端的に言って、非常に読みづらい書であった。時々翻訳本でこういう感覚を味わうことが有るが、原書の表現方法や論理展開が好まれるのか、直截的ではなく、間接話法的であったり、逆説的な表現であったり、あれもこれも匂わすような表現であったりして、インパクトがないため、結局何を言いたいのかはっきり掴めず、悶々としながら読んだ。
例えば裏表紙に本文の一部が載っているが、こうである。「わたしたちが20世紀から学んだものが他にないとするなら、私たちは少なくとも、答えが完全である分だけその結果も恐れるべきだ、ということを理解しておくべきだ。」というような表現が多い。
言いたいことは、私が小中学校の頃、60年以上前、学校でイギリスは「揺り籠から墓場まで」福祉が整った国だと教わり、”すごいな”と思たことがある。つまり、社会民主主義(福祉国家)が進んでいたと。
ところが、この著者は、1980年以降、サッチャーやレーガン以降のトップが、「新自由主義」を唱え、そういう非生産的な制度を壊し、民営化を進め、目標が「効率的な金儲け」に一気にシフトされ、貧者は無視され、大富豪が優秀な人であるという価値観に変わり、「同じ命を持ったもの」が、軽視され、見向きもされない状況に一気に堤防が破壊されたとする。この見方には私も、その通りで、思いは同じである。
願わくば、もっとすっきり、直截に記述し、社会民主主義とはこういうものでなければならないと、読みやすい論述の仕方をしてもらいたかった。
例えば、宇野弘蔵が「社会公共資本」「公共財」という概念の復活を唱えたように。

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荒廃する世界のなかで――これからの「社会民主主義」を語ろう 単行本 – 2010/10/22
「わたしたちが20世紀から学んだものが他にないとするなら、
わたしたちは少なくとも、答が完全である分だけ
その結果も恐るべきものなのだ、ということは理解しておくべきでした。
不満足な状況に対する追加的な改善というのが、
わたしたちが望み得る最善であり、そしておそらく、
わたしたちが追求すべきすべてなのでしょう。
他の人々は粛々として、状況を崩壊させ不安定化させることに
この30年間を費やしてきたのです。
このことに、わたしたちはもっと怒るべきです。
用心深さという根拠だけからしても、わたしたちは悩むべきです
――先輩たちが苦心して設えた堤防を、なぜあれほど大急ぎで取り潰してしまったのでしょう?
もう洪水は来ないなどと、わたしたちは確信が持てるのでしょうか?」(本文より)
今日の世界(とりわけ英米社会)には何か途方もない間違いが起こっているのではないか。
ジャットはわたしたちに、社会の不正と向き合い、
自らの生きる世界に対する責任を担うよう提言する。
そして政治言語を鍛え直して、
国家=政府の果たすべき役割、ガバナンスの新しいかたち、
より良い生き方について語ろう、と挑発する。
ニヒルな個人主義でもなく、破産した社会主義でもない「社会民主主義」の可能性はあるのか。
第一級の歴史家が人生の終わりに遺した本書は、
見かけは小さくともその射程と影響力はまことに大きい。
わたしたちは少なくとも、答が完全である分だけ
その結果も恐るべきものなのだ、ということは理解しておくべきでした。
不満足な状況に対する追加的な改善というのが、
わたしたちが望み得る最善であり、そしておそらく、
わたしたちが追求すべきすべてなのでしょう。
他の人々は粛々として、状況を崩壊させ不安定化させることに
この30年間を費やしてきたのです。
このことに、わたしたちはもっと怒るべきです。
用心深さという根拠だけからしても、わたしたちは悩むべきです
――先輩たちが苦心して設えた堤防を、なぜあれほど大急ぎで取り潰してしまったのでしょう?
