日本では美術に焦点が当てられがちなルネッサンス。
本来、それは「文芸復興」と誰かが正しく日本語訳した通りで、
アカデミズムにおける文芸全体の復興の潮流、そして、それに伴う人々の考え方の変化こそが
本当の姿。
その「文芸復興」を、
中世におけるキリスト教に基づく世の中の理解の仕方、ものの考え方からの脱却の試み
(著者はこれをSwerveとして本のタイトルにした)という観点から眺めてみると、
ブラッチョリーニによる『物の本質について』の発見から70年ほどを経た
ルネッサンス盛期のアカデミズム(アカデミア・プラトニカがその代表格であろう)にとって
この本がいかに重要であったか、生身の感覚として生き生きと蘇ってくる。
ロレンツォ・イル・マニフィコともつながり、アカデミア・プラトニカにも出入りしていたのであろう
ボッティチェッリは、その思想に魅了され、敢えてキリスト教的主題から離れ、新しい視点で、
自然にあふれる生命を『春』として描いたのだ、と納得がゆく。
そして、サボナローラが強く否定しようとしていたものが、エピキュロス的な風潮、すなわち、
「人間にとって最高善としての快楽は精神的な楽であって肉体のそれではない。
真の幸福は外物にとらわれず,また煩わされず,死の恐怖から免れた無動,平静の精神状態であるとする」
という考え方であり、広く「文芸復興」であったということも、良く解かる。
「正しい」信仰に目覚めることを唱えた厳格な修道士は、ちょっとやり過ぎだったに違いない。
一度開けられた新しい時代への扉は、もはや閉めることは出来なかったということか。
ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の夢中で禁書を読む修道士たちのあの興奮状態は、
そういった古典の中に広がる全く異なる真実の世界を垣間見た時のそれに違いないと合点がゆく。
自分たちを閉じ込めてきた厳しいキリスト教的規範から解放される思いがしたに相違ない。
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一四一七年、その一冊がすべてを変えた 単行本 – 2012/11/1
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- 本の長さ395ページ
- 言語日本語
- 出版社柏書房
- 発売日2012/11/1
- ISBN-104760141766
- ISBN-13978-4760141760
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登録情報
- 出版社 : 柏書房 (2012/11/1)
- 発売日 : 2012/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 395ページ
- ISBN-10 : 4760141766
- ISBN-13 : 978-4760141760
- Amazon 売れ筋ランキング: - 97,072位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,337位世界史 (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年4月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2023年10月17日に日本でレビュー済み
ルクレティウスの『事物の本質について』という著作の写本をめぐる書物。
内容は地味だが、本書の描く出来事が世界史の趨勢に影響を与えたといっても過言ではない。
当たり前の話だが、電子書籍もコピー機もない時代、本というものは誰かが手書きで写す以外にない。
しかも、その素材となる紙(この時代は羊皮紙)そのものも当時は貴重品。
現代で例えると、下手をすると紙幣に直接書き込んでるぐらいの感覚なのだろうか。
そして我々にはちょっと容易に想像がつかないのだが、中世という時代はある面では「文明崩壊以後」の世界といえる。
過去にギリシャやローマという確固とした文明世界があって、それが滅んだ後の世界に彼らは生きている。
全てにおいてそうとは言えないのだろうが、文化的にも科学技術的にも、自分たちよりも優れた存在が過去にいて、その余韻というか残骸の中で暮らしているのである。
しかも社会を覆っているのはキリスト教という、清貧を何よりも尊び、快楽を否定する思想である。
ときには自分の体を鞭打ってまで、あたかもキリストが負った苦痛を追体験することが賛美されるような転倒した世界だ。
しかもそれでいて、高位聖職者や世俗の支配階級は権力闘争に明け暮れ、庶民から富を収奪し、放埓に耽っているのである。
