この本で一番肝腎なことは、1986年に亡くなった鮎川信夫の蔵書だったバロウズ関係の膨大なコレクションについての記述。鮎川氏の死後少ししてから売りに出されていたその主要部分を、山形先生が買っていなければ(それもわずか4万円で!)、この本は出来ていなかったという点にある。本書はその鮎川コレクションを懇切丁寧に解説・展示してくれる24時間年中無休の展示会である。
たかがバロウズに関する本だけど、その山との出会いが人生を変えることもある。おそらくタイトルはそういう意味なのだろうと思う。
これだけで終えてもいいのだけど、それではレビューにならないのでもう少し。
通算で3時間ほどこの本をあちこちを流し読み、バロウズの作品を引っ張り出して眺めた頃に、こう言われた気がした。
「山形ゼミにようこそ」
本書は他の先輩レビュアーの方々が書かれているように、バロウズ研究の最高到達点なのだろう。しかし本書で山形先生は繰り返し「あなたにとってバロウズはなにか」という問いかけをしてくる。そういう点でこれはバロウズ研究の形を取ってはいるが、それ以上にバロウズを題材にした山形ゼミなのである、と感じた。
だから山形先生、バロウズ研究の穴場的な部分や、WEBを含めた文献の今日でも通用する入手やアプローチの仕方、バロウズ研究と自分との向き合い方まで、ゴキゲンにお話してくれる。こんな事まで言っていいの?的な表現までしてあるし、どうも一杯飲んで書いてるように思える部分もある。ゼミの後の教授を囲んだ飲み会までセッティングしてある雰囲気なのだ。
読み手はこのゼミにでて単位を取るだけでもいいし、論文まで書いてもいい。これだけを読んでバロウズ本人の書いた本は眺めるだけにしてもよい。色々楽しいのだ。ゼミなんて今さらと思う年配の人も読んでいいのよ。
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たかがバロウズ本。 単行本(ソフトカバー) – 2003/2/15
山形 浩生
(著)
- 本の長さ450ページ
- 言語日本語
- 出版社大村書店
- 発売日2003/2/15
- ISBN-104756330169
- ISBN-13978-4756330161
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ジャンキーでおかまで妻殺し。カットアップで文学史上に金字塔を打ち立て、アングラの帝王にして、画家、俳優、CMタレント…。どこまでも自由を追求したその先にあったものは? バロウズ研究の決定版。
登録情報
- 出版社 : 大村書店 (2003/2/15)
- 発売日 : 2003/2/15
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 450ページ
- ISBN-10 : 4756330169
- ISBN-13 : 978-4756330161
- Amazon 売れ筋ランキング: - 457,520位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 79位英米文学の全集・選書
- - 3,977位英米文学研究
- - 81,525位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1964年生まれ。小学校1年生の秋から約1年半、父親の海外勤務でアメリカに居住。麻布中学校・高等学校卒業後、東京大学理科Ⅰ類入学。東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻を経て、某調査会社所員となる。1993年からマサチューセッツ工科大学に留学し、マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程を修了。1998年、プロジェクト杉田玄白を創設。
某調査会社で開発コンサルタントとして勤務する傍ら評論活動を行っている。また先鋭的なSFや、前衛文学、経済書や環境問題に関する本の翻訳を多数手がけている。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年5月21日に日本でレビュー済み