もう洪水は来ないなどと、わたしたちは確信が持てるのでしょうか?」(本文より)
今日の世界(とりわけ英米社会)には何か途方もない間違いが起こっているのではないか。
ジャットはわたしたちに、社会の不正と向き合い、
自らの生きる世界に対する責任を担うよう提言する。
そして政治言語を鍛え直して、
国家=政府の果たすべき役割、ガバナンスの新しいかたち、
より良い生き方について語ろう、と挑発する。
ニヒルな個人主義でもなく、破産した社会主義でもない「社会民主主義」の可能性はあるのか。
第一級の歴史家が人生の終わりに遺した本書は、
見かけは小さくともその射程と影響力はまことに大きい。
- ISBN-104622075601
- ISBN-13978-4622075608
- 出版社みすず書房
- 発売日2010/10/22
- 言語日本語
- 本の長さ272ページ
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登録情報
- 出版社 : みすず書房 (2010/10/22)
- 発売日 : 2010/10/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 272ページ
- ISBN-10 : 4622075601
- ISBN-13 : 978-4622075608
- Amazon 売れ筋ランキング: - 432,859位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 44,467位社会・政治 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2018年1月16日に日本でレビュー済み
「先輩たちが苦心して設えた堤防を、なぜあれほど大急ぎで取り潰してしまったのでしょう? もう洪水は来ないなどと、わたしたちは確信が持てるのでしょうか?」(本書p.245)
はじめに、本書の著者であるトニー・ジャット(Tony judt)さんを簡単に紹介したい。ジャットさんは1948年、ロンドンのイーストエンドのユダヤ人家庭に生まれている。祖父母は東欧からの移住者であったが、一家の経済状況の向上とともに、彼はケンブリッジのキングズ・カレッジに進学(博士号も取得)、やがてオックスフォードのセント・アンズ・カレッジでフェローやチューターを務めた後、アメリカに渡りニューヨーク大学の教授に就任、併せてレマルク研究所所長としてヨーロッパ研究なども主導している。ジャットさんが亡くなったのは2010年8月で、62歳という若さであった。その早すぎる死の原因は筋萎縮性側索硬化症(ALS:別名ルー・ゲーリッグ病)であり、当書はALS闘病中に認められたものである。
まずもって、わたしがジャットさんの経歴で注目するのは、彼がユダヤ人家庭に生まれながらも、イスラエルに対して「ユダヤ人とアラブ人が平等の立場の二民族世俗国家を受け入れるべきだ」と主張、また、アメリカのイスラエル政策なども批判し、ユダヤ人団体等から相当圧力がかかったようである。また、ブッシュ(子)のイラク戦争やそれを支持するリベラルにも厳しい批判を行ったみたいである(以上「訳者付記」から)。言ってみれば、アメリカ知識人における“異端児”あるいは“一匹狼”的な顕学であるのは間違いないところであろう。だからこそ、「アメリカで社会民主主義を売り込むのは無理です」(p.14)と言いつつも、「リベラル」の粉をまぶすことなしに、正面切って「社会民主主義」の旗を掲げたのである。
そして今、米英の状況を観望してみると、例えば2016年のアメリカ民主党大統領候補選で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースさんや、2017年のイギリス総選挙でテリーザ・メイ首相率いる保守党を過半数割れに追い込んだ労働党党首のジェレミー・コービンさんなどが「民主社会主義者」と自称し、「社会民主主義」的政策が訴求力を高めてきているのである。とりわけ、イギリスでは「新保守主義と新自由主義のイデオロギー的混成体」(長谷川貴彦『 イギリス現代史 』)の“焼き直し”たる「サッチャリズム2.0」に対して、労働党に結集する若者たちなどが運動組織「モメンタム(Momentum)」を通じ、コービンさんと彼の主唱する「社会主義2.0」を支えている。こうした動きをわたしは羨ましく思われてならない。
以上、サッチャリズムやレーガノミクスの“母国”において、静かな“地殻変動”が起きてきていることをわたしたちは知る必要があるだろう。ここで本書の意義を述べてみたい。当著は、主として20世紀以降の欧米の社会経済的な歴史を洞察し、アメリカにおける1930年代の「ニューディール」や1960年代の「偉大な社会」政策、イギリスにおける「ベヴァリッジ報告」やケインズ主義的コンセンサスに基づいた「バッケリズム」、あるいは北欧の「スカンジナヴィア方式」等々、再分配を重視した高度な「福祉国家」化を志向する社会民主主義的なコンセンサスを高く評価する。昨今において、それらの“功罪”の“罪”のみが焦点化され、“功”を矮小化、否定する思潮に、ジャットさんは病魔と闘いながら、抗い続けたのだった。
