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二十世紀 単行本 – 2001/1/1
- 本の長さ451ページ
- 言語日本語
- 出版社毎日新聞出版
- 発売日2001/1/1
- ISBN-10462031496X
- ISBN-13978-4620314969
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商品の説明
商品説明
記述は、実感に満ちたきわめて「橋本的」なもの。編年体の構成をとって語られた歴史事象の膨大さや、著者の歴史知識の幅広さにまず驚かされるが、読むうちに強く印象に残るのは、「客観性」という制度化したバイアスをくぐった「史実」に飽き足らず、そこに自分の体験を対峙させていく著者の執拗な手つきである。体温の残る場所から「歴史」を丸ごと語り直そうとする、このある意味で無謀な試みにこそ、本書の真骨頂があるのだと感じる。
「橋本式紀伝体」といってもいいようなこの方法は、50年代以降の記述に至って特に輝きを増す。たとえばプロレスや東京オリンピックを見たときというような、著者の個別の述懐をたどるうちに、個人の記憶が生々しく舞い戻り、それがやがて同時代体験という共同性に浄化するのである。
この体験は、著者とのオピニオンの共有を強制などしない。ただ、自分もまた時代の当事者であるという基本的な認識に我々を導くだけである。「強制」ではなく「共生」を喚起してよしとするこのすぐれて個人的な精神こそ、20世紀が看過して顧みなかったものなのではないだろうか。(今野哲男)
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 毎日新聞出版 (2001/1/1)
- 発売日 : 2001/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 451ページ
- ISBN-10 : 462031496X
- ISBN-13 : 978-4620314969
- Amazon 売れ筋ランキング: - 431,770位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5,729位日本史一般の本
- カスタマーレビュー:
著者について
1948年東京生まれ。東京大学在学中に駒場祭のポスターで話題を集めるが、イラストレーターから小説家に転身。小説・評論・戯曲・古典の現代語訳・エッ セイ・芝居の演出など、ジャンルにとらわれず精力的に活動。『双調平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受けるなど受賞歴多数。小林秀雄賞選考委員(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 桃尻娘 (ISBN-13: 978-4591117552 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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1.二十世紀の主な「出来事」を知りたい
2.二十世紀の主な出来事の起きた「年」を知りたい
3.自分の生まれた年の歴史上の「意味」を知りたい・考えたい(解釈はもちろん橋本流なので、それを踏まえた上で)
4.生まれた年だけでなく、「自分の生きてきた時代の意味」を知りたい・考えたい
5.二十世紀が何者かを理解して、二十一世紀を考えたい
6.1945年以前を、「戦前・戦中」以外の文脈で知りたい
以上のどれか一つでもピンと来たら、購入をお勧めします。手元に置いておくと役に立ちます。特に、6に反応した方、あるいは、日本の現代は何でもかんでも「戦前」と「戦後」で語られてしまうことが多いことに違和感を持っている方にお薦めです。1920年〜1940年を「戦前」で括るのは、あまりにも愚かなことがわかります。また1970年生まれの私は、本書を読んで、1989年(平成元年)の持つ意味を改めて考えさせられました。
この本を読み込むと、ある年と他の年を比較しながら読むことが多々出てきます。文庫版ではなく、こちらの単行本の方が、その意味でお買い得です。
この「二十世紀」も、橋本氏の経験、および思考で読まれた(考えられた)真の「歴史書」の一つであると思います。これまで私が読んできた「歴史」関係の著作の中で感動を覚えた数少ない本の一つです。カーの「歴史とは何か」、野田宣雄先生の著作、と同じくらい感動しました。
野田先生が言われている「歴史の危機」に通じるところもあると思った次第です。野田宣雄氏、養老孟司氏、橋本氏と、「歴史」を真剣に考えておられる方が日本にもおられることを知り、少し安心しました。くだらない「歴史教科書論争」の本などを読まれている方に是非読んで欲しい本の一冊です。
しかしこの本にはその「事件の意味」がきちんと書いてあります
「ああ、そうか、歴史で習ったこの事はこういう意味だったのか」という感想です
