表現主義エッセイ作品です。フロイト、シュペングラー、シェーンベルクの表現主義エッセイ作品と同様 おすすめです。
個人的には、『論理学研究』、『デカルト的省察』の方が好きですが、『論理学研究』から『デカルト的省察』へ至る途中の重要作品です。ノエシス・ノエマ等のアイデアを含みます。
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イデーン―純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 (1-1) 単行本 – 1979/12/16
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第1巻 純粋現象学への全般的序論
「この『イデーンI』の前半部分は、二つの篇から成るが、その第一篇は本質直観ないし形相的還元を扱い、その第二篇は
現象学的還元を取り扱っている。現象学的還元と本質直観という二方法が、フッサール現象学のみならず、
現象学的哲学運動全休にとっても、その決定的な方法論的基礎を成すものであることは、今日誰知らぬ者もないであろう。
むろん、その方法的意義にいては、現象学的哲学者の中でも、種々の解釈が分かれ、その真の意義について
侃侃諤諤の論のあることは、世の識者の夙に知るところであろう。それは、ハイデッガーからメルロ=ポンティにまで通ずる
現象学的哲学の方法論の根本問題を成している。オイゲン・フィンクの1930年代の優れた論著が、独仏両国にわたったこの現象学
理解の要に位置して、種々の新しい解釈の源泉を成していたことも、事態を能く識る人には周知のことであろう。
しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにもせよ、当の方法論自体について、まず世の人々は
良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に
綿密に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき)
----------- イデーン 全3巻5冊
第一巻 純粋現象学への全般的序論(1-1、1-2)
第二巻 構成についての現象学的諸研究(2-1、2-2)
第三巻 現象学と、諸学問の基礎(3)
-----------
「この『イデーンI』の前半部分は、二つの篇から成るが、その第一篇は本質直観ないし形相的還元を扱い、その第二篇は
現象学的還元を取り扱っている。現象学的還元と本質直観という二方法が、フッサール現象学のみならず、
現象学的哲学運動全休にとっても、その決定的な方法論的基礎を成すものであることは、今日誰知らぬ者もないであろう。
むろん、その方法的意義にいては、現象学的哲学者の中でも、種々の解釈が分かれ、その真の意義について
侃侃諤諤の論のあることは、世の識者の夙に知るところであろう。それは、ハイデッガーからメルロ=ポンティにまで通ずる
現象学的哲学の方法論の根本問題を成している。オイゲン・フィンクの1930年代の優れた論著が、独仏両国にわたったこの現象学
理解の要に位置して、種々の新しい解釈の源泉を成していたことも、事態を能く識る人には周知のことであろう。
しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにもせよ、当の方法論自体について、まず世の人々は
良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に
綿密に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき)
----------- イデーン 全3巻5冊
第一巻 純粋現象学への全般的序論(1-1、1-2)
第二巻 構成についての現象学的諸研究(2-1、2-2)
第三巻 現象学と、諸学問の基礎(3)
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- 本の長さ456ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日1979/12/16
- ISBN-104622019167
- ISBN-13978-4622019169
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商品の説明
著者について
エトムント・フッサール
Edmund Husserl
1859年4月8日当時のオーストリア領に生れる。1876年ライプチヒ、ベルリン、ウィーンの各大学に学び、1883年学位を得る。1884年ウィーン大学のブレンターノの門下に入り、専攻していた数学から哲学への道を歩む。1906年ゲッチンゲン大学教授となり1916年まで在職。その後1928年までフライブルク大学教授。1938年没。