Amazonで購入
「先輩たちが苦心して設えた堤防を、なぜあれほど大急ぎで取り潰してしまったのでしょう? もう洪水は来ないなどと、わたしたちは確信が持てるのでしょうか?」(本書p.245)
はじめに、本書の著者であるトニー・ジャット(Tony judt)さんを簡単に紹介したい。ジャットさんは1948年、ロンドンのイーストエンドのユダヤ人家庭に生まれている。祖父母は東欧からの移住者であったが、一家の経済状況の向上とともに、彼はケンブリッジのキングズ・カレッジに進学(博士号も取得)、やがてオックスフォードのセント・アンズ・カレッジでフェローやチューターを務めた後、アメリカに渡りニューヨーク大学の教授に就任、併せてレマルク研究所所長としてヨーロッパ研究なども主導している。ジャットさんが亡くなったのは2010年8月で、62歳という若さであった。その早すぎる死の原因は筋萎縮性側索硬化症(ALS:別名ルー・ゲーリッグ病)であり、当書はALS闘病中に認められたものである。
まずもって、わたしがジャットさんの経歴で注目するのは、彼がユダヤ人家庭に生まれながらも、イスラエルに対して「ユダヤ人とアラブ人が平等の立場の二民族世俗国家を受け入れるべきだ」と主張、また、アメリカのイスラエル政策なども批判し、ユダヤ人団体等から相当圧力がかかったようである。また、ブッシュ(子)のイラク戦争やそれを支持するリベラルにも厳しい批判を行ったみたいである(以上「訳者付記」から)。言ってみれば、アメリカ知識人における“異端児”あるいは“一匹狼”的な顕学であるのは間違いないところであろう。だからこそ、「アメリカで社会民主主義を売り込むのは無理です」(p.14)と言いつつも、「リベラル」の粉をまぶすことなしに、正面切って「社会民主主義」の旗を掲げたのである。
そして今、米英の状況を観望してみると、例えば2016年のアメリカ民主党大統領候補選で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースさんや、2017年のイギリス総選挙でテリーザ・メイ首相率いる保守党を過半数割れに追い込んだ労働党党首のジェレミー・コービンさんなどが「民主社会主義者」と自称し、「社会民主主義」的政策が訴求力を高めてきているのである。とりわけ、イギリスでは「新保守主義と新自由主義のイデオロギー的混成体」(長谷川貴彦『 イギリス現代史 』)の“焼き直し”たる「サッチャリズム2.0」に対して、労働党に結集する若者たちなどが運動組織「モメンタム(Momentum)」を通じ、コービンさんと彼の主唱する「社会主義2.0」を支えている。こうした動きをわたしは羨ましく思われてならない。
以上、サッチャリズムやレーガノミクスの“母国”において、静かな“地殻変動”が起きてきていることをわたしたちは知る必要があるだろう。ここで本書の意義を述べてみたい。当著は、主として20世紀以降の欧米の社会経済的な歴史を洞察し、アメリカにおける1930年代の「ニューディール」や1960年代の「偉大な社会」政策、イギリスにおける「ベヴァリッジ報告」やケインズ主義的コンセンサスに基づいた「バッケリズム」、あるいは北欧の「スカンジナヴィア方式」等々、再分配を重視した高度な「福祉国家」化を志向する社会民主主義的なコンセンサスを高く評価する。昨今において、それらの“功罪”の“罪”のみが焦点化され、“功”を矮小化、否定する思潮に、ジャットさんは病魔と闘いながら、抗い続けたのだった。
2018年8月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても良かった。政治にさんこうになる。
2011年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
サッチャーやレーガン以来の価値観であった新自由主義が何を齎してきたのかということはだんだん僕らにも見えるようになってきている。
一億総中流社会という言葉はある時期の日本を言い表していた。僕の記憶している限り、いささかの皮肉が込められた言葉だったと思う。中流という言葉の中途半端さが皮肉を呼んだのかもしれない。しかし、今となってみると、「中流」はともかくとして「一億総」という部分に実は安定した社会を維持出来てきた鍵があったということなのだろう。一億総中流社会とは実は良い時代だったのではないか。
本書の基本線は「社会の中で不平等、格差が広がった場合には、結果としてその社会を壊してしまう」という点だ。新自由主義が「自己責任と自助努力」という呪いと共に、徹底的に個人のメリットを追求した点に対する著者の最も強い反論がそこにある。