一定以上の知的水準と誠実さを備える人間にとって、この時代を生きるのはさぞ陰鬱な気分だったことだろう。
しかも、知的好奇心を満たしてくれるような古代の著作は、多神教の堕落した言説とされて蔑まれ、本を焼かれたり、あるいは再利用のために書字を削りとられてしまうのである。
そんな時代に、エピクロス哲学の系譜に連なるルクレティウスという人物の写本を「発見」する過程を描いたのが、本書である。
この貴重な本の再発見者は、ポッジョ・ブラッチョリーニという。
本書によれば、彼の再発見がルクレティウスの貴重な著作を現代まで伝えることを可能にしたとされる。
エピクロス学派は「快楽主義」とされ、当時は「淫楽に耽る鬼畜の所業を礼賛する危険な異教徒」とされた。
しかし、実はそれこそが当時の大きな誤解であり、というかカトリックの教えに抵触しかねない思想性ゆえに、意図的に貶められたのだという。
本来、エピクロス学派は快楽を肯定する一方で、「節制」や「欲の適度さ」も説く一派である。
その方が、自分の思うにまかせない事柄は減り、結果として苦痛は減るからだ。
その意味では、彼らの主義は「禁欲主義」とされるストア学派と一脈似た部分がある。
彼らの快楽主義というのは、本来そのような文脈で理解されるべきものだ。
また、彼らは深い思索により、経験の裏付けこそないものの、演繹的思考を紡いで一部では現代の科学と同等の境地にいた。
例えば、彼らは「原理的にこれ以上分割できない最小の単位があるはずだ」という推論により、原子ないし素粒子のような概念にすでに到達していたのである。
また、そうであるならば、この世には「不滅の霊魂」のような形而上学的実体を措定する妥当性がない。
あるのはその最小の単位の、集合と離散のみである。
そのため、カトリックのいう「死後の裁き」や「審判の日」など来るはずがないのだ。
こうした思弁的かつ冷静な態度は、その後のルネサンスや、近代の科学主義に連綿と受け継がれていく。
本書は、その系譜のひとくさりが、いかに危うい偶然によって繋がれたものかを教えてくれる。
俗に「悪貨は良貨を駆逐する」というが、「いいものは必ず広まり、そして残り続ける」なんてことはないのである。
ましてや、正しいものが勝つなんてこともない。
そのことを、我々は常に肝に銘じておかねばなるまい。
内容は地味だが、本書の描く出来事が世界史の趨勢に影響を与えたといっても過言ではない。
当たり前の話だが、電子書籍もコピー機もない時代、本というものは誰かが手書きで写す以外にない。
しかも、その素材となる紙(この時代は羊皮紙)そのものも当時は貴重品。
現代で例えると、下手をすると紙幣に直接書き込んでるぐらいの感覚なのだろうか。
そして我々にはちょっと容易に想像がつかないのだが、中世という時代はある面では「文明崩壊以後」の世界といえる。
過去にギリシャやローマという確固とした文明世界があって、それが滅んだ後の世界に彼らは生きている。
全てにおいてそうとは言えないのだろうが、文化的にも科学技術的にも、自分たちよりも優れた存在が過去にいて、その余韻というか残骸の中で暮らしているのである。
しかも社会を覆っているのはキリスト教という、清貧を何よりも尊び、快楽を否定する思想である。
ときには自分の体を鞭打ってまで、あたかもキリストが負った苦痛を追体験することが賛美されるような転倒した世界だ。
しかもそれでいて、高位聖職者や世俗の支配階級は権力闘争に明け暮れ、庶民から富を収奪し、放埓に耽っているのである。
一定以上の知的水準と誠実さを備える人間にとって、この時代を生きるのはさぞ陰鬱な気分だったことだろう。
しかも、知的好奇心を満たしてくれるような古代の著作は、多神教の堕落した言説とされて蔑まれ、本を焼かれたり、あるいは再利用のために書字を削りとられてしまうのである。
そんな時代に、エピクロス哲学の系譜に連なるルクレティウスという人物の写本を「発見」する過程を描いたのが、本書である。
この貴重な本の再発見者は、ポッジョ・ブラッチョリーニという。
本書によれば、彼の再発見がルクレティウスの貴重な著作を現代まで伝えることを可能にしたとされる。
エピクロス学派は「快楽主義」とされ、当時は「淫楽に耽る鬼畜の所業を礼賛する危険な異教徒」とされた。
しかし、実はそれこそが当時の大きな誤解であり、というかカトリックの教えに抵触しかねない思想性ゆえに、意図的に貶められたのだという。
本来、エピクロス学派は快楽を肯定する一方で、「節制」や「欲の適度さ」も説く一派である。
その方が、自分の思うにまかせない事柄は減り、結果として苦痛は減るからだ。
その意味では、彼らの主義は「禁欲主義」とされるストア学派と一脈似た部分がある。
