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新書723桜は本当に美しいのか (平凡社新書 723) 新書 – 2014/3/14
水原 紫苑
(著)
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歌人が問う日本。美しいと感じるのは自然な情緒なのか、そのように刷り込まれただけではないのか。記紀・万葉から桜ソングまで、あえて誰も触れえなかったタブーに挑む。
- 本の長さ269ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2014/3/14
- 寸法10.7 x 1.4 x 17.4 cm
- ISBN-10458285723X
- ISBN-13978-4582857238
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2014/3/14)
- 発売日 : 2014/3/14
- 言語 : 日本語
- 新書 : 269ページ
- ISBN-10 : 458285723X
- ISBN-13 : 978-4582857238
- 寸法 : 10.7 x 1.4 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 635,776位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2014年4月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史をたどりながら緻密に桜の来し方、特に江戸時代以降の無謀にもさくらの散るという現象とかなしい歴史を結びつけた考察には深い悲しみを禁じえなかった。
2014年10月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近現代の日本社会の動きのなかでの、深い分析を望んでいたがそれはなく期待外れだった。
2014年3月25日に日本でレビュー済み
著者は別に、桜は本当は美しくないと主張するわけではありません。言葉によって構成された世界の中にある桜以外の“本当の桜”を見ることなどあり得ぬし、美醜の感覚は人によって異なるというのが、社会人としての常識でしょう。
むしろ桜の持てはやされ方に著者は疑問ないしは警戒感を抱いているようです。軍歌「同期の桜」などで桜が担った、個人を共同体へと包摂する国家的な呪力に対する警戒感。
(著者の警戒感は昨今の日本に暮らす者に共有されるでしょう。「和食は世界一ヘルシー」「世界に行くと日本のよさがよくわかる」などの一見穏当な意見にも、志賀重昂の 日本風景論 新装版 (講談社学術文庫) に通底するナショナリズムの罠が隠れてないとも限らない)
「万葉集」の桜は、呪力を持つ樹木から賞玩の対象としての樹木への過渡期にあった、と本書は指摘します。霊的なものから美的なものへと桜のイメージは変遷したと。
「古今集」では美的対象としての意味合いがより大きくなると。著者の主張では、紀貫之は漢詩の思想性に対抗するために、いにしえの呪力ある桜のイメージを召喚した。その目的は自然への回帰ではなく「絶対的な王権による美の宇宙の創造ないしは構築であり、それによって、人間の意識あるいは無意識までも支配するシステムを成立させることである」(p47)
貴族社会の中で審美的な洗練を経て、霊的な力を失い世俗化する桜。そのように仕立てられた桜のイメージを、美の記号、美の通貨とも、著者は呼んでいます。
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書) で、美空ひばりに日本民族の歌姫(いわば歌謡曲歌手版伊福部昭という感じでしょうか)としてのイメージを与える上で竹中労の役割を取り上げていますが、ちょうどそんなふうに紀貫之は桜のイメージの形成に関与したわけでしょう。
この辺りの議論を展開すれば、そのテーマだけで結構ヘビーな書物になりそうです。散り際の美学とか、あるいは、フセワロード・オフチンニコフが 一枝の桜―日本人とはなにか (中公文庫) で日本人の美意識として指摘する自然らしさが美しさだという感覚などが、国家的な一体感へと人々を取り込んでいく政治の修辞学。(戦争は嫌だと思うのは自然な感情だと、もしかして思っていはしませんか?)