主著は本書のほか『算術の哲学、心理学的・論理学的研究』(1891)『論理学研究』(1900-01、みすず書房、1968-76)『厳密な学としての哲学』(1911、岩波書店、1969)『内的時間意識の現象学』(1928、みすず書房、1967)『現象学序説―デカルト的省察録』(1931、創文社、1954)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936、中公公論社、1974)『経験と判断』(1939、河出書房新社、1975)。
Edmund Husserl
1859年4月8日当時のオーストリア領に生れる。1876年ライプチヒ、ベルリン、ウィーンの各大学に学び、1883年学位を得る。1884年ウィーン大学のブレンターノの門下に入り、専攻していた数学から哲学への道を歩む。1906年ゲッチンゲン大学教授となり1916年まで在職。その後1928年までフライブルク大学教授。1938年没。
主著は本書のほか『算術の哲学、心理学的・論理学的研究』(1891)『論理学研究』(1900-01、みすず書房、1968-76)『厳密な学としての哲学』(1911、岩波書店、1969)『内的時間意識の現象学』(1928、みすず書房、1967)『現象学序説―デカルト的省察録』(1931、創文社、1954)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936、中公公論社、1974)『経験と判断』(1939、河出書房新社、1975)。
登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1979/12/16)
- 発売日 : 1979/12/16
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 456ページ
- ISBN-10 : 4622019167
- ISBN-13 : 978-4622019169
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- - 157位ドイツ・オーストリアの思想
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年2月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これは、驚くべき書物だ。人間認識と行動の原点である「純粋意識」(いわばデカルトのcogito)を、一枚一枚皮でも剥ぐように、順序立って暴露し、解き明かし、さらにデカルトの捨てて省みなかった地平まで、広く世界を広げて行く。その周到さと力強さには賛嘆の他はない。ここに問題意識を持つ人なら、「難解」などというよりはむしろ面白くてたまらない一書だろう。ハイデッガー以降の現代哲学、構造主義、脱構造主義の理解を深める意味でも、必読の基礎というべし。
2009年4月18日に日本でレビュー済み
私は、「イデーン」第1巻(翻訳では全2冊)を手に取る前に、「論理学研究」を先に読まれることを勧める。
「論理学研究」が、海図なき航海であるとするならば、「イデーン」第1巻は、航海なき海図、もっと有り体に言えば、航海計画だからである。そして、その航海計画は、「論理学研究」の「事象そのものへ」という星だけを唯一の拠り所とした航海に基づいて作成されたものだからである。したがって、フッサールと共に、先にその航海をしてみないことには、この航海計画を読み取ることはできない。
フッサール自身は、上記のような事情を、「Umriss(outline)」という言葉を使って言い表わしている。アウトラインであるが故に、これは「絶対意識における自然的世界の構成(Konstistution)」について述べられていることだが、『論議は一般的な形』にならざるを得ない。つまりそこへ辿り着いた基礎研究(Fundamentalarbeit)を省略せざるを得ない。
言い換えれば、この書物では、フッサールが提示するものを、フッサールの歩みを一歩一歩寄り沿うことによって、納得することができないのだ。そういう事情なので、この書物が提示するものは、単なる『哲学的思い付き(philosophische Einf'''alle)』として受け取られる危険性がありもするし、間違って受け取られる危険性もある。特に後者の危険性が強い。
現象学に関する論文を読むとき、それに賛成するものにせよ、反対にするものにせよ、その現象学理解に唖然とすることが多いのは、上記のような事情によるものだろうか。もちろん、私の理解もまた、不充分極まりないことは、重々承知しているが。
そのような訳で、「論理学研究」の「無味乾燥さ」を思ってみれば、気の遠くなるような回り道になるが、「論理学研究」を先に読まれることを、私は勧めたい。