彼らの快楽主義というのは、本来そのような文脈で理解されるべきものだ。
また、彼らは深い思索により、経験の裏付けこそないものの、演繹的思考を紡いで一部では現代の科学と同等の境地にいた。
例えば、彼らは「原理的にこれ以上分割できない最小の単位があるはずだ」という推論により、原子ないし素粒子のような概念にすでに到達していたのである。
また、そうであるならば、この世には「不滅の霊魂」のような形而上学的実体を措定する妥当性がない。
あるのはその最小の単位の、集合と離散のみである。
そのため、カトリックのいう「死後の裁き」や「審判の日」など来るはずがないのだ。
こうした思弁的かつ冷静な態度は、その後のルネサンスや、近代の科学主義に連綿と受け継がれていく。
本書は、その系譜のひとくさりが、いかに危うい偶然によって繋がれたものかを教えてくれる。
俗に「悪貨は良貨を駆逐する」というが、「いいものは必ず広まり、そして残り続ける」なんてことはないのである。
ましてや、正しいものが勝つなんてこともない。
そのことを、我々は常に肝に銘じておかねばなるまい。
2021年8月26日に日本でレビュー済み
『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治訳、柏書房)は、五重塔のような珍しい構造の著作である。
一番下の第1層は、私が2021年に、9年前に刊行されたスティーヴン・グリーンブラットの著作『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を貪り読んでいる段階。
「千数百年間すっかり忘却されていたエピクロス主義の紹介者ルクレティウスと、ブックハンターとしてのポッジョ(・ブラッチョリーニ)との遭遇が(本書の)テーマである。いわば思想の媒介者・紹介者としての二人が、たまたま出会うにいたった不思議な経緯の物語である。それなら大したことでもない、と思われるかもしれない。しかし、もしこの二人の『出会い』が、じつは西洋の、いや世界の歴史を根本から変えてしまったとするならばどうだろう。それだとすれば、だれにも無視できまい」。
学術的には重要だが、読み物としては地味な内容を、これだけワクワクさせながら読ませるグリーンブラットの筆力は尋常ではない。私の長い読書生活を通じて、間違いなくトップ10入りする書物である。
第2層は、グリーンブラットが、15世紀イタリアの人文主義者・ブラッチョリーニの生涯を、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』に持てる能力を総動員して書き記している段階。
ブラッチョリーニ(1380~1459年)は「フィレンツェ南東部の街モンテプルチャーノ近郊の中層階級の家に生まれ、アレッツォで法律および人文学を学んでから、フィレンツェにやって来て公証人の仕事に就いた。ついでフィレンツェの書記官長であったコルッチョ・サルターティの推挽で教皇庁の秘書官ポストを得てローマで勉学を重ねたが、その後ヨーロッパ各地の修道院などをめぐり、多くの古代写本を再発見し筆写した」。著書に『フィレンツェ史』などがある。
第3層は、ブラッチョリーニが1417年に、幾多の困難を乗り越えて、遂に、ドイツの修道院で、古代ローマの哲学者・ルクレティウスの哲学叙事詩『物の本質について』の写本を再発見する段階。
この段階は、読み出したら止まらない推理小説のように刺激的に、そして、ドキュメントのように臨場感豊かに描かれている。
第4層は、エピクロスの信奉者・ルクレティウスが紀元前1世紀に、紀元前4~3世紀の古代ギリシャの哲学者・エピクロスの思想を、畏敬の念を持って哲学叙事詩にまとめる段階。
「ルクレティウスは、紀元前1世紀初頭に生まれ、前55年頃死去したラテン詩人だが、その生涯はほとんどわかっていない。ギリシャの哲人エピクロスの教えを忠実に伝えようとした長詩『物の本質について』でのみ有名である」。
「(『物の本質について』には)きわめて危険な思想が美しい詩によって記されていた。なんと宇宙は神々の助けなどなしに動いており、神への恐れは人間生活を害するものであり、人間を含む万物はたえず動きまわる極小の粒子でできているという。そしてこうした考え方がルネサンスを促進し、ボッティチェッリに霊感をあたえ、モンテーニュ、ダーウィン、アインシュタインの思想を形作ったのである」。
第5層は、エピクロスが紀元前4~3世紀に、自分のユニークな思想を発表し、弟子たちに伝える段階。
「ルクレティウスの哲学上の救世主エピクロスは、紀元前342年の終わり頃、エーゲ海に浮かぶサモス島に生まれた」。紀元前270年に71歳で死去。
