戦時下の日本の時勢の流れに沿って、多くの映画の
作成過程、観客数、国策映画性の強弱、配役、など
などが詳細に記述されている。
百科事典的だ。
検閲や統制についても書かれていて資料的価値も
ある。
DVDが出ているなどの情報価値もある。
これを参考に「無法松の一生」など購入してみた。
DVDが出ていないものや、現在買えないものも
あり、力を入れて、製作してもらいたい、と思う。
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戦時下の日本映画: 人々は国策映画を観たか 単行本 – 2003/2/1
古川 隆久
(著)
- 本の長さ244ページ
- 言語日本語
- 出版社吉川弘文館
- 発売日2003/2/1
- ISBN-104642077952
- ISBN-13978-4642077958
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
すれ違い恋愛劇「愛染かつら」の公開に、映画の役割について激しい論争が繰り広げられた。「国策映画」が推奨された時代に、人々はどのような映画を求めていたのか。スクリーンに映し出された昭和戦時下の日本社会を探る。
登録情報
- 出版社 : 吉川弘文館 (2003/2/1)
- 発売日 : 2003/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 244ページ
- ISBN-10 : 4642077952
- ISBN-13 : 978-4642077958
- Amazon 売れ筋ランキング: - 685,383位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年2月21日に日本でレビュー済み
日中戦争が始まったくらいから終戦までの日本映画の動きについてのよく考えたら当たり前の視点からの研究。
軍需産業を中心として労働者の間にはバブルが発生し、その中で映画産業はある種の全盛期を迎えることになる。しかし基本的には娯楽映画しか営業的には成功せず、評論家は上から目線でそういう消費者からウケた映画を非難して、芸術性の高い映画を見ない愚民どもめ、とdisる。
で、戦時体制での国策映画って何が求められるか、ということなんだけど二つの考え方がある。
・戦時体制においての精神を注入するような映画
・明日を戦うための活力を得るための娯楽映画
当局は前者の方を選択してしまったのである。となると当然だが同様の構造は引き継がれてしまい、国策映画はまともな営業成績をあげることができない。あげくに政府から物資不足の中でフィルムも節約してるんだから、みんなに見てもらえる映画作れって言われてしまう次第。言い換えれば国策糞映画で資源浪費すんな、て政府がいうたわけで、こりゃどうしようもないね。
後書きで「カルチュラルスタディーズの作法に則らず、営業データとか当時の論評から評価する、という従来型の手法に従った」と書いてたが、
たぶん国策映画の定義の問題があるんろうな。
時代の雰囲気ってのはあって、戦争を題材にした人気映画はあったが、カルチュラルなんとかの視点からすると国策映画となる。しかし著者からすると作り手の意識として国策とかは検閲対策で、面白い映画を作ろうとして出来たのなら国策映画じゃないよね、となるんだろうな。
評論家や官僚のウエメセ教養主義は庶民からは遊離してて、映画を見るのは人数でいえば庶民が大半であった。そういうよく考えたら当たり前の事実を指摘してる。
面白くないし見に行く気もしないのでウエメセ国策糞映画。そして誰もわざわざウエメセ国策糞映画なんか見に行かないよね、という話。
よく考えたら一種のトートロジーではあるのだがw
ハワイ・マレー沖海戦とかはこの2つの観点の相違からすると、国策映画だけど国策映画じゃないということなんだろう。娯楽作品として極めて優れているから、ということでね。
ドイツやアメリカみたいに娯楽作品に徹してその中に国策を混ぜるというのがいいんだろうな。
