三大おしゃべりの他の二人は、桑原武夫と森有正のようです(一説には、森有正の代わりに、久野収という説もあるようです)。
さすが、自称おしゃべりというだけあって、凄まじいものがあります。しかし、みんなそれなりに筋を通しながら、しゃべっているの
ですから、流石といえば流石ですが。
では、引用します。コメントなし。この引用部分はどちらかというと講演ですね。質疑応答はありますが。早稲田の学生相手の駄弁りの
方(2件あります)が、おしゃべり風です。しかし、字数が足りませんので、この一点の引用だけで終わりです。
引用頁は、124頁から138頁です。途中、字数の関係で、多少省略していますが。
●「日本の思想と文化の問題 1981年10月」
「○「時(とき)」の「勢(いきほひ)」--執拗低音の例
動くものについて言いますと[黒板に書く]、「直情径行」という言葉があります。これは『礼記』に出て来るんです。
「直情径行は夷狄の道なり」と。なぜ夷狄の道かというと礼にかなっていないから。道にかなっていないから、夷狄の道なん
です。 ところが日本では「直情径行」と言うと、それほど悪い意味で使われるでしょうか。つまり「少しやっかいだけど、
あいつは気は善いんだ、直情径行なんだ」と言うときには、ちょっとストレートに来るからかなわんけど、あいつは気は善い
んだという、必ずしも悪い意味じゃないですね。夷狄の道という、道に外れたという観念はない。直情径行の人ってのは
どこか愛されるところがあるわけです。
それで、これは今に始まったことではないんです。例えば『日本書紀』から例をとりますと、雄略天皇。これは本当にいたか
どうかは別にして、そういう観念があったかどうかということを思想史は問題にするわけですから、実在したかどうかという
ことよりは、そういう考え方があったという事実が重要なんです。実在したかということも問題だけれども、その考え方の
方が重要なんです。それで言いますと、雄略天皇の描き方が『日本書紀』はみんな漢文で書いてありますね。雄略天皇という
のは暴君で有名なんです。あれは堯舜からつくった仁徳[天皇]に対して対比されるんです、桀紂として、雄略・武烈[天皇]
というのは。これはおそらく儒教の影響を受けたのだろうと言う人が多いんですね。仁徳天皇ってのは、われわれは、民の
竃に煙が上がらなかったのを見て租税を免じたという話ばかりを覚えていますけど、大変な浮気者でしてね。奥さんが大変な
「やきもちやき」で奥さんに追っかけられて逃げたり・・・・。『古事記』を読むとよく分かりますけれども、そういうのは
われわれの修身では一向に教わらなかった。(笑)
それは別として、その仁徳天皇に対比される雄略天皇ですね。これは「有徳天皇なり」と書いてある。これを古文で何と
読ませたかというと「いきほひましますすめらみことなり」と。徳は「いきほひ」ですね、エネルギーのある神様である、
ということなんですね。それから数ページたたないうちに--雄略天皇はいろいろ悪いことをしますからね--「人びとみな
もうさく悪徳天皇なり」と(笑)こう書いてある。これを何と読むかというと「はなはだ悪しくましますすめらみこと」と。
(笑)有徳天皇がどうして「はなはだ悪しくまします」か。倫理的基準から見たら悪いことをしているんです、ただエネルギー
があるじゃないか、というんで有徳になるわけです。
「いきほひまします」。私はかつて論文を書いたことがありますが、この「いきほひ」というのは非常に重要な概念。これは
「気」と関係しているんです。「いきほひ」というのは非常に日本の思想史を見る上で重要な観念になっているのはそういう
意味です。例えば「勢(せい)」ですね。これは勢(せい)に「いきほひ」という、もとからあった日本語を当てるんですが、
もちろん勢と「いきほひ」とは似ている面もあるわけです。けれども中国語で古典文献で「勢」と言うときにはほとんど、
例えば勢力関係とか、勢力とか、その時における勢力ですね、そういう意味に用いることが非常に多い。日本語でももちろん
基本的に中国の影響を受けていますからね、同じ意味に用いるでしょ、勢力という言葉に現れるように。ところがそれだけか
というとそれだけじゃないんですね。
例えば「時勢」。日本の文献を読んで実に多いのはこの時勢という言葉です。ところがほとんどないんです、中国の文献を
読むと時勢という言葉は。「時(とき)」の中に「勢(いきほ)ひ」が内在している。時間の中に勢力が内在しているから
時間にはずみがついちゃう。これはすごいエネルギーになっちゃう。「御時勢には勝てませんね」ということになっちゃう。
