ヨーロッパ史の識字学習の考え方は、基本「まず本を読めるようになってから書くことを学ぶ」そうです。これに対して日本では、読み書きを同時に学び始め、段階的に難しい文の読み書きに進む、という大きな相違があるそうです。ヨーロッパの識字に関する本では、基本的に自筆のサイン(自署)ができる人は既に読める人である、と考えられ、自署の可否で識字の可否を判断しているそうです(よって結婚証明書の署名が重要な史料とされる)。日本では、ひらがなでの自署は小学校1年生レベルであり、自署ができる程度で本が読めるとは考えません。このように、日本と欧州では、社会的な伝統に起因する学習の順番が違うため、「自署率」や「識字率」は同じ内容を表しているとは限らない点、大きな注意が必要なのだそうです。従って単純に自署の可否だけで日欧を比較すると、実態と異なる解釈違いに陥る可能性があることになるわけです。
このあたりの相違を細かく認識した上で日欧その他の社会の比較を行うことが重要だ、ということが、私の場合、本書とヨーロッパ識字史本である『読み書きの社会史』(1983年/御茶の水書房)の両方を読んではじめて理解できました。こうした異同を含めて比較のポイント含めて解説した比較識字文化史の一般向け書籍が必要なのではないかと思いました(もしかしたら松塚俊三・八鍬友広編『識字と読書―リテラシーの比較社会史』(2010年)などの研究書で扱われているのかも知れませんが、私はまだ未見ですし、そのそもこの本は専門書なので一般向けではありません)。
日本では江戸末期の識字率男性43%、女性15%、という数値が流通していますが、この数値は、出典であるロナルド・ドーア著『江戸時代の教育』(岩波書店/1970年/原著1965年)の「付録1幕末における就学状況」という、本論ではなく付録に付された6頁の小論で、「江戸末期の就学率」を論じたものであり、決して識字率を論じたものではないのですが、日本では、初等学校に入学すると直ぐに自署を学ぶことから、「初等教育機関への就学率」=「自署率」=「識字率」と見なす傾向があり、43/15という数字が識字率として曲解されて大きく広まってしまったそうです※。
※本書p201では後年ドーア氏がこの曲解の拡散を嘆いた一文が引用されています。曰く、ドーア自身の数年後の著書で、「江戸時代の教育に関するかつての私の著書の中で一ヵ所よく引用されるところがあるが、引用されるのはそこだけである。即ち、R・ドーアは、一八七〇年には男児四~五十%、女児一〇~一五%が学校に行っていたと見積もっている(あるときには、計算しているとか、もっとひどい場合には、確言している)、と。最近私はその見積もりについて再検討してみたが、そういう結論に至る理屈に無理があることが分かった」と書いているそうです(The Importance of Educational Traditions: Japan and Elsewhere’ in Pacific Affairs, Vol.45, No.4, p.491,1972-3)※
本書では「就学率」と「識字率」は関連があるもののイコールではなく、「就学率」=「出席率」でもない、と指摘されています。p240では、近世の寺子屋では、農繁期生徒は休み、農閑期になると授業が再開される、と指摘され(この事情はヨーロッパ史でも同じ)、明治期の教育行政官菊池大麓は、「子どもたちはたった五百の漢字を習うだけなので、困ったことに普通の印刷物が読めないのである」と指摘しているそうです(p222/だからるびが発達した、と続く)。日本における識字率の史的分析における就学率偏重は、最初の体系的学術研究である石川謙著『日本庶民教育史』(1929)で定着してしまったとのこと(p202)
このように、生徒の就学数は必ずしも単純に出席率や学力・識字率といったものを表わしているわけではないため、本書ではこうした識字率にまつわる論点を整理し、従来の数値的な「量的研究」から、その数値が実態はどういうものなのかを深く分析する「質的研究」に向かう分析を行っています。これが本書の研究主題です。以下目次です。
はしがき(7)
日本語版への序文(10)
謝辞(13)
プロローグ(18)
第一章 兵農分離・庄屋層-江戸初期(31)
第二章 署名・符牒・印鑑-江戸初期(82)
第三章 農書・家訓・地方文人-一八世紀(130)
第四章 民衆の学び・手習所・農村知識人-一九世紀(179)
第五章 日本訪問記・入り札-一九世紀(216)
エピローグ 壮丁教育調査資料-明治期(252)
付録-京都の試験問題(295)
参考文献(303)
訳者あとがき(310)
索引(316)
本書で得られた重要なポイントをいくつか記載します。
(1)「識字率」を細かく段階分けしている
