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禅と戦争: 禅仏教は戦争に協力したか 単行本 – 2001/5/1
- 本の長さ317ページ
- 言語日本語
- 出版社潮書房光人新社
- 発売日2001/5/1
- ISBN-104769810008
- ISBN-13978-4769810001
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
戦争は軍指導者だけが起こしたのか。禅僧の光と影をあぶり出し、欧米的視点で描かれた「国家と宗教と戦争」を凝視する異色作。「死の覚悟、無我、無念、無想」を教える聖職者たち、禅仏教の教理の裏側を徹底的に考察。
登録情報
- 出版社 : 潮書房光人新社 (2001/5/1)
- 発売日 : 2001/5/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 317ページ
- ISBN-10 : 4769810008
- ISBN-13 : 978-4769810001
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,035,200位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
禅を在家で修業していますが 違和感も感じていました。この本が書いている事が禅の全面否定にはならないとは思いますが 禅を修業する人はこうした危険性を頭に入れておくのが大事に思います。在家といえど禅にあまり悪いイメージを持たない人が多く まっしぐらに禅を信じてしまっていますので 憲法9条がなくなり またもやファシズムに走れば同じ運命にもなりかねません。 禅は良くないといいきれない面がありますし 個人の人格の修業には素晴らしい効果があります。しかしこうした歴史は事実としてあるのを忘れてはやっていけないでしょう。 訳に関しては 私が日本語が無茶苦茶な世代ゆえか あまり違和感がありませんでした(笑) 問題はあるかもしれませんが..
2005年9月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
勇気ある本だと思う。
戦前、戦時下の日本において、禅界に指導的な影響力をもっていた著名な禅者たちが、いかにして軍国主義に加担するような言説を生み出していったかを厖大な資料にあたって丹念に論証している。禅者である著者の態度は、その点で、とても真摯だ。
日本の倫理思想、特に仏教の倫理思想について、それが歴史的にどのような問題をはらんでいたのかを考えさせる本である。
星3つとしたのは、アメリカの禅者である著者の、日本の禅者たちの戦争責任を追及する厳しい視線の中に「それでは禅とは何か」という問いが浮かんでくる前に本書が終わっているからだ。著者は、戦争協力へと向かった日本の禅者たちが時流に合わせて教義をねじまげる付和雷同的な態度を告発しているのか、あるいは時流にかかわらず禅の教義そのものが戦争を肯定するものなのかをじゅうぶん明らかにしていない。
「戦争と禅」というテーマで、戦後の日本の禅者と著者が対話していくプロセスを、ぜひ、活字にして伝えてほしい。
続巻の刊行を期待したい。訳文は読みやすいが、かなり意訳している。
戦前、戦時下の日本において、禅界に指導的な影響力をもっていた著名な禅者たちが、いかにして軍国主義に加担するような言説を生み出していったかを厖大な資料にあたって丹念に論証している。禅者である著者の態度は、その点で、とても真摯だ。
日本の倫理思想、特に仏教の倫理思想について、それが歴史的にどのような問題をはらんでいたのかを考えさせる本である。
星3つとしたのは、アメリカの禅者である著者の、日本の禅者たちの戦争責任を追及する厳しい視線の中に「それでは禅とは何か」という問いが浮かんでくる前に本書が終わっているからだ。著者は、戦争協力へと向かった日本の禅者たちが時流に合わせて教義をねじまげる付和雷同的な態度を告発しているのか、あるいは時流にかかわらず禅の教義そのものが戦争を肯定するものなのかをじゅうぶん明らかにしていない。
「戦争と禅」というテーマで、戦後の日本の禅者と著者が対話していくプロセスを、ぜひ、活字にして伝えてほしい。
続巻の刊行を期待したい。訳文は読みやすいが、かなり意訳している。
2018年1月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
驚くべき内容の本ですが、翻訳に問題があるかと思います。原書を取り寄せ中です。宗教語の翻訳はなかなか面倒ですね。原書と併読するつもり。
ここに紹介されている事実に日本人が触れなかったのは残念です。
ここに紹介されている事実に日本人が触れなかったのは残念です。
2009年9月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
塚原卜伝、足利義輝、上泉信綱、柳生利厳、宮本武蔵らの登場する剣豪小説では、「剣禅一如」という境地が理想として描かれる場合が多い。この剣術が中国武術に変わると、「武禅一如」を目指す嵩山少林寺(達磨大師創始?)の少林拳となる。そうした剣術や武術を戦争に格上げした「戦禅一如」と言うべき事例を本書で知ることになる。
トルストイから打診された仏教指導者としての日露開戦批判について、釈宗演の返事は「釈尊は間違いなく不殺生を説いた。一切衆生は大慈悲心で統一されない限り、平和は決して訪れない。それゆえに互いに矛盾する物事を調和させるには、殺戮と戦争が必要となってくる。」(p.48)である。また、暗殺事件の容疑者を支援する山本玄峰の法廷証言は「仏教は人道の真の円満を根底となすが故に、之を破壊する者あれば、止むを得ず善人といえども之を斬るなり。」(p.134)である。こうした驚きの発言に、鈴木大拙、原田粗学、沢木興道らも並ぶ。
しかし、剣禅一如も武禅一如も戦禅一如も「世間の勧善懲悪」であり、ブッダ釈尊の説いた「出世間の仏教」とは言えない。なぜか?