「御時勢には勝てませんね」ということは、状況に対して非常に弱いということです。時勢に対して断固として普遍的な理を
守るという態度は非常に弱い。これが、なだれを打って転向するということと関係があるわけです。
「いきほひ」の尊重ということ、「いきほひ」は時の中に、時間の流れの中に・・・・[テープ中断]。
状況変化に対する適応性というものにも現れる。つまり状況追随主義になっても現れるし、状況変化になっても現れる。
それから今度は主体に内在した場合にはエネルギー主義になる。さっきの雄略天皇ですね、これもそうです。他にも例があり
ます。悪源太義平。(笑)あまり悪いって感じないんですね、実際は。勢がいい。大体、悪源太義平ってのはそんなに評判
悪くないでしょ。源為朝なんかもそうです。勢いがある、エネルギーがある人物というのは割合評判が高い。中国に比べると、
善悪の倫理的基準よりは「いきほひ」のある人間、つまり「あいつ、元気あるな」「やってるぞ」という、それが尊重される。
選挙で連呼ってのはかなわないですけどね、連呼で「丸山は頑張っております」と。(笑)「頑張っております」というのは、
私はスローガンにならないと思うんです。「頑張って」何をやるかというのが政治なんですね。(笑)「頑張っております、
頑張っております」というと、皆「あいつ、よくやっているな」ってんで、けっこう意味がある。(笑)だから連呼になる。
頑張って何をやるかよりも、頑張ってます、エネルギーがある、やりますよ。「やるぞ」とやる気を起こす。やって何を
するか、やって悪いことをするならやらないほうが良い。(笑)にもかかわらず、割合評価が高い。そうすると、そういう
のがずーっと私の言う執拗低音としてある。それを日本の本質とか何とか言うんじゃないですよ。そういう意味で、さっき
言った世界観を解釈し、受容する必要な契機としてわれわれの中にあった、ということの例として申し上げるわけです。
○日本社会の等質性が崩れるとき
さて、初めの話にかえって、これでおしまいにしますけれども、国民性ということをうっかり言ってはいけない。そういう
ことを言うのは危険だ、と申しましたね。これは私が執拗低音と言ったことにもあてはまるんです。決してこれは、もう
どうにもしようがない国民性ではない。決して宿命的ではない、第一。第二に、それは悪いふうにも現れるし、良いようにも
現れるということです。
第一の宿命的でないということは、さっき言ったとおり、日本の地理的条件に左右されているところが多い。つまり、変化に
対する敏感な適応、しかも変化に併呑されないだけの距離ですね、これら非常に関係がある。もしこれがパラオ諸島のように
離れていたら、等質性はさっき言ったとおり、言語なり、人種なりの等質性は維持されたかもしれないけれど、変化に対する
敏感さというのはなくなるかも知れない。非常に高度な文明にあまり近かったら、ほとんどそれを直訳しちゃって、あるいは
それに呑み込まれちゃって、自分の主体性というのはなくなるかも知れない。ちょうど良い距離にあったということです。
つまり「雨漏り型」であって「洪水型」にならなかった。こういう条件が果たして今後続くだろうか。
今日のジェット機の時代においては、すでにドーヴァー海峡と対馬海峡、ないし日本海との差というのは問題じゃありません、
一飛びです。それどころか太平洋も一飛びですね。テクノロジーの発達により過去の地理的条件というのは急速になくなった、
なくなりつつあるということが言い得る。そうすると、どういうことになるか。永らく日本の特色をなしてきた底辺の等質性
というものが他の文明諸国のように崩れてゆくのは、時間の問題だということなんです。生産様式がいちばんそうでしょ。
水田稲作は今や音を立てて崩れつつありますね、良いか悪いかは別として。例えば、人種の問題についても同じことが言え
ないとは限らない。日本人は人種差別観念がないと言います。果たしてないのか。人種問題を持たなかったから知らないん
じゃないのか。われわれはたやすくアメリカの人種差別を批判します。アメリカは昔から移民の国ですから、人種問題に悩ま
されて来た。もしも黒人がどんどん日本に来て、二階を貸してくれと言われたらわれわれはどう反応するでしょうか。いい
ですよ、と言うでしょうか。
われわれは驚くべく等質的なんですね。これはアメリカのようなところだけじゃなくて、他のヨーロッパに行くとすぐ分かり
ます。アメリカで、例えばニューヨークで地下鉄に乗りますと、アングロサクソンは二割いるでしょうか、まずいないですね。
