「科学技術と、一般社会の間に、健全なコミュニケーションの関係を作る」
それが本書で述べている科学コミュニケーションという活動の、
ごく簡単な定義だと思います。
しかし、それが難しい、ということが、さまざまな観点から述べられます。
まず、人間の脳の仕組み上、抽象的な(数学的)論理によって構成される現代の
科学が、非常に理解が難しいこと。単に「難しい」のではなく、「脳の仕組み上」
難しいというのですから、大変です。
また、日本ではヨーロッパのような「神対人間」の価値観の衝突が無かったこと、
アメリカのような「実用主義的科学観」が(日本独自には)生まれなかったこと、
などにより、一般社会の科学への態度が(対立や、利用ではなく)「無関心」に
なったことが指摘されています。
反対も、否定もしない相手とコミュニケーションをとるのは難しい。
日本では、まず「関心」を喚起しないといけない、というのです。
これまた大変なことです。
それでも、社会における科学技術の位置づけは大きくなる一方なわけで、
どうしても科学コミュニケーションは必要、という立場から、著者はあれこれと
方法を考え、宗教や、教育をモデルにして、
「コミュニティ的な活動による、共感と共有のコミュニケーション」
「科学者と一般市民との間の、全人格的コミュニケーション」を提案します。
なるほど、と読み進めてくるのですが、
・・・急転直下、著者はこのアプローチの危うさに言及をはじめます!
「カルト宗教による、洗脳とかわらないのではないか?」と。
最終章、あとがきで述べられる著者の考えは穏当ですが、目新しいものではありません。
しかしかえって問題の難しさが浮き彫りになっています。
また、あとがきでは、著者自身がこの分野へ乗り入れた動機が語られますが、同時代に
生きる者として、この科学コミュニケーションという課題が他人事ではないことが
痛感させられます。
本分野の難しさ、展望など、広く深く踏み込んだ野心的な著作です。
多くの人にお勧めします。
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科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書) 新書 – 2011/2/16
岸田 一隆
(著)
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そもそも人間は論理的ではなく、日本人の科学への関心は低い。ますます必要とされるのに、どうすればいいのか。科学と人間のあり方を根本から問い直す、新しい「科学コミュニケーション」論。
- ISBN-104582855733
- ISBN-13978-4582855739
- 出版社平凡社
- 発売日2011/2/16
- 言語日本語
- 本の長さ264ページ
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2011/2/16)
- 発売日 : 2011/2/16
- 言語 : 日本語
- 新書 : 264ページ
- ISBN-10 : 4582855733
- ISBN-13 : 978-4582855739
- Amazon 売れ筋ランキング: - 807,699位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 827位平凡社新書
- - 58,645位教育・学参・受験 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年11月23日に日本でレビュー済み
2011年3月17日に日本でレビュー済み
科学者と一般人とのコミュニケーションについての本だが,理科系の自分にとってはかんがえてもいなかった部分がある. こどもに科学がきらわれていることは感じていた. しかし,この本ではとくに物理がきらわれているが,その理由がそれがむずかしいことにあって,著者の分析によれば物理が論理的であり抽象数学的で知覚との対応がつかないことだという. たしかに相対性理論や量子力学を知覚するのは困難だが,高校までの物理は論理というより直感的なものだとかんがえてきたので,私の理解とは正反対だ. このギャップをどうやってうめればよいかはわからないが,うめるべきギャップに気づかせてくれた.
