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悪魔の手紙 (平凡社ライブラリー る 4-1) 文庫 – 2006/2/9
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2006/2/9
- ISBN-104582765653
- ISBN-13978-4582765656
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2006/2/9)
- 発売日 : 2006/2/9
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 256ページ
- ISBN-10 : 4582765653
- ISBN-13 : 978-4582765656
- Amazon 売れ筋ランキング: - 193,115位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 265位キリスト教入門
- - 382位キリスト教一般関連書籍
- - 1,441位英米文学研究
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年2月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
英語でしか読んだことないが、日本語で読んだ部分は必ず、ルエスの本質を捕まったと思います。
2016年7月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
しょうじきそれほど面白いとは 思わなかった。少し 一般の評価が高すぎるような気がする。このような設定のアイデァがよかったのかな。
ただ 史的イエス、へ―ゲル等の言葉がでてくるのは興味深い。 ルイス自身がこれらについてどう思っていたのか。当時の社会思想一般に
彼がどのような考えをもっていたのか気になった。
ただ 史的イエス、へ―ゲル等の言葉がでてくるのは興味深い。 ルイス自身がこれらについてどう思っていたのか。当時の社会思想一般に
彼がどのような考えをもっていたのか気になった。
2009年1月5日に日本でレビュー済み
舞台はイギリス、内容は「悪魔がキリスト教徒をいかに貶めるか」がテーマだが、
無宗教でも非キリスト教徒でも問題なく…いや、考え込みながら読み進むと思う。
(少しばかり歴史と宗教の知識があるとなお面白いかもしれない)
悪魔が新米悪魔に書いた内容は、人間がいかに自己中心的か、いかに欺瞞に満ちた愚かものか、虚栄心に満ちているか…とにかく読み手の痛い所を突いて来る。
ルイスの作品でどれを読むべきか?と聞かれたら、これを推薦します。
無宗教でも非キリスト教徒でも問題なく…いや、考え込みながら読み進むと思う。
(少しばかり歴史と宗教の知識があるとなお面白いかもしれない)
悪魔が新米悪魔に書いた内容は、人間がいかに自己中心的か、いかに欺瞞に満ちた愚かものか、虚栄心に満ちているか…とにかく読み手の痛い所を突いて来る。
ルイスの作品でどれを読むべきか?と聞かれたら、これを推薦します。
2014年4月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
かねてから評判だったので、いちど読んでみたいと思い購入しました。
さすがCSルイス先生、という感じで面白かったです。私はキリシタンですので「なるほどなるほど~」と納得しながら読み、新しく目が開かれるようなところもありました。
しかし信者でない人にも、けっこう面白いんじゃないかな、と思いますし、読みやすいと思います。神のことを悪魔視点で「敵」と書いているので信者は混乱します。(一般にキリスト者が「敵」という表現を使うのは悪魔を意味するため)
さすがCSルイス先生、という感じで面白かったです。私はキリシタンですので「なるほどなるほど~」と納得しながら読み、新しく目が開かれるようなところもありました。
しかし信者でない人にも、けっこう面白いんじゃないかな、と思いますし、読みやすいと思います。神のことを悪魔視点で「敵」と書いているので信者は混乱します。(一般にキリスト者が「敵」という表現を使うのは悪魔を意味するため)
2017年3月13日に日本でレビュー済み
最後の「乾杯の辞」を読んで、ルイスの知的エリートとしての非常に強烈な自尊心に疑問を感じたクリスチャンの読者は案外多いのではないだろうか。
「乾杯の辞」において、ルイスが人間の個性というものを誤った「平等」によって圧殺する名ばかりの民主主義を批判しようする意図は理解できる(日本で言うと“ゆとり教育”への批判と似ているだろうか)。
しかし、それはルイスの政治的思想であって、霊的信仰の視座と混同すべき主張ではないだろう。
ルイスは本著にて「平等だという主張は……何らかの意味で劣っていると感じている人々の主張なのです。……身もだえするような劣等感なのです(217頁)」と大悪魔に語らせる。言いたいことはよく理解できる。まさにその通りだろう。だが、そのように語調荒く痛烈にルイスが批判する背後には、まだ悪魔の策略があるではないか。すなわち、「頭が良く、才気に優れ、社会に有用な俺が、労働者階級や知能の劣る無能者共と一緒くたにされるのは我慢がならない。そういう馬鹿どもにきちんと身の程を弁えさせる教育によって、俺の知的自尊心を損なわさないでくれ」という自省の念がルイスには足らないようだ。
私は「乾杯の辞」におけるルイスの教育論や批評的視座が間違ってると主張しているわけではない。私が言いたいことは、偏狭な不安と憤りに裏打ちされた自分の政治的意見をキリスト信仰に絡めることによって正当性を持たせようとすることは不純であるということだ。
「個人のみが救われ、個人のみが地獄に堕ちる(227頁)」と真に説くならば、社会のすること成すことなんか尚更ほっとけよと思う。
なぜ、中産階級や知的エリート意識を脅かされる社会構造に対してルイスはこうも怯えと憤りを発露するのか?
