元・文科省国語教科書検定官らしい「かなづかい」の解説本。
読み終わって、感じたのは太陽暦がいいのか、長年日本で遣ってきた太陽太陰暦の方がいいのか、という議論に似ている気がしました。もちろん、日常生活を送る上では太陽暦の方が便利に決まっている。でも生活感覚という点では旧暦にも分がある。でも、その旧暦も実は最後の改暦があった天保年間のもの。その後にシステムとして修正がないので、致命的な矛盾がもうすぐ顕在化してしまう。っていうような話。
上代特殊仮名遣の話から、定家仮名遣、契沖仮名遣と変遷を遂げてきた歴史を振り返る辺りは面目躍如。
文は本人が読むためのものであり、その時点での音韻を反映して表記されるのが一番自然という論理は理解できます。
閲覧とか、校訂という意識は、日本の国文学の上では、藤原定家の出現を待つしかなかった。しかもその作品が書かれた時点の音韻に立ち返って行う――筆者のいう「地動説」を知った人間の世界観、ということになるのですが。個人の仮名遣いと、遍く一般的に通用することを求められる「規範仮名遣」は性格が異なるものである、という説明はすこぶる理解できる。
ただ、後半になって戦後の新仮名遣いの辺りになると、結構、威圧的な感じの説明が増えてきます。
例えば丸谷才一。彼の文章は基本は旧仮名遣い。ただ漢字の音に関しては基本は新仮名。外来語の促音は小さく表記、とか自分のルールを明示していますが、その方が都合がいいようにも見えます。これらの考えを一切、簡単に表記できる、ということで片付けるのは如何かな、と思います。印刷物がかくも当たり前になり、それがWeb上でも通用するようになったのは、長い仮名遣いの歴史の中でもつい最近のことですから。
もし、入門的にこの方面の知見を広げたいと思うなら、中公新書の同筆者による「古語の謎」の方がデキがいいと思います。余り説教臭くないですから。
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かなづかい入門: 歴史的仮名遣VS現代仮名遣 (平凡社新書 426) 新書 – 2008/6/1
白石 良夫
(著)
- ISBN-104582854265
- ISBN-13978-4582854268
- 出版社平凡社
- 発売日2008/6/1
- 言語日本語
- 本の長さ238ページ
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2008/6/1)
- 発売日 : 2008/6/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 238ページ
- ISBN-10 : 4582854265
- ISBN-13 : 978-4582854268
- Amazon 売れ筋ランキング: - 233,814位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 122位日本語の語源・歴史・方言
- - 188位平凡社新書
- - 1,030位日本語研究
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
沖縄の言葉をどのように表記したらよいかを研究しているが、その参考書として使っています。
2012年4月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
たまたま大学のレポート課題で仮名遣いについて調べていたところ、この本に出合いました。