2012年7月14日に日本でレビュー済み
科学コミュニケーションとは誰を対象としたコミュニケーションか。
問いはそこにつきるだろう。コミュニケーションは相手がいないと存在しない。どのような相手に対してコミュニケ-書のとろうとするかで自ずと内容や形態が決まってくる。
科学コミュニケーションに必要とされる要素が欧州では「対話」、米国では「理解」、日本では「関心」が挙げられるという指摘は興味深い。そしてそんな科学への関心を惹きつけるための方策がまたさらに興味深い。
「科学は人間にとってかならずしもおもしろくないかもしれない。」
「日本の科学コミュニケーションにおいては、そもそも来ない、機会を拒絶する、このような人とコミュニケーションしなくてはいけない」
「人間は本当は科学には向いていないのではないでしょうか。」
一見すると悲観的な文言が多く見られる。では多数派である?科学に興味のない人々へはどのようなアプローチが有効なのであろうか。
「自分のまわりに広がる宇宙や世界を科学的・論理的に分析して考えるよりも、社会的な見方で考える方が、はるかに得意なのです」
「共感・共有のコミュニケーションには、そうしたエピソード記憶が大切なのです」
「研究者の登場と語られる世界観によって、人は、科学を過去の遺跡としてではなく、現在進行形の物語として感じることができるようになるのです。」
結局、科学に対して共感・共有のコミュニケーションをとるには
「科学者を人間ドラマの中においてみるのです。そして、対人コミュニケーション(人間)の力とエピソード(ドラマ)の力を総動員するのです」
と結論づけられてしまう。どうだろうか。「はやぶさ」のエピソードのように現実にドラマが科学への興味を引き起こすことはありうる。しかしあくまでも入り口に過ぎず、ここからどのように深めていくかこそが科学コミュニケーションの課題なのではなかろうか。
ただ「知的市民層に対して共感・共有のコミュニケーションをすることです」という方向性は少しがっかり。
共感・共有するためには科学を一定程度理解できる知的素養が必要なことはわかる。特に現代科学はこれまでの蓄積の上に成り立っているため、年々理解が難しくなってきているのも事実である。そういったわからないものは相手にしないという雰囲気が科学への拒否感につながっているような気がしてならない。
著者が最後に述べる「第三の方法」があれば裾野を広げることは可能なのであろうか。興味を持とうと持たまいと、関心があろうとなかろうと科学と無鉛で生きていくことは不可能である。突破口を期待したい。
問いはそこにつきるだろう。コミュニケーションは相手がいないと存在しない。どのような相手に対してコミュニケ-書のとろうとするかで自ずと内容や形態が決まってくる。
科学コミュニケーションに必要とされる要素が欧州では「対話」、米国では「理解」、日本では「関心」が挙げられるという指摘は興味深い。そしてそんな科学への関心を惹きつけるための方策がまたさらに興味深い。
「科学は人間にとってかならずしもおもしろくないかもしれない。」
「日本の科学コミュニケーションにおいては、そもそも来ない、機会を拒絶する、このような人とコミュニケーションしなくてはいけない」
「人間は本当は科学には向いていないのではないでしょうか。」
一見すると悲観的な文言が多く見られる。では多数派である?科学に興味のない人々へはどのようなアプローチが有効なのであろうか。
「自分のまわりに広がる宇宙や世界を科学的・論理的に分析して考えるよりも、社会的な見方で考える方が、はるかに得意なのです」
「共感・共有のコミュニケーションには、そうしたエピソード記憶が大切なのです」
「研究者の登場と語られる世界観によって、人は、科学を過去の遺跡としてではなく、現在進行形の物語として感じることができるようになるのです。」
結局、科学に対して共感・共有のコミュニケーションをとるには
「科学者を人間ドラマの中においてみるのです。そして、対人コミュニケーション(人間)の力とエピソード(ドラマ)の力を総動員するのです」
と結論づけられてしまう。どうだろうか。「はやぶさ」のエピソードのように現実にドラマが科学への興味を引き起こすことはありうる。しかしあくまでも入り口に過ぎず、ここからどのように深めていくかこそが科学コミュニケーションの課題なのではなかろうか。
ただ「知的市民層に対して共感・共有のコミュニケーションをすることです」という方向性は少しがっかり。
共感・共有するためには科学を一定程度理解できる知的素養が必要なことはわかる。特に現代科学はこれまでの蓄積の上に成り立っているため、年々理解が難しくなってきているのも事実である。そういったわからないものは相手にしないという雰囲気が科学への拒否感につながっているような気がしてならない。
著者が最後に述べる「第三の方法」があれば裾野を広げることは可能なのであろうか。興味を持とうと持たまいと、関心があろうとなかろうと科学と無鉛で生きていくことは不可能である。突破口を期待したい。
2011年3月9日に日本でレビュー済み
まず面白かったのは、
2章の「人は生まれながらにして文系」の項にある
3つのテストだ。
簡単な論理テストなのだが、
それぞれ以下のような設定で立てられている。
・トランプの裏と表
・乗り物を使ってニューヨークへ行く話
・ビールを飲むことと法律について
論理的には、まったく同じ意味を問うテストなのに、
自分に身近であるほど、正解率が高くなるという。
つまり、純粋に論理で考えるよりも、
暮らしのなかのきまりごとなどに
われわれは、強く影響を受けているのだという。
そんな、非論理的な人間が、いま叫ばれているように、
なぜ科学を知る必要があるのか?
そして、どうやれば多くの人が科学に関心をもてるのか?
自然環境がどんどん壊れていく中で、
人間のあり方の根っこから、
もう一度とらえなおして、
そのうえで、地球環境までのことを考えていこうとする
著者のスタンスは、迂遠かもしれないが、
意外と近道なのかもしれない。
どんどん読めて、読みながら考えられる本。
2章の「人は生まれながらにして文系」の項にある
3つのテストだ。
簡単な論理テストなのだが、
それぞれ以下のような設定で立てられている。
・トランプの裏と表
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・ビールを飲むことと法律について
論理的には、まったく同じ意味を問うテストなのに、
自分に身近であるほど、正解率が高くなるという。
つまり、純粋に論理で考えるよりも、
暮らしのなかのきまりごとなどに
われわれは、強く影響を受けているのだという。
そんな、非論理的な人間が、いま叫ばれているように、
なぜ科学を知る必要があるのか?
