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新書488原始の神社をもとめて (平凡社新書 488) 新書 – 2009/9/15
岡谷 公二
(著)
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- 本の長さ283ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2009/9/15
- 寸法10.8 x 1.4 x 17.3 cm
- ISBN-104582854885
- ISBN-13978-4582854886
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2009/9/15)
- 発売日 : 2009/9/15
- 言語 : 日本語
- 新書 : 283ページ
- ISBN-10 : 4582854885
- ISBN-13 : 978-4582854886
- 寸法 : 10.8 x 1.4 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 128,337位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白い内容です。よんでよかった。
2022年3月16日に日本でレビュー済み
製鉄に絡めて書かれている本なので読んでしまいましたが、残念ながら満足できるものではありませんでした。古代の製鉄は大陸で始まり、朝鮮半島に伝わったものですが,この本ではそうしたことには一切触れていません。
例えば、古代日本で行われていた『たたら製鉄』については、”たたらという言葉自体、朝鮮語だったようだ”(p.157)と書きながら朝鮮語における「たたら」の意味は示さない。この本はすべてこの調子です。
日本鋳造工業会 関東支部のホームページによると「「タタラ」とはタタール人(ダッタン人)の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日本に伝わったものと言われているそうだ。(以下略)」とのこと。
この本は源流まで遡る気はなく、朝鮮半島経由で伝わったものは新羅から来た、加羅から来たで終わらせていますので注意が必要です。
この本が触れていない情報で触れるべきであると思うのは、新羅という国の前身とも言える辰韓(秦韓)が存在したこと、ここは《大陸から逃れて流入してきた人たちために馬韓(百済の前身)の王が領土を割いて与えた土地に出来た国である》(魏志韓伝、辰韓伝 など)などという基本的な情報です。製鉄は先進地域の大陸から半島経由でやってきた技術であり、その技術を持って渡来してきた製鉄集団は何者たちなのか、少しは探って本書で触れてほしかったですが、全くありません。
ただ、この著者は文学者であったようで、東アジアの古代史は専門ではないようですから深い考察を望んでも仕方がないこと。
今なら『渡来人と帰化人』(田中史生著、角川選書、2019年発刊)などもっと新しい研究成果に基づき、東アジア全体の視点から書かれた本があります。
また半島からの渡来人、帰化人については氏族別に記した『百済氏・高麗氏―韓地から渡来の名族 (古代氏族の研究15)』 『秦氏・漢氏―渡来系の二大雄族 (古代氏族の研究⑪)』( 共に宝賀 寿男 (著) )などのほうが、日本の地方移住についての情報も古代の朝廷文書等の研究に基づいて掲載されており、よほど詳しいと思います。
例えば、古代日本で行われていた『たたら製鉄』については、”たたらという言葉自体、朝鮮語だったようだ”(p.157)と書きながら朝鮮語における「たたら」の意味は示さない。この本はすべてこの調子です。
日本鋳造工業会 関東支部のホームページによると「「タタラ」とはタタール人(ダッタン人)の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日本に伝わったものと言われているそうだ。(以下略)」とのこと。