それはルイス自身が自省すら拒むほどに強烈な偶像崇拝を持っているからだ。
非常に巧妙に秘し隠された偶像崇拝である。
「乾杯の辞」において、ルイスが人間の個性というものを誤った「平等」によって圧殺する名ばかりの民主主義を批判しようする意図は理解できる(日本で言うと“ゆとり教育”への批判と似ているだろうか)。
しかし、それはルイスの政治的思想であって、霊的信仰の視座と混同すべき主張ではないだろう。
ルイスは本著にて「平等だという主張は……何らかの意味で劣っていると感じている人々の主張なのです。……身もだえするような劣等感なのです(217頁)」と大悪魔に語らせる。言いたいことはよく理解できる。まさにその通りだろう。だが、そのように語調荒く痛烈にルイスが批判する背後には、まだ悪魔の策略があるではないか。すなわち、「頭が良く、才気に優れ、社会に有用な俺が、労働者階級や知能の劣る無能者共と一緒くたにされるのは我慢がならない。そういう馬鹿どもにきちんと身の程を弁えさせる教育によって、俺の知的自尊心を損なわさないでくれ」という自省の念がルイスには足らないようだ。
私は「乾杯の辞」におけるルイスの教育論や批評的視座が間違ってると主張しているわけではない。私が言いたいことは、偏狭な不安と憤りに裏打ちされた自分の政治的意見をキリスト信仰に絡めることによって正当性を持たせようとすることは不純であるということだ。
「個人のみが救われ、個人のみが地獄に堕ちる(227頁)」と真に説くならば、社会のすること成すことなんか尚更ほっとけよと思う。
なぜ、中産階級や知的エリート意識を脅かされる社会構造に対してルイスはこうも怯えと憤りを発露するのか?
それはルイス自身が自省すら拒むほどに強烈な偶像崇拝を持っているからだ。
非常に巧妙に秘し隠された偶像崇拝である。
2015年11月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
有名な著者でもあるので、これからもいくつか読んでいけたらと思います。
2013年5月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
昔、新教新書版(蛭沼寿雄&森安綾訳)を何度も読むほど気に入りました。
上級悪魔から、下級悪魔に対するアドバイスの手紙というのが、本書の体裁です。それを読むことによって、逆に神のみこころとか、信仰のあり方などについて考えを深めることができます。
ただ、今回の翻訳は、以前の新教新書版に比べると理解しにくく、しかもウィットを十分に感じられませんでした。
上級悪魔から、下級悪魔に対するアドバイスの手紙というのが、本書の体裁です。それを読むことによって、逆に神のみこころとか、信仰のあり方などについて考えを深めることができます。
ただ、今回の翻訳は、以前の新教新書版に比べると理解しにくく、しかもウィットを十分に感じられませんでした。
2023年12月22日に日本でレビュー済み
第一次世界大戦に歩兵として参戦して以来、わたしは、自分は安全無事なところにいながら、前線の兵隊たちにお説教をする連中が大きらいになってしまった。(C・S・ルイス)
この本(『悲しみをみつめて』)にめぐり合うまで、わたしはルイスという人を、つねに理性の光に包まれて、およそ、とり乱すなどということのありえぬ、傲慢とつながるところは微塵もないが、ある知的な特権的状態を、つねにめぐまれている人だと思っていた。ところがこの本は、まるでちがっていた。この本に接して、いままで抱いてきた、特権的状態にある人というイメージから生まれる、相対的な距離感は遠くに去りながら、かえって一個の人間のもつ厳粛さが、その身も世もあらぬ乱れの、あらわな表白のゆえにこそ、いっそう厳粛なものとして、わたしの心を打った。いや、打ちすえたと言うべきであったろう。それほどに、その衝撃は有無をいわさぬ絶対性をもつものであった。(西村轍)
