無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
日東壮遊歌: ハングルでつづる朝鮮通信使の記録 (東洋文庫 662) 単行本 – 1999/11/1
- 本の長さ425ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日1999/11/1
- ISBN-104582806627
- ISBN-13978-4582806625
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (1999/11/1)
- 発売日 : 1999/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 425ページ
- ISBN-10 : 4582806627
- ISBN-13 : 978-4582806625
- Amazon 売れ筋ランキング: - 999,537位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年11月22日に日本でレビュー済み
当時の日本の儒学者たちが憧れの朝鮮儒学者の詩文をもらうため、警備の対馬藩士に高額な賄賂を渡していたという事実には驚きました。豊かな日本に怒りを感じている描写も、もちろん秀吉の「文禄・慶長の役」が前提の感情なので理解できます。泥棒が豪遊してるのを、泥棒の被害者が目撃してしまったわけですから。
2021年12月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
どこにも売っていなくて高いけれど仕方なく購入。
父にプレゼントして喜んで貰えて良かったけれど、懐が痛かった。
父にプレゼントして喜んで貰えて良かったけれど、懐が痛かった。
2017年2月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本の著作者の金仁謙は、当時の朝鮮人から見ても少し変わり者だったようで、それも、本人もその自覚があったようだ。謹厳実直で怒ってばかり、石頭。それでいて、頼まれごとを断れない好人物。
日本を見る目が、現在の韓国人と変わらない。豊臣秀吉の朝鮮出兵を恨む気持ち(すでにその当時で150年くらい前の事となっていた)これは、明治時代にイギリス人旅行作家のイザベラ・バードの著した「朝鮮紀行(講談社学術文庫版)」にも、その時代の朝鮮人が秀吉の朝鮮出兵で日本を嫌っていることが書かれている。
日本の豊かさを羨む気持ち(或いは嫉妬心)と、日本より朝鮮の方が文化的優位(或いは道徳的優位)にあるという自負心。これは、いまの韓国人の心情そのもの。十年一日という言葉があるが、400年一日の如く、朝鮮人の心情は変わることがなかったということである。
現在の韓国では、朝鮮通信使は朝鮮の優れた文化を、日本に伝える(教えてあげる)ための使節団であると、学校教育されていると聞くが、本当のところはどうだったのだろうか。この時代、中国は清の乾隆帝の時代で、東アジアは政治的安定期を迎えていて、李氏朝鮮にとって、清国に朝貢さえしていれば安泰だったと思うが、朝鮮王国の通信使の必要性、この本から読み取りたかったが、それらしき記述は見当たらなかった。ただ、金仁謙は、将軍への拝謁が屈辱と感じ忌避し、同僚もその心情に理解を示している。朝鮮通信使は朝鮮王国にとって屈辱的な使節団だったのか、その中では、金仁謙らの、倭人の持ち込むでたらめな漢詩への添削?が、使節団の自尊心を満足させるものだったのだろうか。
この本の中で、水車の話が出てくる。その仕組みに感心する一行。水車を朝鮮にも作りたいと、その数百年前から言い続けているにも関わらづ一向に実現しない。職人を尊重する文化が無かったから、曲げ物を作る技術がなかったから、或いは、技術を次世代に受け継ぐという伝統がなっかたからと、いろいろ理由は言われているが、わたしは、当時の朝鮮が未だ水車を必要とする社会に到達していなかったのが、その理由ではないかと思う。生産力の進展、人口増加等々。技術に対する要求はその時代の社会変化と共にある。変化を憎む古代的停滞の中の李氏朝鮮。天水に頼り、灌漑も普及しない稲作、動力用などは想像の外であったろうし、水車は必要としないものだったのだと思う。
ひとつ疑問なのは、金仁謙はこれをなぜハングルで著したのか。当時の知識階級のなかでは珍しいのではないか。何か目的があったのだろうか。