「論理学研究」が、海図なき航海であるとするならば、「イデーン」第1巻は、航海なき海図、もっと有り体に言えば、航海計画だからである。そして、その航海計画は、「論理学研究」の「事象そのものへ」という星だけを唯一の拠り所とした航海に基づいて作成されたものだからである。したがって、フッサールと共に、先にその航海をしてみないことには、この航海計画を読み取ることはできない。
フッサール自身は、上記のような事情を、「Umriss(outline)」という言葉を使って言い表わしている。アウトラインであるが故に、これは「絶対意識における自然的世界の構成(Konstistution)」について述べられていることだが、『論議は一般的な形』にならざるを得ない。つまりそこへ辿り着いた基礎研究(Fundamentalarbeit)を省略せざるを得ない。
言い換えれば、この書物では、フッサールが提示するものを、フッサールの歩みを一歩一歩寄り沿うことによって、納得することができないのだ。そういう事情なので、この書物が提示するものは、単なる『哲学的思い付き(philosophische Einf'''alle)』として受け取られる危険性がありもするし、間違って受け取られる危険性もある。特に後者の危険性が強い。
現象学に関する論文を読むとき、それに賛成するものにせよ、反対にするものにせよ、その現象学理解に唖然とすることが多いのは、上記のような事情によるものだろうか。もちろん、私の理解もまた、不充分極まりないことは、重々承知しているが。
そのような訳で、「論理学研究」の「無味乾燥さ」を思ってみれば、気の遠くなるような回り道になるが、「論理学研究」を先に読まれることを、私は勧めたい。
2014年2月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『・・・本来的な知覚、それは本当に認知するという作用であるが、そうしたものにおいては、私は、対象に、例えばこの紙に、注意を振り向け・配意している。私はそれを、ここに今あるこの特定の存在者として把握している。この把握作用は、一つの掴まえて取り出す働きである。つまり、知覚されるものはどれもみな、ある経験の背景を持っているのである。この紙の周囲には、何冊かの本や、何冊かの鉛筆や、インク壺等が、横たわっていて、これらのものも、或る仕方ではやはりまた「知覚されて」いて、知覚的に現にそこに、「直観野」の中に存在している。けれども、紙の方に配意している間は、それらのものは、現出してはいたのだが、しかし取り出し捉えられてはいなかったのであり、それ自身として独立して定立されてはいなかったのである。事物知覚はどれもみな、こういうわけで、背景直観の庭を持っているのである・・・・(本文より)』
(現象学入門書いろいろ買ったけど、こんなことは書いてなかった(読んだ限りでは。どれも全ページは読んでいないので)。)
.
今までに読んだ限りでは、「志向的」という言葉が最初に出てくるのは、159ページ(目次にもありますが。 「第36節 志向的体験。体験一般」)
『・・・
何らかの体験は、或るものについての意識である。だから例えば、何らかの虚構は、ギリシア神話にある一定の半人半馬の怪物の虚構であり、一方また何らかの知覚も、当の「現にそこに存在する」対象の知覚であり、何らかの判断は、当の事態の判断である、等々のわけである。
・・・
・・・
その際もちろん考慮しなければいけないのは、意識に不可分に帰属している地平というものが、そのつど一緒に意味規定的なものとして働いているという点である。だから実際また非顕在的な意識の本質のうちにさえも、上述で論究された変様によってその意識はどのような種類の顕在的なコギタチオへと転移させられうるのか、ということが、含まれているわけである。・・・(本文より)』
「非顕在的」というのは、上の「背景」というのと同じことのようです。
.
『・・・内在的知覚(←これは体験のことだと思います)と超越的知覚(これは事物の知覚)とは、ただ単に一般的に次の点で相互に区別されるだけではない。・・・
事物をわれわれが知覚するのは、その事物がそのすべての規定性の点でおのれを「射影してくる」からであり、その規定性は場合によっては「現実的に」また本来的に知覚のうちに「落ちこんで」くる。体験というものはこのような様式ではおのれを射影しないのである。・・・・(本文より)』
この部分に至るまでの間の部分はよく理解できませんでした。ただ、ここに至って、これは知っていると思いました。
事物は射影を通して知覚されるというのは、見る角度によっていろいろに見え方が変わるということで、これはある意味射影を通してしか認識できないというマイナスなことではあるのですが、事物の周りを回って、いろんな角度から見る、というプラス面もあるように思います。対象が体験の場合は、それができないということ。
(現象学入門書いろいろ買ったけど、こんなことは書いてなかった(読んだ限りでは。どれも全ページは読んでいないので)。)
