これは意外なメディア論だ。
われわれは一般に、テレビ視聴をあまり知的な行為だとは考えない。読書こそが教養を得る高尚な手段であって、テレビはほとんどの場合低俗で、教養と結びつくメディアではない、と。
しかし、実のところ、1950年代、60年代においては、テレビこそが、教育の機会均等を幻視させるメディアであった。今日では、現在のテレビ朝日やテレビ東京が、民法「教育専門局」であったことを知る人は少ない。テレビ黎明期にあっては、テレビの教養的価値には非常に重きが置かれ、さまざまな教育家が、テレビを使った学校教育について丁々発止の議論を繰り広げたのだ。テレビを主とし、教師を副とすべしといった議論すら、一定の説得力を持った。
現在のわれわれは、そうした理想が裏切られたことを知っているし、そんな理想は滑稽にすら映る。それは、畢竟、メディアの本質的な機能とは、対面的なコミュニケーションを不要にすることだからだ。あるいは、教育とは、信頼と善意によってこそ初めて成り立つコミュニケーションだからだ。
しかし、逆説的ではあるが、テレビは、総力戦体制に向けた「国民」統合という技術的課題を担って登場したメディアであった。1930年代には、独、英、仏、ソ、米がテレビの定時放送を開始した。テレビ放送の受信者は、階級、世代、性別などさまざまな属性を備えている。テレビは、そうした人々を、抽象的な「国民」という次元に回収し、さらに個人の主体性や自主性を社会システムの資源として動員可能にしたのだ。
その流れで(つまり、連続的な文脈において)、テレビシステムは、高度経済成長期に一億総中流意識を製造し、いわば、「最後の国民化」メディアとして君臨した。しかし、1970年代以降、テレビは教育弱者、情報弱者のメディアとなっている。現在でも妥当する統計だが、テレビの視聴時間と、学歴、所得、就労状況(フルタイム―無職)との間には、逆相関が見られる。佐藤の主張は、現在では情報弱者のメディアとなってしまったテレビの、教養メディアとしての再評価だ。あるいは、そうした情報弱者の教養のセイフティ・ネットとしてのテレビの可能性だ。なぜなら、より良い輿論(public opinion)を生み出す公共圏は、万人の参加可能性を前提としているが、テレビの提供する教養は、具体的でわかりやすいという意味で、唯一万人に共有可能であるからだ。その意味で、社会の最低限の教養を確保するためには、選抜と不可分な学校システムよりも、社会的弱者のメディアであるテレビこそ改革、再生が必要なのだ。この意味で、現代の公共性論は、テレビ的教養論を前提とすべきなのだ。
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テレビ的教養 (日本の〈現代〉 14) ハードカバー – 2008/4/25
佐藤 卓己
(著)
テレビは日本人に何をもたらしたのか? 「一億総白痴化」の道具と危惧された時代から半世紀。日本のテレビ普及台数は一億台を超え、わずか50年で200倍に増加した。
本書では、戦後日本の半世紀にわたるテレビの歴史と、日本人の教養のかかわりを膨大な資料から徹底考察。格差問題や教育再生が叫ばれるいま、かつて「一億総中流」を幻視させたテレビの歴史を振り返り、21世紀の新たな公共圏としての「テレビ的教養」の可能性を探る!
本書では、戦後日本の半世紀にわたるテレビの歴史と、日本人の教養のかかわりを膨大な資料から徹底考察。格差問題や教育再生が叫ばれるいま、かつて「一億総中流」を幻視させたテレビの歴史を振り返り、21世紀の新たな公共圏としての「テレビ的教養」の可能性を探る!