この本は源流まで遡る気はなく、朝鮮半島経由で伝わったものは新羅から来た、加羅から来たで終わらせていますので注意が必要です。
この本が触れていない情報で触れるべきであると思うのは、新羅という国の前身とも言える辰韓(秦韓)が存在したこと、ここは《大陸から逃れて流入してきた人たちために馬韓(百済の前身)の王が領土を割いて与えた土地に出来た国である》(魏志韓伝、辰韓伝 など)などという基本的な情報です。製鉄は先進地域の大陸から半島経由でやってきた技術であり、その技術を持って渡来してきた製鉄集団は何者たちなのか、少しは探って本書で触れてほしかったですが、全くありません。
ただ、この著者は文学者であったようで、東アジアの古代史は専門ではないようですから深い考察を望んでも仕方がないこと。
今なら『渡来人と帰化人』(田中史生著、角川選書、2019年発刊)などもっと新しい研究成果に基づき、東アジア全体の視点から書かれた本があります。
また半島からの渡来人、帰化人については氏族別に記した『百済氏・高麗氏―韓地から渡来の名族 (古代氏族の研究15)』 『秦氏・漢氏―渡来系の二大雄族 (古代氏族の研究⑪)』( 共に宝賀 寿男 (著) )などのほうが、日本の地方移住についての情報も古代の朝廷文書等の研究に基づいて掲載されており、よほど詳しいと思います。
2017年12月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本の神社の起源について調べていたが、その回答がこの本に書かれていた。丹念に韓国の済州島まで行って現地調査をしていて、大変な労作であった。
2018年6月19日に日本でレビュー済み
本書では、韓国・済州島(元・耽羅/たんら国)の堂(タン)、琉球諸島の御嶽(ウタキ)での、樹木・石垣等で神域が区画された祭祀施設や、対馬・壱岐・薩摩・大隅・種子島・奄美での森だけの聖地等を取り上げ、堂舎なしから仮設・常設へと変遷した、神社の起源までさかのぼろうとしています。
タンとウタキに共通するのは、堂舎がなく、村の女性達が祭祀することですが、韓国本土では、シャーマニズム(祈祷)が儒教に駆逐され、神域の森が少なく、堂舎が設置、村の男性達が儒教風に祭祀するのが多くなり、日本の大半の神社も、現在は、男性が神主で主役、女性が巫女で脇役と共通します。
タンに樹木が必須とされるのは、神樹信仰からで、朝鮮半島には、民族共通の建国神話があり(檀君神話)、そこでは、神樹が2度登場します。
檀君神話は、天上の神・桓因(ファニン)が、息子・桓雄(ファヌン)を、天上から地上の、太伯(たいはく)山頂の神檀樹のもとへ降臨させ、熊が変身した人間の女性は、神檀樹のもとで祈ると、桓雄と結婚でき、王倹(ワンゴム)を生み、王倹が、檀国の君主として、古朝鮮を統治したという物語です。
耽羅国は、5世紀終りに、新羅へ服属し、10世紀前半に、新羅が滅亡すると独立、3年後に、高麗へ服属し、12世紀初めに、済州郡になり、14世紀終りに、高麗が滅亡、李氏朝鮮が建国されると、仏教排斥・儒教中心となり、済州島も本土同様の体制下でしたが、タンでの祭祀は、生き残ったようです。
一方、沖縄での仏教等の流入は、貿易のために居留した、中国人・日本人がきっかけで、15世紀前半・第一尚氏の時代から本格化しましたが、琉球王国自体は、祭政一致だったので、仏教は、布教活動が低調で、庶民にあまり普及しなかったため、シャーマニズムが生き残ったようです。
タン・ウタキや森だけの聖地は、日本本土の神社での鎮守の森とも共通し、本書では、渡来人系が祭祀したとされる神社(空間的な分布)や、神社と縄文・弥生遺跡や古墳との関係(時間的な変遷)も、取り上げています。
ですが、祭祀的な原始神道(神道は、教義面がなく、儀礼面のみ)と、堂舎的な神社(本殿)を、区別せずに使用すると混乱し、祭祀の起源は、飛鳥期→古墳期→弥生期→縄文期とさかのぼれても、堂舎の起源は、そこまでさかのぼれず、仏寺か霊廟の影響で、後世に神域で、神社を建立したのでしょう。
