原の犯罪の背景には明らかに飛び道具を使うような上手いことをやって楽に稼ごうとか、一つ一つ問題に対処せずに逃げようとする傾向が見える。假谷さん拉致事件も地下鉄サリン事件も同じである。本書の主題は現実を受け入れようということであり、受け入れずに逃げることで神経症はより深刻になるとの警告でもある。彼の行動は本書から見れば非常に神経症的である。犯罪の汚名の付いた松本智津夫の名を捨て「救世主」麻原彰晃に変身して成功しても中身は同じである。本人には充実感も誇りも持てなかっただろう。麻原に完全に依存し自我喪失して教団内で成功しても、それは得たものではなく、すべて自我喪失の代償として与えられたものであって、本当の意味での誇りとは言えないだろう。
最も多くの犯罪に加担していたとされる幹部、新実智光元死刑囚が獄中で書いていた日記には麻原について「自制心が足りない」とか「自己顕示欲が強い」などの引用文に関連する特徴が指摘されている。死刑を前にして「もっと別の人生があったんじゃないか」と考えるのは教団内での彼が自我を喪失していたことを示している。新実はマハームドラーの成就者である。教団内の定義でいえば「自己の完成」ということができる。「自己の完成」をしたとされる人物が、実際には自我喪失している。オウム真理教の修行の本質を問うヒントと見ることができるだろう。
【引用文】1997年にヘブンズ・ゲイトというカルト集団の信者たち39人が集団自殺する事件があった。その直前に、その中の一人の信者が次のようにいった。「私はこれ以上良い選択は出来ない。」これは退行欲求の選択を続けて、まさに、デッド・エンドになった状態である。(中略)こういう人たちは、指示なくして動けない人たちである。強い指示がある人についていくしかない。自己不在だからである。この「どうしようもない気持ち」を処理してくれる人が教祖である。教祖が母親になっている。
退行欲求とは、苦しみを避けるために、現実を受け入れようとしないことである。現実を受け入れずに逃げ続けたために、行き詰ったカルトの結末である。僕は地下鉄サリン事件の決行は、麻原自身が意識せずに出した集団自殺の指示だったのかもしれないと思う。行き詰っても過ちを認めたくないために、集団自殺という形をとれなかったのではないだろうか。しかし結果論としては、死刑の同日執行によってそうなってしまった。もし麻原が現実を受け入れ、一つ一つ問題に対処して、成長欲求に従っていたなら、追い詰められることはなかったはずだ。上のヘブンズ・ゲイトの信者の言葉も、自我価値を守るために、最後まで現実を受け入れまいと思うが故である。カルトが行き詰まると、現実を受け入れるくらいなら死んだ方がましだ、というところまで行きついてしまう。
いままで麻原を怪物と見るべきではない、彼を特別視するべきではないと言い続けてきた。彼の問題行動を本書の内容から考えれば、心理学的に説明のつく範疇の、一人の人間だということができる。新実が言うように、麻原が最終解脱者を名乗ってからも神経症的だったことから、また先に挙げた事件からも結局麻原は自己の殻を破ることはできていないと見ることができる。そもそも神経症は、自我価値の崩壊を恐れるために、安全と保護を選ぶ人がなるものだからである。彼が教えと弟子たちを使って自我価値の保護に努めていたことが推測される。これは仏法僧の逆構造と言ってもいいかもしれない。本来は仏陀が法を説き、僧を解脱に導くのに対して、僧が法によって、教祖を守ってしまう、もしくは美化する。教祖を守ることは与えられた「ステージ(肩書)」という自我価値を守ることになるからである。オウム真理教が何ゆえにカルトになったのかをこの構造から考えることもできるだろう。このことから麻原も僕たち弟子も、自我価値を守るために宗教を利用していた共通点に気付く。これは僕たちが世間の一般的な価値観で生きることを受け入れられず、独自のルールが支配する世界で生きることを望んだことを示している。
麻原が怪物と見られるのは、彼の妄想を実現してしまう優秀な弟子たちに恵まれたからである。その典型はサリンを製造した土谷正実元死刑囚である。麻原の言うことを誰も相手にしなければ、彼はただの妄想を語ってばかりいる人であり、そういう変わった人はこの世に意外とたくさんいるものである。
どうして彼をそのままにしておけなかったのか、麻原と僕たち構成員との共通点は、現実を受け入れられないということにある。彼も僕たちもそれまでに苦労してきたのだろう。現実の世界で苦しんできたために、本質は非現実の世界にあり、現実はその現れに過ぎないと考えた。僕たちは「オウム真理教劇場」で修行者・解脱者・救世主の3役を演じる麻原を現実と思い込んだ。麻原は麻原で「松本智津夫としての自分」を否定し続けた。どちらも現実の苦しさや虚しさから逃避するためだったのかもしれない。僕たちは麻原に麻原は僕たち信徒・サマナに、互いに依存しながら幻想を信じていた。さきの文章を借りるならば、僕たちは現実を受け入れないことを合理化するために麻原とその教えを信じたのだ。
苦しみの解決を安易なところに求めようとしたのだと思う。現実を受け入れ一つ一つの問題に対処するのではなく「麻原に帰依していれば万事OK」というのが安易なのである。こうした安易な解決法を求めるのが、神経症者の特徴だと本書にもある。
現実の問題に遭遇したとき、本人にとって心の課題だから「問題」として認識されている。現実を受け入れ問題を解決することは苦しいけれど、心の課題に直面することでもある。何度か同じ問題に取り組むことで慣れが生じて「問題」と感じなくなったとき、心の課題は解決されたと考えていいのだろう。それによって自分自身への信頼感(自信・母なるものの力)を得ることができる。その積み重ねで僕たちは真に自立した人生を生きることができるようになるのだ。
僕たちが趣味や娯楽を「問題」として認識しないのは、それらが心の課題ではないからだ。
特に元オウムの人で人生の指針を失ったままでいる人には読んで欲しい。本当にパラダイムシフトするはずだ。
※本書の趣旨と異なるレビューになっていることをお詫びします。
2022年10月16日に日本でレビュー済み
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劣等感からの努力はなぜ、最終的に挫折するのか?