人種的にあんなに等質的でない国はない。しかし今や同じようなことはヨーロッパに起こっています。イギリスは島国でよく
日本と比較されますね。昔は「極東のイギリス」なんて威張っていた、日本は。イギリス人で多いのはもちろんアングロサク
ソンです。ですけれども、例えば国籍からいいますと、三代までさかのぼってゆきますと、お母さんの系統がフランスから
来た、あるいはフィンランドから来た、あるいは東欧から来た、という人と出会います。ほとんど私の友人は大体三代まで
さかのぼれば他の国です。
日本人の場合はどうでしょうか。三代どころか大体99%はさかのぼれる限り日本人ですね。よく等質性というと民族学者
なんかは、そうじゃないんだ、と言うんです。それは昔をさかのぼればそうです。どこからか来たに違いないんですから。
何も太古から今の日本人が住んでいたわけじゃないんですから。ただ等質性が形成されてから日が長いということと、それ
からそれが驚くべく保持されている、つまり少数民族の問題を相対的に言うと持たなかったということは事実ですね。
この条件というものが永遠に続くとは思えない。そのとき初めて人種問題にぶつかる。日本人が今まで処女地であった、経験
しなかった問題にぶつかるわけです。それぐらいわれわれは等質的。海外に行って帰って来て、私が国電に乗って感ずる
ことは「みんな日本人だな」ってことなんです。国電に乗ってるのはほとんど日本人ですね。これは、ニューヨークはもちろん、
ロンドンでもまず見られませんね。みんなイギリス人ではないです。1960年のはじめでさえですよ。私が最初にイギリスに
行ったのは20年近く前になりますが、落書きに”Keep London white”というのがあった。これは表面的に読むと「ロンドンを
きれいにしよう」ということです。ところがこれは黒人の移入に対する反対なんです、隠された意味は。ということは大変な
問題になっている。今ヨーロッパ中がそうです。アフリカから大量に労働力として黒人が来ている。雇用問題をきっかけに
して、アメリカがずっと前に経験してきた人種問題が今ヨーロッパで沸騰しているんです。
世界は一つになりましたからね。これはいまだ、明日のことというんじゃありません。しかし、21世紀、あるいはひょっと
すると今世紀の終わりはどうなるでしょうか。つまり、国電に乗って「みんな日本人だな」というほど等質性が保持される
でしょうか。そのときに初めてわれわれは試される。そのとき初めてわれわれは本当に人種的差別感がないか、ということが
試されるわけです。
○私たちが直面する問題 -- 問題設定能力をみがく
そういうふうにして、今までの条件というのは全部変わっている。例えば、日本の急速な進歩--ということは、さっき言った
とおり、モデルを中国からヨーロッパに切り換えたことにあった。昔から中国から学んできたから、ヨーロッパから学んで何が
悪いんだという態度が、朝鮮や中国に比してとりやすかった。これは別の言葉で言うと、模範国があったということなんです。
ヨーロッパに追いつけ、追い越せ。つまり昔は中国に追いつけ、追い越せだった。聖人の国に追いつけ、追い越せ。モデルが
切り換わったわけです。模範国を今度は欧米列強に切り換えた。切り換えることが比較的容易だった。しかし今や追いついて
しまった。ある分野では追い抜いてしまった。変な、心配になるようなナショナリズムが出て来るくらい、欧米をテクノロジー
の面では追い抜きましたね。するとかつてのように欧米は模範国ではありません。これは反体制の側--パワー・エリートじゃ
なくて--にも言えます。模範国という習慣は非常に強いものですから、昔から学習能力というのは非常にあるんです。
例えば社会主義にとって、ソヴィエトが模範国であったり、中国が模範国であったりする。ところが、だんだんみんなそれが
どうも模範国ではないらしい、と。そうすると今度はやっぱり社会主義とは何かという、模範国を離れて、そういう根本的な
思想の問題というものを考え直さなきゃいけない。今までは特定の国家とくっついている、特定の地域とくっついている。
デモクラシーってのはヨーロッパなりアメリカとくっついていた。そうじゃなくて、デモクラシーの思想--普遍的な思想です、
これは--を問い直さなきゃいけない。少なくとも第三世界はその同じヨーロッパから学んだ同じデモクラシーの思想を
ヨーロッパに突きつけているわけです、今や。「お前たちのは、フランス革命が教えた自由・平等・博愛の精神に反するじゃ