よって、まず、祭祀的な原始神道があり、つぎに、堂舎的な神社ができたとすべきで、人々が祭祀する対象は、山・木・石・岩等の自然、祭具等の物、人民から突出した王等の人に大別でき、神社では、それぞれ自然神・祭具神・人格神の祭神となり、それらは各々、次のように出現したと推測できます。
・自然神
縄文期は、狩猟採集中心で、自然に脅威がある一方、恩恵もあるので、山(神奈備山・神体山)・木(神木・神樹)・石(立石)・岩(磐座/いわくら)等の自然を崇拝するようになり、環状列石等の野外祭祀施設では、神体山を遥拝していたようです。
自然神は、祭祀時にのみ、天から降臨するとされているので、仮設の祭場を神域化し(神籬/ひもろぎ等)、後世に人格神の社殿化が普及しても、大和・大神(おおみわ)神社や武蔵・金鑚(かなさな)神社等、拝殿のみが常設され、本殿なしの遥拝が通例でした。
・祭具神
弥生期は、渡来人とともに、稲と銅・鉄等が持ち込まれ、中小規模の水田稲作中心で、天候と稲種が最重要なので、太陽神・穀物神が特別視され、耕地獲得・利水分配等をめぐって、抗争に発展することもあり、小国が形成、銅戈(か)・銅矛・銅鐸・銅剣・鉄剣・銅鏡等の祭器・武器で祭祀されました。
水田稲作・祭祀や抗争・同盟等は、人民を統率しなければならず、その能力に突出した王(または巫女・シャーマン)が必要で、祭器・武器が、古墳で王の副葬品になるとともに、耕地は、祖先から受け継いだので、祖霊・地霊も信仰したでしょう。
それが古墳期には、伊勢神宮内宮(天皇家)の鏡・石上神宮(物部氏)の剣・熱田神宮(尾張氏)の剣等、記紀神話ゆかりの祭器・武器が、御神体として、皇室・有力豪族の崇拝の対象になりました。
・人格神
古墳期は、大規模の水田稲作中心で、治水・灌漑施設が整備され、それを主導した功績から、王が神格化され、大和政権の樹立で、前方後円墳が全国に普及し、王が埋葬、諸豪族は、天皇に世襲で奉仕したので、家系が意識されるようになり、各豪族の祖先が、守護神として氏神(人格神)になりました。
それが飛鳥期には、仏教が普及し、死後は、古墳祭祀から仏寺供養(墓地)へと移行、生前は、古代神道(天上・地上の神々への祭祀)と区別され、仏教の寺院か儒教・道教の霊廟の影響で、社殿を常設化すると、人格神は、天からの降臨ではなく、本殿に常住するとも信仰されるようになりました。
ここまでみると、自然神は、堂舎になりにくく、なっても拝殿のみ、人格神は、堂舎になりやすく、本殿は住宅、祭具神は、熱田神宮が本殿もあり、石上神宮が拝殿のみで、奥の神域に神宝が埋葬されていたので、自然神と人格神の中間といえ、本殿は倉庫に位置づけられます。
そして、古墳と神社の死穢(しえ)の関係については、「魏志倭人伝」によると、3世紀半ば・卑弥呼の時代前後の弥生終末期には、すでに身内の死での触穢(しょくえ)後の禊(みそぎ)の習慣があったことがわかります。
「魏志倭人伝」では、「人が死ぬと、棺に納め、槨(かく、外箱)はない。土で封じて墓を造る。身内の死後10余日は、喪礼(殯/もがりと推測)を行う。その間は肉を食べず、喪主は泣き続け、他の人々は歌い踊って酒を飲む。埋葬後は、一家で水に入って体を清める。」とあります。
殯は、人が死ぬと、霊魂が肉体から離脱し、一定期間その周囲を浮遊するとされ、極稀に、再び肉体へ戻り、死体が蘇生すると信じられており、そのためには、腐食して復活の可能性がなくなるまで、肉体を確保しなければならず、そのための葬送儀礼で、死体安置用の小屋(殯宮)を設置します。
「日本書紀」では、天皇の殯宮と墓地(古墳)は、別所なので、埋葬後は、不浄な状態から清浄な状態へと転換したとみなすことができ、殯で死穢が除去されたため、忌み嫌われず、特に神格化された王の古墳は、聖域となったのではないでしょうか。
記紀神話でも、イザナギが、イザナミのいる、穢れが満ちた黄泉の国(死後の世界)からの脱出後に、川での禊祓(みそぎはらえ)で、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの高貴な3神を誕生させており、悪い事があっても、不浄な状態から清浄な状態へと転換すれば、善い事があるという例示といえます。