今年八月二日で没後二十年が経とうと言うのに,未だにバロウズは様々な分野で散発的ながら取り沙汰され,話題を集めているようである。ことにカット・アップ技法とフォールド・イン技法を駆使して書かれたあの天下の奇書であるノヴァ三部作に関してはあれは一体なんだったのかといった問い掛けや議論がいまなお現在進行形で続けられているが,筆者の極私的見解を述べさせて頂くなら,この天下の奇書たる意味伝達完全崩壊小説の表現したものは二十世紀の文化とその産物たる作品の虚飾を剥いだ本質だったのではないかと私は解釈している。バロウズ作品の読者は皆が皆,あれらの作品の世界観の奇怪さと文体の奇っ怪さに注意を奪われ意識がほぼ完全に硬直して思考停止してしまっているが,視点を他の20世紀の読めない名作群の方に移していただきたい。ジェームス・ジョイスの「フィネガンの通夜(目覚め)」,アントナン・アルトーの「ヘリオガバルス,或いは戴冠せしアナーキスト」,ジャン・ジュネ「葬儀」などなど。バロウズの切り繋ぎ小説のように襤褸糞にこきおろされることなく20世紀の大名作文学作品として崇め奉られ,実に大仰に尊崇されてきたがこれらの作品などもバロウズのノヴァ三部作と同様に読めない散文作品でもある。みんなとっくの昔から解りきっていることなのだが,皆が皆,この大事なことを忘れてしまっている。この読めないがゆえに高級藝術として輝かしい美の殿堂に祀ってしまうという奇々怪々な文化現象は,バロウズのノヴァ三部作や先の諸三作,並びに極少数の知的高等民たちが称賛した文藝作品のみならず二十世紀の文化産物全般に通底した時代の病ともいうべき文化現象である。この時代病は日本においても例外ではない。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で切腹による壮絶な最期を遂げた三島由紀夫にしても氏の最高傑作と評価されている「金閣寺」と「愛の渇き」(三島の真に評価されている最高傑作はこの二作で「憂国」や「英霊の詩」や「新ファシズム論」などではない)なども同じく読めない名作文学作品である。実は。思い起こして頂きたい。日本人ならその名を誰もが知る有名作家の三島由紀夫の文壇認定されている最高傑作について誰がどのように論じているかを。今現在三島の知名度に反して文化人の間ですら話題になっていないのが現状である。この文化の時代病は三島の非業の死に対し"三島歿しおつ"などと意味不明な感想を述べた稲垣足穂にも共通して窺うことができる。
この20世紀に突如はじまった奇怪な文化現象に対して視点を,世界史を俯瞰できる定点に移動してそこから眺望してみるなら,そこで見えてくる時代の実相は,読めないがゆえに名作文学の美の殿堂に祀られている作品群もバロウズの文章切り繋ぎ小説のノヴァ三部作もその本質は全く同じということである。これはどういうことかと言えば,時代を越えた21世紀以降の人々の視点からすればあれらの意味伝達完全崩壊小説は同時代の20世紀前衛たちに対するあからさまな実状暴露の痛烈な戯画であったということ。フェリックス・ガタリが影響を受けた人々の中にバロウズが数えられていることからも窺えるように,勿論そんなことはバロウズの本意ではない。だが万物の処することはいつの世や時代であれ,何事も人間の思慮と願いを裏切って残酷かつ無惨な結末に導くのを大道としている。読者は非常に驚くというより信じられないだろうが,バロウズが'60年代に創始したノヴァ三部作という切り繋ぎ小説の真評価はこの虚偽と虚栄の破綻した後の時代にやって来る。すべてが破綻し潰え去ってほとんど何も無くなったことに皆が気づいて"20世紀と21世紀のあの繁栄は何だったのか?"と世界の人々が自問しはじめた後にバロウズの真評価は始まる。そう,あれだけ多くの国々の多くの人々に論じられ,解釈されてきたこの男の真評価は実はまだ始まっていないのである。2012年にロシアの調査団が南極氷底湖のボストーク湖から幅・高さ共に100m位の黄金の鉤十字(ハーケンクロイツ)を発見しているが,バロウズ文学の真評価もこれに近い。すべてが潰え去る破綻が始まりだした今の時代にこの事を理解することはまだ無理だろう。いま理解することはないし,どこかの素人の当てずっぽう見解として割り切ってしまってよい。ただこういうレヴューがあったとだけ記憶していただければよい。
二十世紀の文化の壮大で華やかな外面とは裏腹の複雑精緻に入り組んだ自己矛盾した虚偽さとは一体何なんだろう?