以前は「歴史的仮名遣い」こそが正しい日本の仮名遣いなんだろうと漠然と思っていたのですが、この本を読んでいくうちに、あくまでコミュニケーションの媒体としての仮名遣い、そして言葉遣いの重要性に気づかされました。長い間疑問に思っていた日本語の「発音」の問題に言及されており、文字が伝来する前に失われた発音、拗音、促音、「ん」の表記(「案内」は通常「あない」と読まれていたとされ、時代劇や時代小説などでは「アナイいたせ」と読まれていますが、実際には「ん」の仮名がなかったために割愛されているだけで「あんない」という発音で読まれていたのではないかなど)についてなど、今まで胸の内にあった疑問などがストン、ストンと解消されていきました。
また、学校などで習った国語の文法論の限界、定家仮名遣い、契沖仮名遣い、本居宣長などの歴史的功績、歴史的仮名遣いとは本当に正しい日本の仮名遣いであるのか、などに関しても言及されており、学校文法で凝り固まった私にとっては、まさに「目からうろこ」の内容ばかりでした。
この本を読んで、さらに日本人でよかった、日本語ってすごい、日本って素晴らしい国なんだなと自分が日本人であることにさらに誇りを持てました。
良い本に出合えて本当によかったです。著者の白石先生に感謝ですw
以前は「歴史的仮名遣い」こそが正しい日本の仮名遣いなんだろうと漠然と思っていたのですが、この本を読んでいくうちに、あくまでコミュニケーションの媒体としての仮名遣い、そして言葉遣いの重要性に気づかされました。長い間疑問に思っていた日本語の「発音」の問題に言及されており、文字が伝来する前に失われた発音、拗音、促音、「ん」の表記(「案内」は通常「あない」と読まれていたとされ、時代劇や時代小説などでは「アナイいたせ」と読まれていますが、実際には「ん」の仮名がなかったために割愛されているだけで「あんない」という発音で読まれていたのではないかなど)についてなど、今まで胸の内にあった疑問などがストン、ストンと解消されていきました。
また、学校などで習った国語の文法論の限界、定家仮名遣い、契沖仮名遣い、本居宣長などの歴史的功績、歴史的仮名遣いとは本当に正しい日本の仮名遣いであるのか、などに関しても言及されており、学校文法で凝り固まった私にとっては、まさに「目からうろこ」の内容ばかりでした。
この本を読んで、さらに日本人でよかった、日本語ってすごい、日本って素晴らしい国なんだなと自分が日本人であることにさらに誇りを持てました。
良い本に出合えて本当によかったです。著者の白石先生に感謝ですw
2012年6月23日に日本でレビュー済み
現役の文部科学賞の主任教科書調査官として許されざる書物だと
断定できる。
国語問題に関心があるむきは、「はじめに」を一読すれば良いだろう。
歴史的仮名遣いを守ったひとたちのうち、歴史的仮名遣の優秀性を
確信しているタイプでなければ、「習慣を変える労力を惜しんでい
るか、新しいことに飛び込んでいく勇気がない」と断定する。要するに
現代仮名遣いを推進する政府の現役官僚としてのポジショントークなの
だ。こういうタイプは「早晩、絶滅することになり、事実、すでに絶滅
したであろう」ともいう。
もう一つの「旧仮名遣に憧憬や郷愁をもつグループも、おおくは歴史的
仮名遣の優秀性がその動機になっているらしい」という。歴史的仮名遣が
優れていると論じる人々の思いは「憧憬や郷愁」に過ぎなく、それも「らしい」
という表現で侮蔑する。この著者は、歴史的仮名遣いを愛するひとびとを
意識的に嘲笑しているはずだし、もしその自覚がないとすれば能力を疑う。
また「言葉に自覚的な若者ほど、その(「一部の国語国文学者や一部の文化
人たち」の)権威に調伏されやすいから、実際に運用するかどうかは別に
して、歴史的仮名遣信仰者はあとを絶たない」といいきる。なぜここに
「調伏」や、歴史的仮名遣「信仰者」という挑発的表現を用いるのか?
一研究者であればなにもいわない。しかし、現役の官僚、教科書調査官
として、歴史的仮名遣を用いるものを一方的に嘲笑するというのは何事か?
現在の文部科学省は、一省員にこのような暴走を許し、放置するほど弛緩している
のか?弛緩していないとすれば、これ自体が文部科学省の意志なのか??