識字率に関する言説で非常にストレスを感じるのが、それが自分の名前を書ける程度なのか、簡単な日常会話レベルの文章を読み書きできる程度なのか(≒今の小学生)、ある程度難解な用語を持つ文章(新聞や小説)が読める程度なのか(≒今の中学生)、哲学や宗教用語など専門用語がとりあえる読めるレベル(≒高校生以上)なのか、というものです。
本書では、明確な数値に直結する史料がない現状の中、かなり高度な操作の結果であるものの、かなり手応えのある史料分析を知ることができました。すなわちp226では、1881年長野県北安曇郡常盤村における882名の男子を対象とした試験調査を紹介・分析していますが、この調査は、以下の諸段階レベル別に「識字(リテラシー)」の中身を分類して集計されている点が非常に重要です。
①名前、住所、数字が読み書きできない者
②名前、住所のみを書き得る者
③日々出納帳をつけることができる者
④普通の文書が読めて、証券などの簡単な形式の記入ができる者
⑤通常の商売のやりとりができる者
⑥布告や文書、勅令が読めて、新聞社説を十分理解しうる者
漠然と「識字率」という場合は②以下ですが、②は厳密には「署名ができる」程度の「自署率」であり、読書ができる通常の意味での「リテラシー」は④以下です。更にこの調査資料の重要なところは、被験者の年齢が残されていることです。著者はこの情報を活用し、被験者がそれぞれ学校に通っていた年代に読み書きを学習し、その後の人生でそれ以上読み書きを学習せずにいたと仮定した場合、彼らの学齢期の年代の識字率(少なくとも大よそのところは示唆する数値)が得られる、との前提を用いてデータを分析しているのです(同様の分析はヨーロッパ識字史を扱った『読み書きの社会史』の19世紀イタリアの表(p80)にも登場しています)。この数字だけだと年配になってから読み書きスキルが向上した可能性について未練が残るのですが、別のデータと組み合わせることで(後述)、数字の説得力が増しています。
本書では上記882名を、初等教育年代1810年年代(1881年の調査時70歳代)、1830年代(同50代)1850年代(同30代)1870年代(10代)毎に集計し、以下の傾向を見出しています。
1.④-⑥は、1810年代初等教育者こそ15%あるが、その後のどの年代も7-8%で安定している(この層は村の指導者層に該当し、江戸時代の初期からほぼ横ばいだと思われる数値)
2.②-③は、年代を追う毎に増加し、1810年代に比べ1870年代はほぼ倍増している(これは寺子屋の増加に比例していると考えられる)
3.①は1810年と比べ1870年代は半減している
この分析結果は本書の別の個所で論証されている諸傾向に合致しています。
1.読み書きができる人々の層は、江戸時代を通じ地域を問わず町村の指導者層とそれ以外の民衆という、「二つの文化」に分かれていたこと(1881年資料の④⑤⑥と②③の二つに日本社会全体的に分かれていたと、する。この「二つの文化」は江戸期識字文化の特性を表わす重要キーワードとして頻繁に登場する)
2.1830年代から急増する手習い所の増加傾向(1881年資料の②③層に相当/本書は基本的に後世の用語である「寺子屋」の用語は使わず史料に登場する同時代用語の「手習い所」を使っている)
1881年のデータと分析は、現時点では19世紀の田舎の村落の暫定統計参考数値として一つの基準となりそうに思えます。
(2)人々を細かく分類している
目次にある通り本書では、17世紀/18世紀/19世紀/明治 の時代毎、及び、各時代について大都市民/都市近郊村民/村人、男性/女性/子供、世帯主夫妻/男女使用人、等識字率が異なると思われるカテゴリー毎に異なる性質の史料を用いて分析してゆきます。
都合の良い局部的な数値の一般化を極力避けている点が本書の大きな特徴です。従って江戸末期~明治初期の識字率のネット記事によく出てくる、来日欧米人(オイレンブルグ/モース/ヘンリー・ファウルズ/エーメ/アンベール/ラナルド・マクロナルド/ゴローニン/シュリーマン)の所感を逐一検討し、「あらゆる階級の日本人」「日本には(略)読み書きできない男女はいない」「日本には無教養といふことがない」「日本にいるあいだじゅうずっと、身分の低い連中と毎日付き合ってきたが、読み書きできない人たちと出会ったのは一人か二人に過ぎない」 「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」「日本には読み書きできない人間はひとりもゐない」といった所感は大都市の町人と事象(貸本屋と本屋)のみに該当するものとして日本全体の平均へと一般化することは避けるよう指摘しています。
(3)史料
江戸時代には識字率を直接調査した史料が無いことから、各章各時代について以下の史料を活用しています。
①17世紀~主に署名の分析
対象地域:大都市(京都)町人 /地方小都市(平戸) /大都市(京都)近郊の村)
史料:町定(町内会の取り決め状)、宗門改帳、南蛮起請状 人別帳、符牒(画指/筆軸印/略押/爪印等)、花押、印鑑(符牒と印鑑は読み書きできず、花押は「できる」と分類している)