皇室・貴族中心の古代までは、非人が、京内で死者を葬送する等、穢れを清める役割があり、特異な力をもち、畏怖される存在でしたが、武士中心の中世からは、非人・河原者等を、穢れが多い(穢多/えた)と、嫌悪される存在になり、差別意識が形成されたようです。
しかも、武家文化が中心の東日本よりも、公家文化が中心の西日本のほうが、死穢・血穢(けつえ)・触穢等への嫌悪には敏感で、これは、武士が人を殺傷することもあるのが影響しているのでしょう。
このように、被差別民はもともと、ケガレをキヨメる人だったのが、ケガレた人になってしまった経緯があり、現在も、日常のケ(褻)と非日常のハレ(晴)の2項や、精気・生気が枯渇したケガレ(穢れ=気枯れ)を追加した3項も、固定的・対立的な図式とするのが通例のようです。
しかし、本来は、穢れを祓う、罪・祟りを清める、禊祓等、不浄な状態から清浄な状態へと転換する行為が、神事・祭事です。
一方、人事・政事は、清浄な状態が不浄な状態になることもあるので、両者が並存することで、不即不離の補完関係になり(祭政一致)、永遠に反復・循環できるので、流動的・連続的な図式で思考すべきで、殯後の古墳祭祀も、ケガレをキヨメた状態とみるのが妥当ではないでしょうか。
タンとウタキに共通するのは、堂舎がなく、村の女性達が祭祀することですが、韓国本土では、シャーマニズム(祈祷)が儒教に駆逐され、神域の森が少なく、堂舎が設置、村の男性達が儒教風に祭祀するのが多くなり、日本の大半の神社も、現在は、男性が神主で主役、女性が巫女で脇役と共通します。
タンに樹木が必須とされるのは、神樹信仰からで、朝鮮半島には、民族共通の建国神話があり(檀君神話)、そこでは、神樹が2度登場します。
檀君神話は、天上の神・桓因(ファニン)が、息子・桓雄(ファヌン)を、天上から地上の、太伯(たいはく)山頂の神檀樹のもとへ降臨させ、熊が変身した人間の女性は、神檀樹のもとで祈ると、桓雄と結婚でき、王倹(ワンゴム)を生み、王倹が、檀国の君主として、古朝鮮を統治したという物語です。
耽羅国は、5世紀終りに、新羅へ服属し、10世紀前半に、新羅が滅亡すると独立、3年後に、高麗へ服属し、12世紀初めに、済州郡になり、14世紀終りに、高麗が滅亡、李氏朝鮮が建国されると、仏教排斥・儒教中心となり、済州島も本土同様の体制下でしたが、タンでの祭祀は、生き残ったようです。
一方、沖縄での仏教等の流入は、貿易のために居留した、中国人・日本人がきっかけで、15世紀前半・第一尚氏の時代から本格化しましたが、琉球王国自体は、祭政一致だったので、仏教は、布教活動が低調で、庶民にあまり普及しなかったため、シャーマニズムが生き残ったようです。
タン・ウタキや森だけの聖地は、日本本土の神社での鎮守の森とも共通し、本書では、渡来人系が祭祀したとされる神社(空間的な分布)や、神社と縄文・弥生遺跡や古墳との関係(時間的な変遷)も、取り上げています。
ですが、祭祀的な原始神道(神道は、教義面がなく、儀礼面のみ)と、堂舎的な神社(本殿)を、区別せずに使用すると混乱し、祭祀の起源は、飛鳥期→古墳期→弥生期→縄文期とさかのぼれても、堂舎の起源は、そこまでさかのぼれず、仏寺か霊廟の影響で、後世に神域で、神社を建立したのでしょう。
よって、まず、祭祀的な原始神道があり、つぎに、堂舎的な神社ができたとすべきで、人々が祭祀する対象は、山・木・石・岩等の自然、祭具等の物、人民から突出した王等の人に大別でき、神社では、それぞれ自然神・祭具神・人格神の祭神となり、それらは各々、次のように出現したと推測できます。
・自然神
縄文期は、狩猟採集中心で、自然に脅威がある一方、恩恵もあるので、山(神奈備山・神体山)・木(神木・神樹)・石(立石)・岩(磐座/いわくら)等の自然を崇拝するようになり、環状列石等の野外祭祀施設では、神体山を遥拝していたようです。