最後にもう一つ長いが引用する。
「ここであらかじめ断っておきたいことがある。それは本書でのわたしの
立場である。わたしは、歴史的仮名遣と現代仮名遣のどちらかに肩入れしよう
とするつもりは、ない。できるかぎり公平な立場でいたいと考える。
そして、公平な目で両者の優劣論争を見ていると、学問的根拠が武器として
もちだされたとき、マスコミや教育現場においては、現代仮名遣はいささか旗幟が
悪くなる、という思い込みがわたしにはある。」
意味不明である。公平な立場にたちたいが、現代仮名遣いが不当に扱われてる
「思い込み」が「わたしにはある」そうだ。著者の国語能力まで疑わしい。
ともかく、こういう本は引退してから書くべきだ。わが国は国民をゆとり
教育するだけでなく、行政自体がゆとりに陥っているのか。
この著者は、「文化人」「マスコミ」一般を思い込みで罵倒する。
第八章の題名は「伝統を捏造するな−文化人たちのノスタルジー」である。
こんな決めつけが現役官僚にゆるされてよいのか?文化人は真剣に対応を考える
べきである。
国語のありようは「国語審議会」が決めてゆく。おもてむきは「審議会」は
有識者の中立的な議論を行うようにしたてられているが、そのメンバーを構成するのは
事務方である官僚である。よって、官僚が特定のイデオロギーを持っている場合、
審議会の構成が中立になることはありえない。本来の官僚は、自分のそういう
イデオロギーを明らかにせず、内密にことを運ぶのであるが、文科省は、
教科書主任調査官にも関わらず、文化人、マスコミという抽象的なことばで罵倒するような
イデオロギッシュな官僚にこのような書物を書かせている(書いてもみのがしている)
のである。ゆとり教育の寺脇研もそうであったが、文科省には綱紀は
ないのか?
断定できる。
国語問題に関心があるむきは、「はじめに」を一読すれば良いだろう。
歴史的仮名遣いを守ったひとたちのうち、歴史的仮名遣の優秀性を
確信しているタイプでなければ、「習慣を変える労力を惜しんでい
るか、新しいことに飛び込んでいく勇気がない」と断定する。要するに
現代仮名遣いを推進する政府の現役官僚としてのポジショントークなの
だ。こういうタイプは「早晩、絶滅することになり、事実、すでに絶滅
したであろう」ともいう。
もう一つの「旧仮名遣に憧憬や郷愁をもつグループも、おおくは歴史的
仮名遣の優秀性がその動機になっているらしい」という。歴史的仮名遣が
優れていると論じる人々の思いは「憧憬や郷愁」に過ぎなく、それも「らしい」
という表現で侮蔑する。この著者は、歴史的仮名遣いを愛するひとびとを
意識的に嘲笑しているはずだし、もしその自覚がないとすれば能力を疑う。
また「言葉に自覚的な若者ほど、その(「一部の国語国文学者や一部の文化
人たち」の)権威に調伏されやすいから、実際に運用するかどうかは別に
して、歴史的仮名遣信仰者はあとを絶たない」といいきる。なぜここに
「調伏」や、歴史的仮名遣「信仰者」という挑発的表現を用いるのか?
一研究者であればなにもいわない。しかし、現役の官僚、教科書調査官
として、歴史的仮名遣を用いるものを一方的に嘲笑するというのは何事か?
現在の文部科学省は、一省員にこのような暴走を許し、放置するほど弛緩している
のか?弛緩していないとすれば、これ自体が文部科学省の意志なのか??
最後にもう一つ長いが引用する。
「ここであらかじめ断っておきたいことがある。それは本書でのわたしの
立場である。わたしは、歴史的仮名遣と現代仮名遣のどちらかに肩入れしよう
とするつもりは、ない。できるかぎり公平な立場でいたいと考える。
そして、公平な目で両者の優劣論争を見ていると、学問的根拠が武器として
もちだされたとき、マスコミや教育現場においては、現代仮名遣はいささか旗幟が
悪くなる、という思い込みがわたしにはある。」
意味不明である。公平な立場にたちたいが、現代仮名遣いが不当に扱われてる
「思い込み」が「わたしにはある」そうだ。著者の国語能力まで疑わしい。
ともかく、こういう本は引退してから書くべきだ。わが国は国民をゆとり
教育するだけでなく、行政自体がゆとりに陥っているのか。
この著者は、「文化人」「マスコミ」一般を思い込みで罵倒する。
第八章の題名は「伝統を捏造するな−文化人たちのノスタルジー」である。
こんな決めつけが現役官僚にゆるされてよいのか?文化人は真剣に対応を考える
べきである。
国語のありようは「国語審議会」が決めてゆく。おもてむきは「審議会」は
有識者の中立的な議論を行うようにしたてられているが、そのメンバーを構成するのは
事務方である官僚である。よって、官僚が特定のイデオロギーを持っている場合、
審議会の構成が中立になることはありえない。本来の官僚は、自分のそういう
イデオロギーを明らかにせず、内密にことを運ぶのであるが、文科省は、
教科書主任調査官にも関わらず、文化人、マスコミという抽象的なことばで罵倒するような
イデオロギッシュな官僚にこのような書物を書かせている(書いてもみのがしている)
のである。ゆとり教育の寺脇研もそうであったが、文科省には綱紀は
ないのか?
