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精神現象学上 (平凡社ライブラリー) 文庫 – 1997/6/11
G.W.F.ヘーゲル
(著),
樫山 欽四郎
(翻訳)
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- ISBN-10458276200X
- ISBN-13978-4582762006
- 出版社平凡社
- 発売日1997/6/11
- 言語日本語
- 本の長さ491ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
感覚という意識の最も低次の段階から、経験を通じて、精神が〈絶対知〉に達する過程を描く「意識の経験の学」。人間の知の範囲の限界の拡張を試みるヘーゲル第一の主著。66年刊の元訳を補訂。
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (1997/6/11)
- 発売日 : 1997/6/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 491ページ
- ISBN-10 : 458276200X
- ISBN-13 : 978-4582762006
- Amazon 売れ筋ランキング: - 416,497位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 362位ドイツ・オーストリアの思想
- - 16,644位心理学 (本)
- - 97,013位文庫
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一読して、専門用語や翻訳の影響もあり、意味を取るのが難解である。ただし、描こうとしているのは、精神が、感覚という低次の段階から、経験を通じて絶対知へとたどる自己実現という。哲学から世界を描く壮大な構想であるが、空海の十住心論、ケン・ウイルバーの意識のスペクトルも同種の試みであると思う。この上巻では、内なるものと外なるものは対立した実在でもあり、同一の実体であるという。有と無が含まれるというと、明らかに仏教の空の概念である。区別がないとなると、最終的に一つの「絶対精神」が導出され、生は精神の運動と理解される。C理性の後半では、この世界精神と個別の個人の関係が議論され、個別性は廃棄されるべきものとし、人倫により真の本質を作り出すという絶対精神への流れが垣間見られ圧巻である。ヘーゲルは、自ら哲学的に考えることで、人間の意識の展開が人類の歴史と等価であるとし、その思想は、哲学の完成した究極理論ではないかと思えてくる。
2008年3月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
上巻では、序論、緒論、A−意識、B−自己意識、C−理性が収録されています。
意識が「絶望の道」を経ながら、つまり否定に直面しながら、
真の知へと展開していく様子が事細かに叙述されています。
訳文は良い出来だと思います。しかし、ヘーゲル独特の言葉や言い回しに
初めて触れる方は戸惑うかもしれません。
そう簡単にすらすらと読み進めることは困難ですので、
それなりの覚悟と忍耐が要求されると思います。
意識が「絶望の道」を経ながら、つまり否定に直面しながら、
真の知へと展開していく様子が事細かに叙述されています。
訳文は良い出来だと思います。しかし、ヘーゲル独特の言葉や言い回しに
初めて触れる方は戸惑うかもしれません。
そう簡単にすらすらと読み進めることは困難ですので、
それなりの覚悟と忍耐が要求されると思います。
2014年11月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
唯一それぐらい読んだ本。
序論より
『・・・―また差異はむしろ事柄の限界であり、事柄が終わるところに在る。言いかえると差異は事柄ではないものである。それゆえ、いま言ったように目的や結果で骨を折るのは、一方の目的ないし結果と他方の目的ないし結果との差異や評価に骨を折るのと同じで、多分外見上そう見えるよりはやさしい仕事なのである。なぜなら、そういう知は、事柄に深く立ち入り、そのなかで自分を忘れる代りに、いつでも何か別のものを追い求めているからであり、事柄のもとに止まり、それに自己を傾けるよりも、むしろ自分自身のもとに止まっているからである。―・・・』
『・・・精神はそういう状態を越えて、精神の自己自身への実体なき反省という他の極へ移ってしまっただけではなく、この反省〔カント、フィヒテ的考え方←訳者註〕をも超え出てしまってもいる。精神にとってはその本質的な生命が失われてしまっているだけではない。精神はまたこのように失われてしまっていることを意識しており、自らの内容である有限性を意識している。そのとき精神は残り粕(かす)をなめることを止め、自らが悪い状態にあることを告白し、そしりながらも、哲学から「精神とは何であるか」という知をえようとはしないで、むしろ哲学によってただもう一度存在の実体性を充実とを回復しようとしている。・・・』