- 本の長さ316ページ
- 出版社NTT出版
- 発売日2008/4/25
- ISBN-10475714105X
- ISBN-13978-4757141056
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登録情報
- 出版社 : NTT出版 (2008/4/25)
- 発売日 : 2008/4/25
- ハードカバー : 316ページ
- ISBN-10 : 475714105X
- ISBN-13 : 978-4757141056
- Amazon 売れ筋ランキング: - 850,142位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 393位メディアと社会
- - 950位ジャーナリズム (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1960年、広島市生まれ。1984年 、京都大学文学部史学科卒業。1986年、同大学院修士課程修了。ミュンヘン大学近代史研究所留学後、1989年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、現在は京都大学大学院教育学研究科教授。
『「キング」の時代―国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店2002年)で第24回日本出版学会学会賞、第25回サントリー学芸賞を、『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書2004年)で第34回吉田茂賞を、『ファシスト的公共性―総力戦体制のメディア学』(岩波書店2018年)で第72回毎日出版文化賞を受賞。
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トップレビュー
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2011年2月13日に日本でレビュー済み
2010年4月20日に日本でレビュー済み
著者は1960年生まれ、どちらかと言えば都会の教養高い家庭に
育った、自身「テレビっ子であった」と述べている世代である。
テレビの黄金期、隆盛期を生きた世代である。
昨今否定的に語られがちなテレビというメディアを、国民のコア
を形成する教養を提供するメディアとして実証的、体系的に論じ
ようと試みた研究書である。
(日本の)テレビのプラスの側面を論じ、成功しているように見
える。
ただ、この著者も「あと書き」で、書くのにこんなに苦労すると
は思わなかったと述べ、やはりテレビの現状を憂いている。
本書と、この少し後に出た「おテレビ様と日本人」(林秀彦著)
合わせて読むと興味深いと思う。
育った、自身「テレビっ子であった」と述べている世代である。
テレビの黄金期、隆盛期を生きた世代である。
昨今否定的に語られがちなテレビというメディアを、国民のコア
を形成する教養を提供するメディアとして実証的、体系的に論じ
ようと試みた研究書である。
(日本の)テレビのプラスの側面を論じ、成功しているように見
える。
ただ、この著者も「あと書き」で、書くのにこんなに苦労すると
は思わなかったと述べ、やはりテレビの現状を憂いている。
本書と、この少し後に出た「おテレビ様と日本人」(林秀彦著)
合わせて読むと興味深いと思う。
2008年7月29日に日本でレビュー済み
テレビの歴史を、教育の観点から紡いだ本である。
日本のテレビの志、日本教職員組合などの資料を駆使したこと、テレビ史がわかることなど、有益な本である。
テレビに対する批判、大いに結構である。ただ、やはり、テレビのウェイトが低くなるのはやむをえないのではないか。双方向であるし、情報が満載のインターネットが主になるのは避けられないだろう。となると、情報弱者対策としては、安価で使えるパソコンの開発こそがもっとも有益と私は考える。つまり、著者が主張するような情報弱者のためのテレビというのは、成り立たないのではないかと思う。この点で、星1つ減らして、星4つ。
日本のテレビの志、日本教職員組合などの資料を駆使したこと、テレビ史がわかることなど、有益な本である。
テレビに対する批判、大いに結構である。ただ、やはり、テレビのウェイトが低くなるのはやむをえないのではないか。双方向であるし、情報が満載のインターネットが主になるのは避けられないだろう。となると、情報弱者対策としては、安価で使えるパソコンの開発こそがもっとも有益と私は考える。つまり、著者が主張するような情報弱者のためのテレビというのは、成り立たないのではないかと思う。この点で、星1つ減らして、星4つ。
2008年5月22日に日本でレビュー済み
告白しますと、本書を読むまでは「テレビなんて」という、いくぶんか娯楽番組中心のテレビメディアを見下したような意識がありました。それと比べると、本などの活字メディアの方が、内容が深く、価値あるもの、と思っていました。また、現在では、普及したインターネットの方が、必要な時に、必要な情報をだけを効率的に取り出せます。
でも、テレビなしでは、共同体意識や、最低限の社会的教養は成り立つだろうか?
佐藤さんの問題提起に、たしかに、テレビにしか提供のできない「テレビ的教養」の価値が、否定できそうにないぞ、と考えさせられました。
本書は、「テレビの持つ(娯楽ではない)教育・教養的要素がどのように捕らえられてきたか」、という観点から、テレビ誕生時から現在までの変遷を、歴史的にさかのぼり、資料を元に構成されたものです。テレビといえば、バラエティ、娯楽、と短絡的に思ってしまうのですが、インターネットの普及がそうであったように教育的価値があってこそ、国家政策としての後押しが成り立ったということを、再確認させてくれました。
また、活字やネットなどの個別化されたメディアと比べて、テレビの方が、文化的階層差や世代、地域の違いを超えて、人々に広く受入れられやすく、その話題を共有することで、共同体意識が作られることも確かです。
テレビの流す内容物がコミュニティへの参加意識や教養(の最低ライン)を作るんだ、という意識を持ってこそ、テレビに対し、批判的監視の目が働きそうです。テレビには、人を踊らせる扇情的な要素もありますが、否定や無関心に傾くよりは、戦略的な教養普及装置、として捕らえる視点こそ、テレビと社会の望ましい関係なのかな、と。
ただ、現状を翻って見ると、どうしても、「日本語の壁」から不自由な状況も、踏まえておく必要はあると思いました。この壁は、日本で、日本語のみのテレビを享受する人々にとって、「国家というコミュニティへの帰属意識」を作りうる一方で、世界からワンクッション切り離されてしまったり、大手テレビ局に見劣りする地域メディアへの関心を削いでしまうとも言えそうです。これは、英語圏や多言語圏と比べて、「テレビ的教養」効果に、大きく作用するのではないでしょうか。
でも、テレビなしでは、共同体意識や、最低限の社会的教養は成り立つだろうか?