紀貫之が演出したのは洗練された美の対象としての桜のイメージで、それは貴族社会の雰囲気を反映していたでしょう。日本語を話す人間のうち、歌をたしなむ者は少数だろう(貴族社会に帰属しない人々は、相変わらず万葉以前の呪的な宇宙観の中にいたのかも)。
にもかかわらず本書の主眼は歌の解釈と鑑賞に置かれているようです。
著者は歌が好き過ぎるのでしょうが、イデオロギーどうのこうで何かの道具に歌を使っているわけではない(でも参考文献には柄谷や丸山らの面々が)。
「美の通貨」などという喚起力に富んだ語を使いながらも、たとえば柄谷行人が 遊動論 柳田国男と山人 (文春新書) で、中央の体制に回収されない交換様式の可能性を、さながら未知の素粒子を予言する理論物理学者のような手さばきで示してみせた、ああした迫力が本書には感じられない。それはおそらく著者が「いとをかし」的スタンスを保とうとしているためでしょう。
著者のそのスタンスは本書の魅力でもあり、古代から現代までの多くの歌を読み解いてくれているのはそれなりに嬉しい。
でも議論としての迫力は感じない。
ああ二律背反(^_^;)
むしろ桜の持てはやされ方に著者は疑問ないしは警戒感を抱いているようです。軍歌「同期の桜」などで桜が担った、個人を共同体へと包摂する国家的な呪力に対する警戒感。
(著者の警戒感は昨今の日本に暮らす者に共有されるでしょう。「和食は世界一ヘルシー」「世界に行くと日本のよさがよくわかる」などの一見穏当な意見にも、志賀重昂の 日本風景論 新装版 (講談社学術文庫) に通底するナショナリズムの罠が隠れてないとも限らない)
「万葉集」の桜は、呪力を持つ樹木から賞玩の対象としての樹木への過渡期にあった、と本書は指摘します。霊的なものから美的なものへと桜のイメージは変遷したと。
「古今集」では美的対象としての意味合いがより大きくなると。著者の主張では、紀貫之は漢詩の思想性に対抗するために、いにしえの呪力ある桜のイメージを召喚した。その目的は自然への回帰ではなく「絶対的な王権による美の宇宙の創造ないしは構築であり、それによって、人間の意識あるいは無意識までも支配するシステムを成立させることである」(p47)
貴族社会の中で審美的な洗練を経て、霊的な力を失い世俗化する桜。そのように仕立てられた桜のイメージを、美の記号、美の通貨とも、著者は呼んでいます。
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書) で、美空ひばりに日本民族の歌姫(いわば歌謡曲歌手版伊福部昭という感じでしょうか)としてのイメージを与える上で竹中労の役割を取り上げていますが、ちょうどそんなふうに紀貫之は桜のイメージの形成に関与したわけでしょう。
この辺りの議論を展開すれば、そのテーマだけで結構ヘビーな書物になりそうです。散り際の美学とか、あるいは、フセワロード・オフチンニコフが 一枝の桜―日本人とはなにか (中公文庫) で日本人の美意識として指摘する自然らしさが美しさだという感覚などが、国家的な一体感へと人々を取り込んでいく政治の修辞学。(戦争は嫌だと思うのは自然な感情だと、もしかして思っていはしませんか?)
紀貫之が演出したのは洗練された美の対象としての桜のイメージで、それは貴族社会の雰囲気を反映していたでしょう。日本語を話す人間のうち、歌をたしなむ者は少数だろう(貴族社会に帰属しない人々は、相変わらず万葉以前の呪的な宇宙観の中にいたのかも)。
にもかかわらず本書の主眼は歌の解釈と鑑賞に置かれているようです。
著者は歌が好き過ぎるのでしょうが、イデオロギーどうのこうで何かの道具に歌を使っているわけではない(でも参考文献には柄谷や丸山らの面々が)。
「美の通貨」などという喚起力に富んだ語を使いながらも、たとえば柄谷行人が 遊動論 柳田国男と山人 (文春新書) で、中央の体制に回収されない交換様式の可能性を、さながら未知の素粒子を予言する理論物理学者のような手さばきで示してみせた、ああした迫力が本書には感じられない。それはおそらく著者が「いとをかし」的スタンスを保とうとしているためでしょう。
著者のそのスタンスは本書の魅力でもあり、古代から現代までの多くの歌を読み解いてくれているのはそれなりに嬉しい。
でも議論としての迫力は感じない。
ああ二律背反(^_^;)
2015年12月20日に日本でレビュー済み
先ず最初に、本書のサブタイトルが「欲望が生んだ文化装置」である点に注目して欲しい。
かつて「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」との謎めいた言葉で多くの受験生達を悩ませた一人の意地悪そうな文芸評論家がいた。
小林秀雄である。だがよくよく考えてみれば、小林の言葉も実際には兼好や本居宣長の言葉を誤読した可能性も多分にありうる。
後年に橋本治が「小林秀雄の恵み」との一言で、物ごとの前提を疑えとの教示を受けたというが、実際には小林そのものが兼好や宣長のハリボテを被った似非カリスマであることも見抜いている。