(これだけ抜粋しても何が何やらわからないと思いますが、哲学を「精神とは何であるか」を知ること、とヘーゲルが言っているらしいのが書きたかったのです。)
『・・・
絶対的なものを主観と考えようとする要求のため、神は永遠なものであるとか、道徳的世界秩序であるとか、愛であるとかいう命題が使われた。これらの命題においては、真理は、いきなり主語として措定されているだけであって、自己自身に帰る運動としてのべられているのではない。そういう命題にあっては、神という言葉で始められる。この言葉はそれだけでは意味のないひびきであり、ただの名前である。述語が、神とは何であるか(この8字に傍点)、を語るときに初めて、神という概念は充たされ、意味をうるのである。・・・』
『・・・学は学として、自己意識に対して、自己意識がこのエーテルへと高まって行き、学とともにまた学のなかに生きることができ、また生きることを、望んでいる。逆に個人は、学が少なくともこの立脚点に至る梯(はしご)を与えてくれることを、要求する権利をもっている。個人の権利は、その絶対的な自主性に基づいており、この自主性を、個人は、自らの知のあらゆる形態のなかにもっていると心得ている。なぜならば、よしその形態が学によって認められていようといなかろうと、その内容がどんなものであろうと、どの形態のうちにあっても、個人は同時に絶対的な形式でもあるからである。つまり、個人は自己自身を直接確信しており、そして、もしこういう言い方の方が良いと言うのなら、こうして個人は、無制約な存在であるからである。対象的事物は自己自身に対しており、自己自身は対象的事物に対しているとする普通の意識の立場は、学にとっては別のものであると考えられる。―すなわちそれは、意識が自ら自己自身のもとにあって、自己を知る場所であり、むしろ精神の喪失であると、考えられる。―そうだとすれば、逆に、意識にとっては、学の場は、はるか彼岸のものとなり、そこでは意識はもはや自己をもっていないことになる。この両方のいずれもが、他方から見ると、真理の転倒であるように思われる。自然的意識が無媒介に学に身を委ねようとするのは、何物にひきつけられてそうするのかわからないけれども、とにかく一度、逆立ちして歩いてみようと企てるようなものである。無理やりに、そういう不なれな姿勢をとって、この姿勢で歩こうとするのは、不用意であるばかりか、不必要とも思われる無理を、求められるままに敢えてやるようなものである。―それは自身において何であるにせよ、直接的自己意識との関係から見ると、学は、この自己意識とは逆のものとして現れる。言いかえれば、直接的な自己意識は、現実性の原理であるから、自ら学の外にいることによって、学が非現実という形式をもっていると思う。それゆえ学は自己意識のあの場を自分と結合すべきである。あるいはむしろ、あの場が学そのものに帰属していることを、またどのように帰属しているかを示すべきでる。・・・・』
『・・・一般によく知られたものは、よく知られているからと言っても、認識されているわけではない。認識するにあたって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま甘受するのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する虚偽でもある。そういう知は、あれこれとおしゃべりをするが、自分がどうなっているかもわからずに、一歩も前進しない。主観と客観など、神、自然、悟性、感覚などということは、よく知られたものとして、ろくに吟味もされないで、妥当するものとして根底に置かれており、前に出るときにも、後に帰るときにも、支点とされている。だから運動といっても、動かないままである。そういうものの間を、あちこちと行ったり来たりするだけでである。だから、それらのものの表面にただよっているにすぎない。・・・』
(一番上の抜粋に、「事柄に自らを傾けて、自分を忘れることをしないで、自分のもとに止まっている」というような表現がありますが、対象を見つけてそれについてあれこれとお喋りをして、それのできる自己を感じるというような知、というのをヘーゲルは批判しているのだと思います。
福田恒存が『人間・この劇的なるもの』(レビュー書いてますが)のなかで、セルバンデスの『ドン・キホーテ』は、小説のなかで行われた小説の批評だと書いていて、ドン・キホーテ「憂え顔の騎士」は、「物事を実際とはちがったふうに見ようとする(風車を敵と信じ込んだり)」と書いていますが、自分が正義の味方でありたいために、とにかくそうさせてくれる対象を常に求めていますので、次から次へとものごとを実際とは違ったふうに見てしまうのです。おしゃべりな知も、これと同じだと思います。大事なのは対象ではなくあくまで自己なので、常にものごとを自分の都合のいいように見ます。)
序論より
『・・・―また差異はむしろ事柄の限界であり、事柄が終わるところに在る。言いかえると差異は事柄ではないものである。それゆえ、いま言ったように目的や結果で骨を折るのは、一方の目的ないし結果と他方の目的ないし結果との差異や評価に骨を折るのと同じで、多分外見上そう見えるよりはやさしい仕事なのである。なぜなら、そういう知は、事柄に深く立ち入り、そのなかで自分を忘れる代りに、いつでも何か別のものを追い求めているからであり、事柄のもとに止まり、それに自己を傾けるよりも、むしろ自分自身のもとに止まっているからである。―・・・』