2013年3月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
福田恒存著と読み比べて、仮名づかいを学んでいるところです。
現代仮名づかい、歴史的仮名遣いの長所、短所を考え合わせて、どちらも欠点があることがよくわかりました。まだ、研究中です。
文語といっても、中古と近世とは違うので、どのように処理すべきか迷います。
例えば、出る、の文語は「出づる」ですが、芭蕉には「出て(でて)」と使っている例があります。
俳句作家として考えてしまいます。誰か教えてください。
現代仮名づかい、歴史的仮名遣いの長所、短所を考え合わせて、どちらも欠点があることがよくわかりました。まだ、研究中です。
文語といっても、中古と近世とは違うので、どのように処理すべきか迷います。
例えば、出る、の文語は「出づる」ですが、芭蕉には「出て(でて)」と使っている例があります。
俳句作家として考えてしまいます。誰か教えてください。
2009年11月27日に日本でレビュー済み
「はじめに」に「歴史的仮名遣と現代仮名遣のどちらかに肩入れしよううとするつもりは、ない」とあるが、実質的には現代人の日常的規範仮名遣いとして現代仮名遣を擁護する本。著者は文部科学省で国語教科書の検定に従事する役人。
仮名遣という用語は、書き方の手本となる「規範仮名遣」と、あるテキストにおいて実際にどう書かれているかを明らかにする「記述仮名遣」という概念が無分別に使われていて、混乱をきたしているという。
規範としての仮名遣は一種のルールだから、学問的正当性よりも、シンプルでわかりやすく、守りやすく、変化しないのがよい、ということになる。
歴史的仮名遣は江戸時代の契沖とその流れを汲む学派の研究による「契沖仮名遣」が元になっている。しかし、その仮名遣は同時代の人が日常的に文章を書くための規範ではなく、和歌や擬古文を書くための規範であった。
明治政府がこの契沖仮名遣をもとに作ったのが「歴史的仮名遣」であるが、現代文を書く規範として採用したため、いろいろな問題が生じた。
ひらがなカタカナは平安時代初期に万葉仮名(真仮名)をもとにして成立したが、当時の発音をそのまま書いたと考えられる。たとえば「今日」を「けふ」と書くのは「ケフ」と発音していたからである。(その後発音が変わったが、書き方は変わらなかった)。
ところが、現代文では平安時代に無かった言葉も書かなければならない。そうすると、平安初期の人ならこう発音したであろう、という推定をして仮名遣を作り出すことになる。
たとえば、歴史的仮名遣では「シマショウ」を「しませう」と書くが、平安時代にはそんなことばはなかったので、発音の変化を遡って、仮想的に古い形を想定する。つまり、「う」は未然形につく助動詞なので、ます」の未然形「ませ」に「う」がついて、maseuのeuの音がyouに変化したと考える。(さらに「ョウ」は「ョー」に変化する)。
このような判断は語源が簡単に推定できる場合は比較的確実だが、「どじょう」のように語源がわからないものは仮名遣が確定できない。(どぜう、どぢやう、どづを、その他複数の書き方が行われた)。
さらに漢字の音読みにどういう仮名遣をあてるかは、ほとんどすべての字について暗記するより無い。
歴史的仮名遣は、規範としては極めて使いにくいものだった。
また、(規範)仮名遣は書き方の規範であって、発音の法則ではないと再三強調される。
たしかに「かは」カワ、「にほひ」はニオイ、「てふ」はチョーと読むなどと覚えた気がする。しかし、表記の規則なのだから、こう読めという話ではなく、河という言葉を歴史的仮名遣では「カワ」と書けと説明するべきなのだ、と著者は主張する。