そして、どうやれば多くの人が科学に関心をもてるのか?
自然環境がどんどん壊れていく中で、
人間のあり方の根っこから、
もう一度とらえなおして、
そのうえで、地球環境までのことを考えていこうとする
著者のスタンスは、迂遠かもしれないが、
意外と近道なのかもしれない。
どんどん読めて、読みながら考えられる本。
2011年2月24日に日本でレビュー済み
日本では、人間のタイプや発想方法を理系と文系に分けたがる傾向が強い。その知的なギャップを埋めるために、理系から提案されたのが、本書のテーマである「科学コミュニケーション」である。著者は物理学者であり、本書を執筆できるくらいの文才の持ち主。だが、この文才を支える重要な切り口は「共感・共有のコミュニケーション」であり、これは全人格的な営為であるが、機能は二つに分けられる。曰く、「情報伝達」と「共有・共感」だが、前者は文字などコンピュータでも転送可能な内容だが、後者は人の感情など情緒面で発生する内容であり、精確に伝えるにはコード化やデータ化に馴染まない。しかし、原爆や産業公害の悲惨さに共感する意識は確かに存在するのであり、その情緒性が人間の共同体の意義を強くしている。これを強化しなければ、持続的な科学の発達などはありえないのであり、科学の研究を維持する社会的遺伝子は維持できない。
知能と知性の違い、アメリカに伝統的にある「反知性主義」の意義、その延長上に科学の非知性化が根強く育つ。その一方で科学も人間の全人格性を認めつつ、科学の存在の意義を考え直すには情緒面での人間的なつながりの強さが重要であり、全体性を要求されるが、それをつなぐ手段はコミュニケーションのみである。というのが著者の言い分であろうが、知を科学と人文学系に分けて考える傾向は、日本的であり、欧米のリベラル・アーツの考え方の背景には、実験ノートの原点が文献主義ゼミナールのゼミナール・ノート(記録)なのであり、ここに知の精緻化は文献学に始まり、自然科学で成就・定着したことを説明した佐々木力の「科学革命の歴史構造」などを参照されれば、もっと緻密な議論ができるように思う。
日本では、人間のタイプや発想方法を理系と文系に分けたがる傾向が強い。その知的なギャップを埋めるために、理系から提案されたのが、本書のテーマである「科学コミュニケーション」である。著者は物理学者であり、本書を執筆できるくらいの文才の持ち主。だが、この文才を支える重要な切り口は「共感・共有のコミュニケーション」であり、これは全人格的な営為であるが、機能は二つに分けられる。曰く、「情報伝達」と「共有・共感」だが、前者は文字などコンピュータでも転送可能な内容だが、後者は人の感情など情緒面で発生する内容であり、精確に伝えるにはコード化やデータ化に馴染まない。しかし、原爆や産業公害の悲惨さに共感する意識は確かに存在するのであり、その情緒性が人間の共同体の意義を強くしている。これを強化しなければ、持続的な科学の発達などはありえないのであり、科学の研究を維持する社会的遺伝子は維持できない。
知能と知性の違い、アメリカに伝統的にある「反知性主義」の意義、その延長上に科学の非知性化が根強く育つ。その一方で科学も人間の全人格性を認めつつ、科学の存在の意義を考え直すには情緒面での人間的なつながりの強さが重要であり、全体性を要求されるが、それをつなぐ手段はコミュニケーションのみである。というのが著者の言い分であろうが、知を科学と人文学系に分けて考える傾向は、日本的であり、欧米のリベラル・アーツの考え方の背景には、実験ノートの原点が文献主義ゼミナールのゼミナール・ノート(記録)なのであり、ここに知の精緻化は文献学に始まり、自然科学で成就・定着したことを説明した佐々木力の「科学革命の歴史構造」などを参照されれば、もっと緻密な議論ができるように思う。
2015年11月5日に日本でレビュー済み
ちょっと抽象的すぎる例え話が多いかな、という印象。
著者はそんなつもりがなくとも「アダムとイブのりんご」をそこそこ大事な場面で引き合いに出されると一気に胡散臭い宗教本を読んでる気分になった。
著者はそんなつもりがなくとも「アダムとイブのりんご」をそこそこ大事な場面で引き合いに出されると一気に胡散臭い宗教本を読んでる気分になった。