日本を見る目が、現在の韓国人と変わらない。豊臣秀吉の朝鮮出兵を恨む気持ち(すでにその当時で150年くらい前の事となっていた)これは、明治時代にイギリス人旅行作家のイザベラ・バードの著した「朝鮮紀行(講談社学術文庫版)」にも、その時代の朝鮮人が秀吉の朝鮮出兵で日本を嫌っていることが書かれている。
日本の豊かさを羨む気持ち(或いは嫉妬心)と、日本より朝鮮の方が文化的優位(或いは道徳的優位)にあるという自負心。これは、いまの韓国人の心情そのもの。十年一日という言葉があるが、400年一日の如く、朝鮮人の心情は変わることがなかったということである。
現在の韓国では、朝鮮通信使は朝鮮の優れた文化を、日本に伝える(教えてあげる)ための使節団であると、学校教育されていると聞くが、本当のところはどうだったのだろうか。この時代、中国は清の乾隆帝の時代で、東アジアは政治的安定期を迎えていて、李氏朝鮮にとって、清国に朝貢さえしていれば安泰だったと思うが、朝鮮王国の通信使の必要性、この本から読み取りたかったが、それらしき記述は見当たらなかった。ただ、金仁謙は、将軍への拝謁が屈辱と感じ忌避し、同僚もその心情に理解を示している。朝鮮通信使は朝鮮王国にとって屈辱的な使節団だったのか、その中では、金仁謙らの、倭人の持ち込むでたらめな漢詩への添削?が、使節団の自尊心を満足させるものだったのだろうか。
この本の中で、水車の話が出てくる。その仕組みに感心する一行。水車を朝鮮にも作りたいと、その数百年前から言い続けているにも関わらづ一向に実現しない。職人を尊重する文化が無かったから、曲げ物を作る技術がなかったから、或いは、技術を次世代に受け継ぐという伝統がなっかたからと、いろいろ理由は言われているが、わたしは、当時の朝鮮が未だ水車を必要とする社会に到達していなかったのが、その理由ではないかと思う。生産力の進展、人口増加等々。技術に対する要求はその時代の社会変化と共にある。変化を憎む古代的停滞の中の李氏朝鮮。天水に頼り、灌漑も普及しない稲作、動力用などは想像の外であったろうし、水車は必要としないものだったのだと思う。
ひとつ疑問なのは、金仁謙はこれをなぜハングルで著したのか。当時の知識階級のなかでは珍しいのではないか。何か目的があったのだろうか。
2017年7月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白い。再読を重ねる度に面白くなる。
朝鮮半島を出発する迄の部分での売春婦とのやり取りや日本人女性を売春婦の様に見ていた様など、今と何一つ変わらぬ民族性が読み取れる。
朝鮮半島を出発する迄の部分での売春婦とのやり取りや日本人女性を売春婦の様に見ていた様など、今と何一つ変わらぬ民族性が読み取れる。
2013年5月23日に日本でレビュー済み
江戸時代後期、宝暦13年(1763年)の第11次朝鮮通信使の書記として来日した儒者、金仁謙(キム・インギョム)先生の日本旅行記である。
通信使が当時の日本をどう見ていたか、ということに興味がある方には、まさにうってつけの記録です。
前半部、ソウルから対馬を経て、瀬戸内海までの海路は、たいくつな日常の記録がつづくのだが、大阪から、陸路となって以降、本書は俄然面白くなる。
例えば大阪の街並の描写。“屋根をすべて瓦葺きにしていることに感心しているのに、大したものよ倭人らは、千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は、銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾りたてている。―中略― 天下広しといえこのような眺め、いずこの地でみられようか。”
同様に京都・名古屋・江戸の街並みに驚嘆し、水車や橋の技巧、田地の肥沃、金箔や漆の美麗に感嘆するのだが、それと同時に、汚れた犬にも劣る倭人どもが、このような金城湯池を有し、富栄えていることが、よほど胸くそ悪いらしく、嘆かわしいだの、恨めしいだの、倭人どもをことごとく掃討して、朝鮮の国土にしたいだの、惨憺たる罵詈雑言が繰りかえされる。
これは目下?の相手を罵倒せずにはおかない朝鮮的修辞として、まぁ、苦笑しながら受け流す・・・・しかないかなー。