自然神は、祭祀時にのみ、天から降臨するとされているので、仮設の祭場を神域化し(神籬/ひもろぎ等)、後世に人格神の社殿化が普及しても、大和・大神(おおみわ)神社や武蔵・金鑚(かなさな)神社等、拝殿のみが常設され、本殿なしの遥拝が通例でした。
・祭具神
弥生期は、渡来人とともに、稲と銅・鉄等が持ち込まれ、中小規模の水田稲作中心で、天候と稲種が最重要なので、太陽神・穀物神が特別視され、耕地獲得・利水分配等をめぐって、抗争に発展することもあり、小国が形成、銅戈(か)・銅矛・銅鐸・銅剣・鉄剣・銅鏡等の祭器・武器で祭祀されました。
水田稲作・祭祀や抗争・同盟等は、人民を統率しなければならず、その能力に突出した王(または巫女・シャーマン)が必要で、祭器・武器が、古墳で王の副葬品になるとともに、耕地は、祖先から受け継いだので、祖霊・地霊も信仰したでしょう。
それが古墳期には、伊勢神宮内宮(天皇家)の鏡・石上神宮(物部氏)の剣・熱田神宮(尾張氏)の剣等、記紀神話ゆかりの祭器・武器が、御神体として、皇室・有力豪族の崇拝の対象になりました。
・人格神
古墳期は、大規模の水田稲作中心で、治水・灌漑施設が整備され、それを主導した功績から、王が神格化され、大和政権の樹立で、前方後円墳が全国に普及し、王が埋葬、諸豪族は、天皇に世襲で奉仕したので、家系が意識されるようになり、各豪族の祖先が、守護神として氏神(人格神)になりました。
それが飛鳥期には、仏教が普及し、死後は、古墳祭祀から仏寺供養(墓地)へと移行、生前は、古代神道(天上・地上の神々への祭祀)と区別され、仏教の寺院か儒教・道教の霊廟の影響で、社殿を常設化すると、人格神は、天からの降臨ではなく、本殿に常住するとも信仰されるようになりました。
ここまでみると、自然神は、堂舎になりにくく、なっても拝殿のみ、人格神は、堂舎になりやすく、本殿は住宅、祭具神は、熱田神宮が本殿もあり、石上神宮が拝殿のみで、奥の神域に神宝が埋葬されていたので、自然神と人格神の中間といえ、本殿は倉庫に位置づけられます。
そして、古墳と神社の死穢(しえ)の関係については、「魏志倭人伝」によると、3世紀半ば・卑弥呼の時代前後の弥生終末期には、すでに身内の死での触穢(しょくえ)後の禊(みそぎ)の習慣があったことがわかります。
「魏志倭人伝」では、「人が死ぬと、棺に納め、槨(かく、外箱)はない。土で封じて墓を造る。身内の死後10余日は、喪礼(殯/もがりと推測)を行う。その間は肉を食べず、喪主は泣き続け、他の人々は歌い踊って酒を飲む。埋葬後は、一家で水に入って体を清める。」とあります。
殯は、人が死ぬと、霊魂が肉体から離脱し、一定期間その周囲を浮遊するとされ、極稀に、再び肉体へ戻り、死体が蘇生すると信じられており、そのためには、腐食して復活の可能性がなくなるまで、肉体を確保しなければならず、そのための葬送儀礼で、死体安置用の小屋(殯宮)を設置します。
「日本書紀」では、天皇の殯宮と墓地(古墳)は、別所なので、埋葬後は、不浄な状態から清浄な状態へと転換したとみなすことができ、殯で死穢が除去されたため、忌み嫌われず、特に神格化された王の古墳は、聖域となったのではないでしょうか。
記紀神話でも、イザナギが、イザナミのいる、穢れが満ちた黄泉の国(死後の世界)からの脱出後に、川での禊祓(みそぎはらえ)で、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの高貴な3神を誕生させており、悪い事があっても、不浄な状態から清浄な状態へと転換すれば、善い事があるという例示といえます。
皇室・貴族中心の古代までは、非人が、京内で死者を葬送する等、穢れを清める役割があり、特異な力をもち、畏怖される存在でしたが、武士中心の中世からは、非人・河原者等を、穢れが多い(穢多/えた)と、嫌悪される存在になり、差別意識が形成されたようです。
しかも、武家文化が中心の東日本よりも、公家文化が中心の西日本のほうが、死穢・血穢(けつえ)・触穢等への嫌悪には敏感で、これは、武士が人を殺傷することもあるのが影響しているのでしょう。
