原著出版から23年、日本での完訳版出版から11年が過ぎた。著者の言う危険社会は、現代でも地球温暖化などの状況下で古びた主張とはなっていない。科学技術が、多様で大規模で深刻な(に思える)危険を過剰に作り出した。科学の不信が生まれると同時に、一方では対処のため科学が求められる。が、科学はそれに答えきれず、諸説は真理と見極められず、科学とは対極であるはずの政治が仲裁に出てくる。それは、今もほぼその通りだ。危機の深まりはあっても、著者の主張の範囲内で社会はこの20年以上質的に変わらなかった。その意味で、著者の主張に目から鱗の斬新さが、今感じられるわけではない。
斬新さはむしろ第二部、「個人化」された社会で個人に押し寄せる危険を述べた部分にある。近代産業社会は階級対立を克服するため福祉国家化したが、この過程で内封していた別の矛盾を解き放った。女性の労働市場への参入や教育の大衆化は、科学技術のもたらした生産性向上とともに労働力の恒常的過剰・大量失業の常態化を生み出した。これが雇用の不安定化や家族の危機を招き、個人が労働の場(職場)でも生活の場(家族)でも孤立していく。人は職場や家族というかつては共同的・歴史的な認識を得られた場を失い、孤独で非歴史的な存在となる。そこでは個人が自己責任による選択を迫られるが、そもそもそれはシステムの不良から発生したもので個人の選択などではどうにもならない。個人はストレスを抱え込み、社会的な危機が社会的に解決されることなく、個人の病気を作り出す。
派遣切りや子供の虐待など、現在の日本で切実さを増す事象に至るまでの情況変動を、ベックは1980年代半ばのドイツで正確に押さえていた。現実はベックの指摘通りに20年以上進み、今に至った。これは驚くべきことだが、悲しみももたらす。こうして、この書は今も読まれるべき生命を灯す。ただし、一つの、しかも小さくない弱点は、「『単純かつ明快』とはほど遠い論旨の運びとレトリック」(訳者あとがき記)で叙述された大部の書物であることだ。読み通し、納得いく程度の理解を得るには、ある程度の時間を覚悟すべきかもしれない。
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危険社会: 新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス 609) 単行本 – 1998/10/1
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チェルノブイリ原発事故やダイオキシン問題など、致命的な環境破壊をもたらす可能性のある現代の危険(リスク)と、それを生み出し増大させる社会のメカニズムを追究した現代社会学の基礎文献。科学と政治のあり方を問い直し、今日のエコロジー運動の展開にも多大に貢献したウルリヒ・ベック(1944~2015)による世界的ベストセラー。
- ISBN-104588006096
- ISBN-13978-4588006098
- 出版社法政大学出版局
- 発売日1998/10/1
- 言語日本語
- 本の長さ502ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
チェルノブイリ原発事故やダイオキシンなど、致命的な環境破壊をもたらす可能性のある現代の危険とそれを生み出し増大させる社会の仕組みとかかわりを追究。科学と政治のあり方から「危険」のメカニズムを分析する。改訳再刊。
著者について
1944年生まれの現代ドイツの社会学者。ミュンヘン大学で社会学、政治学、心理学、哲学を学ぶ。1979年から92年までミュンスター大学、バンベルク大学教授を歴任し、92年以降現在にいたるまでミュンヘン大学社会学部教授をつとめている。雑誌〈Soziale Welt〉の主任編集者でもある。本書『危険社会』はチェルノブイリ原発事故発生と同年に刊行され、大好評を博してベストセラーにもなった。
1949年生まれる。東京大学教養学部教養学科卒業。三重大学人文学部教授。著書:『緑と人の触れあう市民農園』(家の光協会)。訳書:『図説大百科 世界の地理12』(朝倉書店)。
1965年生まれる。文学博士(早稲田大学大学院文学研究科)。大妻女子大学教授。著書:『共同の時間と自分の時間』(文化書房博文社)、『現代人と時間』(学文社)。
1949年生まれる。東京大学教養学部教養学科卒業。三重大学人文学部教授。著書:『緑と人の触れあう市民農園』(家の光協会)。訳書:『図説大百科 世界の地理12』(朝倉書店)。
1965年生まれる。文学博士(早稲田大学大学院文学研究科)。大妻女子大学教授。著書:『共同の時間と自分の時間』(文化書房博文社)、『現代人と時間』(学文社)。
登録情報
- 出版社 : 法政大学出版局 (1998/10/1)
- 発売日 : 1998/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 502ページ
- ISBN-10 : 4588006096
- ISBN-13 : 978-4588006098
- Amazon 売れ筋ランキング: - 184,702位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,163位社会一般関連書籍
- - 3,060位その他の思想・社会の本
- - 3,437位社会学概論