文化的には目下とみなしながらも、この朝鮮通信使が「朝貢」の意味を持っていることは、金先生も知らないはずはないのだが、ところが、肝心の将軍への謁見において、倭人に三礼四拝するという、臣下の礼をとることが、よほど業腹だったのだろう、江戸城まで来ながら入城は拒否するという、みごとな硬骨漢ぶりであった。
しかし、金先生は、謹厳で辛辣なだけではない。
“女人の美しさあでやかさに、若い武官らは、美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、まるで子供がいやいやをするようであった。”とか 朝の鶏の鳴き声や女子供の笑い声に、“こうしたものは、朝鮮も日本も同じだな”などと、時にユーモアがあり、時に情もあるのだ。
旅の終盤、一つの事件が起こる。警護をかね、当初より随行していた対馬藩の通詞鈴木伝蔵が、都訓導・崔天崇を槍で刺殺したのだ。
その原因、詳細については、本書ではあまり触れていないが、奴婢を鞭打ったり、下位の者に唾を吐きかけたり、民家の鶏や宿所の備品を無断で持ち去ったり、下女を強姦したりと、上位の者には許される朝鮮での当然の行為が、江戸時代とはいえ、身分に関係なく、実質上の財産権や名誉が確立されていた日本では、悪質な不品行、無礼として、警護の対馬藩士や庶民との間に、しばしばトラブルを発生させていたことが、非公式の資料で知られている。
私はここに、今も続く、異文化と接することの難しさと、超えがたい壁を感ぜざるを得ない。
一時期の韓流ブームが、日本においてかなりの嫌韓感情を引き起こしたように、平和の使者・文化の伝達者「朝鮮通信使」といった一方的で能天気な歴史観・文化感に基づく商業映画や日本各地の朝鮮通信使パレードは、必ずや激しいカウンターアタックを喰らうであろう。
通信使が当時の日本をどう見ていたか、ということに興味がある方には、まさにうってつけの記録です。
前半部、ソウルから対馬を経て、瀬戸内海までの海路は、たいくつな日常の記録がつづくのだが、大阪から、陸路となって以降、本書は俄然面白くなる。
例えば大阪の街並の描写。“屋根をすべて瓦葺きにしていることに感心しているのに、大したものよ倭人らは、千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は、銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾りたてている。―中略― 天下広しといえこのような眺め、いずこの地でみられようか。”
同様に京都・名古屋・江戸の街並みに驚嘆し、水車や橋の技巧、田地の肥沃、金箔や漆の美麗に感嘆するのだが、それと同時に、汚れた犬にも劣る倭人どもが、このような金城湯池を有し、富栄えていることが、よほど胸くそ悪いらしく、嘆かわしいだの、恨めしいだの、倭人どもをことごとく掃討して、朝鮮の国土にしたいだの、惨憺たる罵詈雑言が繰りかえされる。
これは目下?の相手を罵倒せずにはおかない朝鮮的修辞として、まぁ、苦笑しながら受け流す・・・・しかないかなー。
文化的には目下とみなしながらも、この朝鮮通信使が「朝貢」の意味を持っていることは、金先生も知らないはずはないのだが、ところが、肝心の将軍への謁見において、倭人に三礼四拝するという、臣下の礼をとることが、よほど業腹だったのだろう、江戸城まで来ながら入城は拒否するという、みごとな硬骨漢ぶりであった。
しかし、金先生は、謹厳で辛辣なだけではない。
“女人の美しさあでやかさに、若い武官らは、美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、まるで子供がいやいやをするようであった。”とか 朝の鶏の鳴き声や女子供の笑い声に、“こうしたものは、朝鮮も日本も同じだな”などと、時にユーモアがあり、時に情もあるのだ。
旅の終盤、一つの事件が起こる。警護をかね、当初より随行していた対馬藩の通詞鈴木伝蔵が、都訓導・崔天崇を槍で刺殺したのだ。
その原因、詳細については、本書ではあまり触れていないが、奴婢を鞭打ったり、下位の者に唾を吐きかけたり、民家の鶏や宿所の備品を無断で持ち去ったり、下女を強姦したりと、上位の者には許される朝鮮での当然の行為が、江戸時代とはいえ、身分に関係なく、実質上の財産権や名誉が確立されていた日本では、悪質な不品行、無礼として、警護の対馬藩士や庶民との間に、しばしばトラブルを発生させていたことが、非公式の資料で知られている。
私はここに、今も続く、異文化と接することの難しさと、超えがたい壁を感ぜざるを得ない。