それは、「私は、そのままでは価値がない」という心のなかの感じ方を強化するだけだからである。
『人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学 加藤諦三』 P8
以下は、別の加藤諦三の本に書いていたと思います。ジョージ・ウェインバーグの理論です。
「人間の行動は背後にある動機となった考え方を強化する」
「選択はその背後にある世界観を正当化する」
「すべての自由な選択の背後には世界観があります」とジョージ・ウェインバーグは言う。
行動を選択するということは、その背後にある固有の世界観を正当化する。その世界観が正しいものだと人に告げる。
収賄や贈賄のはじめは銀座の接待から。接待を受けるという選択をすると、その背後にある「真面目に働くより、みんなやっていること、賄賂は仕事の潤滑油」等等の世界観を選択していることになる。
彼はまた、ある行動を選択するということは、その背後にある固有の世界観を正当化するとも言っている。その世界観が正しいものだと人に告げるのだという。苛める人はまさにジョージ・ウェインバーグが言うように、自分の苛めを正当化しているのである。
それは、「私は、そのままでは価値がない」という心のなかの感じ方を強化するだけだからである。
『人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学 加藤諦三』 P8
以下は、別の加藤諦三の本に書いていたと思います。ジョージ・ウェインバーグの理論です。
「人間の行動は背後にある動機となった考え方を強化する」
「選択はその背後にある世界観を正当化する」
「すべての自由な選択の背後には世界観があります」とジョージ・ウェインバーグは言う。
行動を選択するということは、その背後にある固有の世界観を正当化する。その世界観が正しいものだと人に告げる。
収賄や贈賄のはじめは銀座の接待から。接待を受けるという選択をすると、その背後にある「真面目に働くより、みんなやっていること、賄賂は仕事の潤滑油」等等の世界観を選択していることになる。
彼はまた、ある行動を選択するということは、その背後にある固有の世界観を正当化するとも言っている。その世界観が正しいものだと人に告げるのだという。苛める人はまさにジョージ・ウェインバーグが言うように、自分の苛めを正当化しているのである。
2022年3月23日に日本でレビュー済み
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自分がなぜ自分のことを好きになれなかったのか、何が行けなかったのか、自分を見つめるきっかけになった。成長欲求と退行欲求に関して多く書かれている。不安と不幸、安心と幸福は違うという言葉がとても響きました。
2018年11月17日に日本でレビュー済み
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ポイントになることは、それほど多くはないと思います。
というか、簡単に言ってしまえば、自尊心を持てるのかどうか?という事ではないでしょうか。
ただ、細かい処での考え方や理論は少し納得出来ない処も多いです。
とはいえ、かなり勉強になることも多いので、一度は読んでみるのをお薦めします。
ただ、もう少し分かりやすく書いて欲しかった。
というか、簡単に言ってしまえば、自尊心を持てるのかどうか?という事ではないでしょうか。
ただ、細かい処での考え方や理論は少し納得出来ない処も多いです。
とはいえ、かなり勉強になることも多いので、一度は読んでみるのをお薦めします。
ただ、もう少し分かりやすく書いて欲しかった。
2022年1月10日に日本でレビュー済み
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著者による幸せになる方法とは、自分の現実から逃げない、ということです。多くの人が、現実から逃げて不幸な人生を生きているということてした。最近普段の生活に張り合いがないと感じてしましたが、もしかして自分もそんな現実を受け入れていないのかもと思いました。心理学などの先人の言葉が多く引用されていて、読み応えもあります。自分が直面する現実に対して、なぜそうなっているのかを自分に問いかけることが必要ということです。
2021年3月30日に日本でレビュー済み
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勿論彼の著書全てを読んだわけではないが10冊くらいは読んでいると思う。私にとってはこの本が最も心の深いところに響いたし、私の今後の人生に大きな影響を与えるであろう。
今まで読んだ彼の著書の中で最も難解でもあった。何度も何度も線を引きながら読み、ようやく彼の言いたいことが理解できたように思う。
また、書いてある内容があまりにも私の内面を見透かされているようで図星過ぎて、彼の著書の中で読んでいて最も心が痛かった本でもある。自己と向き合いながら、深く読み込むことをおすすめしたい。
この本を手にできたことが幸運であった。
数ある彼の著書の中から一冊だけ手元に残すならば私は迷わずこの本を選ぶ。
今まで読んだ彼の著書の中で最も難解でもあった。何度も何度も線を引きながら読み、ようやく彼の言いたいことが理解できたように思う。
また、書いてある内容があまりにも私の内面を見透かされているようで図星過ぎて、彼の著書の中で読んでいて最も心が痛かった本でもある。自己と向き合いながら、深く読み込むことをおすすめしたい。
この本を手にできたことが幸運であった。
数ある彼の著書の中から一冊だけ手元に残すならば私は迷わずこの本を選ぶ。