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2009年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2015年3月31日に日本でレビュー済み
私たちが何気にしていること、なじんでいる生活様式が、自然と環境に思わぬ危険を与えていることを気付かせる。
2009年6月4日に日本でレビュー済み
本書において意味される「危険」とは、「歴史の産物であり、人間の行動や不作為を
反映したものであり、高度に発達した生産力の表れである」。
例えば、チェルノブイリが告げた原子力の「危険」、光化学スモッグや酸性雨の「危険」。
今日ならばさながら温暖化の「危険」といったところだろうか(とりあえず、エコエコ詐欺には
気づかないふりを決め込もう)。
高度に成熟した産業社会、消費社会の果て、ポストモダンとして、著者ベックが
指摘するのは、技術と自然のしっぺ返しとでも呼ぶべき「危険社会」の到来であった。
もっとも、本書の論点は単に環境問題への啓発に留まらない。
こうした「危険」は例えば政治や国家モデルのありよう、あるいは倫理の姿をも
変えてしまう、そうベックは論じる。
人によって本書をプロ市民のすすめとでも読むことがあるかもしれない。
整然とまとまったテキストとはお世辞にも称し難いものでは確かにあるが、かといって
本書における豊富な示唆は今日でもなおも有効。
例えば「危険は階級の図式を破壊するブーメラン効果を内包している」との議論。
私個人としての好悪はさておき、戦争によって危険の共有を求めるほかに道はなしとする
赤木智弘 氏の議論なども案外本書の射程なのかもしれない。
反映したものであり、高度に発達した生産力の表れである」。
例えば、チェルノブイリが告げた原子力の「危険」、光化学スモッグや酸性雨の「危険」。
今日ならばさながら温暖化の「危険」といったところだろうか(とりあえず、エコエコ詐欺には
気づかないふりを決め込もう)。
高度に成熟した産業社会、消費社会の果て、ポストモダンとして、著者ベックが
指摘するのは、技術と自然のしっぺ返しとでも呼ぶべき「危険社会」の到来であった。
もっとも、本書の論点は単に環境問題への啓発に留まらない。
こうした「危険」は例えば政治や国家モデルのありよう、あるいは倫理の姿をも
変えてしまう、そうベックは論じる。
人によって本書をプロ市民のすすめとでも読むことがあるかもしれない。
整然とまとまったテキストとはお世辞にも称し難いものでは確かにあるが、かといって
本書における豊富な示唆は今日でもなおも有効。
例えば「危険は階級の図式を破壊するブーメラン効果を内包している」との議論。
私個人としての好悪はさておき、戦争によって危険の共有を求めるほかに道はなしとする
赤木智弘 氏の議論なども案外本書の射程なのかもしれない。
2008年11月7日に日本でレビュー済み
現在の社会において『危険』がいまや非常に重要な地位を占めるにいたったことを論証し、その対策を模索する本。
環境問題などでよく引かれている本でもある。
産業社会では富の分配が大きな問題となったが、現代は富に代わって危険の分配が大きな問題となってきた。
しかもそれは、目に見えないものであり、知識においてのみ把握されるものだ。
それゆえ、危険は矮小化され見過ごされてしまう。
科学を楯にとって、危険は実証可能なもののみとなり、それでさえ小さく扱われる。
現在の政治は、民主主義的決定が主軸を奪われ、民主的決定以外の部分が政治を決めるようになってきている。
それが市場であり、科学である。
社会では個人化が進み、市場において不平等な競争にさらされ、市場構造に由来する部分についても損害は「自己責任」とされてしまう。
科学技術の進歩もまた、政治の手を離れて進んでおり、試験管ベービーが作られうる状況にまで達している。
・・・と要約してみても思うのだが、本書は多くのことを詰め込みすぎて散漫になっている気がする。
内容的にいえば、環境の問題、個人化とサブ政治の問題、は別々の本で論じるべきだったように思われる。
『危険』というだけでつながっており、全体の論旨がつかみにくくなってしまった。
そこに星一つ減点するが、内容の先見性には驚かされるし、筆者の論への賛否にかかわらず目を通しておくべき本だと思う。
環境問題などでよく引かれている本でもある。
産業社会では富の分配が大きな問題となったが、現代は富に代わって危険の分配が大きな問題となってきた。
しかもそれは、目に見えないものであり、知識においてのみ把握されるものだ。
それゆえ、危険は矮小化され見過ごされてしまう。
科学を楯にとって、危険は実証可能なもののみとなり、それでさえ小さく扱われる。
現在の政治は、民主主義的決定が主軸を奪われ、民主的決定以外の部分が政治を決めるようになってきている。
それが市場であり、科学である。
社会では個人化が進み、市場において不平等な競争にさらされ、市場構造に由来する部分についても損害は「自己責任」とされてしまう。
科学技術の進歩もまた、政治の手を離れて進んでおり、試験管ベービーが作られうる状況にまで達している。
・・・と要約してみても思うのだが、本書は多くのことを詰め込みすぎて散漫になっている気がする。
内容的にいえば、環境の問題、個人化とサブ政治の問題、は別々の本で論じるべきだったように思われる。
『危険』というだけでつながっており、全体の論旨がつかみにくくなってしまった。