ないか」と言われて、ギョッとしているわけです、ヨーロッパは。ヨーロッパから学んだのですけれど、それを逆にヨーロッパ
に向かって突き返しているわけですね。しかし、そのことは逆に言うと、自由・平等・博愛という思想が普遍的な思想である、
ということを示している。
例えばナチズムやファシズムではこういうことは起こりません。中ソ論争を見ても分かります。コミュニズムを含めてマルクス
主義も普遍的な思想だからこそ、中ソ論争は起こる。いろんな契機はありますよ。単なる国家的なパワー・ポリティクスの問題
もありますよ。しかし、あれはマルクス主義の「本家争い」なんです。「オレのほうが本当のマルクス・レーニン主義だ。ソ連
のやっていることはインチキだ」と中国は言い出したわけです。これは、普遍宗教にある正統と異端と似ているんです。正統
争いです。日蓮宗こそ本当の仏教だ、と言う、あるいは浄土宗こそ本当の仏教だ、と言う--あれと似ているんです。という
ことは、その教え自身が普遍的だから「本家争い」が起こる。
ドイツとイタリーがかつてファシズムの本家争いをしたということはないんです。なぜないか。ファシズムなりナチズムなり、
あるいは日本主義なりは普遍主義じゃないからです。”Deutschland uber Alles”--「ドイツは万国の親国(おやぐに)で
ある」と思っている。日本は万国の親国・・・・、これじゃ競争のしようがない、衝突のしようがない。テメエは絶対だ、と
する思想ですからね。
マルクス主義は、いかなる国も超えた、良いか悪いかは別として、どんな特定の民族、どんな特定の国家も超えた思想である
からこそ、ソ連の社会主義はインチキだと。われわれはインチキでない社会主義をつくろうという考え方が生まれて来るわけ
ですね。
で、そういうふうにしてですね、今までわれわれには模範国があった。これはさっき言った地理的条件。模範国から非常に高度
の文明を輸入して来た。模範生というのは学習能力はあります。解答を出す能力はあります。模範答案をつくる能力はあります。
残念ながら自分で問題をつくる能力は弱い。人が出してくれた問題を解くのは実に得意です。これはゴールの問題で言いますと、
目標を人から与えられたら、さっきの勢(いきほひ)ですね、エネルギーですごく張り切る。戦争というと一億火の玉になり
ます。オリンピックというとたちまち高速道路ができちゃうんですね、あの東京に。私はできない、とても無理だろうと思って
いたらできちゃった。ものすごくエネルギーがあります。これを目標達成能力と言うんですね。しかし目標は自分で作るんじゃ
ないんです。目標は外から与えられるんです。戦争とかオリンピックとか。そうするとみんな張り切っちゃうんです。日本の
社会のすごい生産力というのはそこなんです。目標は決まっているでしょ。と、みんな張り切っちゃうわけです。「キヨキ
ココロ」「アカキココロ」で会社に奉仕する。自分で目標を設定するんじゃない。いわんや新しい目標を作り出して来るんじゃ
ない。果たしてこれでやっていいのか、と。目標を設定したり、目標を選択する能力は、目標達成能力に比して劣るということ
なんです。これでやっていけるのか。
ちょうどさっきの地理的条件が、今や消滅したと同じようにこれだけではやっていけない。つまり新しいゴールというものを
われわれは設定し、あるいはプルーラルな、多元的な目標の中からわれわれの目標を選び出す能力というもの、つまり問題を
つくる能力、模範解答を出す能力じゃなくて、そういうものを養っていかなきゃいけない。これはもちろん教育の問題でも
あるし、政治の問題でもあるし、いろいろな問題です。そういう問題にわれわれは直面している。
だから、私は今日述べたような執拗低音というのは決して宿命的なものじゃない。良かれ悪しかれ、それは変革されるべき
運命にある。けれども、歴史的に振り返ると、日本の思想史を解明する上においては、その契機というものは相当大きな意味を
持っていたし、それはまた今日、明日にもなくなるものでもないし、また全部が悪い意味を持っているものでもない。さっき
言ったとおり、エンルギー主義もそうだし、「キヨキココロ」「アカキココロ」もそうだし、みんなそうですね、その意味では。
しかしそのマイナス面・・・・、良いものは放っておいても伸びるんです。悪いものは自覚しないとなかなか除去できない。
そこでわれわれを取り巻いていた好都合な条件というものは、長続きしませんよ、ということをわれわれが承知していかなけれ
ばいけないと思います。大変長いお話で。
*