花が美しいかどうかは感じる人それぞれの感性によっても左右される部分が多く、本当に美しいとは言えるのだろうかとの根源的な問題に立ち返り、本書はそれを日本文学史の中で調べてみようと試みる。
京都の東福寺は境内に桜の樹木が1本もないことで知られる。桜の花にうつつを抜かしているようでは修行の妨げになるとの単純明快な理由からである。軒を接する隣は「御寺(みてら)」と呼ばれる泉涌寺の甍であり、歴代天皇の廟所でもある。
話は少し横道に逸れたが、問題の中心は「『シンボル』としての花」をどう観るかとの点にある。もし「花=桜」であるならば、それはいつ誰が何の意図の下にシンボライズし始めたかとの問題になる。
最初の歌論書『近代秀歌』を著し「美の鬼」「歌聖」と呼ばれる定家の作にも「桜」は梅や紅葉に比べれば数えるほどの数しか詠まれず、そこであらためてなぜ「花=桜」との条件反射的に反応してしまうのかとの危うさを著者は最も警戒する。
「花は盛りに 月は隈なきをみるものかは」といった兼好の言葉が果たして本当に桜の花であると断定できるだけの根拠がどこにあるのかと問えば、殆どの国語教諭は取り乱し逃げ出してしまうかもしれない。それは小林も同じことである。
定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」との作にある「花」を桜と断ずることに疑問の余地はないのだろうか。それは歌一首中に2つの季節を同居させるとの不自然さであり、紅葉との秋を表す言葉を用いつつ態々と丁寧に秋と但し書きをする点に表れてもいる。そして人のいない秋の浜辺に桜の木があるとの不自然さ、もしかしたらここにある「花」は桜ではなくハマヒルガオや夕顔だったのかもしない。そうした可能性すら浮かんでもくる。
宣長は自作の例の歌「敷島のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」に関して、これはあくまでも俺の理解の仕方だよと開き直っただけであり、「花=桜」との定式化など一つも説明してはいない。
小林はそうした「桜に関する来歴」を説明できず、まんまと宣長の罠に嵌ってしまう。それは宣長を対象としつつも実際は信仰レベルに近いともいえるのめり込みにも等しい。
兼好に対する冷静で客観的な眼差しとはまるで逆のベクトルを示し、緻密な論理構成に基づいていると説明される小林の文章も実際には自己相対化との作業を経ない点では、同時代に生きた丸山眞男とは対称をなす。
本書はそうした経緯に関して4人の人物を登場させ、それは西行・定家・世阿弥・芭蕉である。宣長の美意識が原点回帰、過去に対するリスペクトやオマージュにあるなら、同じく和歌を詠みそして能を演じた彼等を洞察の対象としなかったのはなぜかとの疑問が残る。芭蕉は西行の足跡を求め流離い、世阿弥は西行桜を舞った。
古今集仮名序の冒頭は「やまと歌は」で始まる。、なぜ態々と「『やまと』歌」としている点を除外して、「日本(=やまと)」との権威付けをするために遙か以前の古事記的世界観や『源氏物語』を自説を検証するための材料に選んだのかとの説明を宣長も小林もできてはいない。それは説明できないからとの単純な理由からでしかない。
最初の問題に立ち返るなら、「桜」はあくまでも後世に作られた教化のための「文化装置」であるとの論旨を踏まえるなら、現在のはしゃいだ「日本礼賛論」やそれを下支えする風潮が如何に危うくそして上滑りしたものであるかを検証する材料となることも確かである。
かつて「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」との謎めいた言葉で多くの受験生達を悩ませた一人の意地悪そうな文芸評論家がいた。
小林秀雄である。だがよくよく考えてみれば、小林の言葉も実際には兼好や本居宣長の言葉を誤読した可能性も多分にありうる。
後年に橋本治が「小林秀雄の恵み」との一言で、物ごとの前提を疑えとの教示を受けたというが、実際には小林そのものが兼好や宣長のハリボテを被った似非カリスマであることも見抜いている。
花が美しいかどうかは感じる人それぞれの感性によっても左右される部分が多く、本当に美しいとは言えるのだろうかとの根源的な問題に立ち返り、本書はそれを日本文学史の中で調べてみようと試みる。
京都の東福寺は境内に桜の樹木が1本もないことで知られる。桜の花にうつつを抜かしているようでは修行の妨げになるとの単純明快な理由からである。軒を接する隣は「御寺(みてら)」と呼ばれる泉涌寺の甍であり、歴代天皇の廟所でもある。
話は少し横道に逸れたが、問題の中心は「『シンボル』としての花」をどう観るかとの点にある。もし「花=桜」であるならば、それはいつ誰が何の意図の下にシンボライズし始めたかとの問題になる。
最初の歌論書『近代秀歌』を著し「美の鬼」「歌聖」と呼ばれる定家の作にも「桜」は梅や紅葉に比べれば数えるほどの数しか詠まれず、そこであらためてなぜ「花=桜」との条件反射的に反応してしまうのかとの危うさを著者は最も警戒する。
