精神を病んだ元ボクサーが出会ったアル中の美女。彼女の手引きで知己となった元刑事は、元ボクサーに犯罪計画を持ちかける・・・
ファムファタル=運命の女に出会って奈落の底へまっしぐらな、トンプスンらしい泥沼破滅型の作品だ。
女に翻弄され人生が狂っていく王道パターンは、怒りで我を忘れてしまうというぶちキレ寸前の主人公が徐々に主導権を握っていくという点で、他の同様の作品と一線を画している。
トンプスンといえばノワールだが、感傷的なラストはノワール色が薄口な印象だ。もっとも、そもそもノワールって良く分かってはいないのだけれど。
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アフター・ダーク 単行本 – 2001/10/1
「このミス」2001年海外編第1位を獲得した
パルプ・ノワールの帝王が放つ、危険な一冊
かつては一世を風靡したボクサーだったビル・コリンズは、わけあって街から街へ放浪の生活をつづけていた。ふと立ち寄ったバーで、魅力的な未亡人フェイと出会ったことから、危険な運命へ飲みこまれていく。子どもの誘拐という犯罪にかかわらざるをえなくなったビルが、最後に打った一手とは?
パルプ・ノワールの帝王が放つ、危険な一冊
かつては一世を風靡したボクサーだったビル・コリンズは、わけあって街から街へ放浪の生活をつづけていた。ふと立ち寄ったバーで、魅力的な未亡人フェイと出会ったことから、危険な運命へ飲みこまれていく。子どもの誘拐という犯罪にかかわらざるをえなくなったビルが、最後に打った一手とは?
- 本の長さ270ページ
- 言語日本語
- 出版社扶桑社
- 発売日2001/10/1
- ISBN-104594033024
- ISBN-13978-4594033026
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
かつて一世を風靡したボクサーだったビル・コリンズは、今はわけあって街から街へと放浪の生活を続けている。しかし、ふらりと立ち寄ったバーで魅力的な未亡人フェイと出会ってしまったことから、犯罪へ巻き込まれていく…。
登録情報
- 出版社 : 扶桑社 (2001/10/1)
- 発売日 : 2001/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 270ページ
- ISBN-10 : 4594033024
- ISBN-13 : 978-4594033026
- Amazon 売れ筋ランキング: - 168,389位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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2003年1月30日に日本でレビュー済み
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ジム・トンプスンはパルプ・フィクションというよう安手の三流犯罪小説の作家でありながら、その実、天才的な暗黒小説の作家としてアメリカの正統派ハードボイルドよりとしてではなくノワール生誕の国フランスで評価された作家だと言う。パルプ・ノワールという言葉が現在では適切かもしれない。
『死ぬほどいい女』や『残酷な夜』のラスト・シーンは通常の小説としてみれば、断裂があり破綻があり、あまりにも前衛的であり、読者をある意味で無視しきっているように見える。
実はトンプスンはその破綻・前衛によって、実のところB級パルプ・フィクションという位置ににとどまらず、現在のノワール研究の格好の材料として取り上げられることが多いのだが、本書は彼の一連の作品の中でも最も大人く自己完結しており、安定した足場に着地している作品であるとも言われる。一方では、まあそう見えるだけであって、実際には一人称小説の罠であり、あくまで脳内心理小説だという評論家も当然いる。
トンプスンの作品は一人称か、極めて一人称に近い三人称で語られるゆえに、その独白自体に込められた嘘、装飾なしには、語れない。そのまま二次元的に読んでいたら絶対に手の届かない奥行きを持った作家なのだと思う。常に語り手を疑い、主人公の行動に懐疑的に接していないと、最後には足元を掬われる。本書はそういう意味でもあまり途方に暮れることのない結末が用意されているし、バイオレンスや破滅の度合は最低限であるように見える。
自己否定の極致のような語り手が目的を遂げるまでの小説であるようにも読めるが、一方で超のつくほどのエゴイストが、現世の規律の下では生き続けることができずに二つ折り三つ折りくらいに折り畳まれた自我を持て余しているようにも見える。
運命の女(ファンム・ファタール)と言われる女が、トンプスンの作品には必ずといっていいほど登場する。さまざまな毒の要素を持った彼女らの中でもとりわけ破滅的なヒロインが本書のフェイだろう。女はトンプスン作品の場合主人公を脅かす、あるいは裏切る存在であることが多いのだが、本書のフェイは会話と中身とがズレている。彼女の奔放な表現が生き方の枷となり、ウイスキーが人生を食い荒らしている。
男女の内部的な二つの破滅が絡まり合って、幼児誘拐事件という隘路に突入し、あとは奔流に流されてゆく。神経に触れそうなくらい敏感な小説である、と思う。それでも確かにトンプスンの作品群の中では極めて落ち着きのある作品であることに変わりはない。
『死ぬほどいい女』や『残酷な夜』のラスト・シーンは通常の小説としてみれば、断裂があり破綻があり、あまりにも前衛的であり、読者をある意味で無視しきっているように見える。
実はトンプスンはその破綻・前衛によって、実のところB級パルプ・フィクションという位置ににとどまらず、現在のノワール研究の格好の材料として取り上げられることが多いのだが、本書は彼の一連の作品の中でも最も大人く自己完結しており、安定した足場に着地している作品であるとも言われる。一方では、まあそう見えるだけであって、実際には一人称小説の罠であり、あくまで脳内心理小説だという評論家も当然いる。
トンプスンの作品は一人称か、極めて一人称に近い三人称で語られるゆえに、その独白自体に込められた嘘、装飾なしには、語れない。そのまま二次元的に読んでいたら絶対に手の届かない奥行きを持った作家なのだと思う。常に語り手を疑い、主人公の行動に懐疑的に接していないと、最後には足元を掬われる。本書はそういう意味でもあまり途方に暮れることのない結末が用意されているし、バイオレンスや破滅の度合は最低限であるように見える。
自己否定の極致のような語り手が目的を遂げるまでの小説であるようにも読めるが、一方で超のつくほどのエゴイストが、現世の規律の下では生き続けることができずに二つ折り三つ折りくらいに折り畳まれた自我を持て余しているようにも見える。
運命の女(ファンム・ファタール)と言われる女が、トンプスンの作品には必ずといっていいほど登場する。さまざまな毒の要素を持った彼女らの中でもとりわけ破滅的なヒロインが本書のフェイだろう。女はトンプスン作品の場合主人公を脅かす、あるいは裏切る存在であることが多いのだが、本書のフェイは会話と中身とがズレている。彼女の奔放な表現が生き方の枷となり、ウイスキーが人生を食い荒らしている。
男女の内部的な二つの破滅が絡まり合って、幼児誘拐事件という隘路に突入し、あとは奔流に流されてゆく。神経に触れそうなくらい敏感な小説である、と思う。それでも確かにトンプスンの作品群の中では極めて落ち着きのある作品であることに変わりはない。