素朴な「国語」に関する従来的概念を徹底的に暴き、解体していく本。「国語」なるものが近代以降の歴史的・政治的産物であることを徹底的に明らかにしていく。
政治的な立場から、あるいは感情的なレベルから抵抗を覚える向きもあるだろう。一つの合理的な、ラディカルな思考を突き進め結果からの日本語論であり、一つの知的試みとしては刺激に富み、考えさせられる点は多い。
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「国語」という呪縛: 国語から日本語へ、そして○○語へ (歴史文化ライブラリー 290) 単行本 – 2010/1/1
- 本の長さ207ページ
- 言語日本語
- 出版社吉川弘文館
- 発売日2010/1/1
- ISBN-104642056904
- ISBN-13978-4642056908
登録情報
- 出版社 : 吉川弘文館 (2010/1/1)
- 発売日 : 2010/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 207ページ
- ISBN-10 : 4642056904
- ISBN-13 : 978-4642056908
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,288,563位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 86,143位歴史・地理 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年9月1日に日本でレビュー済み
著者は前作で「国語=日本人だけが使うもの」との日本人が持つメンタリティや古層の問題点を見事に炙り出し検証することに成功した。
本書はそれを更に一歩進める形で「国語」と「国語教育の誕生と変遷」の分析に移行させる。
世界中どこを見渡しても「国語」という教科目を学校教育に設けている国は日本以外には見当たらない。他の諸国の殆どが「母国語」の形で英語なりフランス語やドイツ語あるいは中国語(スタンダード・マンダリン)を扱い、それぞれの言語の名前で呼び、もしそれが日本のケースを想定するならば「日本語」となるはずである。こうした点からそれが日本では「国語」と呼ばれるはなぜかとの問題を著者は先ず立てる。
話は少し横道に逸れるが、「国語」と同じ呼び方をされて教科目が他にもある。それは戦中や戦前にあった「国史」て゜あり、戦後は東大文学部にある「史学科-国史学専攻」に残っていた。
「日本史」ではなく「国史」であることと、「日本語」ではなく「国語」であることの二つの領域に共通する背景を辿っていけば、行き着く先は明治維新が求めた新たな体制の構築を支えるための国民教化策の要素だったことも明らかになってくる。
近代以前にあった「日本語」には書き言葉として定着していた漢語や漢語化したサンスクリット語もあれば蘭語や西語そして葡語もある。一方,日常会話で使われていた言葉の殆どは和語と呼ばれる存在だった。江戸庶民の教養が高かったことの裏付けは『百人一首』を殆どの町民階層が読み書きしていたことにもうかがい知る事もできる
だが近年「美しい日本語」と呼ばれる怪しげな本も目に付く中で,その殆どが「日本」を強調しすぎる余りに,言葉が持つイメージやニュアンスを捨象しがちである点にも留意する必要があろう。
「車軸を流すような雨」や「土砂降り」は共に豪雨や激しく降る雨の様子を形容したものだが,そうした場合の漢語的表現にすら異論を唱えるのはどんなものだろうか。漢語だからそれは日本語ではないとでもいうのなら,元からあったと説明する「メタ日本語」を示す必要もあるが,そうした具体的根拠を示した本を目にするのは珍しく,「メタ日本語こそ国語である」との言説には思い込みはあっても余り説得力はない。
もし「日本語=和語だけ」とするならば,学校で扱う「国語」はどのように説明するのかとの問題が再び頭を擡げてくる。確かに小学校の国語の授業では「外来語」を扱う単元があり,「国語を構成する一つの領域」として説明する。
明治維新期に新たな枠組みとその土台を構築するために東奔西走した様々な人々の泣き笑いの姿を想像するならば,そうした何か特定の考え方に固執することの方に違和感を覚えさせもする。
ゼロから何かを生み出すことは翻訳作業にも似ている。
本書はそれを更に一歩進める形で「国語」と「国語教育の誕生と変遷」の分析に移行させる。
世界中どこを見渡しても「国語」という教科目を学校教育に設けている国は日本以外には見当たらない。他の諸国の殆どが「母国語」の形で英語なりフランス語やドイツ語あるいは中国語(スタンダード・マンダリン)を扱い、それぞれの言語の名前で呼び、もしそれが日本のケースを想定するならば「日本語」となるはずである。こうした点からそれが日本では「国語」と呼ばれるはなぜかとの問題を著者は先ず立てる。
話は少し横道に逸れるが、「国語」と同じ呼び方をされて教科目が他にもある。それは戦中や戦前にあった「国史」て゜あり、戦後は東大文学部にある「史学科-国史学専攻」に残っていた。
「日本史」ではなく「国史」であることと、「日本語」ではなく「国語」であることの二つの領域に共通する背景を辿っていけば、行き着く先は明治維新が求めた新たな体制の構築を支えるための国民教化策の要素だったことも明らかになってくる。
近代以前にあった「日本語」には書き言葉として定着していた漢語や漢語化したサンスクリット語もあれば蘭語や西語そして葡語もある。一方,日常会話で使われていた言葉の殆どは和語と呼ばれる存在だった。江戸庶民の教養が高かったことの裏付けは『百人一首』を殆どの町民階層が読み書きしていたことにもうかがい知る事もできる
だが近年「美しい日本語」と呼ばれる怪しげな本も目に付く中で,その殆どが「日本」を強調しすぎる余りに,言葉が持つイメージやニュアンスを捨象しがちである点にも留意する必要があろう。
「車軸を流すような雨」や「土砂降り」は共に豪雨や激しく降る雨の様子を形容したものだが,そうした場合の漢語的表現にすら異論を唱えるのはどんなものだろうか。漢語だからそれは日本語ではないとでもいうのなら,元からあったと説明する「メタ日本語」を示す必要もあるが,そうした具体的根拠を示した本を目にするのは珍しく,「メタ日本語こそ国語である」との言説には思い込みはあっても余り説得力はない。
もし「日本語=和語だけ」とするならば,学校で扱う「国語」はどのように説明するのかとの問題が再び頭を擡げてくる。確かに小学校の国語の授業では「外来語」を扱う単元があり,「国語を構成する一つの領域」として説明する。
明治維新期に新たな枠組みとその土台を構築するために東奔西走した様々な人々の泣き笑いの姿を想像するならば,そうした何か特定の考え方に固執することの方に違和感を覚えさせもする。
ゼロから何かを生み出すことは翻訳作業にも似ている。