「自己責任と自助努力」という言葉を謳歌した連中はリーマンショックの際に、皮肉にも国に救済された。too big to failという仕掛けまで用意していた連中の賢さには感心するしかない。
Winner takes allという言葉がある。敗者には何も残らないわけだ。敗者は退場せよと言われる。しかし、どこに退場させるのかということだ、社会から退場させようということなのだろうか?その延長上が本書にも出てくるゲートコミュニティーでしかない。勝者が住める場所はゲートで閉じられた狭い場所になってしまうのだろう。なぜなら勝者の数は少なく、圧倒的多数が敗者であるのだから。
本書を読んで勉強になったことは世界は「大きな政府」と「小さな政府」の間を振り子のように動いてきているという歴史を持つということだ。新自由主義が横行したリーマンショックまでの流行は「小さな政府」である。震災後の日本はとりあえず「大きな政府」を志向せざるを得ないだろう。それほどまでの、この振り子の振幅は大きく、かつ揺れも早い。
その「早い揺れ」の中で、そもそもの人間の社会というものはどうあるべきなのかを語るのが本書である。本書が説く社会民主主義は格差を減らし、平等を志向する哲学だ。それが本当に動物としての人間のあるべき姿なのかどうかはまだ結論は出ていないとは思う。但し、震災と原発問題を抱えた日本という特異な地点から見て、現段階では非常に魅力的な言説であることは確かだ。少なくとも最近の日本で「勝ち組、負け組」という言葉は聞かなくなったと思う。
但し、繰り返すが、それが本当に人間の本性なのかどうかは分からない。
一億総中流社会という言葉はある時期の日本を言い表していた。僕の記憶している限り、いささかの皮肉が込められた言葉だったと思う。中流という言葉の中途半端さが皮肉を呼んだのかもしれない。しかし、今となってみると、「中流」はともかくとして「一億総」という部分に実は安定した社会を維持出来てきた鍵があったということなのだろう。一億総中流社会とは実は良い時代だったのではないか。
本書の基本線は「社会の中で不平等、格差が広がった場合には、結果としてその社会を壊してしまう」という点だ。新自由主義が「自己責任と自助努力」という呪いと共に、徹底的に個人のメリットを追求した点に対する著者の最も強い反論がそこにある。
「自己責任と自助努力」という言葉を謳歌した連中はリーマンショックの際に、皮肉にも国に救済された。too big to failという仕掛けまで用意していた連中の賢さには感心するしかない。
Winner takes allという言葉がある。敗者には何も残らないわけだ。敗者は退場せよと言われる。しかし、どこに退場させるのかということだ、社会から退場させようということなのだろうか?その延長上が本書にも出てくるゲートコミュニティーでしかない。勝者が住める場所はゲートで閉じられた狭い場所になってしまうのだろう。なぜなら勝者の数は少なく、圧倒的多数が敗者であるのだから。
本書を読んで勉強になったことは世界は「大きな政府」と「小さな政府」の間を振り子のように動いてきているという歴史を持つということだ。新自由主義が横行したリーマンショックまでの流行は「小さな政府」である。震災後の日本はとりあえず「大きな政府」を志向せざるを得ないだろう。それほどまでの、この振り子の振幅は大きく、かつ揺れも早い。
その「早い揺れ」の中で、そもそもの人間の社会というものはどうあるべきなのかを語るのが本書である。本書が説く社会民主主義は格差を減らし、平等を志向する哲学だ。それが本当に動物としての人間のあるべき姿なのかどうかはまだ結論は出ていないとは思う。但し、震災と原発問題を抱えた日本という特異な地点から見て、現段階では非常に魅力的な言説であることは確かだ。少なくとも最近の日本で「勝ち組、負け組」という言葉は聞かなくなったと思う。
但し、繰り返すが、それが本当に人間の本性なのかどうかは分からない。
2011年2月6日に日本でレビュー済み
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過去(20世紀以前)からの経験としての、裕福になりたいという潜在意識の中、資本主義に守られた市場原理主義が広く世界を覆い、共産主義をも解体する位力を持ち、世界がお金に絶対の力を持たせてしまった。過去の歴史の中には、「こんな事は良い事だろうか?」とか「自分にこれは必要な事だろうか?」とか振り返る事が、人間としての基本にあったのだが、それさえも捨て去ってしまった。
形振り構わず突き進む市場原理主義に異を唱える人も居たが、聞き耳を立てる人もなく(人はその場に慣れてしまうので)やがて崩壊する事を遠くで感じながら、その手も打たず、ここまで来て
しまった。社会民主主義は、ヨーロッパの片隅に現在まで追いやられてきたが、今やっとその持つ意味とか位置が、世界に見え始めてきたのだが、いわゆる世界の勝ち組の人達は、自らの栄光を