「エピクロスの原子論的な自然学というのは、宇宙に存在する万物はそれ以上分割できない原子と何もない空間から成っており、無限にある原子が無窮の空間を運動しながら互いに衝突・結合することによって物質が構成されると説く」。
エピクロスの原子論、無神論は、もちろん重要であるが、それにもまして、エピクロスは私を死の恐怖から救い出してくれた恩人である。エピクロスは、「霊魂は滅びる」、「死後の世界は存在しない」、「われわれにとって死は何ものでもない」、「人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである」と説いている。
エピクロスの「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」という言葉を知った時、私は長年悩まされてきた死の恐怖から解放されたのである。死んだ人間には感覚が一切なく、母胎に宿る前の状態と同じだ。従って、死んでいることは存在していないことと変わりない。自分が生まれる以前のことを怖がる人はいないのに、なぜ死を思い悩むのか。私たちの生涯が始まる前の何十億年に亘って支配していたのと全く同じ無感覚状態なのだ。一度このことに気づけば、死の不安はなくなる。死に対する恐れは、想像力が生み出す妄想に過ぎないのだ。死の恐怖にどう対処するかは、人によってそれぞれであろうが、私自身は、このエピクロスの考え方に沿って生きよう、そして死を迎えようと、自分なりの覚悟ができた。エピクロスのおかげである。
一番下の第1層は、私が2021年に、9年前に刊行されたスティーヴン・グリーンブラットの著作『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を貪り読んでいる段階。
「千数百年間すっかり忘却されていたエピクロス主義の紹介者ルクレティウスと、ブックハンターとしてのポッジョ(・ブラッチョリーニ)との遭遇が(本書の)テーマである。いわば思想の媒介者・紹介者としての二人が、たまたま出会うにいたった不思議な経緯の物語である。それなら大したことでもない、と思われるかもしれない。しかし、もしこの二人の『出会い』が、じつは西洋の、いや世界の歴史を根本から変えてしまったとするならばどうだろう。それだとすれば、だれにも無視できまい」。
学術的には重要だが、読み物としては地味な内容を、これだけワクワクさせながら読ませるグリーンブラットの筆力は尋常ではない。私の長い読書生活を通じて、間違いなくトップ10入りする書物である。
第2層は、グリーンブラットが、15世紀イタリアの人文主義者・ブラッチョリーニの生涯を、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』に持てる能力を総動員して書き記している段階。
ブラッチョリーニ(1380~1459年)は「フィレンツェ南東部の街モンテプルチャーノ近郊の中層階級の家に生まれ、アレッツォで法律および人文学を学んでから、フィレンツェにやって来て公証人の仕事に就いた。ついでフィレンツェの書記官長であったコルッチョ・サルターティの推挽で教皇庁の秘書官ポストを得てローマで勉学を重ねたが、その後ヨーロッパ各地の修道院などをめぐり、多くの古代写本を再発見し筆写した」。著書に『フィレンツェ史』などがある。
第3層は、ブラッチョリーニが1417年に、幾多の困難を乗り越えて、遂に、ドイツの修道院で、古代ローマの哲学者・ルクレティウスの哲学叙事詩『物の本質について』の写本を再発見する段階。
この段階は、読み出したら止まらない推理小説のように刺激的に、そして、ドキュメントのように臨場感豊かに描かれている。
第4層は、エピクロスの信奉者・ルクレティウスが紀元前1世紀に、紀元前4~3世紀の古代ギリシャの哲学者・エピクロスの思想を、畏敬の念を持って哲学叙事詩にまとめる段階。
「ルクレティウスは、紀元前1世紀初頭に生まれ、前55年頃死去したラテン詩人だが、その生涯はほとんどわかっていない。ギリシャの哲人エピクロスの教えを忠実に伝えようとした長詩『物の本質について』でのみ有名である」。
「(『物の本質について』には)きわめて危険な思想が美しい詩によって記されていた。なんと宇宙は神々の助けなどなしに動いており、神への恐れは人間生活を害するものであり、人間を含む万物はたえず動きまわる極小の粒子でできているという。そしてこうした考え方がルネサンスを促進し、ボッティチェッリに霊感をあたえ、モンテーニュ、ダーウィン、アインシュタインの思想を形作ったのである」。
第5層は、エピクロスが紀元前4~3世紀に、自分のユニークな思想を発表し、弟子たちに伝える段階。
「ルクレティウスの哲学上の救世主エピクロスは、紀元前342年の終わり頃、エーゲ海に浮かぶサモス島に生まれた」。紀元前270年に71歳で死去。
