20世紀は、政治・社会哲学領域において「自由」を巡る考察と議論が深く行われた時代であった。
代表的には、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で展開したように、「自由」という概念を「〜からの自由」と「〜への自由」に分ける考察があった。
また、ロールズやマイケル・サンデルらにより争われた「リベラル・コミュニタリアン論争」も、正義の本質を考察した際の「自由」の位置付けを巡るものであったと捉えることができよう。
そしてバーリンも、「消極的自由」と「積極的自由」という表現を用いて「自由」を2つの側面から捉える「2つ自由概念」論を主張した。
彼の自由論はフロムのそれと軌を一にする部分は確かにあり、「自由を巡る考察と論争」という文脈ではその位置付けは概ね正しいだろう。
しかし、バーリンの政治哲学の核心は自由論そのものにあるのではなく、古代以来の西洋の知的伝統に脈々と確認される「真理」という概念そのものへの挑戦であり、彼の自由論はあくまでその論旨の中に位置取ってこそ本来の意義を認めることができる。
彼の「真理」に対する認識とは。
◯共通的な真理なるものは本質的に存在しない
→例えばプラトンのイデア論のような、本質的には存在するのだが肉体を持つ人間には認識し得ないとするような立場とは根本的に異なる。
◯複数の価値を相互に比較するための「共通の尺度」はなく、故に価値の結合や調和は不可能
→これは、全ての価値は本質的には1つの至上価値へと繋がっているとする立場や、それと同じ認識ながら何らかの現実的制約のために実現が困難であるとする立場を否定するものであり、更にはそうした哲学を基盤とした歴史認識等派生社会科学の基本認識をも否定するものである。
◯「共通の尺度」がない中で人間は選択をせねばならいが故に「選択の自由」こそが自由の体系の中で最も尊重されるべきである
とまとめることができるだろうか。
私自身は、バーリンの論理展開には高度な説得力があるものと感じながらも、「選択の自由」に収斂させる(「選択の自由」を選択する)という彼の判断に対しては完全に同意することはできなかった。
「自由」が人間にとって重要な要素であることは認めながらも、やはり人間には「自由」では包摂し切れない価値があるのではないだろうか。
即ち、「自由」が至上価値であるとまでは言えないのではないかというのが私の個人的な考えである。
もちろんバーリンの思想の本質は「価値の間には本質的に共通の尺度がないこと」という主張にあるため、こうした至上価値を何と考えるかを巡る議論は成立不可能であり、であるが故に個人に「選択の自由」がなければならないことになるのはその通りで、「選択の自由」の価値の高さを些かも否定するつもりはない。
ただ「選択」のような、人間の「意思」によって行われる行為を過度に重視すると、事実上「意思」の行使能力を失った人の人権・生存権を巡る価値判断を行わねばならない際に、危険な判断に傾くリスクを恐れる。
人間にとっての全ての価値を「自由」以上に包摂し得る価値概念を巡り、考察と議論が継続されていかなければならないだろうというのが、私が本著と向き合った読後感だ。
バーリンの主張については、「真理」という概念に対する知的伝統批判の部分をしかと受け止めたいと思う。
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自由論 単行本 – 2000/6/6
著者は1909年、当時ロシア帝国領であり、第二次大戦後またもやソヴェト連邦に編入されてしまったラトヴィアの首府リガに生まれた。
オックスフォード大学卒業。
主著に「マルクス」(1939)、「はりねずみと狐」(1953)、「啓蒙の時代」(1956)、「1940年のチャーチル」(1964)、「ヴィーコとヘルダー」(1976)などがある。
オックスフォードのウォルフスン・カレッジの学長をつとめ、74年から78年英国学士院長であった。
本書はその代表作としての地位を占めるものであるといえよう。
本書の各論文は、著者の聡明なコモン・センスの見事な典型であるとともに、別の角度から見れば、英知そのものといえる。
透明でありながら深い思考に支えられ、現代の最も不評な・貧しい語彙になりさがってしまった「ヒューマニズム」に、
そのもっともラジカルな形姿において、生気を与える。
この同じ理由が、19世紀のゲルツェンやミルのごとき思想家に深く愛着せしめると同時に、
マルクスの荒々しい外貌と既定の名声の背後に隠されている、リベラルな精神の発見を、可能にしていると思われるのである。
オックスフォード大学卒業。
主著に「マルクス」(1939)、「はりねずみと狐」(1953)、「啓蒙の時代」(1956)、「1940年のチャーチル」(1964)、「ヴィーコとヘルダー」(1976)などがある。