史料の性質は異なれど、ある程度数量分析できるのは驚きです。農村指導層は年貢文書と布達が主な文書作成機会であり、本格的な著述活動はまだ大都市指導部のみに留まっていることもわかりました。
②18世紀~農民の著述分析(農村への著述活動の浸透)
史料:農書、家訓、遺書、節用集(自家製百科事典)、蔵書目録、日記、俳諧(特に前付け競い合い)
比較的長期間にわたる日記(中には三世代のものも)が残されていて有用。旧家は凄いこともよくわかる。簡略化された俳諧の一種である「前付」の競い合いでは参加者数の記録が残っていることから村落の世帯数あたりの参加者数などの統計分析が可能となっている。同競い合いからは農村指導者層以外への浸透も判明。農村指導者層の読み書きも、日記や家訓、節用集、蔵書目録などの著述活動へと拡大し、膨大な蔵書を備えることも珍しくなくなる。農村指導者層の大都市文化への接近と指導層以外への前付けなどの浸透。
③19世紀~より下層の民衆への浸透
史料:手習い所関連の膨大な記録。日記、連判状、入札(いれふだ)、手紙等
日記を利用した商家の女性の分析や農村への都市出版物の大量流入、連判状や入れ札などの数量分析、俳句に描かれた児童の学習の様子や女中の手紙の紹介など。
以上本書では主に江戸期の識字率に関する論点/方法論/史料た詳述された大変有用な重要著作なので、できれば将来ちくま文庫などの学術文庫化を期待したいところです。また、最近でも旧家の蔵から史料が発見されていて(阪神淡路震災時など)まだまだ研究が進展する余地があるとのことなので、近年の研究書も読んでみたいし、今後の研究も楽しみです。ヨーロッパの識字史本概説書である『読み書きの社会史』と併せて大変お奨めです。
※本書は様々な分析をしながら、結局多くの読者の知りたい江戸末期の識字率について具体的な数値は出さずに終わっています。曲解された数字が独り歩きしてしまったことから安易な数値の提示は控えたようです。そこで、最後のエピローグの章で明治期の統計数値を用いた分析が紹介されていることから、これらの数値と上述の長野県1881年の統計分析を用いて個人的に江戸末期の文盲率と文章の読み書きができる識字率を試算してみました。以下の手順です。
①p259の滋賀/岡山/鹿児島県の1875年頃から1895年頃の間の男性自署率統計グラフを用いて、1870年頃と1900年頃の数値をそれぞれ外挿する(するとおおむね1870年滋賀90%/岡山40%/鹿児島10%、1900年滋賀90%/岡山80%/鹿児島70%)となる
②p275の1899年の日本全県の識字率グラフの県別数値を書き出したところ、各県の数値が概ね①の滋賀/岡山/鹿児島の1900年の辺りに収斂したため、各県を滋賀型/岡山型/鹿児島型に振り分け、滋賀/岡山/鹿児島の1870年の値を、各県の1870年の推定値とする
③ 1872年の政府人口統計が残っているため、人口の多寡が全体平均識字率に反映するように(高識字率で人口の多い大都市が全体平均を引き上げると見込まれるため)、1870年各県の外挿値を各県人口比率に乗じ、その加重平均を算出し日本全体の平均識字率とする
④ ③を行う時、p275の陸軍連帯区域と県域の異同の紐づけはp269の連帯区地図を用いる
結果、1870年(≒幕末)の日本全国平均自署率は約60%、江戸は70%程度となりました(この値は検索すると出てくる瀧島有氏の記事と同じ値です)。
続いて6段階のうち4以上に相当する識字者の割合を推計します。参考になる値が1881年長野県の段階別割合しかないため、長野の推算値から導いた1870年の値の各段階割合※1を一律全県に適用して人口を加味した加重平均を算出すると、④⑤⑥に該当する識字者の日本全国平均は20%ということになりました(※1 全盲①と自署のみ②の割合が1:2であるため、試算した県別全盲率の2倍を自署の比率とし、③は1871年の値の20%を用いた)。
ヨーロッパだけと比べると江戸末期日本の識字率はトップレベルではないものの、アジア・アフリカ含めて全世界規模で考えると日本の識字率は世界でもおおむねトップ集団にいたとはいえますし、重要なことは、欧米近代化を開始する前の江戸末期に、自力で(男性だけなら)南欧レベルの識字率に到達していた点こそ、日本の識字率と速やかな近代化の成功を考える場合に重要なことなのではないかと考える次第です。
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- 出版社柏書房
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- 出版社 : 柏書房 (2008/6/1)
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