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落語と私 単行本 – 2005/11/2
桂 米朝
(著)
- 本の長さ231ページ
- 言語日本語
- 出版社ポプラ社
- 発売日2005/11/2
- ISBN-104591089673
- ISBN-13978-4591089675
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登録情報
- 出版社 : ポプラ社 (2005/11/2)
- 発売日 : 2005/11/2
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 231ページ
- ISBN-10 : 4591089673
- ISBN-13 : 978-4591089675
- Amazon 売れ筋ランキング: - 482,715位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 562位落語・寄席・演芸 (本)
- - 2,608位演劇 (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年11月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
学生の頃、初版本の上製本を購入し、読後卒業時にクラブに寄贈し手元に残っていなかった本が、再び手に取ることができました。
2020年7月5日に日本でレビュー済み
本書初版の刊行の年(1975年、昭和50年)に中学三年生だった私は、桂米朝師匠の落語(「はてなの茶碗」「高津の富籤」など)を上方落語の地元で何度も耳にしていた。端正で知的な語り口、ええとこの旦那はんみたいなはんなりした品のある口調には、ちょっとも真似でけへん余人を超絶した何かがあるように感じられた。
通好みだが口舌が悪うて聴き取りづらい笑福亭松鶴、柔和で歯切れのよい桂小文枝(先代文枝)、艶話に長けた桂春団治に米朝を加えた“上方落語の四天王”は、ラジオやテレビでその存在感を際立たせていた。
やがて後輩連中(笑福亭仁鶴、桂枝雀、桂三枝(のちに文枝)、桂春蝶たち)が台頭し、売れっ子タレントとなった仁鶴と三枝、昭和の爆笑王たる枝雀、淡々とした語り口の春蝶らは次代を担うに相応しい個性派揃いだっただけに、枝雀と春蝶ふたりの早逝は痛手だった。
本書は、巻末に載った小沢昭一の寄稿文どおり「落語論の決定版」として読み継がれてゆくべき「名著」との称賛に付言する何物もない。蛇足になるが、落語は<演じられる>話芸そのもの、演者(噺家、落語家)の力量次第で、登場人物の性格や情景の描写は勿論、オチ(サゲ)さえも、活きたり死んだりする演芸だと改めて教えられた。
「役者」(実演家)兼「監督」(演出家)ときどき「作者」(脚本家)という一人二役、三役の商売ゆえに、稽古修業で才幹や腕前を磨くしかないとの言葉はまさに至言だ。「芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」という大師匠桂米團治の言葉で締め括られる本書は、<至芸>を目指す者の掛け替えのない手引書、バイブル(聖典)に相違ない。
通好みだが口舌が悪うて聴き取りづらい笑福亭松鶴、柔和で歯切れのよい桂小文枝(先代文枝)、艶話に長けた桂春団治に米朝を加えた“上方落語の四天王”は、ラジオやテレビでその存在感を際立たせていた。
やがて後輩連中(笑福亭仁鶴、桂枝雀、桂三枝(のちに文枝)、桂春蝶たち)が台頭し、売れっ子タレントとなった仁鶴と三枝、昭和の爆笑王たる枝雀、淡々とした語り口の春蝶らは次代を担うに相応しい個性派揃いだっただけに、枝雀と春蝶ふたりの早逝は痛手だった。
本書は、巻末に載った小沢昭一の寄稿文どおり「落語論の決定版」として読み継がれてゆくべき「名著」との称賛に付言する何物もない。蛇足になるが、落語は<演じられる>話芸そのもの、演者(噺家、落語家)の力量次第で、登場人物の性格や情景の描写は勿論、オチ(サゲ)さえも、活きたり死んだりする演芸だと改めて教えられた。
「役者」(実演家)兼「監督」(演出家)ときどき「作者」(脚本家)という一人二役、三役の商売ゆえに、稽古修業で才幹や腕前を磨くしかないとの言葉はまさに至言だ。「芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」という大師匠桂米團治の言葉で締め括られる本書は、<至芸>を目指す者の掛け替えのない手引書、バイブル(聖典)に相違ない。
2015年3月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
関西に住みながら、今まで、落語を聞く機会が少なかった。この門を読んで、これからは落語を勉強し、上方落語を聴く時間を作りたい。
2020年5月28日に日本でレビュー済み
世に落語を語った書物は多いですが、妙な評論家の書いたものを総て黙らせる一冊です。なにしろ、書いた人があの桂米朝さんであり、又、その内容が平易な文章でありながら、それこそ実践的、かつ論理的なのですから。
例えば「へたな玄人以上にうまいアマチュアの方がおられますが、ラジオで聞いている分にはよいのですが、目で見た場合、やはり素人だなあと思わせるのは、」(P35)として、次のページでその証拠を説明します。「こんにちわ」ひと言の言い方、演じ分けの説明には、なるほどを思わされます。加えて、その一言に動作を入れた時の場の設定まで考慮するという記述には高座というものを感じます。(P36~P41)「しぐさと視線」という章としてまとめています。
ところが、それを「立体感のつくり方」という次章で、「科白に少し遅れて動作を出す」「甲と乙の対話で、甲がしゃべっている時は、実は乙を描いているのです」(P42~P43)の記述などは、実に新しい驚き、演者ならではの説明です。この様に優れた落語論から、歴史まで満載された読み応えのある一冊で名著と言えるでしょう。
最後の「落語は古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のあるい芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩をならべるのは本当はいけないのだと思います。」(p224)以下の著者の感慨は、誠に感動的とも言えます。落語とはテープで聞いても、テレビで見ても不満足なものであり、直接見て聞いて鑑賞するものと痛感しました。
例えば「へたな玄人以上にうまいアマチュアの方がおられますが、ラジオで聞いている分にはよいのですが、目で見た場合、やはり素人だなあと思わせるのは、」(P35)として、次のページでその証拠を説明します。「こんにちわ」ひと言の言い方、演じ分けの説明には、なるほどを思わされます。加えて、その一言に動作を入れた時の場の設定まで考慮するという記述には高座というものを感じます。(P36~P41)「しぐさと視線」という章としてまとめています。
ところが、それを「立体感のつくり方」という次章で、「科白に少し遅れて動作を出す」「甲と乙の対話で、甲がしゃべっている時は、実は乙を描いているのです」(P42~P43)の記述などは、実に新しい驚き、演者ならではの説明です。この様に優れた落語論から、歴史まで満載された読み応えのある一冊で名著と言えるでしょう。
最後の「落語は古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のあるい芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩をならべるのは本当はいけないのだと思います。」(p224)以下の著者の感慨は、誠に感動的とも言えます。落語とはテープで聞いても、テレビで見ても不満足なものであり、直接見て聞いて鑑賞するものと痛感しました。
2010年8月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
落語が好きで多くの本を読んできたつもりですが、この本だけで十分だと再認識いたします。米朝師匠か書かれたからそう思うのかもしれませんが、落語に興味がある方の入門書としては最高、落語にお詳しい方は、この本と幾多の落語の関係書を読みあわせると、落語がよくわかるような気がするのでは。どちらにしても、気持ちよくよめる本です。
2015年6月14日に日本でレビュー済み
誰もがわかりやすく読める良書ある。著者の落語家として演じる技能の高さは、落語の源流を巡る文献等を探求し、その長年積み重ねてきた先人の努力を深く理解していることが土台になっていると感じた。それにしてもちょっとした仕草や目線の動きで立体の生き生きした世界を描ききる落語という話芸の奥深さには感心させられた。