オクスフォード郊外のヘディントン・クォリーの村の郵便屋さんにとって幸いだったのは、配達区域の住民にC・S・ルイスほどの有名人がほかにいなかったことでしょう。二十年以上にわたって、休日はべつとして毎日、たくさんのはがきやら手紙が、C・S・ルイスの住まいである赤煉瓦のキルンズ荘にドサッと配達されたのでしたから。郵便が届くたびに、C・S・ルイスは机にむかって一通一通、返事を書きました。ほとんど毎朝ルイスは、手紙を読んだり、それに返事を書いたりするのに一時間かそこらをついやしていたのです。(中略)ルイスは一つ一つに(たいていの場合、タイプではなく、ペンで)自分で返事を書きました。手紙書きはきりがないほどで、兄さんのウォレンが見かねて手伝うこともありました。
(中略)
ルイスが受け取った手紙のなかには、『ナルニア国物語』の読者である子どもたちからのものがたくさんありました。ルイスはこうした手紙に返事を書くことは、神さまから自分に与えられた義務だと思っていました。ルイスの返事を読むと、ルイスが心をこめて、一言一句もおろそかにせず、子どもたちに答えていたことがわかります。
(中略)
ルイスは心のやさしい人でした。子どもたちに対する手紙はとくに、その気持ちのこまやかさがありありとうかがわれます。子ども時代特有の不安、疑問、喜びを、彼は大人になってからもまざまざと思い出しました。何よりも彼は、彼に手紙を書き送ってくる子どもたちの心を理解していました。ルイスは子どもたちと、「いつでもどこでも変わらない、共通の、人間としての基盤に立って」接しました。そのような彼に、子どもたちもまた応えたのです。(ライル・W・ドーセット、マージョリー・L・ミード)
こんなにたくさんの手紙を未知の子どもあてに書き送ったなんて、ルイスはよっぽど暇人だったのでしょうか?
ルイスははじめオクスフォード大学の、また後にはケンブリッジ大学の先生として、講義や学生の指導、著作、講演など、毎日たいへん多忙な生活を送っていました。そればかりでなく、手紙の中にもあるように、オクスフォードでは戦友の母親である気むずかしい、病身の老婦人と暮らしていて、それこそ看護夫、兼イヌの世話係、兼薪割り人夫、兼執事、兼女中、兼秘書と目のまわるほどの忙しさだったのです。
(中略)
まずルイスが子どもたちからの手紙をけっしていい加減に読んでいないことに、気づきます。家族のこと、学校のこと、勉強のこと、旅行のこと──子どもたちが書いてよこす一つ一つのことにルイスは深い関心を示し、ときにはユーモアをまじえて楽しく、しかし、いつも率直な態度で返事を書いています。(中略)相手を甘やかさず、こちらの正直な感想をまともに受け取ることのできる、独立した人格を備えた一人の人間としての子どもへの対応を、わたしたちはそこに見るのです。(中村妙子)
ここに、受け取った郵便物をかたっぱしから屑籠に投げ捨てても不思議ではない男がいる。
ルイスは、大学の職務を果たすのに多忙をきわめており、その著作は、研究面と宗教面のどちらの分野においても高い評価を得ていた。論理性と想像力をすぐれて兼ね備えていた彼は、そのたぐいの書物をいくらでも著すことができる人物であった。彼はもともと未知の人と会うのが嫌いで、内的な観念の世界に住み、気心の知れた仲間たちとの交際をもっぱら好む傾向があった。にもかかわらず、この人物は、ときにはリューマチの痛みに苦しみながらも、世界中から自分宛てに寄せられる膨大な数の手紙に、いちいち返事を書いたのである。なぜだろうか?
