デリダは法権力影に必ず、暴力=力による制裁を背後に見据えている。正義を見出すレヴィナスと対立する点である。レヴィナスは律法「トーラー」の背後に”神”=絶対の概念を持ち出すが、却ってそれが脅威では、とデリダは指摘する。
民主主義国家であっても、法/権力の暴力性は代わりはしない。代議制の裏側に戦争を孕み、また死刑制度も含有している。自然法に反しようとも、法は暴威、を発揮する、むしろ神話=神の概念を背後に持ったときに更なる脅威を振るう。ポピュリズムとして、ナチズムは法として、暴挙を成したのだ。
更にデリダはベンヤミンの言質を借りて、法体制化の警察の脅威も指弾する。警察は法を守る万人の役割を果たすのみならず。法を自ら作り出すものであると…。
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法の力 (叢書・ウニベルシタス 651) 単行本 – 1999/12/1
- 本の長さ226ページ
- 言語日本語
- 出版社法政大学出版局
- 発売日1999/12/1
- ISBN-104588006517
- ISBN-13978-4588006517
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
脱構築と政治や倫理や法とはどのように結びつくのか。「正義」という政治的・倫理的・法的な価値と、脱構築との関係を表明し、脱構築がまさしく政治的な意味をもつものであると宣言する。89年と90年の講演をもとに構成。
登録情報
- 出版社 : 法政大学出版局 (1999/12/1)
- 発売日 : 1999/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 226ページ
- ISBN-10 : 4588006517
- ISBN-13 : 978-4588006517
- Amazon 売れ筋ランキング: - 806,522位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 617位フランス・オランダの思想
- - 1,176位法学
- - 1,509位西洋哲学入門
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2021年11月5日に日本でレビュー済み
基本、マルクス主義政治文化の延命というテーマの中で正義という言葉を転がしている。大きく西欧が追ってきたユダヤ教、キリスト教、マルクス主義の系列と、神学、哲学の系列をもう少し引き伸ばしたいというデリダの強い意思が、修道士の祈りのように虚しく響いている。哲学の教師以外には意味がないだろう。
2008年3月3日に日本でレビュー済み
まず曖昧な叙述が多い。狙っているのかもしれないが、全体に詩的であり、複数の解釈が可能な部分が多い。
これでもデリダの中では論理的でわかりやすい部類らしいから、他の著作は一体・・・
わかりにくいなりにも読んで考えたこと。
まず、デリダが前提としているのは、「はるか彼方にあって知り得ないものだが、唯一絶対の正義の存在」である。しかし、そのようなものが存在すると安易に信じることはとても出来ない。そして、「知りえないけれども、存在する正義」を、第三のアポリアが提示するように「今ここ」で決断して行動せねばならないならば、結局のところ、自分の信じる正義をただひたすら押し進めるだけの独善主義になってしまう。デリダは注意深くも独善ではいけないと釘を刺しているが、現実においては独善とならざるを得ない。よって、こうした「正義」を前提としてすすめていくデリダの議論には、その前提部分から疑問を禁じえないし、したがって信ずることも出来ない。
また、デリダは正義を一般的でない個別的なものとしているようだが、個別的ということは「等しいものには等しく」という自明の定率も成立しないということであり、同等の状態に対して差別的な取り扱いを認めてしまう。これは独善どころかエゴイズムの領域へと転落するし、これが正義だとは、少なくとも通常の感覚では受け入れがたい。
デリダの言う「他者」というのは、もちろん一般的な意味での「ほかの人」ではなく、もっと抽象的な何かを指し示している。けれども、厳密に定義づけるのは無理そうなので、ここでは大雑把に「外界にある漠然としたほかの何か」としておく。さて、他者への応答とデリダは言うけれども、他者に対して何らかのアクション(無視でも拒絶でも)を取っているならば、それはすべて応答と見なすことが出来るので、応答の義務以前に最初から応答自体はなされている。そして正義が何かは知りえないものである以上、その応答が正義か不正義かの問いは無意味である。
第一のアポリアは「自由」という語を、全か無かで解釈している点に問題があると思われる。正義は「完全に不自由ではない」状況で成される一方、決断は「完全に自由ではない」状況で成される。この2つには大きな隙間があるため、この間において決断が成されていると考えればアポリアは解決する。
これでもデリダの中では論理的でわかりやすい部類らしいから、他の著作は一体・・・
わかりにくいなりにも読んで考えたこと。
まず、デリダが前提としているのは、「はるか彼方にあって知り得ないものだが、唯一絶対の正義の存在」である。しかし、そのようなものが存在すると安易に信じることはとても出来ない。そして、「知りえないけれども、存在する正義」を、第三のアポリアが提示するように「今ここ」で決断して行動せねばならないならば、結局のところ、自分の信じる正義をただひたすら押し進めるだけの独善主義になってしまう。デリダは注意深くも独善ではいけないと釘を刺しているが、現実においては独善とならざるを得ない。よって、こうした「正義」を前提としてすすめていくデリダの議論には、その前提部分から疑問を禁じえないし、したがって信ずることも出来ない。
また、デリダは正義を一般的でない個別的なものとしているようだが、個別的ということは「等しいものには等しく」という自明の定率も成立しないということであり、同等の状態に対して差別的な取り扱いを認めてしまう。これは独善どころかエゴイズムの領域へと転落するし、これが正義だとは、少なくとも通常の感覚では受け入れがたい。
デリダの言う「他者」というのは、もちろん一般的な意味での「ほかの人」ではなく、もっと抽象的な何かを指し示している。けれども、厳密に定義づけるのは無理そうなので、ここでは大雑把に「外界にある漠然としたほかの何か」としておく。さて、他者への応答とデリダは言うけれども、他者に対して何らかのアクション(無視でも拒絶でも)を取っているならば、それはすべて応答と見なすことが出来るので、応答の義務以前に最初から応答自体はなされている。そして正義が何かは知りえないものである以上、その応答が正義か不正義かの問いは無意味である。
第一のアポリアは「自由」という語を、全か無かで解釈している点に問題があると思われる。正義は「完全に不自由ではない」状況で成される一方、決断は「完全に自由ではない」状況で成される。この2つには大きな隙間があるため、この間において決断が成されていると考えればアポリアは解決する。