「エピクロスの原子論的な自然学というのは、宇宙に存在する万物はそれ以上分割できない原子と何もない空間から成っており、無限にある原子が無窮の空間を運動しながら互いに衝突・結合することによって物質が構成されると説く」。
エピクロスの原子論、無神論は、もちろん重要であるが、それにもまして、エピクロスは私を死の恐怖から救い出してくれた恩人である。エピクロスは、「霊魂は滅びる」、「死後の世界は存在しない」、「われわれにとって死は何ものでもない」、「人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである」と説いている。
エピクロスの「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」という言葉を知った時、私は長年悩まされてきた死の恐怖から解放されたのである。死んだ人間には感覚が一切なく、母胎に宿る前の状態と同じだ。従って、死んでいることは存在していないことと変わりない。自分が生まれる以前のことを怖がる人はいないのに、なぜ死を思い悩むのか。私たちの生涯が始まる前の何十億年に亘って支配していたのと全く同じ無感覚状態なのだ。一度このことに気づけば、死の不安はなくなる。死に対する恐れは、想像力が生み出す妄想に過ぎないのだ。死の恐怖にどう対処するかは、人によってそれぞれであろうが、私自身は、このエピクロスの考え方に沿って生きよう、そして死を迎えようと、自分なりの覚悟ができた。エピクロスのおかげである。
2015年9月16日に日本でレビュー済み
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河野純治さんの訳が素晴らしく、流し読みなぞ勿体なく、留め置きました。
翻訳家?
違います。文体を獲得している翻訳家は通詞とは違うのです。額に汗して完成させた職人の優れた一遍がこの書です。驚嘆しました。無冠の
それにつけ、「物と心」の著者大森荘蔵さん、「哲学とは、額に汗して考え抜くこと」という言葉のもと、猟官人生に終わりましたね。
1983年、放送大学副学長就任。1985年辞任。
翻訳家?
違います。文体を獲得している翻訳家は通詞とは違うのです。額に汗して完成させた職人の優れた一遍がこの書です。驚嘆しました。無冠の
それにつけ、「物と心」の著者大森荘蔵さん、「哲学とは、額に汗して考え抜くこと」という言葉のもと、猟官人生に終わりましたね。
1983年、放送大学副学長就任。1985年辞任。
2013年9月27日に日本でレビュー済み
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内容は面白いです。
人から聞いてすごく興味を持ち即購入。
案の定面白かったです。
ただ、文章が機械的に感じました。原文を直訳しただけのような印象で、日本語の文章としてもう少し詰めていただくとより楽しめたかなと思いました。
なので星3つ。
人から聞いてすごく興味を持ち即購入。
案の定面白かったです。
ただ、文章が機械的に感じました。原文を直訳しただけのような印象で、日本語の文章としてもう少し詰めていただくとより楽しめたかなと思いました。
なので星3つ。
2013年3月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1冊の1000年前の写本が中世の世界に住む知識人を、政治、経済、科学、文化といった多方面から影響を与え、それまでの厳格で沈鬱なキリスト教世界を静かに、しかし確固たる方向に変えていくいわばドライバーに仕立て上げた、という論調は実に刺激的で面白かった。
中世イタリアになぜ忽然とルネサンスが起きたのかの原因解明にもなり、この点も非常に興味深かった。
しかし、ルクレティウスの「物の本質について」はギリシア時代ですら主流の思想とはなりえなかったはずの自由すぎる考え方であり、それがローマ時代の写本を通じて中世社会で何故に花開いたのか、生きること、死ぬことの全てが宗教儀式と結びついていた中世の知識人がそれほど神からの自由を、異常に不安定になろう自由を望んだのか?については今一つ明確に論証されてはいないようだ。
中世イタリアになぜ忽然とルネサンスが起きたのかの原因解明にもなり、この点も非常に興味深かった。
しかし、ルクレティウスの「物の本質について」はギリシア時代ですら主流の思想とはなりえなかったはずの自由すぎる考え方であり、それがローマ時代の写本を通じて中世社会で何故に花開いたのか、生きること、死ぬことの全てが宗教儀式と結びついていた中世の知識人がそれほど神からの自由を、異常に不安定になろう自由を望んだのか?については今一つ明確に論証されてはいないようだ。