オックスフォードのウォルフスン・カレッジの学長をつとめ、74年から78年英国学士院長であった。
本書はその代表作としての地位を占めるものであるといえよう。
本書の各論文は、著者の聡明なコモン・センスの見事な典型であるとともに、別の角度から見れば、英知そのものといえる。
透明でありながら深い思考に支えられ、現代の最も不評な・貧しい語彙になりさがってしまった「ヒューマニズム」に、
そのもっともラジカルな形姿において、生気を与える。
この同じ理由が、19世紀のゲルツェンやミルのごとき思想家に深く愛着せしめると同時に、
マルクスの荒々しい外貌と既定の名声の背後に隠されている、リベラルな精神の発見を、可能にしていると思われるのである。
- ISBN-104622049740
- ISBN-13978-4622049746
- 版新装
- 出版社みすず書房
- 発売日2000/6/6
- 言語日本語
- 本の長さ536ページ
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商品の説明
著者について
アイザィア・バーリン
Isaiah Berlin
1909年ラトヴィアの首都リガに生れる。オックスフォード大学卒業以後、哲学の研究員としての道を進む。1942年以降ワシントンの、1945-1946年モスクワの、各英国大使館に勤めたあと、オックスフォードの学究生活に戻る。1957-67年、チチリ講座を担当、社会・政治理論の主任教授に就任。1966-75年オックスフォードのウルプスン・カレッジの初代学長、1974-78年英国人文学士院長。1997年歿。
著書『カール・マルクス』1939『はりねずみと狐』1953(以上邦訳中央公論社、1975)『自由についての四つのエッセイ』1969(邦訳『自由論』みすず書房、1971)『モーゼス・ヘス』1958『ジャン=バッティスタ・ヴィコ』1960『ヘルダー』1965『父と子』1972(邦訳みすず書房、1977)『ある思想史家の回想』1991(邦訳みすず書房、1993)ほか。選集は全4巻 Russian Thinkers,1978、Concepts and Categories,1978、Against the Current 1979、Personal Impressions,1980。日本語版選集は『思想と思想家』『時代と回想』『ロマン主義と政治』『理想の追究』(岩波書店、1983-1992)。
Isaiah Berlin
1909年ラトヴィアの首都リガに生れる。オックスフォード大学卒業以後、哲学の研究員としての道を進む。1942年以降ワシントンの、1945-1946年モスクワの、各英国大使館に勤めたあと、オックスフォードの学究生活に戻る。1957-67年、チチリ講座を担当、社会・政治理論の主任教授に就任。1966-75年オックスフォードのウルプスン・カレッジの初代学長、1974-78年英国人文学士院長。1997年歿。
著書『カール・マルクス』1939『はりねずみと狐』1953(以上邦訳中央公論社、1975)『自由についての四つのエッセイ』1969(邦訳『自由論』みすず書房、1971)『モーゼス・ヘス』1958『ジャン=バッティスタ・ヴィコ』1960『ヘルダー』1965『父と子』1972(邦訳みすず書房、1977)『ある思想史家の回想』1991(邦訳みすず書房、1993)ほか。選集は全4巻 Russian Thinkers,1978、Concepts and Categories,1978、Against the Current 1979、Personal Impressions,1980。日本語版選集は『思想と思想家』『時代と回想』『ロマン主義と政治』『理想の追究』(岩波書店、1983-1992)。
登録情報
- 出版社 : みすず書房; 新装版 (2000/6/6)
- 発売日 : 2000/6/6
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 536ページ
- ISBN-10 : 4622049740
- ISBN-13 : 978-4622049746
- Amazon 売れ筋ランキング: - 685,097位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 4,236位政治入門
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2015年2月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まだ、最後まで読んではいませんが、大変勉強になります。