我がことを振り返ってみれば、確かにそのようには教わらなかった。というより、平安初期には本当に書いてあるように発音していたのだ、という事実を知ったのが高校生になってからである。それまでは、なぜこんな発音と違う書き方をするのか、全くわからなかったわけだ。それなりに、日本語に関する本を読んでいるような子供だったのにである。
戦後に現代仮名遣を制定して(内容としては、急に作ったものではなく明治以来の研究の結実だと強調されている)、江戸の伝統である国文学との決別を果たした仮名遣と対照的に、学校文法は相変わらず明治の橋本文法の影を引きずっていて、現代の研究成果から見れば、ほとんどの学者が賛成しないような内容になっている。こちらも何とかならないのだろうか。
仮名遣という用語は、書き方の手本となる「規範仮名遣」と、あるテキストにおいて実際にどう書かれているかを明らかにする「記述仮名遣」という概念が無分別に使われていて、混乱をきたしているという。
規範としての仮名遣は一種のルールだから、学問的正当性よりも、シンプルでわかりやすく、守りやすく、変化しないのがよい、ということになる。
歴史的仮名遣は江戸時代の契沖とその流れを汲む学派の研究による「契沖仮名遣」が元になっている。しかし、その仮名遣は同時代の人が日常的に文章を書くための規範ではなく、和歌や擬古文を書くための規範であった。
明治政府がこの契沖仮名遣をもとに作ったのが「歴史的仮名遣」であるが、現代文を書く規範として採用したため、いろいろな問題が生じた。
ひらがなカタカナは平安時代初期に万葉仮名(真仮名)をもとにして成立したが、当時の発音をそのまま書いたと考えられる。たとえば「今日」を「けふ」と書くのは「ケフ」と発音していたからである。(その後発音が変わったが、書き方は変わらなかった)。
ところが、現代文では平安時代に無かった言葉も書かなければならない。そうすると、平安初期の人ならこう発音したであろう、という推定をして仮名遣を作り出すことになる。
たとえば、歴史的仮名遣では「シマショウ」を「しませう」と書くが、平安時代にはそんなことばはなかったので、発音の変化を遡って、仮想的に古い形を想定する。つまり、「う」は未然形につく助動詞なので、ます」の未然形「ませ」に「う」がついて、maseuのeuの音がyouに変化したと考える。(さらに「ョウ」は「ョー」に変化する)。
このような判断は語源が簡単に推定できる場合は比較的確実だが、「どじょう」のように語源がわからないものは仮名遣が確定できない。(どぜう、どぢやう、どづを、その他複数の書き方が行われた)。
さらに漢字の音読みにどういう仮名遣をあてるかは、ほとんどすべての字について暗記するより無い。
歴史的仮名遣は、規範としては極めて使いにくいものだった。
また、(規範)仮名遣は書き方の規範であって、発音の法則ではないと再三強調される。
たしかに「かは」カワ、「にほひ」はニオイ、「てふ」はチョーと読むなどと覚えた気がする。しかし、表記の規則なのだから、こう読めという話ではなく、河という言葉を歴史的仮名遣では「カワ」と書けと説明するべきなのだ、と著者は主張する。
我がことを振り返ってみれば、確かにそのようには教わらなかった。というより、平安初期には本当に書いてあるように発音していたのだ、という事実を知ったのが高校生になってからである。それまでは、なぜこんな発音と違う書き方をするのか、全くわからなかったわけだ。それなりに、日本語に関する本を読んでいるような子供だったのにである。
戦後に現代仮名遣を制定して(内容としては、急に作ったものではなく明治以来の研究の結実だと強調されている)、江戸の伝統である国文学との決別を果たした仮名遣と対照的に、学校文法は相変わらず明治の橋本文法の影を引きずっていて、現代の研究成果から見れば、ほとんどの学者が賛成しないような内容になっている。こちらも何とかならないのだろうか。