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差別語からはいる言語学入門 単行本 – 2001/11/9
田中 克彦
(著)
- 本の長さ187ページ
- 言語日本語
- 出版社明石書店
- 発売日2001/11/9
- ISBN-104750314978
- ISBN-13978-4750314976
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
差別語の発見、言語ニヒリズムの邪道、蔑視語と差別語、サベツ語糾弾が言語体系にもたらす結果、略語のサベツ効果についてなど、差別語問題を通じて、言語学的な考え方にふれる試み。
登録情報
- 出版社 : 明石書店 (2001/11/9)
- 発売日 : 2001/11/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 187ページ
- ISBN-10 : 4750314978
- ISBN-13 : 978-4750314976
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,124,433位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人の使う差別用語に知らずに乗せられて自分も差別用語を使ってしまう。そんなことが無いように啓発してくれる本です。
2014年3月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本来言語は使用している民衆のものであるはずが、言語学は専門家に独占され、彼らは排除されている。言語学を民衆のものに取り戻すために、専門家が忌避している差別語からあえて、アプローチしようとする作者の視点が面白い。多言語に通じた博識ながら、学者のいやらしさが無く好感が持てた。この本が出版された経過の説明も詳しく、差別語の対するマスコミ対応もわかり面白い。薄い本なので気楽に読める。
2020年9月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
他の方が’ 期待はずれ ‘と既にレビューしておられますが、そのとおり。「 漢字が日本語を滅ぼす 」が面白かったために購入したのだが。著者は名著だと述べているけれど。
2022年6月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
学生時代から田中克彦氏の著作を愛読し、その多くを繰り返し読んできた。田中氏の著作は常に、言語について考察するためのヒントを与えてくれたからである。田中氏の著作を繰り返し読んできた者は、田中氏が歴史的事実に関して多くの誤った記述をしていることに気づかないわけにはいかない。たとえば田中氏の名著にして代表的な著作の一つ『ことばと国家』の第八章「国境を超えるイディッシュ」において田中氏はナータン・ビルンバウムを「イディッシュ文法(1918年ウィーン刊)の著者」と看做しているが、ナータン・ビルンバウムにそのような著書はない。どうやら田中氏はナータン・ビルンバウムの長男の著作Praktische Grammatik der Jiddischen Sprache für den Selbstunterricht, Wien 1918と取り違えたようだ。イディッシュ語について論じようとする言語学者がイディッシュ語の文法書の著者を間違えるとは恥ずべき無知だと言わざるを得ない。このような誤りを目にするとこの言語学者はイディッシュ語について何も知らないのだろうと推測させられるのだが、それでもこのような誤りは単なるケアレスミスにすぎないと言い逃れることもできるかもしれない。しかし田中氏の反歴史的性格はそんなものではない。
1978年の著作『言語からみた民族と国家』には「カール・カウツキーと国家語」という論文が収録されている。「カール・カウツキーと国家語」と題されているのだから、国家語概念の知識を前提に、カウツキーの国家語理解を検討しているのだろうと、読者は推定する。しかし田中氏はそもそも国家語とは何かを明らかにすべき資料をただの一行も提供してくれない。田中氏が国家語について知っていることはカウツキーの論文のなかに国家語Staatsspracheという語が登場するということだけである。田中氏はカウツキーが「国家語概念を言語化した」と述べているが、「国家語」とはカウツキーが生まれる前からオーストリア政治においてしばしば論争の元となった政治的概念だったのである。田中氏は国家語について何も知らなかったと判断せざるを得ない。それにも関わらず田中氏は「国家語においては、Staat(国家)の強制的、排除的、画一的な力が働いている」と述べている。田中氏は国家語について何も知らないのだとすれば、このような主張はいかなる根拠もない恣意的な憶測であると言わざるをえまい。田中克彦という人は自分がまったく何も知らないことについて論文をでっち上げることができる人なのだ。
無知を恥じないだけでなく、なんの知識もないことについて論文を書いてしまう田中氏は知識に対する敵意を持っているのではないかと思われてくるが、どうやらその通りらしい。『差別語から入る言語学入門』において田中氏は次のように述べている。「いろいろな知識」がなければ「人まえで何も意見を言うことができない」歴史学のような学問は「不潔な学問」であり、言語学のように「あまり多くの知識は必要でない」学問は「清潔な学問」だという(197頁)。田中氏によれば、歴史家が長い時間をかけて明らかにした事実に関する知識は汚物にすぎないというのだ。無知の開き直りのような、俄かには信じがたい発言だ。自分の研究の結果を汚物と呼ばれた歴史家は怒らないのだろうか。おそらく呆れてものも言えないのだろう。歴史家が怒らないとしても、田中氏は大きな代償を支払うことになるだろう。田中氏の発言は、氏の著作にはなんの根拠もないと告白するものだからである。田中氏は「きちんとすじ道をたてて考えればいい」と主張するが、田中氏がどれほど立派なことを主張しても、事実による裏付けがなければ、信用できないのだ。「Stap細胞はあります」とどれほど訴えても、事実による裏付けがなければ、だれも信じてくれないのが学問の世界であろう。自分の思想には根拠がないと告白した素直さに☆☆☆☆☆