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今までに読んだ限りでは、「志向的」という言葉が最初に出てくるのは、159ページ(目次にもありますが。 「第36節 志向的体験。体験一般」)
『・・・
何らかの体験は、或るものについての意識である。だから例えば、何らかの虚構は、ギリシア神話にある一定の半人半馬の怪物の虚構であり、一方また何らかの知覚も、当の「現にそこに存在する」対象の知覚であり、何らかの判断は、当の事態の判断である、等々のわけである。
・・・
・・・
その際もちろん考慮しなければいけないのは、意識に不可分に帰属している地平というものが、そのつど一緒に意味規定的なものとして働いているという点である。だから実際また非顕在的な意識の本質のうちにさえも、上述で論究された変様によってその意識はどのような種類の顕在的なコギタチオへと転移させられうるのか、ということが、含まれているわけである。・・・(本文より)』
「非顕在的」というのは、上の「背景」というのと同じことのようです。
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『・・・内在的知覚(←これは体験のことだと思います)と超越的知覚(これは事物の知覚)とは、ただ単に一般的に次の点で相互に区別されるだけではない。・・・
事物をわれわれが知覚するのは、その事物がそのすべての規定性の点でおのれを「射影してくる」からであり、その規定性は場合によっては「現実的に」また本来的に知覚のうちに「落ちこんで」くる。体験というものはこのような様式ではおのれを射影しないのである。・・・・(本文より)』
この部分に至るまでの間の部分はよく理解できませんでした。ただ、ここに至って、これは知っていると思いました。
事物は射影を通して知覚されるというのは、見る角度によっていろいろに見え方が変わるということで、これはある意味射影を通してしか認識できないというマイナスなことではあるのですが、事物の周りを回って、いろんな角度から見る、というプラス面もあるように思います。対象が体験の場合は、それができないということ。
2007年12月28日に日本でレビュー済み
フッサールの著作の中で、1冊となると、この「イデーン1」に限ると思う。翻訳は理想的なもので、内容の難解さを除けば、全く難しくしていない素晴らしいもの。内容は難解とは言え、フッサールのほかの書物より遥かに明快。しかも、本書には、フッサールのコアになる思想がほぼ全て語られている。ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティと後続の思想家に圧倒的な影響を与えたことがそれと分かる叙述が捨て難い。フッサールは、前期中期後期と思想が大きく動き、本書だけではその一端しか分からない、とか、ハイデガーは「論理学研究」の影響を受け、メルロ=ポンティは、後期の影響下にあると言うのが定説で、きっとそうなのだろうが、しかし、本書を読んでみると、「存在と時間」や所謂「身体」論に露骨に影響を与えたとしか思えない叙述が頻出する。現象学とは、その方法を事態と切り離して語るよりは、むしろ、実際に展開して見せる中に真髄が現れるという、本物の方法論である。意識の機能を事細かく取りこぼさないように、しかし、「流れ」のなかで追い求める視点は、息を呑む充実感がある。一方で、反省する意識の中で、「現実」とは異なっていくジレンマをも取りこぼさない真剣勝負がある。却ってそこに現象学的還元の意味を見出そうと随分と苦労している。「論理学研究」以来の「概念や法則といった普遍者というイデア性がどのように認識主体のものになっていくか」このテーマに対決している点では、本書も同じテーマにあると思える。個人的には、そのテーマは興味深いし、ウィトゲンシュタインの後期の著作とともに、最も刺激的な研究書だと思うが、一方で、「事実学」と「本質学」を分けて真なる学の基礎を築こうという野心は、現象学らしからぬ思い込みの出発に思われ違和感が残る。都合の良い「判断中止」もさることながら、「現象学的還元」によって、体験とは異なる意識内容を吟味することが、「正しい道」をなぜ保証するのか、不明な点も多い。だが、そんな疑問は別にして、叙述そのものが「哲学」であり、抗することの出来ぬ魅力がある。意識の外へ出ることを敢えて拒絶する徹底した態度も面白いが、実際の叙述では、かなり揺れており、意識の外や、外部、向こう側、といった、表現がやむを得なく頻出し、どこかで、外部先取りしている点は否めず、現象学的方法の無理なところが露呈されている。だが、その点もむしろ思考としては魅力的だ。「判断中止」「ノエシス・ノエマ」「還元」などなど現象学用語が実地に使用されているのはまさに本書だ。少し値が張るが、本書2巻をまず読めばよく、迂回すると却って高くつくと思う。その後はむしろ「論理学研究」だと思う。
2009年3月5日に日本でレビュー済み
現象学の創始者フッサールの主著。意識の働きを、緻密に観察、叙述する様は、緊張感に満ち満ちている。