私が思うに大航海時代終焉とともに世界中に蔓延しはじめた知性鈍摩の症状が20世紀に至り猖獗を極め,ついに難解の皮を被った曲解と捏造で捏ねあげられたインチキ作品を高級文化産物と価値観をすり替え,大衆と国をも欺き,偽りの方向に誤誘導してきた結果,遂に自分たちが向き合ってる今そこにある現状と現実が確認も認識もできなくなってしまうくらい思考力も感性も鈍摩しきってしまった第二次世界大戦後の欧米主導による文化と価値観の飽和状態と言ったところだろうか。この巨大で華やかなな虚飾の世界に対し,バロウズは無意識裡の内にCut-up技法という価値紊乱手法で20世紀藝術の本質(中身の無い繊細微妙にして複雑怪奇な大いなる壮大な空虚)を暴いて見せてしまったと言えるだろう。それは文化に対するゲリラ行為であり,かつまた取り澄ました文化の面前にノヴァ語で価値紊乱を企てた顔面射精でもあった。
結局,バロウズが文学を媒体に召喚した世界観とは20世紀の文化の陽の極だったのではないかと私は考える。そしてこれに反発する対極する陰の世界観がサミュエル・ベケットが創造した物語も事件も失墜した文学不能にまで到ってしまった極少限の世界観(minimalism world view)だったのではないかと思う。
この文学藝術の陰極から陽極の間を流れる霊気の上にDadaismやSurrealismやFluxus,その他PsychedelicやIndustrial music,Techno,Houseなどのclub musicまでが乗って20世紀という時代を動かしていたのではないかと私は俯瞰している。藝術だけではない。バロウズが提唱したノヴァ星人が地球征服のために地球人が意思疎通を図る言語を言語ウィルスを放って意味不明な記号の集群に変革させて,地球を惑星規模の混乱に陥れてしまったという世界観はのちのちの「Enemy of America」や「Matrix」三部作などの世界観にも相通ずる過剰化した情報が人間の生殺与奪権を掌握してしまった病んだ高度情報化社会の予言と警鐘とも捉えることができる。
マイク ラトリッジがcollageとも不協和音群ともnoiseとも無縁のRock musicを創造していこうとする自分たちのband名をバロウズの「Soft machine」に選んだことはまことに幸運な選択であったと思うし,デヴィッド・アレン脱退後も迷うことなく一貫してband名をそのまま使い続けたことはさらなる幸運でもあるし,もしかしたら慧眼であったのかもしれない。
これからも情報は増え続ける。そしてなお深く広大に過剰化した情報は私たちを蝕み続けるだろう。情報という名の現代の悪性の細菌はどこまで私たちを蝕むのであろう。そしてその侵略行為の終極には何があるのだろう?
