近代日本の日記をテーマに広い視野で捉えるとともに時に個々の日記の詳細に分け入る。樋口一葉、管野須賀子、八木秋子等の女性の日記については歴史書として破格なくらいつっこんで人生を追いかけていく。
敗戦の8/15の日記について、奇妙なまでに色々な日記の記述が似通っていることから、報道の影響を見て取る。書くという行為は自分の頭で考えているようで、実際には権力やメディアの言説を内面に取り込んでいることが多い。そうした危うさを指摘する一方で、日記を続けることにより意図せず露わになる真実の可能性にも目を向ける。このシリーズが掲げる「知の揺らぎから新たなる歴史の知へ」というテーマにふさわしい本。
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日記をつづるということ: 国民教育装置とその逸脱 (ニューヒストリー近代日本 6) 単行本 – 2009/5/1
西川 祐子
(著)
- 本の長さ335ページ
- 言語日本語
- 出版社吉川弘文館
- 発売日2009/5/1
- 寸法13.6 x 3 x 19.5 cm
- ISBN-104642037055
- ISBN-13978-4642037051
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登録情報
- 出版社 : 吉川弘文館 (2009/5/1)
- 発売日 : 2009/5/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 335ページ
- ISBN-10 : 4642037055
- ISBN-13 : 978-4642037051
- 寸法 : 13.6 x 3 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 978,909位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 29,210位日本史 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年9月7日に日本でレビュー済み
日記というものを書いた最初のきっかけは、現代の多くの人にとっては初等教育の場においてであろう。しかし、そもそも「日記を書く」行為がなぜここまで教育現場において熱心に実施されなければならないのか? また、同様の性質をもつ「家計簿」といったものを記録し続ける行為が、なぜ婦人雑誌などを通じて推奨されてきたのか? 本書は日記という一見ありふれた営みの背後に広がる「国民教育のための装置」という見えにくい問題を、詳細な分析と資料の読み込みをもとに提示していく。
したがってこの本では、「日記帳に書かれた内容」だけではなく、日記帳という存在の「商品」の側面であったり、書くべき内容のフォーマット、枠組みといったものが、時代時代においてどのように捉えられていったかといった点も論究していく。それはまさに日記帳を通してみえてくる日本の社会変動史であり、そうして人々が綴ってきた日記帳のページの1枚1枚の積み重ねが、やがて「国民教育」という狙いとは意図せぬところまで達するあたりをも照射する。したがって副題に添えられている「逸脱」という言葉は非常に重要である。「日記をつけることをやめる」だけでなく、実は「日記を自主的に書き続けること」でも達成されていってしまう「逸脱」のありかた。こうした日記帳をめぐるスリリングな探求は、学術書でありながらも一遍のドキュメンタリー映画を観ているような気分になった。
「こうしてつくられた近代の日記の枠組みが日々日記帳をひらく無数の日記作者に呼び掛け、日記をつづる主体の性別役割、職業意識、さらには時間の意識、内面といわれるものの構築をなし、内心をおしころして死地へ赴く兵士、愛する夫や子どもを戦地へ送り出し自ら積極的に銃後をまもる女性と子どもたちをつくりあげる。国民教育装置としての徹底度は、わたしの予想をはるかにこえた。(中略)なかでも、幾世代にわたって家計簿と主婦日記を先導したいくつかの女性雑誌を通読するうちに、貯蓄という名目で各家庭から吸い上げられる資本と、会社へゆく時間、学校へ行く時間という名目で集められ束ねられる現在と未来の労働力の行方とが、空恐ろしいほど巨大な姿をとって浮かび上がる。調べながら、本書を記述しながら、わたしはたびたびこの収奪の全貌を視界におさめた人はいままであったのだろうかと、我が目を疑った。一つひとつの家計簿や日記帳はつつましい日々の懸命の営みを記録しているのであるが、もしその全てを「つづけ読み」「くらべ読み」して総合することができるなら、一国の農村地帯から工業地帯へ向かう人口移動、植民地進出、戦争、経済進出にいたる巨大な物語がなまなましく浮上する。」(pp.291-292)
したがってこの本では、「日記帳に書かれた内容」だけではなく、日記帳という存在の「商品」の側面であったり、書くべき内容のフォーマット、枠組みといったものが、時代時代においてどのように捉えられていったかといった点も論究していく。それはまさに日記帳を通してみえてくる日本の社会変動史であり、そうして人々が綴ってきた日記帳のページの1枚1枚の積み重ねが、やがて「国民教育」という狙いとは意図せぬところまで達するあたりをも照射する。したがって副題に添えられている「逸脱」という言葉は非常に重要である。「日記をつけることをやめる」だけでなく、実は「日記を自主的に書き続けること」でも達成されていってしまう「逸脱」のありかた。こうした日記帳をめぐるスリリングな探求は、学術書でありながらも一遍のドキュメンタリー映画を観ているような気分になった。
「こうしてつくられた近代の日記の枠組みが日々日記帳をひらく無数の日記作者に呼び掛け、日記をつづる主体の性別役割、職業意識、さらには時間の意識、内面といわれるものの構築をなし、内心をおしころして死地へ赴く兵士、愛する夫や子どもを戦地へ送り出し自ら積極的に銃後をまもる女性と子どもたちをつくりあげる。国民教育装置としての徹底度は、わたしの予想をはるかにこえた。(中略)なかでも、幾世代にわたって家計簿と主婦日記を先導したいくつかの女性雑誌を通読するうちに、貯蓄という名目で各家庭から吸い上げられる資本と、会社へゆく時間、学校へ行く時間という名目で集められ束ねられる現在と未来の労働力の行方とが、空恐ろしいほど巨大な姿をとって浮かび上がる。調べながら、本書を記述しながら、わたしはたびたびこの収奪の全貌を視界におさめた人はいままであったのだろうかと、我が目を疑った。一つひとつの家計簿や日記帳はつつましい日々の懸命の営みを記録しているのであるが、もしその全てを「つづけ読み」「くらべ読み」して総合することができるなら、一国の農村地帯から工業地帯へ向かう人口移動、植民地進出、戦争、経済進出にいたる巨大な物語がなまなましく浮上する。」(pp.291-292)