佐藤さんの問題提起に、たしかに、テレビにしか提供のできない「テレビ的教養」の価値が、否定できそうにないぞ、と考えさせられました。
本書は、「テレビの持つ(娯楽ではない)教育・教養的要素がどのように捕らえられてきたか」、という観点から、テレビ誕生時から現在までの変遷を、歴史的にさかのぼり、資料を元に構成されたものです。テレビといえば、バラエティ、娯楽、と短絡的に思ってしまうのですが、インターネットの普及がそうであったように教育的価値があってこそ、国家政策としての後押しが成り立ったということを、再確認させてくれました。
また、活字やネットなどの個別化されたメディアと比べて、テレビの方が、文化的階層差や世代、地域の違いを超えて、人々に広く受入れられやすく、その話題を共有することで、共同体意識が作られることも確かです。
テレビの流す内容物がコミュニティへの参加意識や教養(の最低ライン)を作るんだ、という意識を持ってこそ、テレビに対し、批判的監視の目が働きそうです。テレビには、人を踊らせる扇情的な要素もありますが、否定や無関心に傾くよりは、戦略的な教養普及装置、として捕らえる視点こそ、テレビと社会の望ましい関係なのかな、と。
ただ、現状を翻って見ると、どうしても、「日本語の壁」から不自由な状況も、踏まえておく必要はあると思いました。この壁は、日本で、日本語のみのテレビを享受する人々にとって、「国家というコミュニティへの帰属意識」を作りうる一方で、世界からワンクッション切り離されてしまったり、大手テレビ局に見劣りする地域メディアへの関心を削いでしまうとも言えそうです。これは、英語圏や多言語圏と比べて、「テレビ的教養」効果に、大きく作用するのではないでしょうか。
2008年5月18日に日本でレビュー済み
テレビは、教育の地域格差を平準化するための番組を放送し、それを通して一定の「知」をそなえた標準的な「国民」を創造するためのメディアであった。その教育媒体としてのテレビの栄枯盛衰の過程を詳細に跡づけ、さらに、格差社会における情報弱者が出現している現在、そのテレビが本来もっていたはずの「国民」教育装置としての機能を再評価すべきではないか、ともの申す問題提議的な研究書である。
戦前のラジオ放送に期待された「国民教育メディア」の性格や「一億総動員」のパワーを継承したテレビは、戦後、教育における「一億総中流」を達成するための大衆メディアとなった。それは「教室」という限定的な時空を超え、「教師―生徒」という上下関係を無化しうる夢のような装置であった。児童が家庭内で自主的に「勉強」できる「セサミ・ストリート」が登場してきた1970年代はテレビ教育の黄金時代であったが、その夢は、「放送大学」というテレビ教育の理想的な形態が誕生した1980年代半ばには色あせ始める。ビデオさらにはテレビゲームの台頭によって、テレビは必ずしも「番組」を視聴するためのメディアではなくなり、さらにインターネットの勃興によって、その情報発信媒体としての権威は失墜しつつある…。
本書を読んで反省してみれば、確かに自分はテレビ(教育テレビやニュースのみならず、高度なお笑い番組や名作テレビドラマ等まで)を通して色々と「教養」を深めてきたよなあ、と改めて思う。もし今もインターネットやゲームがなければテレビへの教育依存度はより高かっただろうし、また逆に、テレビそのものがなければもっと無知な人間になっていただろう、とも想像した。あるいは、雑学的なクイズ・バラティがゴールデンタイムを席巻している現在、これは「教養」のベースになるのかな、と考えさせられたりもした。色々と思考を刺激してれる良書である。
戦前のラジオ放送に期待された「国民教育メディア」の性格や「一億総動員」のパワーを継承したテレビは、戦後、教育における「一億総中流」を達成するための大衆メディアとなった。それは「教室」という限定的な時空を超え、「教師―生徒」という上下関係を無化しうる夢のような装置であった。児童が家庭内で自主的に「勉強」できる「セサミ・ストリート」が登場してきた1970年代はテレビ教育の黄金時代であったが、その夢は、「放送大学」というテレビ教育の理想的な形態が誕生した1980年代半ばには色あせ始める。ビデオさらにはテレビゲームの台頭によって、テレビは必ずしも「番組」を視聴するためのメディアではなくなり、さらにインターネットの勃興によって、その情報発信媒体としての権威は失墜しつつある…。
本書を読んで反省してみれば、確かに自分はテレビ(教育テレビやニュースのみならず、高度なお笑い番組や名作テレビドラマ等まで)を通して色々と「教養」を深めてきたよなあ、と改めて思う。もし今もインターネットやゲームがなければテレビへの教育依存度はより高かっただろうし、また逆に、テレビそのものがなければもっと無知な人間になっていただろう、とも想像した。あるいは、雑学的なクイズ・バラティがゴールデンタイムを席巻している現在、これは「教養」のベースになるのかな、と考えさせられたりもした。色々と思考を刺激してれる良書である。