このように、被差別民はもともと、ケガレをキヨメる人だったのが、ケガレた人になってしまった経緯があり、現在も、日常のケ(褻)と非日常のハレ(晴)の2項や、精気・生気が枯渇したケガレ(穢れ=気枯れ)を追加した3項も、固定的・対立的な図式とするのが通例のようです。
しかし、本来は、穢れを祓う、罪・祟りを清める、禊祓等、不浄な状態から清浄な状態へと転換する行為が、神事・祭事です。
一方、人事・政事は、清浄な状態が不浄な状態になることもあるので、両者が並存することで、不即不離の補完関係になり(祭政一致)、永遠に反復・循環できるので、流動的・連続的な図式で思考すべきで、殯後の古墳祭祀も、ケガレをキヨメた状態とみるのが妥当ではないでしょうか。
2010年9月21日に日本でレビュー済み
著者は民俗学者である。フィールドワークの範囲が国内に留まらず韓国にまで及んだ。豊富な調査から、神社に関して従来の定説を覆す仮説を打ち出した。
(1)神社の起源は古代朝鮮である
弥生文化は朝鮮半島から渡来した人々がもたらした。稲と鉄という先進文明の担い手だった。神社の成立にも大きくかかわった。
近畿ほかほとんど日本全国にわたって古代の渡来人がかかわった神社が見いだされる。代表的な伊勢神宮、出雲大社。三輪神社、伏見稲荷、八坂神社などの創祀も渡来人のかかわりがある。
朝鮮半島にあって神社に相当するのは堂(タン)である。堂は、儒教を国教とする李朝五百年の間排除・迫害された為、現在その存在はなきに等しい。
(2)神社は元々、死を穢れとしなかった
神社の場所が古墳であることが多い。神社が死を穢れとするのは、仏教伝来以後のであり、本来のことではない。
(3)地霊=地主神は縄張りを持つ
地主神の土地へ別の大きな神が来ると、地主神は追いやられて分社に祀られる。土地の神をいい加減に扱うと怒るので、地主神が正面に祀られ、主神が脇にやられることもある。天照大神が大和の地には鎮座できずに伊勢にまで行かざるをえなかったのは、この経緯による。
(4)神は社殿を嫌う言い伝えがある。
森の一木一草持ち去らないことを守り続けた結果、信仰の結晶として森そのものが神となる。
ところが清浄な森の一部を刈り払って、社殿を設けた時から、信仰の質が変わった。聖なる神の領域に、俗なる人間の秩序を持ち込んだ。
(5)日本人の得意とするもの
神社の起源が古代朝鮮にあるとしても「神道」という宗教は日本独自のもので発展した。
日本人はオリジナルを真似て、それ以上のものに改善する能力が非常に優れている。このことは千年以上前から発揮されている。稲作、文字、仏教、神道とルーツは日本のものでないにせよ、その品質、完成度などは世界に誇れるものだ。
(1)神社の起源は古代朝鮮である
弥生文化は朝鮮半島から渡来した人々がもたらした。稲と鉄という先進文明の担い手だった。神社の成立にも大きくかかわった。
近畿ほかほとんど日本全国にわたって古代の渡来人がかかわった神社が見いだされる。代表的な伊勢神宮、出雲大社。三輪神社、伏見稲荷、八坂神社などの創祀も渡来人のかかわりがある。
朝鮮半島にあって神社に相当するのは堂(タン)である。堂は、儒教を国教とする李朝五百年の間排除・迫害された為、現在その存在はなきに等しい。
(2)神社は元々、死を穢れとしなかった
神社の場所が古墳であることが多い。神社が死を穢れとするのは、仏教伝来以後のであり、本来のことではない。
(3)地霊=地主神は縄張りを持つ
地主神の土地へ別の大きな神が来ると、地主神は追いやられて分社に祀られる。土地の神をいい加減に扱うと怒るので、地主神が正面に祀られ、主神が脇にやられることもある。天照大神が大和の地には鎮座できずに伊勢にまで行かざるをえなかったのは、この経緯による。
(4)神は社殿を嫌う言い伝えがある。
森の一木一草持ち去らないことを守り続けた結果、信仰の結晶として森そのものが神となる。
ところが清浄な森の一部を刈り払って、社殿を設けた時から、信仰の質が変わった。聖なる神の領域に、俗なる人間の秩序を持ち込んだ。
(5)日本人の得意とするもの