[ 質疑への答え ]
まず第一に申し上げたいのは、貴方のおっしゃるのは、大学の教育に対する過大評価だと思います。そんなに人間を変えるもの
じゃないんで。法学部について申しますならば、例えば帝国大学で言えば、これは官吏養成所として出来たわけです。初めから。
したがって官吏養成所的性格というものをどうしても抜けきれない、今日に至るまで。いろいろと変わっていますけど抜けきれ
ないということがあります。しかしそれだけか、というと必ずしもそうではないですね。法学部、経済学部を通じて言えるの
ですが、つまり、帝大の社会科学というのは、戦前は「アカの巣窟」とみなされたわけです。大多数は官僚になりますよ。だけど
社会科学で例えば教授を見れば分かります。これは良いとか悪いとか言うんじゃないんです。いちばん迫害を受けたのは、東大
の法学部なり経済学部の教授なんです。追放されたり何かしたのは。社会科学の牙城だったわけで、そういう側面もあるという
ことです。
・・・・・ そんなに強くないんですね、教える力というのは。
というのは、美濃部[達吉]先生の例を見たらわかるでしょ。何十年の間ですね、美濃部先生の『憲法撮要』を読んで大日本
帝国の官僚になっているんですよ、みんな。美濃部先生があんな目に遭ってほとんど社会人として葬られようとしたときに、
誰ひとり先生を援護する人がなかったんですよ、東大の法学部の卒業者で。本当に美濃部先生の憲法学が身についていたら
どうしてそういうことがあり得たでしょうか。
・・・・・
だからお答えしたいのは、私は大学教育はそれほど力があるものじゃない、と、少なくとも過去の大学教育は。もっと力のある
ものにしたほうが良いかもしれません。しかしどうもヨーロッパを見てもアメリカを見ても私が知っている限り、大学という
のは専門知識を教えるところですね。人間の形成というのは、第一義的には家庭、第二義的的には教会とか宗教団体、それから
コミュニティ--地域団体、それから社会です。学校というのは、人間を形成する上にはきわめて小さな役割しか果たして
いない。これは当たり前なんです。大学は知識を与えるところであって、およそ人間を形成する場所ではない。だから私は、
もし与えるとしたらそれは、日本の場合には諸外国と事情が違って宗教の力が強くありませんから、現実には宗教教育という
のはそんなに期待できません。地域の文化活動も、幸いにして本荘市は非常に盛んでびっくりしたんですけれども、大体に
おいては弱いですね。ということは、文化とか教育というのは学校にほとんどおっかぶさっている恰好になっている。
・・・・・
それから今度は小・中学校には人間形成がかぶって来ている。これもある程度はあります、役目は。大学に比べれば小・中学校
というのは非常に人間形成には大事です。しかし、日本のように他の場合だったら家庭がやるべきこと、あるいは地域団体が
やるべきこと、社会がやるべきことが、全部学校の先生にかぶってるというのは、私は小学校の先生、中学校の先生に深甚の
同情を表しますね。過大の期待なんですね。むしろ他のほうがサボっている。家庭なり、地域なりなんなりが人間教育という
のをサボっている。そのマイナス面が全部学校にかかって来ている。そういう面がありはしないか、ということも考えていかな
きゃいけないんじゃないか、と思います。
*
・・・・・
それから、どんどん変わっていくことが全部進歩的だとは言えないでしょ。貴方もそう思わないでしょ。変わっていくという
ことと進歩的であるということは違うわけですね。右にいくことだって変わるわけですから。そうすると、変わらないことと
変わっていくことと、進歩的と保守的とは基準が違うということを言っているわけです。変わり身が早いということを言うわけ
です、私が今日のお話ししていることに即して言うならば。それから周囲の動向に引きずられる傾向が強いということとは、
今日の話から言えると思います。周囲が右になるとみんな右になる。
一夜にしてみんな民主主義者になったじゃないですか、(笑)これは全くアメリカの予想に反しちゃったんです。アメリカは、
[日本は]あれだけ狂信的な教育を吹き込まれたから、恐らくすごい抵抗運動があるだろうと思ったんです、アメリカの占領軍
は。どうしてアメリカという資本主義の権化のような国があんなに共産党を援助したかというと、あれでちょうどいいんだ、と。
日本は右に行ってしようがないから、うんと左にかけておけばちょうどバランスがとれるだろう、と。日本の軍国主義とファシ