『・・・精神はそういう状態を越えて、精神の自己自身への実体なき反省という他の極へ移ってしまっただけではなく、この反省〔カント、フィヒテ的考え方←訳者註〕をも超え出てしまってもいる。精神にとってはその本質的な生命が失われてしまっているだけではない。精神はまたこのように失われてしまっていることを意識しており、自らの内容である有限性を意識している。そのとき精神は残り粕(かす)をなめることを止め、自らが悪い状態にあることを告白し、そしりながらも、哲学から「精神とは何であるか」という知をえようとはしないで、むしろ哲学によってただもう一度存在の実体性を充実とを回復しようとしている。・・・』
(これだけ抜粋しても何が何やらわからないと思いますが、哲学を「精神とは何であるか」を知ること、とヘーゲルが言っているらしいのが書きたかったのです。)
『・・・
絶対的なものを主観と考えようとする要求のため、神は永遠なものであるとか、道徳的世界秩序であるとか、愛であるとかいう命題が使われた。これらの命題においては、真理は、いきなり主語として措定されているだけであって、自己自身に帰る運動としてのべられているのではない。そういう命題にあっては、神という言葉で始められる。この言葉はそれだけでは意味のないひびきであり、ただの名前である。述語が、神とは何であるか(この8字に傍点)、を語るときに初めて、神という概念は充たされ、意味をうるのである。・・・』
『・・・学は学として、自己意識に対して、自己意識がこのエーテルへと高まって行き、学とともにまた学のなかに生きることができ、また生きることを、望んでいる。逆に個人は、学が少なくともこの立脚点に至る梯(はしご)を与えてくれることを、要求する権利をもっている。個人の権利は、その絶対的な自主性に基づいており、この自主性を、個人は、自らの知のあらゆる形態のなかにもっていると心得ている。なぜならば、よしその形態が学によって認められていようといなかろうと、その内容がどんなものであろうと、どの形態のうちにあっても、個人は同時に絶対的な形式でもあるからである。つまり、個人は自己自身を直接確信しており、そして、もしこういう言い方の方が良いと言うのなら、こうして個人は、無制約な存在であるからである。対象的事物は自己自身に対しており、自己自身は対象的事物に対しているとする普通の意識の立場は、学にとっては別のものであると考えられる。―すなわちそれは、意識が自ら自己自身のもとにあって、自己を知る場所であり、むしろ精神の喪失であると、考えられる。―そうだとすれば、逆に、意識にとっては、学の場は、はるか彼岸のものとなり、そこでは意識はもはや自己をもっていないことになる。この両方のいずれもが、他方から見ると、真理の転倒であるように思われる。自然的意識が無媒介に学に身を委ねようとするのは、何物にひきつけられてそうするのかわからないけれども、とにかく一度、逆立ちして歩いてみようと企てるようなものである。無理やりに、そういう不なれな姿勢をとって、この姿勢で歩こうとするのは、不用意であるばかりか、不必要とも思われる無理を、求められるままに敢えてやるようなものである。―それは自身において何であるにせよ、直接的自己意識との関係から見ると、学は、この自己意識とは逆のものとして現れる。言いかえれば、直接的な自己意識は、現実性の原理であるから、自ら学の外にいることによって、学が非現実という形式をもっていると思う。それゆえ学は自己意識のあの場を自分と結合すべきである。あるいはむしろ、あの場が学そのものに帰属していることを、またどのように帰属しているかを示すべきでる。・・・・』
『・・・一般によく知られたものは、よく知られているからと言っても、認識されているわけではない。認識するにあたって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま甘受するのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する虚偽でもある。そういう知は、あれこれとおしゃべりをするが、自分がどうなっているかもわからずに、一歩も前進しない。主観と客観など、神、自然、悟性、感覚などということは、よく知られたものとして、ろくに吟味もされないで、妥当するものとして根底に置かれており、前に出るときにも、後に帰るときにも、支点とされている。だから運動といっても、動かないままである。そういうものの間を、あちこちと行ったり来たりするだけでである。だから、それらのものの表面にただよっているにすぎない。・・・』
(一番上の抜粋に、「事柄に自らを傾けて、自分を忘れることをしないで、自分のもとに止まっている」というような表現がありますが、対象を見つけてそれについてあれこれとお喋りをして、それのできる自己を感じるというような知、というのをヘーゲルは批判しているのだと思います。
