プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) 文庫 – 1998/3/11
購入オプションとあわせ買い
- ISBN-104582762360
- ISBN-13978-4582762365
- 出版社平凡社
- 発売日1998/3/11
- 言語日本語
- 本の長さ235ページ
よく一緒に購入されている商品
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
商品の説明
商品説明
主要なテーマである知識人論に関する主張は明確だ。単に知識を持つ者のことではなく、自立的に自己を見つめる「永遠に呪われた亡命者」こそが知識人なのだと著者は説く。権力に迎合せず、狭い専門性に閉じこもることなく、少数派であることを受け入れる。そんな知識人の特徴が、「大衆」「アマチュア」「周辺的存在」などといったキーワードとともに展開されていく。こうしたスタンスは、米国市民でありながら、繰り返し米国政府のパレスチナ政策に異論を唱えてきた著者の生涯ともぴったり一致する。
重要なのは、知識、批判、議論を自己目的化してはならないという論点だ。常にマイノリティーの立場に立ちながら、その集団に属することなく、むしろマイノリティーを選別する境界線の存在を否定していくのが本書における著者の戦略である。自己と他者を分かつものの歴史的な本質は何か。その点から目をそらさない本書における著者の思考の粘り強さは、それ自体が理想的な知識人としてのモデルを体現している。(松田尚之)
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (1998/3/11)
- 発売日 : 1998/3/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 235ページ
- ISBN-10 : 4582762360
- ISBN-13 : 978-4582762365
- Amazon 売れ筋ランキング: - 104,327位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
と聞かれたら、間違いなく「知識人とは何か」と答えると思います。
サイードは、「知識人」を独自の見解で定義します。サイードの言う知識人は「亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」です(p.20)。権力の犬ではなく、逆に反骨精神溢れる知識人像が描かれています。
サイードは、本文中で神を厳しく否定しています。神の存在は権威であるとされ、神への転向や崇拝が斥けられています。「いつも失敗する神々」に服従するのではなく、最善を尽くして真実を積極的に表現することが勧められています。
サイードが提示する知識人像とは別に、知識人とは「安全な場所に閉じこもり、ときに上から目線で小難しいことを話している人達」というイメージが世間では流布している気がします。
サイードはこうした風潮も承知の上で、彼独自の知識人像を新しく打ち立てようとしているのだと思います。サイードが理想とする知識人になるのはそう簡単なことではないと思いますが、サイードの知識人像を「目指すべき理念」の一つとして知っておくのは有益なことかと思いました。
インターネットが発達したこの世界で真実を主張するのにはリスクが伴いますが、「サイードの言う通り、リスクを背負うのが知識人(笑)ってもんだろう!」と自分に言い聞かせて前進する勇気が持てる一冊です。
原題はRepresentations of the Intellectual、『知識人の表象』である。
representationという言葉を日本語にすると、「表象」、「代弁」、「代表」といった言葉になる。
現状の知識人と、知識人はかくあるべき、という信念のあいだにあるギャップにおそらく著者は苦しみ、
彼自身が知識人という集団を内部から批判―内破している。
というのも、「どのように既存の価値を疑っていくか」ということの入門としてはいいと思うから。マルコムXの演説でもいいけど。
サイードが「知識人」について6回?に渡って行った講義を本にしたものです。他のサイードの本と比べてかなり読みやすい。けっこうすぐ読み終わる。
彼は「知識人」と呼ばれた人たちや、いろいろな人の「知識人観」を振り返りながら、自身の考えを説明していきます。振り返られる人物としては、グラムシ、マルコムX、フーコー、サルトル、etc。あっでもちゃんと右翼っぽい人も一応取り上げています。
彼自身の「知識人観」は明確です。
1.一般論には迎合しないこと。歴史の中に抹殺された事実を発見し、新たな武器にすること。
2.権力に奉仕しないこと。保身のために学問しないこと。
3.自分の専門だけにとどまらずにアマチュアな視点からも広く発言し続けること。
4.権力に嫌われても、大衆に嫌われても、正確に理解してくれる1人のために書き続けること。
中心的な要素はこのあたりですかね。
彼が「知識人の裏切り」と暗示的に紛糾する学者の中にはサミュエル・ハンチントンやジョセフ・ナイもいます。大衆の恐怖を煽ることで、政府の政策を正当化し、それによって利益を得ているということで。
サイード曰く、知識人が権力側につくかつかないかの問題で一番「知識人」にとって悲惨な国は日本だとか。
その教授を知識人とするなら、私なんかはもちろん「知識人」と呼称されるに到底及ばない存在である。しかし、この本が投げかける数々の問いは、鋭く自分につきささったのも事実であるし、「知識人」と自認しなくても、これを通読した多くの人もそのような感覚を得たのではと思う。そして悩む。知識人はいかに存在し、誰をどのように表象するべきなのか、誰に向かって主張を訴え続けるべきなのか。特に、自国の犯罪行為には目をつぶって、他国の犯罪行為に対しては糾弾し断罪するというある意味「国際的な習慣」には、疑問をぶつけずに納得してしまっていいのか、「どこの国でもそれをしてるし、それが世界のやり方ではないのか、それが現実だ」として簡単に結論づけてしまっていいのか、との問いは「知識人」であるかあるまいかに関わらず非常に重くのしかかる。そしてそれは何も国際関係にこだわらなくても、普段の生活、社会、メディアといったマスのあり方にも限りなくリンクしているはずである。そして最終的に自己のあり方として直に問われることはいうまでもない。
大著「オリエンタリズム」を読み終えたときは、その迫力に圧倒され、歴史の積み重ねがもたらして突きつけた難題にある種の「絶望感」を抱いてしまった。それに比べてこの本はページ数も少なく読みやすいので、まずサイード入門編として手に取ることを万人にお勧めできる。それと同時に、自身の思考がどこかに迷いこんだときに、何か「原点」を照らしだしてくれるような書ではないかと思う。
のっとって、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、
メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、違憲なりを
代弁し肉付けして明晰に言語化できる能力に恵まれた個人
なんだってさ(37ページ)。
で、「普遍性の原則」ってのは、あらゆる人間は、
世俗権力や国家に対し、自由や公正に関して適切なふるまいを
要求できる権利をもつこと、そして、意図的か、不注意かを問わず、
こうしたふるまいの基準が無視されるならば、そのような
侵犯行為に断固抗議し、勇気をもって闘わなければならない
ことなんだってさ(38ページ)。
だとすると、日本には、あんまり「知識人」はいないってことになるよね。
右だろうが左だろうが、日本の言論人って、党派的傾向が強くて、
ある権力のことは批判するけど、違う権力のことは批判せずに逆に
擁護する人が多いからね。
それに比べると、サイードさんは、「知識人」なんだろうね。
ただ、どうも、サイードさんの言葉に素直に頷く気はしないな。
だって、アメリカ人、イギリス人、フランス人が自国を擁護すると、
普遍性に抵触するのは当然として、サイードさんがパレスチナ人を
擁護した場合、パレスチナ人のあまりの無力さゆえに普遍性には
抵触しないことになるわけでしょ?
サイードさんが普遍性を持ちえているように見えたとして、それって、
パレスチナ人という出自によるものなんじゃないの?
そのうえさ、自分は普遍性の原則を語る「知識人」だって発言することが
できているのは、世界最強の軍隊に守られた地にいて、大学教授っていう
安定した地位を与えられているからだよね?
パレスチナに暮らす一般人はそんなこと言っていられる余裕なんてないよね?
結局、特権的立場から発言している人間が、自分は普遍性の原則を保ちえている
と威張っているだけに私には、見えちゃうね。