インド独立運動の指導者ガンディーの政治論文集。1921年から死の前日までの著作と談話を集めた『戦争と平和における非暴力』という書物があり、それは1000ページを超える分量だったので、テーマを「非暴力」に限って編集したのが本書だそうです。それでも上巻・下巻合わせて500ページ以上あるのだけれど。
「非暴力」は宗教に由来する徳目であったのが、ガンディーによって政治運動の方針に採用され、その絶大な潜在力を世界に見せつけました。彼の戦術は提唱された最初から、その可能性や矛盾について、反対者だけでなく支持者たちからさえ多くの批判や質問を受けています。本書はそのような疑問や挑戦にガンディーがいかに答え、応酬の中で非暴力の原理をいかに鍛えたかという記録になっています。それぞれの文章の終わりに発表された年月日、掲載された新聞や雑誌が記され古い順に並んでいるので、訳注と合わせて読むと、時代背景と執筆の動機、戦術や思想の微妙な変化が浮かびあがる仕組みになっています。
この上巻は1920年8月から1940年9月まで。第一次世界大戦が終了し、第二次世界大戦が始まった時代で、ロシア革命やヒトラーの台頭をガンディーは見ています。大英帝国の支配を越えるような圧倒的な暴力に「非暴力」で立ち向かうことができるのか。ガンディーはどう答えるか。
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わたしの非暴力〈1〉 (みすずライブラリー) 単行本 – 1997/9/19
マハトマ・ガンディー
(著),
森本 達雄
(翻訳)
1948年1月30日夕刻、凶弾に斃れた〈マハトマ=偉大な魂〉は、
複数の民族主義と言語、原理主義的行動にはしりがちな多くの宗教が入り乱れるインドにあって、
あくまでも「非暴力」で祖国をイギリスから独立させ、統一しようとした。
その79年の生涯を賭けて。
その理想主義を嗤うものもいた。
しかしチャーチルは、大英帝国の版図が音を立てて崩壊してゆくのを目撃する。
「たった一人の粗末な白衣をまとった小男にイギリスが敗れた」。
本巻には1920年から1940年までのガンディーの言葉による行脚を収める。全2巻。
複数の民族主義と言語、原理主義的行動にはしりがちな多くの宗教が入り乱れるインドにあって、
あくまでも「非暴力」で祖国をイギリスから独立させ、統一しようとした。
その79年の生涯を賭けて。
その理想主義を嗤うものもいた。
しかしチャーチルは、大英帝国の版図が音を立てて崩壊してゆくのを目撃する。
「たった一人の粗末な白衣をまとった小男にイギリスが敗れた」。
本巻には1920年から1940年までのガンディーの言葉による行脚を収める。全2巻。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日1997/9/19
- ISBN-10462205017X
- ISBN-13978-4622050179
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
1948年凶弾に斃れたマハトマ・ガンディーは武力を用いる事なく非暴力でインドをイギリスから独立させ、統一しようとした。本巻は1920年から40年までのガンディーの言葉による行脚を収める。再刊。
著者について
Mohandas Karamchand Gandhi
モーハンダス・カラムチャンド・ガンディーはインド西海岸の小藩王国の宰相の家に生れ、父の一徹な正義感と母の敬虔な信仰心の影響のもとで育った。13歳のとき、当時の風習に従って結婚、19歳でイギリスに留学、3年後弁護士の資格をえて帰国・開業したが、生来の内気のために成功しなかった。1893年に商社の顧問弁護士として南アフリカに渡ったが、上陸後まもなく白人の言語道断の人種差別を体験、これが決定的な人生の転機となった。以来22年間、同地にとどまり、真理と非暴力にもとづくサティヤーグラハをもって同胞の人権擁護のためにたたかった。1915年にインドに帰り、南アフリカでの貴重な体験を生かして、農民争議やエ場ストライキを有利に指導して注目された。1919年にローラット法に抗議して、インドにおける最初の大衆非協力運動を開始した。ガンディーの政治舞台への登場は、国民会議派を大衆政党へと脱皮させた。1922年にチャウリ・チャウラで発生した民衆の不祥事件を理由にこの運動を中止、自らも投獄されたが、彼にあってはあくまでも手段(非暴力)が目的に先行しなければならなかった。彼はまた、不可触賤民制の除去など建設的プログラムも政治的独立と同時に推進しようと努力した。1930年にガンディーの「塩の行進」をのろしとして、インドは国をあげて第二次非協力運動に突入。1942年には、「インド撤退要求」を合言葉に激しい対英抗争を展開した。けれどもガンディーの念願した「一つのインド」は実現せず、1947年インドとパキスタンは分離独立した。それにつづく熾烈なヒンドゥー=ムスリム紛争に心を痛め、単身、騒擾の村々を訪ねて愛と協調を説いた。1948年、狂信的なヒンドゥー教徒の凶弾によって79年間の「聖劇」ともいうべき生涯の幕をとじた。
モーハンダス・カラムチャンド・ガンディーはインド西海岸の小藩王国の宰相の家に生れ、父の一徹な正義感と母の敬虔な信仰心の影響のもとで育った。13歳のとき、当時の風習に従って結婚、19歳でイギリスに留学、3年後弁護士の資格をえて帰国・開業したが、生来の内気のために成功しなかった。1893年に商社の顧問弁護士として南アフリカに渡ったが、上陸後まもなく白人の言語道断の人種差別を体験、これが決定的な人生の転機となった。以来22年間、同地にとどまり、真理と非暴力にもとづくサティヤーグラハをもって同胞の人権擁護のためにたたかった。1915年にインドに帰り、南アフリカでの貴重な体験を生かして、農民争議やエ場ストライキを有利に指導して注目された。1919年にローラット法に抗議して、インドにおける最初の大衆非協力運動を開始した。ガンディーの政治舞台への登場は、国民会議派を大衆政党へと脱皮させた。1922年にチャウリ・チャウラで発生した民衆の不祥事件を理由にこの運動を中止、自らも投獄されたが、彼にあってはあくまでも手段(非暴力)が目的に先行しなければならなかった。彼はまた、不可触賤民制の除去など建設的プログラムも政治的独立と同時に推進しようと努力した。1930年にガンディーの「塩の行進」をのろしとして、インドは国をあげて第二次非協力運動に突入。1942年には、「インド撤退要求」を合言葉に激しい対英抗争を展開した。けれどもガンディーの念願した「一つのインド」は実現せず、1947年インドとパキスタンは分離独立した。それにつづく熾烈なヒンドゥー=ムスリム紛争に心を痛め、単身、騒擾の村々を訪ねて愛と協調を説いた。1948年、狂信的なヒンドゥー教徒の凶弾によって79年間の「聖劇」ともいうべき生涯の幕をとじた。
登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1997/9/19)
- 発売日 : 1997/9/19
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 462205017X
- ISBN-13 : 978-4622050179
- Amazon 売れ筋ランキング: - 943,065位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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