福田恒存が『人間・この劇的なるもの』(レビュー書いてますが)のなかで、セルバンデスの『ドン・キホーテ』は、小説のなかで行われた小説の批評だと書いていて、ドン・キホーテ「憂え顔の騎士」は、「物事を実際とはちがったふうに見ようとする(風車を敵と信じ込んだり)」と書いていますが、自分が正義の味方でありたいために、とにかくそうさせてくれる対象を常に求めていますので、次から次へとものごとを実際とは違ったふうに見てしまうのです。おしゃべりな知も、これと同じだと思います。大事なのは対象ではなくあくまで自己なので、常にものごとを自分の都合のいいように見ます。)
2017年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
上下巻とも版を重ねている補訂版。
上巻・・・1997年6月15日第1刷/2016年6月17日第15刷
下巻・・・1997年7月15日第1刷/2016年2月12日第11刷
補訂というのは、訳文の丁重な手直しもあるが、独特の晦渋な表現が何を指しているのか主に同時代のカント・フィヒテ・シェリングの言い分をヘーゲルが表現した部分を[]付けで明確にしており、精神現象学が生き生きとした同時代論のようにも思わせてくれる。
「知のなかに絶対的なものを樹立することがどれほど困難であるかということの貴重なドキュメント」、「苦労しながらしゃにむに進んで、かなり未完成だが、しかし魅力に富んだ書物」、「印税が欲しくて頁数を無理に増やそうとした」(加藤尚武『ヘーゲル「精神現象学」入門』より)書物を最善の訳業で読めるというのも捨てたものではないだろう。
上巻・・・1997年6月15日第1刷/2016年6月17日第15刷
下巻・・・1997年7月15日第1刷/2016年2月12日第11刷
補訂というのは、訳文の丁重な手直しもあるが、独特の晦渋な表現が何を指しているのか主に同時代のカント・フィヒテ・シェリングの言い分をヘーゲルが表現した部分を[]付けで明確にしており、精神現象学が生き生きとした同時代論のようにも思わせてくれる。
「知のなかに絶対的なものを樹立することがどれほど困難であるかということの貴重なドキュメント」、「苦労しながらしゃにむに進んで、かなり未完成だが、しかし魅力に富んだ書物」、「印税が欲しくて頁数を無理に増やそうとした」(加藤尚武『ヘーゲル「精神現象学」入門』より)書物を最善の訳業で読めるというのも捨てたものではないだろう。
2008年12月30日に日本でレビュー済み
ヘーゲルの、あるひとつの「概念」から別の概念を引き出して
次々と「対象」としてぶつけてしまい、無くしたり増やしたり、
そのときに起こる状態や仕組みを整理しながら、
みごとに自分の考えを流動させていく思索はすばらしいものです。
精神をどのように運動させて最終的にひとつにおさめれば
他の生きた精神のない学とは違い、精神現象学によって生きる学に、
彼のいう知の生成を実現させられるのか、ぜひ読んで体験してみてください。
読書手順としては、自己意識→序論→全体の速読→絶対知、
といったように精読を交えて読めば内容が掴みやすいかと思われます。
次々と「対象」としてぶつけてしまい、無くしたり増やしたり、
そのときに起こる状態や仕組みを整理しながら、
みごとに自分の考えを流動させていく思索はすばらしいものです。
精神をどのように運動させて最終的にひとつにおさめれば
他の生きた精神のない学とは違い、精神現象学によって生きる学に、
彼のいう知の生成を実現させられるのか、ぜひ読んで体験してみてください。
読書手順としては、自己意識→序論→全体の速読→絶対知、
といったように精読を交えて読めば内容が掴みやすいかと思われます。
2012年10月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヘーゲルの代表的な主著であり、歴史的にも重要な書とされているこの哲学の営為はヘーゲルの思考をまざまざと我々の前に出現させてくれる。これを読む者はヘーゲルがこの時点で哲学の歴史の集大成を行おうとしている野心を窺うことができるだろう。意識という一見あやふやな存在をその発展していく形式を実際に記述していくことでその全体像を表そうとしている。読者は臆せずこの膨大なる文献の山と戦って自分の思考を開いていってもらいたい。この書におけるヘーゲルの問いはヘーゲルが生きた時代を乗り越えていまに伝わっているこの奇跡をどうか体験してほしい。観念が時空の果てに見出す絶対知の世界はまだ終わっていないのである。
2004年9月11日に日本でレビュー済み
余計な意訳がないため、独逸語原典購読の参考書として最適です。
文庫本としては多少高値ですが、その価値はあります。
哲学を学んでいない人も、「自己意識」などは面白く読めると思います。ヘーゲルは難しい単語を使いつつも、実はとても当たり前のことを書いているのですから。
へーゲリアンの皆さん、この本を片手に一緒に勉強しましょう!
文庫本としては多少高値ですが、その価値はあります。
哲学を学んでいない人も、「自己意識」などは面白く読めると思います。ヘーゲルは難しい単語を使いつつも、実はとても当たり前のことを書いているのですから。
へーゲリアンの皆さん、この本を片手に一緒に勉強しましょう!
2015年5月21日に日本でレビュー済み
西洋哲学の怪物ヘーゲルの代表作、とにかく中身は、ヘビー級、是非とも原書と照らしあわせて読みたい古典、政治哲学、歴史哲学、とにかくすごい!