この近未来予想地獄絵図が自分たちの生きていかねばならない真の将来の現実として自覚することができたとき,ほとんどの人間は正気ではいられないだろう。
だがそのときベケットが創造した失墜世界の向こうに見えるベケットの冷徹な眼差しはなんと清浄な穏やかさを湛えていることだろう。
そしてバロウズが'60年代の時点ですでに世に提示していたNova三部作なるcut-up小説作品はその耐え難い生き地獄において愉快な混乱だろう。
―これは筆者の極私的見解&感想である。むやみに憤怒したり絶望したりするのは早計であると思う。やろうと思えば立ち止まることも変化もいつからだってできるのだから。
随分と長くなった。このレビューもこの辺にしておこうか。長々とお付き合いありがとう。
それでは次のレビューまで。ごきげんよう。
この20世紀に突如はじまった奇怪な文化現象に対して視点を,世界史を俯瞰できる定点に移動してそこから眺望してみるなら,そこで見えてくる時代の実相は,読めないがゆえに名作文学の美の殿堂に祀られている作品群もバロウズの文章切り繋ぎ小説のノヴァ三部作もその本質は全く同じということである。これはどういうことかと言えば,時代を越えた21世紀以降の人々の視点からすればあれらの意味伝達完全崩壊小説は同時代の20世紀前衛たちに対するあからさまな実状暴露の痛烈な戯画であったということ。フェリックス・ガタリが影響を受けた人々の中にバロウズが数えられていることからも窺えるように,勿論そんなことはバロウズの本意ではない。だが万物の処することはいつの世や時代であれ,何事も人間の思慮と願いを裏切って残酷かつ無惨な結末に導くのを大道としている。読者は非常に驚くというより信じられないだろうが,バロウズが'60年代に創始したノヴァ三部作という切り繋ぎ小説の真評価はこの虚偽と虚栄の破綻した後の時代にやって来る。すべてが破綻し潰え去ってほとんど何も無くなったことに皆が気づいて"20世紀と21世紀のあの繁栄は何だったのか?"と世界の人々が自問しはじめた後にバロウズの真評価は始まる。そう,あれだけ多くの国々の多くの人々に論じられ,解釈されてきたこの男の真評価は実はまだ始まっていないのである。2012年にロシアの調査団が南極氷底湖のボストーク湖から幅・高さ共に100m位の黄金の鉤十字(ハーケンクロイツ)を発見しているが,バロウズ文学の真評価もこれに近い。すべてが潰え去る破綻が始まりだした今の時代にこの事を理解することはまだ無理だろう。いま理解することはないし,どこかの素人の当てずっぽう見解として割り切ってしまってよい。ただこういうレヴューがあったとだけ記憶していただければよい。
二十世紀の文化の壮大で華やかな外面とは裏腹の複雑精緻に入り組んだ自己矛盾した虚偽さとは一体何なんだろう?
私が思うに大航海時代終焉とともに世界中に蔓延しはじめた知性鈍摩の症状が20世紀に至り猖獗を極め,ついに難解の皮を被った曲解と捏造で捏ねあげられたインチキ作品を高級文化産物と価値観をすり替え,大衆と国をも欺き,偽りの方向に誤誘導してきた結果,遂に自分たちが向き合ってる今そこにある現状と現実が確認も認識もできなくなってしまうくらい思考力も感性も鈍摩しきってしまった第二次世界大戦後の欧米主導による文化と価値観の飽和状態と言ったところだろうか。この巨大で華やかなな虚飾の世界に対し,バロウズは無意識裡の内にCut-up技法という価値紊乱手法で20世紀藝術の本質(中身の無い繊細微妙にして複雑怪奇な大いなる壮大な空虚)を暴いて見せてしまったと言えるだろう。それは文化に対するゲリラ行為であり,かつまた取り澄ました文化の面前にノヴァ語で価値紊乱を企てた顔面射精でもあった。
結局,バロウズが文学を媒体に召喚した世界観とは20世紀の文化の陽の極だったのではないかと私は考える。そしてこれに反発する対極する陰の世界観がサミュエル・ベケットが創造した物語も事件も失墜した文学不能にまで到ってしまった極少限の世界観(minimalism world view)だったのではないかと思う。
この文学藝術の陰極から陽極の間を流れる霊気の上にDadaismやSurrealismやFluxus,その他PsychedelicやIndustrial music,Techno,Houseなどのclub musicまでが乗って20世紀という時代を動かしていたのではないかと私は俯瞰している。藝術だけではない。バロウズが提唱したノヴァ星人が地球征服のために地球人が意思疎通を図る言語を言語ウィルスを放って意味不明な記号の集群に変革させて,地球を惑星規模の混乱に陥れてしまったという世界観はのちのちの「Enemy of America」や「Matrix」三部作などの世界観にも相通ずる過剰化した情報が人間の生殺与奪権を掌握してしまった病んだ高度情報化社会の予言と警鐘とも捉えることができる。
マイク ラトリッジがcollageとも不協和音群ともnoiseとも無縁のRock musicを創造していこうとする自分たちのband名をバロウズの「Soft machine」に選んだことはまことに幸運な選択であったと思うし,デヴィッド・アレン脱退後も迷うことなく一貫してband名をそのまま使い続けたことはさらなる幸運でもあるし,もしかしたら慧眼であったのかもしれない。
これからも情報は増え続ける。そしてなお深く広大に過剰化した情報は私たちを蝕み続けるだろう。情報という名の現代の悪性の細菌はどこまで私たちを蝕むのであろう。そしてその侵略行為の終極には何があるのだろう?