20世紀の100年がどのように流れていったのかがわかります。冒頭の「総論・20世紀はなんだったのか」も素晴らしい。
この本は何日かに分けて読まず、まとまった時間を作って1日で一気に読んだ方がいいと思います
第一次大戦も第二次大戦も、十九世紀的な政治の名残だと。
それを言うなら日本の十五年戦争も、いかに終わらせるかを真面目に考えないで「国民政府を対手とせず」なんて言ってしまうからまずかったということでもある。
日本人は特に、ずるずると楽観してしまう性質があるのかもしれない。
この本はそんな風に、歴史的事件を紹介するだけではなく、どういう考えを著者は持つかということを語る。
それほど知られざる事件が出てくるわけではないが、著者の政治経済文化などに関する造詣の深さが窺える。
これこれこういう事件に対して、いったいどういう見方ができるか、どういう予測ができるかということを教えてくれる。
とくに日本が戦後精神的自立を欠き、それがためにアメリカとの関係を巡って議論が空回りするというところは面白かった。
自国の立場に拘泥せず、過剰な正当化や被害者意識を排して歴史を語るのは本当に難しい。誰も自分の国を「醜い」とは思いたくないし、また、たとえ明らかによその国の方に非があると思える場合でも、その国の国民感情を無視してただ非難するというわけにはいかない。
世界はそんなにも美しくはなく、あるのは正義よりも欲ばかりだ。しかしだからこそ私たちは知らなければならない。そして考えなければならない。戦争と繁栄の「二十世紀」が、たいしたものではなかったということを。そうでなければ、「二十世紀」が「二十一世紀」になっても、何も変わりはしないのだ。
この本が出たときは、今すぐに買って読まなければならないという強迫観念にかられてしまったのを憶えている。まるで新聞のように今日読まなければ明日読んでも意味はない、とでも思ったのか、告知を見てすぐに本屋に走った(文字どおり走ったわけではないけれど)。もちろん、“書下ろし”ではないけれど、そんなことを依頼する方もスゴイが、それを受託する方はもっとスゴイ。しかもその依頼を、橋本は<そんなに個人的なことをやってもいいのだろうか>と思ったという。この特異な発想こそ橋本治なんだが、それが、帯の惹句“あなたと歴史が、本書ここでつながる!”にダイレクトにつながっているゆえんだろう。
これは帯の背にある惹句“手に取るようにわかる正しい現代史”と一見矛盾するようだが、然(さ)にあらず。これも橋本自身が書いてることだが、<この本に「二十世紀の中にいた橋本治」というものはほとんど登場し>ないのだ。そして、この相矛盾するような事態を一挙に解いてしまうのが、これも帯にある<“こんな日本”になってしまった、すべてのいきさつを、正しく知りたい>という思いから本書は書かれたということだろう。さらに、帯の裏側の「本文より」を読んでしまえば、本書の意図するところは痛いほどわかってしまうのだ。何と親切な本であることだろう。そして、橋本治が書き終わって感じたことをひとことで言い表したのが、帯中のもっとも大きな活字で書かれた“へんな百年だった”のであろう。
これは、もちろん読者に強要するものではない。著者はこう感じたというに過ぎない。さあ、あなたもこの機会に(二十一世紀のはじまりにあたって)二十世紀というものを改めてふりかえってみませんか?というような趣旨なんだろう。いや、別に“この機会”はいつだっていいんだと思う。それに、ふりかえり方はそのひとしだいのはずだ。当方は、これといっしょに、松岡正剛がひとりで書いた雑誌「遊」の10号[存在と精神の系譜]下(1977年5月発行)と、54人の専門家が分担執筆した雑誌「現代思想」の1978年9月発行[臨時増刊総特集]“現代思想の109人”を併読した。前者は、ロートル(老頭児)となった当方にはデザイン的な文字組が非常に難読なものとなってしまったものの、若き30代の松岡氏による溌剌とした言語飛沫をいまも浴びることができる清新なエッセイとして出色なものだし、後者は、執筆者によってまちまちではあるものの、これだけ通覧できるものを編集した三浦雅士の気概もうるわしいものがあると感じた。
そして、この3つの著作に通底しているものが、個人と世界を地続きにみようとする精神だろうか。すべて“他人事”ではない、といったらいいのか。すべては関係し合っている、といったらいいのか。もちろん、“現代思想の109人”には“若い人たちに役立つような手引き”としての役割も担わされているので、<教養としての思想史>としての意味合いも含有されているのだろうが、それだけでは終わらせたくない執筆者の奮闘ぶりが滲んでいるものに感銘を受けた。ひとそれぞれ読み方はあるだろうが、当方はそうやって読むことで本書をいっそう面白く読めたように思う。
言わずもがなのことを最期に書いておくと、二十世紀が大したものではなかった、なんてこの本のどこにも書いてはいない。そんな大それたことを橋本治が書くはずもない。それだけは誤解しない方がいいだろう。人類史がたとえ愚かだとしても、それは著者も読者も含めた歴史であるのだから。他人事ではないのだから、そんなどこにも属さない視座など無効でしかないはずだ。