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映像身体論 単行本 – 2008/3/20
宇野 邦一
(著)
「映画が新しい思考の対象であったことは、すでにベンヤミン、パノフスキー、あるいは小林秀雄のような書き手によっても鮮明に表現されていた。しかし、思考も思想も、この新たな対象の、新たな対象性と非対象性を的確にとらえたといえるだろうか。それによって、思考は異なる思考として生成することができただろうか。また映画のほうも、そのような〈新しい対象〉として自己をよく表現し続けることができただろうか。いつも実現されたわけではないとしても、潜在性として、まだ〈新しい対象〉であり続けているだろうか。私たちはそのような潜在性の残骸のような作品や思想を、少なからずもっているにすぎないのではないか。もしそうなら、それらを新たに解読することが、わずかな潜在性の兆しに生命を吹きこむことになりうる」
映像メディアは、知覚と身体をいかなる次元に導いてきたのか。スペクタクル社会に空隙をうがつ「時間イメージ」の諸相とは、はたしてどのようなものなのか。ジル・ドゥルーズ晩年の主著『シネマ』の問いを受けとめつつ、「身体の映画」の新たな可能性を切り開く論考。
映像メディアは、知覚と身体をいかなる次元に導いてきたのか。スペクタクル社会に空隙をうがつ「時間イメージ」の諸相とは、はたしてどのようなものなのか。ジル・ドゥルーズ晩年の主著『シネマ』の問いを受けとめつつ、「身体の映画」の新たな可能性を切り開く論考。
- 本の長さ295ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日2008/3/20
- ISBN-104622073625
- ISBN-13978-4622073628
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登録情報
- 出版社 : みすず書房 (2008/3/20)
- 発売日 : 2008/3/20
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 295ページ
- ISBN-10 : 4622073625
- ISBN-13 : 978-4622073628
- Amazon 売れ筋ランキング: - 964,019位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年9月1日に日本でレビュー済み
「そこで声と図像の、音声とイメージの、聴覚と視覚の一致や結合を解体し、再構成するという果てしない仕事が試みられることになる。たとえば映画史とは、まさにそのような果てしない仕事の場所であったと考えられないか(P.181)」という著者の意見は理解できるが、そこから展開される<時間イメージ>の論は正直理解することは難しい。例えばバザンを引用してブレッソンの『田舎司祭の日記』が論じられている(P.242-P.247)。私はこの映画を様々な‘イメージ’に裏切られ続けて体調を崩した主人公が最後にたどり着いたのが自分を最後まで裏切らなかった十字架のイメージだったと単純に解釈してしまったのだが、本書によるともっと深い意味があるようなのだ。しかし私には著者の説明が上手く理解できなかった。もしかしたら敢えて理解を拒絶することでさらに読者に対して考察を要求し、理論を深めていこうとするアプローチなのかもしれない。因って‘真の映画’とはもはや私たちが一般的にイメージする映画ではないのであろう。