この近未来予想地獄絵図が自分たちの生きていかねばならない真の将来の現実として自覚することができたとき,ほとんどの人間は正気ではいられないだろう。
だがそのときベケットが創造した失墜世界の向こうに見えるベケットの冷徹な眼差しはなんと清浄な穏やかさを湛えていることだろう。
そしてバロウズが'60年代の時点ですでに世に提示していたNova三部作なるcut-up小説作品はその耐え難い生き地獄において愉快な混乱だろう。
―これは筆者の極私的見解&感想である。むやみに憤怒したり絶望したりするのは早計であると思う。やろうと思えば立ち止まることも変化もいつからだってできるのだから。
随分と長くなった。このレビューもこの辺にしておこうか。長々とお付き合いありがとう。
それでは次のレビューまで。ごきげんよう。
2006年12月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
出版から4年弱が経過した今でも、日本語でのバロウズ研究の最高峰です。
やはりこの先、日本からは本書を超える研究書は出ないでしょう。
興味のある方は絶版もしくはweb上から消えてしまう前に買っておくことをお勧めします。
しかしこの本で「穴場」と書かれている部分の研究も行われてきていますし、
(数は多くありませんが…特にホモセクシュアル・ドラッグ関連の研究は少しずつ増えています)
英語圏では毎年数冊のバロウズ研究書が出版されています。
研究者はここで満足せずに、新たな切り口を探って作品や論文を読む必要があると思います。
やはりこの先、日本からは本書を超える研究書は出ないでしょう。
興味のある方は絶版もしくはweb上から消えてしまう前に買っておくことをお勧めします。
しかしこの本で「穴場」と書かれている部分の研究も行われてきていますし、
(数は多くありませんが…特にホモセクシュアル・ドラッグ関連の研究は少しずつ増えています)
英語圏では毎年数冊のバロウズ研究書が出版されています。
研究者はここで満足せずに、新たな切り口を探って作品や論文を読む必要があると思います。
2003年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
バロウズといえば山形浩生氏、という具合に、ただでさえ、ことバロウズに関して他の追随を許さない独走状態にある山形浩生氏が何年もかけて、とうとう満を持して出したバロウズ本。内容も、それに見合ったきわめて充実したものになっている(実際ビブリオ一つとっても、ものすごい充実ぶり)。
実際、この一冊でバロウズ関連はもうイイかな、って気にさせる。文章も相変わらず読みやすい。相変わらずといえば、罵倒の激しさも相変わらず(笑)。大好きです。
実際、この一冊でバロウズ関連はもうイイかな、って気にさせる。文章も相変わらず読みやすい。相変わらずといえば、罵倒の激しさも相変わらず(笑)。大好きです。
2008年12月18日に日本でレビュー済み
「バロウズが達成したことと出来なかったこと」を軸に、著者にとっての現代小説論や自由論(!)、経済学的に見た文化の効用といったことが語られる。この分析は非常に面白く、ミクロ経済学の基本的手法を使ってカットアップ小説の効用をモデル化し、バロウズの小説を喜ぶのは「時給が安く余暇が沢山ある人間」等と幾つか典型的な人物像に結論づけるあたりなど、笑ってしまった。(実は、「文化経済学」とかいってる凡百の経済学者より、よっぽど説得力のある分析だったりする。)
バロウズ関連の膨大な資料をベースにした解説も勿論説得力があるのだが、そもそも著者にとってバロウズを語ることとは、ここまで色んな考察を総動員しなくてはならないことだった、ということに興味を覚えた。