軍需産業を中心として労働者の間にはバブルが発生し、その中で映画産業はある種の全盛期を迎えることになる。しかし基本的には娯楽映画しか営業的には成功せず、評論家は上から目線でそういう消費者からウケた映画を非難して、芸術性の高い映画を見ない愚民どもめ、とdisる。
で、戦時体制での国策映画って何が求められるか、ということなんだけど二つの考え方がある。
・戦時体制においての精神を注入するような映画
・明日を戦うための活力を得るための娯楽映画
当局は前者の方を選択してしまったのである。となると当然だが同様の構造は引き継がれてしまい、国策映画はまともな営業成績をあげることができない。あげくに政府から物資不足の中でフィルムも節約してるんだから、みんなに見てもらえる映画作れって言われてしまう次第。言い換えれば国策糞映画で資源浪費すんな、て政府がいうたわけで、こりゃどうしようもないね。
後書きで「カルチュラルスタディーズの作法に則らず、営業データとか当時の論評から評価する、という従来型の手法に従った」と書いてたが、
たぶん国策映画の定義の問題があるんろうな。
時代の雰囲気ってのはあって、戦争を題材にした人気映画はあったが、カルチュラルなんとかの視点からすると国策映画となる。しかし著者からすると作り手の意識として国策とかは検閲対策で、面白い映画を作ろうとして出来たのなら国策映画じゃないよね、となるんだろうな。
評論家や官僚のウエメセ教養主義は庶民からは遊離してて、映画を見るのは人数でいえば庶民が大半であった。そういうよく考えたら当たり前の事実を指摘してる。
面白くないし見に行く気もしないのでウエメセ国策糞映画。そして誰もわざわざウエメセ国策糞映画なんか見に行かないよね、という話。
よく考えたら一種のトートロジーではあるのだがw
ハワイ・マレー沖海戦とかはこの2つの観点の相違からすると、国策映画だけど国策映画じゃないということなんだろう。娯楽作品として極めて優れているから、ということでね。
ドイツやアメリカみたいに娯楽作品に徹してその中に国策を混ぜるというのがいいんだろうな。
2015年12月6日に日本でレビュー済み
この著書によると、国策映画はあまり観客が入らなかった。したがって映画に寄るプロパガンダは出来ないかったし、権力者の意図は外れた。
そしてお国のために戦うという戦時下の息苦しさを娯楽を求める映画でやっても、国民は腹の底ではやだなあ、と思っていたんだろうと思う。
そういう意味では、お国を防衛するために命を懸けて鬼畜米英と戦え、ということを表向きは支持しても気持ちの上では死にたくないというのが普通の感覚だよなあ。
それは日本男子が成人すれば兵隊になって死ぬことを是としても、国民が本気で思っていないことだ。
また息苦しいからこそ、息抜きの娯楽が必要であり、その娯楽で説教されてもたまらん。しかも金も払って観るのだから。
この研究書を読んで戦争のためにお国が旗を振っても、そうそう洗脳はされないよ、ということが判る。
本気で聖戦だと洗脳したけりゃもう少し科学的というか医学的な方法を取らにゃ、ということかな。
そしてお国のために戦うという戦時下の息苦しさを娯楽を求める映画でやっても、国民は腹の底ではやだなあ、と思っていたんだろうと思う。
そういう意味では、お国を防衛するために命を懸けて鬼畜米英と戦え、ということを表向きは支持しても気持ちの上では死にたくないというのが普通の感覚だよなあ。
それは日本男子が成人すれば兵隊になって死ぬことを是としても、国民が本気で思っていないことだ。
また息苦しいからこそ、息抜きの娯楽が必要であり、その娯楽で説教されてもたまらん。しかも金も払って観るのだから。
この研究書を読んで戦争のためにお国が旗を振っても、そうそう洗脳はされないよ、ということが判る。
本気で聖戦だと洗脳したけりゃもう少し科学的というか医学的な方法を取らにゃ、ということかな。
2003年2月12日に日本でレビュー済み
二年間の調査の結果にしては、なかなかまとまっていると思います。筆者が映画の専門でないのが逆に幸いして、面白く読めました。(逆に、出版社も映画のことはわからないところなので、「ハンフリー・ボガード」、「イングリット・バーグマン」という基本的な表記ミスを冒しておりますが。)