一時期の韓流ブームが、日本においてかなりの嫌韓感情を引き起こしたように、平和の使者・文化の伝達者「朝鮮通信使」といった一方的で能天気な歴史観・文化感に基づく商業映画や日本各地の朝鮮通信使パレードは、必ずや激しいカウンターアタックを喰らうであろう。
2012年9月22日に日本でレビュー済み
確かに、日本人(倭人)に対する呪詛は何ヶ所か出てくる。
「犬の陰○のような」などと言った表現も。
まあ基本的には秀吉の「唐入り」がシコリを残してることが伝わって来る。
大坂・京都・名古屋・江戸の都市に驚嘆する一方、
地方では、女が上半身を丸出しにしているという描写もある。
筆者については、朝鮮国王の威光を示すという目的があるにせよ、
次々に日本人から送られて来る詩文に対して律儀に次韻・和酬をしてあげているのは、
誠実さを感じるし、同情しますね。
「犬の陰○のような」などと言った表現も。
まあ基本的には秀吉の「唐入り」がシコリを残してることが伝わって来る。
大坂・京都・名古屋・江戸の都市に驚嘆する一方、
地方では、女が上半身を丸出しにしているという描写もある。
筆者については、朝鮮国王の威光を示すという目的があるにせよ、
次々に日本人から送られて来る詩文に対して律儀に次韻・和酬をしてあげているのは、
誠実さを感じるし、同情しますね。
2016年6月20日に日本でレビュー済み
先日『朝鮮雑記』を読んだ後に「では、明治時代に到るまでの朝鮮人の日本人認識はどういう風に変遷していったんだろう」と気になり、江戸時代以前の日朝関係の史料を何冊か読みました。『看羊録』(東洋文庫版)、『海游記』(東洋文庫版)と読んで、年代としてはこれが一番新しい物になります。
徳川家治の将軍就任に伴ってやってきた11回目の朝鮮通信使で4番目の書記官(公式には「三房書記」)を務めた金仁謙(号「退石」)による詩文形式の日記紀行文で、あとがきによると研究者には早くからかなり知られている物だったようですが、通常この時代の朝鮮人の日記は漢文で書かれるのに対し、これはハングル(親族の女性/子供に読ませることを狙っていたと推定されている)だったため日本ではその内容については殆ど知られることがなかった物です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵から約160年後(※1763~1764年に来日)、当時の朝鮮王朝の両班層に属し、その両班の中でもかなり堅物の儒教学者として知られていたらしい人物の、率直な思考とか対日観をこの史料でうかがい知ることができます。
この本に寄れば、朝鮮通信使のそれも書記というのは余り良い仕事ではなかったらしいこと(※日本の儒学者/名士/大名等に大量の詩文を書かされるため体力的にもきつく、また、両班の中でも低い階層の人物が任命されるのが通例だった)、そして他の方のレビューにも書かれていますが,かなり酷い言葉で書かれている侮蔑的な対日観には唖然とします。しかもそれがハングルで書かれていたと言うことは、両班層という朝鮮上層階級の老若男女の認識がこのレベルだった、と言う事なんでしょうね。
実際の所は、町並み(特に江戸、大阪、京都、名古屋)や庶民の暮らしぶりにかなり圧倒されてられる様子なのですが、そこでも「この犬にも等しい輩(実際の文は「犬の×××のような連中を」)みなことごとく掃討し、四百里60州を朝鮮の国土とし朝鮮王の徳を以て礼節の国にしたい」(p.251)とか、定例の江戸城での将軍謁見を仮病を使って休み、それでも実際の儀式の様子は気になったらしく同僚から話を聞いたあげくにやっぱり「行かずに休んでいたことが真実良かった」(p.297)とか、負け惜しみなのかホンネなのか分からない記述が頻出。
ほかにこの本の特徴としてやたら女性の容姿に言及していることが多いことがあげられます。朝鮮国内の道行きでも歓待の妓生や茶母(官舎で官吏の接待をした女性)の記述が多いので、金仁謙自体がこの辺に特別に関心があったのかも知れませんが。ちなみに、この本の『看羊録』『海游記』と一番異なる特徴に、このような朝鮮国内での道中を記していることがあげられますが、両班階級の男性の横着な行動がありありと描き出されています。著者の金仁謙は彼らとは一線を画していたつもりだったようなのですが、それでも女性の斡旋を依頼されたりとか、両班の罰として何故かその召使いが鞭打たれていてもそれを当然のこととして平然と書いていたりとか、その辺の感覚がかなり現代人とは違うので驚きます。