山形活生が学生時代からここまでバロウズに魅了されたのは、なぜだったのだろう?この個人的事情は、実はこの饒舌な本を読んでも端的には書かれていない。色んなことを教えられた本だったが、その疑問がたった一つ、謎として残った。でも、きっとそんな個人的な事情を著者が書かなくてはならない筋合いなんて、無いのだろうけどね。
バロウズ関連の膨大な資料をベースにした解説も勿論説得力があるのだが、そもそも著者にとってバロウズを語ることとは、ここまで色んな考察を総動員しなくてはならないことだった、ということに興味を覚えた。
山形活生が学生時代からここまでバロウズに魅了されたのは、なぜだったのだろう?この個人的事情は、実はこの饒舌な本を読んでも端的には書かれていない。色んなことを教えられた本だったが、その疑問がたった一つ、謎として残った。でも、きっとそんな個人的な事情を著者が書かなくてはならない筋合いなんて、無いのだろうけどね。
2004年8月9日に日本でレビュー済み
カッコいいとかそういうものは主観であって、それは、つまり、あんたがオヤジってことだよと著者に言いたい。
ともかく日本語で読める最高峰のバロウズ資料となっている。
本書を読んで、バロウズそのものが現代に必要か?とかそういう疑問は拭えない。
これは作品を読んでもそうなのだろうけど、著者の世代にしか受け入れられない類の流行モノという疑念があるからである。
山形浩生はバロウズを最も理解し、日本での第一人者であることは確かだ。
ただ、バロウズよろしくクセのある人物なので分析もまた偏っている。
従って、ある程度の著者に対する理解も必要となり、この本が最高峰の資料となるのは残念でならない。
これ以上のものが出てこないならバロウズそのものがもう必要なくなったのかもしれない。
著者のサイトにて全文公開しているので買う前に一読をお勧めする。
印刷はできないそうなのでじっくり読むにはやはり買っていただくことになるが。
ともかく日本語で読める最高峰のバロウズ資料となっている。
本書を読んで、バロウズそのものが現代に必要か?とかそういう疑問は拭えない。
これは作品を読んでもそうなのだろうけど、著者の世代にしか受け入れられない類の流行モノという疑念があるからである。
山形浩生はバロウズを最も理解し、日本での第一人者であることは確かだ。
ただ、バロウズよろしくクセのある人物なので分析もまた偏っている。
従って、ある程度の著者に対する理解も必要となり、この本が最高峰の資料となるのは残念でならない。
これ以上のものが出てこないならバロウズそのものがもう必要なくなったのかもしれない。
著者のサイトにて全文公開しているので買う前に一読をお勧めする。
印刷はできないそうなのでじっくり読むにはやはり買っていただくことになるが。
2005年6月27日に日本でレビュー済み
自分は今から十年程前に「おかま」と「おぼえていないときもある」を結構気に入って読んでいて、だからこの本を書店で何となく見つけた時に「バロウズか、懐かしいな。」という感じで手にとりました。
カットアップ多用による表層的なアナーキーさで評価されることの多い「裸のランチ」等を読んでなかったのが良かったのか、ここで展開されるバロウズ論には素直に共感できるものがありました。確かに「モラトリアムのまま生涯を全うした自己中オヤジ」だと思うし、それと同時に「絶対的な何か(究極の自由)を追い求めたが、けしてそれを手に入れられなかった」哀しさにこそ、彼の作品の本質があるのだという気がします。あと、この著者の山形さん自体結構クセのある書き手ですが、自分の場合はシンクロ率の高さを感じるくらい(笑)、読みやすかったです。