1978年の著作『言語からみた民族と国家』には「カール・カウツキーと国家語」という論文が収録されている。「カール・カウツキーと国家語」と題されているのだから、国家語概念の知識を前提に、カウツキーの国家語理解を検討しているのだろうと、読者は推定する。しかし田中氏はそもそも国家語とは何かを明らかにすべき資料をただの一行も提供してくれない。田中氏が国家語について知っていることはカウツキーの論文のなかに国家語Staatsspracheという語が登場するということだけである。田中氏はカウツキーが「国家語概念を言語化した」と述べているが、「国家語」とはカウツキーが生まれる前からオーストリア政治においてしばしば論争の元となった政治的概念だったのである。田中氏は国家語について何も知らなかったと判断せざるを得ない。それにも関わらず田中氏は「国家語においては、Staat(国家)の強制的、排除的、画一的な力が働いている」と述べている。田中氏は国家語について何も知らないのだとすれば、このような主張はいかなる根拠もない恣意的な憶測であると言わざるをえまい。田中克彦という人は自分がまったく何も知らないことについて論文をでっち上げることができる人なのだ。
無知を恥じないだけでなく、なんの知識もないことについて論文を書いてしまう田中氏は知識に対する敵意を持っているのではないかと思われてくるが、どうやらその通りらしい。『差別語から入る言語学入門』において田中氏は次のように述べている。「いろいろな知識」がなければ「人まえで何も意見を言うことができない」歴史学のような学問は「不潔な学問」であり、言語学のように「あまり多くの知識は必要でない」学問は「清潔な学問」だという(197頁)。田中氏によれば、歴史家が長い時間をかけて明らかにした事実に関する知識は汚物にすぎないというのだ。無知の開き直りのような、俄かには信じがたい発言だ。自分の研究の結果を汚物と呼ばれた歴史家は怒らないのだろうか。おそらく呆れてものも言えないのだろう。歴史家が怒らないとしても、田中氏は大きな代償を支払うことになるだろう。田中氏の発言は、氏の著作にはなんの根拠もないと告白するものだからである。田中氏は「きちんとすじ道をたてて考えればいい」と主張するが、田中氏がどれほど立派なことを主張しても、事実による裏付けがなければ、信用できないのだ。「Stap細胞はあります」とどれほど訴えても、事実による裏付けがなければ、だれも信じてくれないのが学問の世界であろう。自分の思想には根拠がないと告白した素直さに☆☆☆☆☆
2017年8月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
田中先生の講座は、まさに面白くてためになる。読みやすいけれど、胸にズンとくる言語学入門です。
2014年10月9日に日本でレビュー済み
言語学という観点から差別語をみるとはどのようなことなのだろう、と気になり購入。
たしかに、「色」がついた言葉というのは存在していて、その言葉を選ぶということの裏に、意識的だったり無意識だったりはあるだろうが、筆者の「意図」が隠れていると思う。
一番言葉への怖さを感じたのは「豚の生首事件」の話。
ぜひこれは皆さんにもよんでいただきたい。
たしかに、「色」がついた言葉というのは存在していて、その言葉を選ぶということの裏に、意識的だったり無意識だったりはあるだろうが、筆者の「意図」が隠れていると思う。
一番言葉への怖さを感じたのは「豚の生首事件」の話。
ぜひこれは皆さんにもよんでいただきたい。
2008年10月21日に日本でレビュー済み
「読者の中には、なんだ、こんな大げさな題をつけても、大したことは書けてないじゃないかと思われる方がいるかもしれない。その方には、本書を踏み台にして、議論をさらにぐっと前に進めていただきたいと願うものである。」
著者も言っているように、難しい問題だと思います。
多くを期待しないで、読むと、勉強になる点がいくつかあります。
本の標題がよくないのだと思います。
「差別語から考え始める言語学の入り口」
が妥当かもしれません。言語学の題材は、いくつも示されています。
言語学入門までは到達していないと思われます。
著者も言っているように、難しい問題だと思います。
多くを期待しないで、読むと、勉強になる点がいくつかあります。
本の標題がよくないのだと思います。
「差別語から考え始める言語学の入り口」
が妥当かもしれません。言語学の題材は、いくつも示されています。
言語学入門までは到達していないと思われます。
2002年5月22日に日本でレビュー済み
サベツゴからはいるゲンゴガクという堅苦しいタイトルからは想像できないことですが、著者の語り口は軽妙で、一筋縄ではいかない問題を、最後まで飽きさせずに読み通させてくれます。
著者は、差別語糾弾運動を「ことばのよし悪しを決める権利を非エリートが、言語エリートから、部分的にでも奪取しようとする動き」として支援する一方で、言語の広がりと深みによりつつ、その限界を指摘し、新しい方向性をさぐります。
「○○用語集」や「××マニュアル本」の類にはない、ことばの本質に肉薄するおもしろさが本書にはあります。私のような初心者にとっては5つ星です。
著者は、差別語糾弾運動を「ことばのよし悪しを決める権利を非エリートが、言語エリートから、部分的にでも奪取しようとする動き」として支援する一方で、言語の広がりと深みによりつつ、その限界を指摘し、新しい方向性をさぐります。
「○○用語集」や「××マニュアル本」の類にはない、ことばの本質に肉薄するおもしろさが本書にはあります。私のような初心者にとっては5つ星です。