あと、この11回朝鮮通信使はとりわけトラブルが多かったらしく、出発直前になっての大使以下上司3名の突然の更迭/交代、玄界灘での難破事件や大坂で対馬藩士に一行の一人が斬殺されるなどの事件も描写されています。難破事件、刺殺事件については日本側の史料(『宝暦物語』(「日本庶民生活史料集成」(三一書房)所収))なども合わせて参照した方が良いでしょう。
実はこの11回朝鮮通信使は実質的に最後の通信使となり、その後は対馬止まり、そして通信使の派遣自体が無くなります。この本を読むとなんか通信使が中止になったのも分かるような。
今も変わってない朝鮮/韓国人の対日観の原点が伺えるような一冊です。日朝関係に関心のある人は当然一読をお奨めしたいのですが、前掲の通り、一部の言葉については妙な配慮が働いたのかマイルドな翻訳になっているのが欠点かと思います。
徳川家治の将軍就任に伴ってやってきた11回目の朝鮮通信使で4番目の書記官(公式には「三房書記」)を務めた金仁謙(号「退石」)による詩文形式の日記紀行文で、あとがきによると研究者には早くからかなり知られている物だったようですが、通常この時代の朝鮮人の日記は漢文で書かれるのに対し、これはハングル(親族の女性/子供に読ませることを狙っていたと推定されている)だったため日本ではその内容については殆ど知られることがなかった物です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵から約160年後(※1763~1764年に来日)、当時の朝鮮王朝の両班層に属し、その両班の中でもかなり堅物の儒教学者として知られていたらしい人物の、率直な思考とか対日観をこの史料でうかがい知ることができます。
この本に寄れば、朝鮮通信使のそれも書記というのは余り良い仕事ではなかったらしいこと(※日本の儒学者/名士/大名等に大量の詩文を書かされるため体力的にもきつく、また、両班の中でも低い階層の人物が任命されるのが通例だった)、そして他の方のレビューにも書かれていますが,かなり酷い言葉で書かれている侮蔑的な対日観には唖然とします。しかもそれがハングルで書かれていたと言うことは、両班層という朝鮮上層階級の老若男女の認識がこのレベルだった、と言う事なんでしょうね。
実際の所は、町並み(特に江戸、大阪、京都、名古屋)や庶民の暮らしぶりにかなり圧倒されてられる様子なのですが、そこでも「この犬にも等しい輩(実際の文は「犬の×××のような連中を」)みなことごとく掃討し、四百里60州を朝鮮の国土とし朝鮮王の徳を以て礼節の国にしたい」(p.251)とか、定例の江戸城での将軍謁見を仮病を使って休み、それでも実際の儀式の様子は気になったらしく同僚から話を聞いたあげくにやっぱり「行かずに休んでいたことが真実良かった」(p.297)とか、負け惜しみなのかホンネなのか分からない記述が頻出。
ほかにこの本の特徴としてやたら女性の容姿に言及していることが多いことがあげられます。朝鮮国内の道行きでも歓待の妓生や茶母(官舎で官吏の接待をした女性)の記述が多いので、金仁謙自体がこの辺に特別に関心があったのかも知れませんが。ちなみに、この本の『看羊録』『海游記』と一番異なる特徴に、このような朝鮮国内での道中を記していることがあげられますが、両班階級の男性の横着な行動がありありと描き出されています。著者の金仁謙は彼らとは一線を画していたつもりだったようなのですが、それでも女性の斡旋を依頼されたりとか、両班の罰として何故かその召使いが鞭打たれていてもそれを当然のこととして平然と書いていたりとか、その辺の感覚がかなり現代人とは違うので驚きます。
あと、この11回朝鮮通信使はとりわけトラブルが多かったらしく、出発直前になっての大使以下上司3名の突然の更迭/交代、玄界灘での難破事件や大坂で対馬藩士に一行の一人が斬殺されるなどの事件も描写されています。難破事件、刺殺事件については日本側の史料(『宝暦物語』(「日本庶民生活史料集成」(三一書房)所収))なども合わせて参照した方が良いでしょう。
実はこの11回朝鮮通信使は実質的に最後の通信使となり、その後は対馬止まり、そして通信使の派遣自体が無くなります。この本を読むとなんか通信使が中止になったのも分かるような。
今も変わってない朝鮮/韓国人の対日観の原点が伺えるような一冊です。日朝関係に関心のある人は当然一読をお奨めしたいのですが、前掲の通り、一部の言葉については妙な配慮が働いたのかマイルドな翻訳になっているのが欠点かと思います。