神社の起源が古代朝鮮にあるとしても「神道」という宗教は日本独自のもので発展した。
日本人はオリジナルを真似て、それ以上のものに改善する能力が非常に優れている。このことは千年以上前から発揮されている。稲作、文字、仏教、神道とルーツは日本のものでないにせよ、その品質、完成度などは世界に誇れるものだ。
2009年10月14日に日本でレビュー済み
前著「神の森 森の神」も読みました。
元始神道祭祀の姿を求めて、日本国内の神社を持たない神の森を、
フィールドワークして歩く著者の探究心に感心しました。
著者の紹介する森の聖地を、一度訪ねてみたいと思いながら果たせませんでした。
そしたら・・・
今回は、済州島の「堂(たん)」まで、調べ歩いて報告してくれたのですね。
若狭にまで行きましたが、常神半島やニソの森までは、車でも更に大変な距離です。
著者の旅は、まだ続くそうです。
追いかけたいけど、又先をドンドン越されるんでしょう。
元始神道祭祀の姿を求めて、日本国内の神社を持たない神の森を、
フィールドワークして歩く著者の探究心に感心しました。
著者の紹介する森の聖地を、一度訪ねてみたいと思いながら果たせませんでした。
そしたら・・・
今回は、済州島の「堂(たん)」まで、調べ歩いて報告してくれたのですね。
若狭にまで行きましたが、常神半島やニソの森までは、車でも更に大変な距離です。
著者の旅は、まだ続くそうです。
追いかけたいけど、又先をドンドン越されるんでしょう。
2010年1月6日に日本でレビュー済み
これぞフィールドワーク、これぞ学識と、読みながら何度
も思いました。参照する事例や文献の多彩さなど密度の
濃い内容に加え、最後は対馬・壱岐の天道山やヤボサ神、
薩摩・大隅のモイドン、そして種子島のガロー山に奄美の
神山と、神が降り来る森の名を畳み掛けられて未だに頭
が整理できないままです。
わが国の古神道、すなわち神社の原型を沖縄の御嶽に
求める著者の探求は、済州島や韓国多島海の堂の考察
にまで拡がります。何故なら御嶽信仰は十二世紀以前に
成立したとは思えぬのに、同時期の本土の神社のような
社殿がなく、そして男性が祭祀者となっていないなど不可
思議なことが多いからからです。その上で、この地域をめ
ぐる文化の伝播、そして人と物の出入りや交流について、
著者の仮説が提起されます。
これは今日の日本史の常識からは、少し外れているよ
うです。その当否はここでは置くことにします。わたしはそ
れ以前にこの間に紹介された、柳田、折口、そして早川
孝太郎など民俗学のパイオニア達の着眼の鋭さに驚きま
した。恐るべし、民俗学というところでしょうか。
さて、お正月は山の上から里に降りてきた神様に感謝
をし、新年の祈りをするものなのだそうです。その時期に
本書を読むことができて、なおさら清々した気分になれま
した。良かったです。
も思いました。参照する事例や文献の多彩さなど密度の
濃い内容に加え、最後は対馬・壱岐の天道山やヤボサ神、
薩摩・大隅のモイドン、そして種子島のガロー山に奄美の
神山と、神が降り来る森の名を畳み掛けられて未だに頭
が整理できないままです。
わが国の古神道、すなわち神社の原型を沖縄の御嶽に
求める著者の探求は、済州島や韓国多島海の堂の考察
にまで拡がります。何故なら御嶽信仰は十二世紀以前に
成立したとは思えぬのに、同時期の本土の神社のような
社殿がなく、そして男性が祭祀者となっていないなど不可
思議なことが多いからからです。その上で、この地域をめ
ぐる文化の伝播、そして人と物の出入りや交流について、
著者の仮説が提起されます。
これは今日の日本史の常識からは、少し外れているよ
うです。その当否はここでは置くことにします。わたしはそ
れ以前にこの間に紹介された、柳田、折口、そして早川
孝太郎など民俗学のパイオニア達の着眼の鋭さに驚きま
した。恐るべし、民俗学というところでしょうか。
さて、お正月は山の上から里に降りてきた神様に感謝
をし、新年の祈りをするものなのだそうです。その時期に
本書を読むことができて、なおさら清々した気分になれま
した。良かったです。