ズムに対する驚くべき過大評価があった、見損なったんです。後になって、しまったと思って左の弾圧を始めたんです。
それぐらい変わり身が早いんですよ。
これは他の国に比べてはっきり言える傾向です、そういうと非常に悪い面ですね。じゃ悪い面だけかというと現れ方にはいろいろ
ある。変わり身の早さゆえに・・・・。[テープ終わり]」(P.124 ~ P.138)

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丸山眞男話文集 2 単行本 – 2008/8/9
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購入オプションとあわせ買い
第2巻には、異端論研究のひとつとして書かれた「中国古典における「異端」の字義をめぐって」、
早稲田大学丸山眞男自主ゼミナールとヴェーバー研究会における、多岐にわたるテーマの座談など、全6編。
丸山眞男(1914‐1996)の没後に『丸山眞男手帖』(「丸山眞男手帖の会」発行の季刊雑誌)で発掘、記録
された、丸山の文章・講演・座談・インタヴューを中心に収録。1936年、学生時代にノートに書かれた
「現状維持と「現状打破」」から、1996年、最晩年の弔文「寺田熊雄追悼」まで。時代状況に向けられた
批判的な視点、日本と西洋の先人や古典への深い読解が、ここに生き生きと語られる。
丸山の言葉の最後の集大成を、全4巻でおくる。
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批判的な視点、日本と西洋の先人や古典への深い読解が、ここに生き生きと語られる。
丸山の言葉の最後の集大成を、全4巻でおくる。
- 本の長さ472ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日2008/8/9
- ISBN-10462207382X
- ISBN-13978-4622073826
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商品の説明
著者について
丸山眞男
まるやま・まさお
1914年大阪に生まれる。1937年東京大学法学部卒業。1940年助教授、1950年教授。1961-62年ハーバード大学特別客員教授。1962-63年オックスフォード・セント・アントニーズ・カレッジ客員教授。1971年退官。1975-76年プリンストン高等学術研究所員。1996年8月15日歿。
主要著作『政治の世界』(1952)『日本政治思想史研究』(1952)共編『政治学事典』(1954)『日本の思想』(1961)『増補版 現代政治の思想と行動』(1964)『戦中と戦後の間』(1976)『「文明論之概略」を読む』(1986)『忠誠と反逆』(1992)『丸山眞男集』全16巻・別巻1(1995-97)『丸山眞男座談』全9巻(1998)『自己内対話』(1998)『丸山眞男講義録』全7巻(1998-2000)『丸山眞男書簡集』全5巻(2003-04)『丸山眞男回顧談』全2巻(2006)『丸山眞男話文集』全4巻(2008-09)『丸山眞男話文集 続』全3巻(2014-)。
まるやま・まさお
1914年大阪に生まれる。1937年東京大学法学部卒業。1940年助教授、1950年教授。1961-62年ハーバード大学特別客員教授。1962-63年オックスフォード・セント・アントニーズ・カレッジ客員教授。1971年退官。1975-76年プリンストン高等学術研究所員。1996年8月15日歿。
主要著作『政治の世界』(1952)『日本政治思想史研究』(1952)共編『政治学事典』(1954)『日本の思想』(1961)『増補版 現代政治の思想と行動』(1964)『戦中と戦後の間』(1976)『「文明論之概略」を読む』(1986)『忠誠と反逆』(1992)『丸山眞男集』全16巻・別巻1(1995-97)『丸山眞男座談』全9巻(1998)『自己内対話』(1998)『丸山眞男講義録』全7巻(1998-2000)『丸山眞男書簡集』全5巻(2003-04)『丸山眞男回顧談』全2巻(2006)『丸山眞男話文集』全4巻(2008-09)『丸山眞男話文集 続』全3巻(2014-)。
登録情報
- 出版社 : みすず書房 (2008/8/9)
- 発売日 : 2008/8/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 472ページ
- ISBN-10 : 462207382X