それは主としてルイスが、クリスチャン仲間への助言や励ましのために時間を割くことは本を書くのと同じように、もっぱら聖霊の働きによってなされうるものだと信じていたからである。ジョン・ウェズレーは次のように日記に記している。「大勢の群衆が毎日のように、私の説教に耳を傾けていたが、私はある夜、同じホテルに投宿していた男一人を聴き手に説教したことがあった」。ルイスもまた、同じような献身的態度に徹し、時間と能力が自分に与えられているのは、それを私的に用いるためではなく、己を虚しくして神の御心のままに用いるためであるとの信仰に立っていた。たとえ肉体がそれを嫌っていても、彼は肉体に負けることがなかった。
(中略)
これらの手紙によって、私たちはルイスの人間像を垣間見ることができる。猫や犬、春に先駆けるカッコウの声、クロッカスの花を愛するルイス。お気に入りの、”しんと静まりかえった、露のまだ乾いていない、蜘蛛の巣が張る、からっぽの時間”に早起きして、自分の朝食を用意し、あれこれ雑用をかたづけるルイス。近いうちに夫と寡夫の両方になるかもしれないと告げたあと、奇蹟に類したことが起こり、ジョイ(ルイスの妻)の癌が消え失せたかのように見えたものの、その後、彼女に死に激しい痛手を受けるルイス。ルイスとこの文通相手は、さまざまな病気を共有していた。ルイスの病気の数は次第に増えていき、それらの合併症がついに死を招く。貧困を恐れる反面、収入の三分の二をも寄付していたことがその死後に明らかになったが、その程度の慈善にはけっして満足していなかったルイスがいる。(クライド・S・キルビー)
この本(『悲しみをみつめて』)にめぐり合うまで、わたしはルイスという人を、つねに理性の光に包まれて、およそ、とり乱すなどということのありえぬ、傲慢とつながるところは微塵もないが、ある知的な特権的状態を、つねにめぐまれている人だと思っていた。ところがこの本は、まるでちがっていた。この本に接して、いままで抱いてきた、特権的状態にある人というイメージから生まれる、相対的な距離感は遠くに去りながら、かえって一個の人間のもつ厳粛さが、その身も世もあらぬ乱れの、あらわな表白のゆえにこそ、いっそう厳粛なものとして、わたしの心を打った。いや、打ちすえたと言うべきであったろう。それほどに、その衝撃は有無をいわさぬ絶対性をもつものであった。(西村轍)
オクスフォード郊外のヘディントン・クォリーの村の郵便屋さんにとって幸いだったのは、配達区域の住民にC・S・ルイスほどの有名人がほかにいなかったことでしょう。二十年以上にわたって、休日はべつとして毎日、たくさんのはがきやら手紙が、C・S・ルイスの住まいである赤煉瓦のキルンズ荘にドサッと配達されたのでしたから。郵便が届くたびに、C・S・ルイスは机にむかって一通一通、返事を書きました。ほとんど毎朝ルイスは、手紙を読んだり、それに返事を書いたりするのに一時間かそこらをついやしていたのです。(中略)ルイスは一つ一つに(たいていの場合、タイプではなく、ペンで)自分で返事を書きました。手紙書きはきりがないほどで、兄さんのウォレンが見かねて手伝うこともありました。
(中略)
ルイスが受け取った手紙のなかには、『ナルニア国物語』の読者である子どもたちからのものがたくさんありました。ルイスはこうした手紙に返事を書くことは、神さまから自分に与えられた義務だと思っていました。ルイスの返事を読むと、ルイスが心をこめて、一言一句もおろそかにせず、子どもたちに答えていたことがわかります。
(中略)
ルイスは心のやさしい人でした。子どもたちに対する手紙はとくに、その気持ちのこまやかさがありありとうかがわれます。子ども時代特有の不安、疑問、喜びを、彼は大人になってからもまざまざと思い出しました。何よりも彼は、彼に手紙を書き送ってくる子どもたちの心を理解していました。ルイスは子どもたちと、「いつでもどこでも変わらない、共通の、人間としての基盤に立って」接しました。そのような彼に、子どもたちもまた応えたのです。(ライル・W・ドーセット、マージョリー・L・ミード)
こんなにたくさんの手紙を未知の子どもあてに書き送ったなんて、ルイスはよっぽど暇人だったのでしょうか?