「花は盛りに 月は隈なきをみるものかは」といった兼好の言葉が果たして本当に桜の花であると断定できるだけの根拠がどこにあるのかと問えば、殆どの国語教諭は取り乱し逃げ出してしまうかもしれない。それは小林も同じことである。
定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」との作にある「花」を桜と断ずることに疑問の余地はないのだろうか。それは歌一首中に2つの季節を同居させるとの不自然さであり、紅葉との秋を表す言葉を用いつつ態々と丁寧に秋と但し書きをする点に表れてもいる。そして人のいない秋の浜辺に桜の木があるとの不自然さ、もしかしたらここにある「花」は桜ではなくハマヒルガオや夕顔だったのかもしない。そうした可能性すら浮かんでもくる。
宣長は自作の例の歌「敷島のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」に関して、これはあくまでも俺の理解の仕方だよと開き直っただけであり、「花=桜」との定式化など一つも説明してはいない。
小林はそうした「桜に関する来歴」を説明できず、まんまと宣長の罠に嵌ってしまう。それは宣長を対象としつつも実際は信仰レベルに近いともいえるのめり込みにも等しい。
兼好に対する冷静で客観的な眼差しとはまるで逆のベクトルを示し、緻密な論理構成に基づいていると説明される小林の文章も実際には自己相対化との作業を経ない点では、同時代に生きた丸山眞男とは対称をなす。
本書はそうした経緯に関して4人の人物を登場させ、それは西行・定家・世阿弥・芭蕉である。宣長の美意識が原点回帰、過去に対するリスペクトやオマージュにあるなら、同じく和歌を詠みそして能を演じた彼等を洞察の対象としなかったのはなぜかとの疑問が残る。芭蕉は西行の足跡を求め流離い、世阿弥は西行桜を舞った。
古今集仮名序の冒頭は「やまと歌は」で始まる。、なぜ態々と「『やまと』歌」としている点を除外して、「日本(=やまと)」との権威付けをするために遙か以前の古事記的世界観や『源氏物語』を自説を検証するための材料に選んだのかとの説明を宣長も小林もできてはいない。それは説明できないからとの単純な理由からでしかない。
最初の問題に立ち返るなら、「桜」はあくまでも後世に作られた教化のための「文化装置」であるとの論旨を踏まえるなら、現在のはしゃいだ「日本礼賛論」やそれを下支えする風潮が如何に危うくそして上滑りしたものであるかを検証する材料となることも確かである。
2015年3月6日に日本でレビュー済み
桜の文化は、「古今集」によって創造されました。「万葉集」は、梅です。
さくら花ちりぬるかぜのなごりには水なきそらに浪ぞたちける 紀貫之
花の散った後の残像の美を見事に描いた彫刻のような美しい表現です。
春はただわが宿にのみ梅咲かばかれにし人も見にときなまし 和泉式部
梅のように長く咲き匂う生命感こそが、和泉式部の歌にはふさわしいものです。
青葉さえみれば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば 西行
実に尋常でない西行の花狂いです。花によって西行の心が身から憧れ出てしまいます。
和歌は、王権を中心とする共同体と唱和する歌であり、核となる記号が桜でした。
和歌でなく短歌となった近代の歌は、自我を表現する詩となり、
桜の歌も特権的な地位を失ってしまいました。
古代の万葉集から、現代の桜ソングまで、「桜は本当に美しいのか?」
という問いに結論は得られせんでしたが、桜を歌わずにはいられない
日本の心に少し触れることができました。
さくら花ちりぬるかぜのなごりには水なきそらに浪ぞたちける 紀貫之
花の散った後の残像の美を見事に描いた彫刻のような美しい表現です。
春はただわが宿にのみ梅咲かばかれにし人も見にときなまし 和泉式部
梅のように長く咲き匂う生命感こそが、和泉式部の歌にはふさわしいものです。
青葉さえみれば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば 西行
実に尋常でない西行の花狂いです。花によって西行の心が身から憧れ出てしまいます。
和歌は、王権を中心とする共同体と唱和する歌であり、核となる記号が桜でした。
和歌でなく短歌となった近代の歌は、自我を表現する詩となり、
桜の歌も特権的な地位を失ってしまいました。
古代の万葉集から、現代の桜ソングまで、「桜は本当に美しいのか?」
という問いに結論は得られせんでしたが、桜を歌わずにはいられない
日本の心に少し触れることができました。
2016年6月29日に日本でレビュー済み
私は思春期のころから、桜はなんて自分勝手な枝ぶりをする木なんだろうと疎ましく感じてきました。後に造園家が「桜は暴れ木です」と語っているのを聞き、お行儀の良い木と悪い木があるんだと納得しました。自分勝手に枝を伸ばし、これでもかと花を咲かせ、散らかし放題に命を散らす。なんと暴力的な木でしょう。桜の素性をあがめることで、暴力の災禍を封じ込める意識を和歌に感じました。