- ISBN-13 : 978-4622073826
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,008,473位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,507位政治入門
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著者について
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カスタマーレビュー
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評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2014年10月13日に日本でレビュー済み
書名の雰囲気よりも、はるかに面白い1冊。
値段の高さ、そして「あくまでも資料です」と言いたげなシブい体裁ゆえ、
いかにも専門家向けの“丸山眞男かく語りき・補遺篇”っぽい本だが、内容は、
親しい後輩相手に話したもので、既刊のこのシリーズ以上に、すこぶる読みやすい。
白眉は、1948年11月、雑誌「塔」創刊号掲載の「現代の学生生活を語る」だ。
東大3名、東北大1名、津田塾大1名、東京女子大1名、早大1名、
東工大1名、慶大1名、商科大(一橋大)2名、明大1名。
以上の学生相手に、当時東京大学法学部助教授だった丸山(34歳)が、
学生生活、アルバイト、自然科学と社会科学、大学教授の俸給、
日本文学と外国文学、恋愛と友情、宗教と社会……等々、
他方面にわたって語り合っている。もちろん、会話体。
どこが、ではなく、どこを読んでも、面白い。
それにしても、当時の大学生は、ホントに勉強している。本もよく読んでいる。
本書のもう一つの注目点は、1991年、恒例の懇談会での発言。
以下にその一部を。
「僕は社会党はホントにバカだと思う。国連の改組というのが全然出てこないの。
国家を基準にして憲法第九条を守ろう、守ろうと言うばかり。
それじゃ負けるに決まっていますよ。国連の主権国家単位を根本的に改組しなくては、
独立の軍備を持たない国家は国家じゃない、という議論に対して対抗できませんよ
いまは国家自身が変わっていると。どこの国でも自分の軍備を自分でまかない
得なくなっている、自分の国だけで戦争ができなくなっている。」(p.356)
「日本は第九条を国内でもかざしてないんだから、どうして世界に向かってかざせますか。
日本くらい憲法を粗末にしてきた国はないです。それは単におまえさんの国の憲法で
あって世界には通用しないというだけじゃないです。」(p.358)
値段の高さ、そして「あくまでも資料です」と言いたげなシブい体裁ゆえ、
いかにも専門家向けの“丸山眞男かく語りき・補遺篇”っぽい本だが、内容は、
親しい後輩相手に話したもので、既刊のこのシリーズ以上に、すこぶる読みやすい。
白眉は、1948年11月、雑誌「塔」創刊号掲載の「現代の学生生活を語る」だ。
東大3名、東北大1名、津田塾大1名、東京女子大1名、早大1名、
東工大1名、慶大1名、商科大(一橋大)2名、明大1名。
以上の学生相手に、当時東京大学法学部助教授だった丸山(34歳)が、
学生生活、アルバイト、自然科学と社会科学、大学教授の俸給、
日本文学と外国文学、恋愛と友情、宗教と社会……等々、
他方面にわたって語り合っている。もちろん、会話体。
どこが、ではなく、どこを読んでも、面白い。
それにしても、当時の大学生は、ホントに勉強している。本もよく読んでいる。
本書のもう一つの注目点は、1991年、恒例の懇談会での発言。
以下にその一部を。
「僕は社会党はホントにバカだと思う。国連の改組というのが全然出てこないの。
国家を基準にして憲法第九条を守ろう、守ろうと言うばかり。
それじゃ負けるに決まっていますよ。国連の主権国家単位を根本的に改組しなくては、
独立の軍備を持たない国家は国家じゃない、という議論に対して対抗できませんよ
いまは国家自身が変わっていると。どこの国でも自分の軍備を自分でまかない
得なくなっている、自分の国だけで戦争ができなくなっている。」(p.356)
「日本は第九条を国内でもかざしてないんだから、どうして世界に向かってかざせますか。
日本くらい憲法を粗末にしてきた国はないです。それは単におまえさんの国の憲法で
あって世界には通用しないというだけじゃないです。」(p.358)