ルイスははじめオクスフォード大学の、また後にはケンブリッジ大学の先生として、講義や学生の指導、著作、講演など、毎日たいへん多忙な生活を送っていました。そればかりでなく、手紙の中にもあるように、オクスフォードでは戦友の母親である気むずかしい、病身の老婦人と暮らしていて、それこそ看護夫、兼イヌの世話係、兼薪割り人夫、兼執事、兼女中、兼秘書と目のまわるほどの忙しさだったのです。
(中略)
まずルイスが子どもたちからの手紙をけっしていい加減に読んでいないことに、気づきます。家族のこと、学校のこと、勉強のこと、旅行のこと──子どもたちが書いてよこす一つ一つのことにルイスは深い関心を示し、ときにはユーモアをまじえて楽しく、しかし、いつも率直な態度で返事を書いています。(中略)相手を甘やかさず、こちらの正直な感想をまともに受け取ることのできる、独立した人格を備えた一人の人間としての子どもへの対応を、わたしたちはそこに見るのです。(中村妙子)
ここに、受け取った郵便物をかたっぱしから屑籠に投げ捨てても不思議ではない男がいる。
ルイスは、大学の職務を果たすのに多忙をきわめており、その著作は、研究面と宗教面のどちらの分野においても高い評価を得ていた。論理性と想像力をすぐれて兼ね備えていた彼は、そのたぐいの書物をいくらでも著すことができる人物であった。彼はもともと未知の人と会うのが嫌いで、内的な観念の世界に住み、気心の知れた仲間たちとの交際をもっぱら好む傾向があった。にもかかわらず、この人物は、ときにはリューマチの痛みに苦しみながらも、世界中から自分宛てに寄せられる膨大な数の手紙に、いちいち返事を書いたのである。なぜだろうか?
それは主としてルイスが、クリスチャン仲間への助言や励ましのために時間を割くことは本を書くのと同じように、もっぱら聖霊の働きによってなされうるものだと信じていたからである。ジョン・ウェズレーは次のように日記に記している。「大勢の群衆が毎日のように、私の説教に耳を傾けていたが、私はある夜、同じホテルに投宿していた男一人を聴き手に説教したことがあった」。ルイスもまた、同じような献身的態度に徹し、時間と能力が自分に与えられているのは、それを私的に用いるためではなく、己を虚しくして神の御心のままに用いるためであるとの信仰に立っていた。たとえ肉体がそれを嫌っていても、彼は肉体に負けることがなかった。
(中略)
これらの手紙によって、私たちはルイスの人間像を垣間見ることができる。猫や犬、春に先駆けるカッコウの声、クロッカスの花を愛するルイス。お気に入りの、”しんと静まりかえった、露のまだ乾いていない、蜘蛛の巣が張る、からっぽの時間”に早起きして、自分の朝食を用意し、あれこれ雑用をかたづけるルイス。近いうちに夫と寡夫の両方になるかもしれないと告げたあと、奇蹟に類したことが起こり、ジョイ(ルイスの妻)の癌が消え失せたかのように見えたものの、その後、彼女に死に激しい痛手を受けるルイス。ルイスとこの文通相手は、さまざまな病気を共有していた。ルイスの病気の数は次第に増えていき、それらの合併症がついに死を招く。貧困を恐れる反面、収入の三分の二をも寄付していたことがその死後に明らかになったが、その程度の慈善にはけっして満足していなかったルイスがいる。(クライド・S・キルビー)