「鳥かごの中の鳥は、そこから自由になろうとすることを諦めた時に初めて、本当の意味で自由になる」みたいな言葉があると思います(ニュー・オーダーの『ブラザーフッド』のライナーに書いてあった)。今に較べて圧倒的に自由だった学生時代に、私はバロウズを読みながら毎日「死にたい、死にたい。」とばかり思っていたことを思い出しました。確かに今は社会人で仕事や家庭に縛られてるけど、死にたいとは思わない。そういった役割に埋没するだけの存在になるのは、死んでも御免だけど。
また、倒産しちゃったファクトリー・レコードの社長のトニー・ウィルソンが、けして昼の仕事(TVパーソナリティーor突撃レポーター)を辞めようとしなかったことの意味が何となく分かりました。その彼の書いた「24アワー・パーティー・ピープル(同名映画のノベライズのふりをした、暴露話満載の生き方自慢本)」をもう一度読み直そうと思いました。「赤いピルか青いピルか」の二者選択から逃れるというのはそういうことだと思います。でも、自分はトニー・ウィルソンの真似事なんかようしませんけどね。
でも、アナキン・スカイウォーカーでもリミットちゃん(のパパ)でもニュー・オーダーでもいいけれど、「死と喪失」との戦いを自分の人生のテーマにせざるを得ない人(バロウズもそうだ)は案外そこら中にいるのでは、と思う。あなたがもしそうならば、この本が道先案内人になるかも知れない。バロウズは「赤いピル(自由至上主義的な生き方)」を選んでその闘争に敗北したのだけれど、さて自分は?、というところにこそ意味があるんだと思います。
カットアップ多用による表層的なアナーキーさで評価されることの多い「裸のランチ」等を読んでなかったのが良かったのか、ここで展開されるバロウズ論には素直に共感できるものがありました。確かに「モラトリアムのまま生涯を全うした自己中オヤジ」だと思うし、それと同時に「絶対的な何か(究極の自由)を追い求めたが、けしてそれを手に入れられなかった」哀しさにこそ、彼の作品の本質があるのだという気がします。あと、この著者の山形さん自体結構クセのある書き手ですが、自分の場合はシンクロ率の高さを感じるくらい(笑)、読みやすかったです。
「鳥かごの中の鳥は、そこから自由になろうとすることを諦めた時に初めて、本当の意味で自由になる」みたいな言葉があると思います(ニュー・オーダーの『ブラザーフッド』のライナーに書いてあった)。今に較べて圧倒的に自由だった学生時代に、私はバロウズを読みながら毎日「死にたい、死にたい。」とばかり思っていたことを思い出しました。確かに今は社会人で仕事や家庭に縛られてるけど、死にたいとは思わない。そういった役割に埋没するだけの存在になるのは、死んでも御免だけど。
また、倒産しちゃったファクトリー・レコードの社長のトニー・ウィルソンが、けして昼の仕事(TVパーソナリティーor突撃レポーター)を辞めようとしなかったことの意味が何となく分かりました。その彼の書いた「24アワー・パーティー・ピープル(同名映画のノベライズのふりをした、暴露話満載の生き方自慢本)」をもう一度読み直そうと思いました。「赤いピルか青いピルか」の二者選択から逃れるというのはそういうことだと思います。でも、自分はトニー・ウィルソンの真似事なんかようしませんけどね。
でも、アナキン・スカイウォーカーでもリミットちゃん(のパパ)でもニュー・オーダーでもいいけれど、「死と喪失」との戦いを自分の人生のテーマにせざるを得ない人(バロウズもそうだ)は案外そこら中にいるのでは、と思う。あなたがもしそうならば、この本が道先案内人になるかも知れない。バロウズは「赤いピル(自由至上主義的な生き方)」を選んでその闘争に敗北したのだけれど、さて自分は?、というところにこそ意味があるんだと思います。