そこに星一つ減点するが、内容の先見性には驚かされるし、筆者の論への賛否にかかわらず目を通しておくべき本だと思う。
2011年3月27日に日本でレビュー済み
本書は、近代を鋭く分析したものである。原著の刊行年は1986年であるが、今でもその理論は古びていない。まず、本書のタイトルとなっている危険のことであるが、それはリスクのことである。つまり、行為(近代化)に伴って起こるネガティブな結果である。ベックによると、近代はその進展とともに、富の増大や技術革新を生むだけではなく、その意図せざる結果としてリスクを生み出してしまうのである。リスクの特徴は、知覚できない、制御できない、破滅的な破壊力を持ち、あらゆる概念を喪失させるというものである。ベックは近代を二分する。第一の近代(産業社会)と第二の近代(リスク社会)に。リスクの発生によって、到来するのがリスク社会(第二の近代)である。リスクが発生するのは、普遍的な近代の概念と半面的にしか近代化がおこなわれていない実際の制度体の機能との食い違いがあるからである。そこで、ベックは、近代化を徹底させることによって、リスクを克服できるとする。
この理論を現実に照らし合わすなら、原子力発電所(環境問題やテロや金融リスク等もあるが)を例に挙げればわかりやすいかもしれない。近代化の進展とともに、人類は、CO2を出さない、環境にやさしい、低コストで、安定して電力供給を行うことができる原子力発電を生み出した。しかし、チェルノブイリ原発事故、スリーマイル原発事故、福島原発事故などからわかるように、時として、それは、人間の命を一斉に奪ってしまうものに変わってしまうのである。現代はこうしたリスクが蔓延しており、まさにリスク社会なのである。
本書の構成は、こうである。第一部、リスクの社会学。第二部、個人化。第三部、科学論と政治。ベックの提示する処方箋(リスクに対しての)には疑問が残る個所もある。しかし、1986年にこれだけの分析をやってのけるのはすごいし、今の時代認識を改めるには、すぐれた一冊だと思う。
この理論を現実に照らし合わすなら、原子力発電所(環境問題やテロや金融リスク等もあるが)を例に挙げればわかりやすいかもしれない。近代化の進展とともに、人類は、CO2を出さない、環境にやさしい、低コストで、安定して電力供給を行うことができる原子力発電を生み出した。しかし、チェルノブイリ原発事故、スリーマイル原発事故、福島原発事故などからわかるように、時として、それは、人間の命を一斉に奪ってしまうものに変わってしまうのである。現代はこうしたリスクが蔓延しており、まさにリスク社会なのである。
本書の構成は、こうである。第一部、リスクの社会学。第二部、個人化。第三部、科学論と政治。ベックの提示する処方箋(リスクに対しての)には疑問が残る個所もある。しかし、1986年にこれだけの分析をやってのけるのはすごいし、今の時代認識を改めるには、すぐれた一冊だと思う。
2009年10月12日に日本でレビュー済み
別のレビュアーさまも書いていた通り、本書の内容は一見して散漫である。
思うに、「リスク」という概念は、ベックの議論の中でポスト・モダン論の一角を担うものでしかないのだろう。
その「リスク」という切り口で近代西欧(=資本主義・民主主義・個人主義・科学主義)社会を切ったのが本書である。
その後の著作より、ベックの本来の主張は「個人化」を切り口としたポスト・モダンについての議論であると思われる。
その意味で、本書はベックの「個人化」についての議論のスタート地点としても、参照されるべきであろう。
思うに、「リスク」という概念は、ベックの議論の中でポスト・モダン論の一角を担うものでしかないのだろう。
その「リスク」という切り口で近代西欧(=資本主義・民主主義・個人主義・科学主義)社会を切ったのが本書である。
その後の著作より、ベックの本来の主張は「個人化」を切り口としたポスト・モダンについての議論であると思われる。
その意味で、本書はベックの「個人化」についての議論のスタート地点としても、参照されるべきであろう。
2007年7月11日に日本でレビュー済み
原作は、86年に出されたものです。「脱伝統化」し、科学と政治の新たなあり方が迫られている、今日の産業社会を洞察した作品として、大きな価値をもち続けていると思います。
階級・階層の形成について、カール・マルクスとマックス・ウェーバーの見解をとりあげ、実社会において「社会的不平等」がどのような変貌をとげているのか、論証しています。460ページで、読みごたえがあります。
権力を選ぶ意味での政治よりも、大衆が検証・学習し新しい生活スタイルを発展させる「サブ政治」の役割が中心になっていること、男女平等に伴う孤独が深まっていくこと、科学の性質が真理と啓蒙から離れ自己内省をしていくことなど、20年過ぎた現在を、よく見通していることに感銘しました。
階級・階層の形成について、カール・マルクスとマックス・ウェーバーの見解をとりあげ、実社会において「社会的不平等」がどのような変貌をとげているのか、論証しています。460ページで、読みごたえがあります。
権力を選ぶ意味での政治よりも、大衆が検証・学習し新しい生活スタイルを発展させる「サブ政治」の役割が中心になっていること、男女平等に伴う孤独が深まっていくこと、科学の性質が真理と啓蒙から離れ自己内省をしていくことなど、20年過ぎた現在を、よく見通していることに感銘しました。