毎日電車の中で読みたいのですが、非常に重いので、
Kindle版があればいいのですが。
毎日電車の中で読みたいのですが、非常に重いので、
Kindle版があればいいのですが。
2008年5月4日に日本でレビュー済み
本書の原題は"Four Essays on Liberty"、表題の通り自由をめぐる四本の論文に加えて、
それらへの批判に応答する邦訳で100ページ近くに及ぶ膨大なイントロダクション、さらに
付録の論文一点を収録。
500ページ以上の大著ではあるが、テーマは概ね二つの問題に収斂する。
ひとつは、歴史における決定論(その筆頭はもちろんヘーゲル)に対する批判。
そしてもうひとつは、「積極的positive自由」と「消極的negative自由」の区別。
決定論や理性への信仰に基づいた過剰な「積極的自由」の称揚はしばしば人間性の否定や
専制的な全体主義に向かうこととなる。そうした危険を回避すべく、J.S.ミルに象徴される
「消極的自由」の重要性がこの1909年のラトビア生まれのユダヤ人によって説かれる。
はっきり言えば、議論の質は極めて粗い。極論と飛躍と誤読のオンパレード。
決定論批判については、長々と言葉を費やしてはいるが、その攻撃は極めてありきたりで
ただ堂々巡りを重ねるばかり、その信奉者に致命的な打撃を与えるには遠く及ばない。
とはいえ、自由に関する彼の区別は、昨今の自由論においてはもはや基礎とさえ呼ばれる
べきものであるし、「積極的自由」が抱える危険性の指摘は、バーリン固有の主張とは到底
言い難いありふれたものには違いないが、ある程度は正確なもの。
私個人としてはさほどの価値を見出せないのが苦しいところではあるが、真剣に自由論に
挑まんとする者はせめて本書所収の「二つの自由概念」だけでも読んでおく必要はあろうかと
思われる、あくまで一般論として。
ただし、自由論についての初学者ならば、このバーリンのテクストに臨む前に、政治哲学・
思想系の古典をきっちりと熟読しておくことを勧めたい。逆に、それさえ丁寧にしっかりと
こなせてさえいれば、バーリンに依拠しなければならないものは何もないように思われる。
それらへの批判に応答する邦訳で100ページ近くに及ぶ膨大なイントロダクション、さらに
付録の論文一点を収録。
500ページ以上の大著ではあるが、テーマは概ね二つの問題に収斂する。
ひとつは、歴史における決定論(その筆頭はもちろんヘーゲル)に対する批判。
そしてもうひとつは、「積極的positive自由」と「消極的negative自由」の区別。
決定論や理性への信仰に基づいた過剰な「積極的自由」の称揚はしばしば人間性の否定や
専制的な全体主義に向かうこととなる。そうした危険を回避すべく、J.S.ミルに象徴される
「消極的自由」の重要性がこの1909年のラトビア生まれのユダヤ人によって説かれる。
はっきり言えば、議論の質は極めて粗い。極論と飛躍と誤読のオンパレード。
決定論批判については、長々と言葉を費やしてはいるが、その攻撃は極めてありきたりで
ただ堂々巡りを重ねるばかり、その信奉者に致命的な打撃を与えるには遠く及ばない。
とはいえ、自由に関する彼の区別は、昨今の自由論においてはもはや基礎とさえ呼ばれる
べきものであるし、「積極的自由」が抱える危険性の指摘は、バーリン固有の主張とは到底
言い難いありふれたものには違いないが、ある程度は正確なもの。
私個人としてはさほどの価値を見出せないのが苦しいところではあるが、真剣に自由論に
挑まんとする者はせめて本書所収の「二つの自由概念」だけでも読んでおく必要はあろうかと
思われる、あくまで一般論として。
ただし、自由論についての初学者ならば、このバーリンのテクストに臨む前に、政治哲学・
思想系の古典をきっちりと熟読しておくことを勧めたい。逆に、それさえ丁寧にしっかりと
こなせてさえいれば、バーリンに依拠しなければならないものは何もないように思われる。
2005年8月15日に日本でレビュー済み
バーリンを単なる優れた思想史研究者から分かつものは、人間の有する深く厳しい倫理性の認識と、翻ってそれゆえの人間の自由についての確信である。だから、彼が「人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然に対する支配でもなくて、選択し実験する自由である」(本書p.450)とJ.S.ミルの思想を簡潔に表現したとき、そこには善をも悪をも選びうる人間の倫理的かつ、根源的自由の意味が込められていた。この旧約思想を起源とする人間観、歴史観を知ろうとしなければ、彼の思想が現代に投げかける問いの意味を受け止めることはできないし、極東軍事裁判が日本人に突きつけた、民族としての自由と責任という課題も不明のままだろう。