捨てられず、政治家も自分達が間違ったとは言えず、どうやって取り入れるかも解らず、若い人達もどう行動して良いか解らず、この思いが渦巻いているのが現在なのだ。人は自分の立ち位置に慣れて
しまうものだ。おかしいと思ったら直ぐに行動する、そうして世界は少しづつ変わっていかなければならないのだと感じた。
形振り構わず突き進む市場原理主義に異を唱える人も居たが、聞き耳を立てる人もなく(人はその場に慣れてしまうので)やがて崩壊する事を遠くで感じながら、その手も打たず、ここまで来て
しまった。社会民主主義は、ヨーロッパの片隅に現在まで追いやられてきたが、今やっとその持つ意味とか位置が、世界に見え始めてきたのだが、いわゆる世界の勝ち組の人達は、自らの栄光を
捨てられず、政治家も自分達が間違ったとは言えず、どうやって取り入れるかも解らず、若い人達もどう行動して良いか解らず、この思いが渦巻いているのが現在なのだ。人は自分の立ち位置に慣れて
しまうものだ。おかしいと思ったら直ぐに行動する、そうして世界は少しづつ変わっていかなければならないのだと感じた。
2011年1月22日に日本でレビュー済み
本来、日本型資本主義が欧州において「社会主義」と呼ばれていたことはまだ人々の記憶に残っているはずだ。例えばそれはお隣さんのおせっかいであったりするのだがある種の独自の福祉システムが存在していたと言ってよい。本書の書評で姜尚中氏が述べるようにそれは多くの「矛盾」が累積していた。果たして日本型社会主義が崩れた今、欧州型社会民主主義をとる必然性はどこにあるのだろう。経済学者ローマーが述べるように欧州型社会民主主義は欧州以外のアフリカや南米ですら難しいと言われる。何故今、再び実験の季節なのか。自民党の実験の失敗。そして民主党の実験の実験…今度の社会民主主義だけは果たして成功するのだろうか。
2012年1月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史の振り子の中で、私たちがかつて選んだ、国家によって市場の失敗に対処するという、より賢明な選択肢を、貧困をはじめとするさまざまな社会問題が一挙に再来する今、改めて私たちに提示する本。
社会疫学の圧倒的なエビデンスが示すように、私たちの幸福は、(一定の先進国において)経済的なゆたかさではなく、その国の格差の小ささに依存する。つまり、経済成長か、心の豊かさかというような、二択の問いはニセの問いである。新自由主義そして新古典派経済学が、私たちを誘導してきたこの30年間、このようなニセの問いに、私たちはとらわれてきた。ジャッドは、この30年間、金融資本主義が「自由」の名を借りて、人々の生存の自由すら奪ってきたことを描き出す。要は、市場は失敗するのだ。
本書は、この失われた時間を取り戻すための、警世の書である。
歴史家であるジャッドは、「裕福な人がますます裕福になる手立てを講ずるだけでは、資本主義は立ち行かなくなる」というケインズの見解を政治思想として、欧州を主導してきたのが社会民主主義であり、アメリカの「偉大な社会」もまた、同様な思想に基づいていたことを指摘する。そう、ジャッドが説くのは、この30年間、その魅力を伝えることを怠ってきた、社会民主主義を再発見することである。
東日本大震災の後、私たちは「一つである」と感じ、「一つでなければならない」と感じた。しかし、新自由主義が推し進めてきたのは、私たちは「一つでない」からこそ、つまり、不平等があるからこそ頑張れるのだという、イデオロギーである。本書は、3.11後、このイデオロギーを乗り越えるために私たちに贈られた道標である。
社会疫学の圧倒的なエビデンスが示すように、私たちの幸福は、(一定の先進国において)経済的なゆたかさではなく、その国の格差の小ささに依存する。つまり、経済成長か、心の豊かさかというような、二択の問いはニセの問いである。新自由主義そして新古典派経済学が、私たちを誘導してきたこの30年間、このようなニセの問いに、私たちはとらわれてきた。ジャッドは、この30年間、金融資本主義が「自由」の名を借りて、人々の生存の自由すら奪ってきたことを描き出す。要は、市場は失敗するのだ。
本書は、この失われた時間を取り戻すための、警世の書である。
歴史家であるジャッドは、「裕福な人がますます裕福になる手立てを講ずるだけでは、資本主義は立ち行かなくなる」というケインズの見解を政治思想として、欧州を主導してきたのが社会民主主義であり、アメリカの「偉大な社会」もまた、同様な思想に基づいていたことを指摘する。そう、ジャッドが説くのは、この30年間、その魅力を伝えることを怠ってきた、社会民主主義を再発見することである。
東日本大震災の後、私たちは「一つである」と感じ、「一つでなければならない」と感じた。しかし、新自由主義が推し進めてきたのは、私たちは「一つでない」からこそ、つまり、不平等があるからこそ頑張れるのだという、イデオロギーである。本書は、3.11後、このイデオロギーを乗り越えるために私たちに贈られた道標である。