ブッダ釈尊の仏教は戒・定・慧が基本である。これを実践するアプローチには、「正語」の側から出発して「正見」を目指す「増上戒学(=戒)」と、「正念」の側から出発して「正見」を目指す「増上心学(=定)」がある。「増上戒学(=戒)」と「増上心学(=定)」によって「増上慧学(=慧)」に到達するのである。
さて、同じアジアでも、日本の禅は道元が13世紀(鎌倉時代)に中国から伝え、ベトナムの禅は毘尼多流支(ヴィニタルチ)が6世紀に中国から伝えた。日本禅より7世紀も早いベトナム禅には、「正念(i.e. sati=mindfulness)」を訓練する『律小』という例題集から「禅」の予備訓練が始まるが、ここに初期の禅の修行アプローチを見ることができる。つまり、「禅」のアプローチは「増上心学」なのである。
ところで、8世紀の中国では不思不観の坐禅による解脱を説いた摩訶衍(まかえん)の禅が流行した。チベット王はこの教えの反社会性を憂え、シャーンタラクシタ(寂護)の弟子カマラシーラ(蓮華戒)を招いて、摩訶衍を折伏させて龍樹がまとめた中観の教義を正統とした。ところが、日本の禅では摩訶衍の教義を排除していない。むしろ日本の禅に忍び込んだ摩訶衍の禅が、剣禅一如という形で新たな流行をもたらしたに違いない。
今こそ、ブッダ釈尊の仏教を覆ってきた猥雑物を取り除く覚悟が必要である。
トルストイから打診された仏教指導者としての日露開戦批判について、釈宗演の返事は「釈尊は間違いなく不殺生を説いた。一切衆生は大慈悲心で統一されない限り、平和は決して訪れない。それゆえに互いに矛盾する物事を調和させるには、殺戮と戦争が必要となってくる。」(p.48)である。また、暗殺事件の容疑者を支援する山本玄峰の法廷証言は「仏教は人道の真の円満を根底となすが故に、之を破壊する者あれば、止むを得ず善人といえども之を斬るなり。」(p.134)である。こうした驚きの発言に、鈴木大拙、原田粗学、沢木興道らも並ぶ。
しかし、剣禅一如も武禅一如も戦禅一如も「世間の勧善懲悪」であり、ブッダ釈尊の説いた「出世間の仏教」とは言えない。なぜか?
ブッダ釈尊の仏教は戒・定・慧が基本である。これを実践するアプローチには、「正語」の側から出発して「正見」を目指す「増上戒学(=戒)」と、「正念」の側から出発して「正見」を目指す「増上心学(=定)」がある。「増上戒学(=戒)」と「増上心学(=定)」によって「増上慧学(=慧)」に到達するのである。
さて、同じアジアでも、日本の禅は道元が13世紀(鎌倉時代)に中国から伝え、ベトナムの禅は毘尼多流支(ヴィニタルチ)が6世紀に中国から伝えた。日本禅より7世紀も早いベトナム禅には、「正念(i.e. sati=mindfulness)」を訓練する『律小』という例題集から「禅」の予備訓練が始まるが、ここに初期の禅の修行アプローチを見ることができる。つまり、「禅」のアプローチは「増上心学」なのである。
ところで、8世紀の中国では不思不観の坐禅による解脱を説いた摩訶衍(まかえん)の禅が流行した。チベット王はこの教えの反社会性を憂え、シャーンタラクシタ(寂護)の弟子カマラシーラ(蓮華戒)を招いて、摩訶衍を折伏させて龍樹がまとめた中観の教義を正統とした。ところが、日本の禅では摩訶衍の教義を排除していない。むしろ日本の禅に忍び込んだ摩訶衍の禅が、剣禅一如という形で新たな流行をもたらしたに違いない。
今こそ、ブッダ釈尊の仏教を覆ってきた猥雑物を取り除く覚悟が必要である。
2016年4月10日に日本でレビュー済み
明治維新以降我が国が行った戦争に、禅宗の指導者或いは信徒がどう対したかを、膨大な文献に当たり明らかにした研究。元々英文で書かれたものだが、この翻訳書によって、引用された資料を原文で読むことが出来る。そして私達は、戦時下における禅宗について、そんなことがあったのか、禅の指導者はそういうことを言っていたのか、という、今まで全く知らなかった事実を知ることになる。
これを読む前私は、ISISの自爆テロその他の行動を、完全に自分の理解を超える、と思っていた。しかし今、それは、他人事(ひとごと)ではないと感じる。外から見ると明らかに、変だ、おかしい、と気付くことでも、内にいると何の疑問も抱かない、ということがあり得る。70年前までの日本でそういうことがあった。では今はどうなのか?それを繰り返さない道はあるのか?
著者は、その道を探るべく、禅宗の僧侶の一人として、戦前の、更には戦後の、禅の指導者の発言に向き合った。しかしそれは、禅の実践者だけにとどまらない、今生きている人すべてに関わる問題を提示することになった。
この本については、石井公成氏による詳細な書評を次のURLで読むことが出来る。欧米と日本でのこの本の受け止め方の違いについても触れられ、とても参考になる。
[・・・]
これを読む前私は、ISISの自爆テロその他の行動を、完全に自分の理解を超える、と思っていた。しかし今、それは、他人事(ひとごと)ではないと感じる。外から見ると明らかに、変だ、おかしい、と気付くことでも、内にいると何の疑問も抱かない、ということがあり得る。70年前までの日本でそういうことがあった。では今はどうなのか?それを繰り返さない道はあるのか?
著者は、その道を探るべく、禅宗の僧侶の一人として、戦前の、更には戦後の、禅の指導者の発言に向き合った。しかしそれは、禅の実践者だけにとどまらない、今生きている人すべてに関わる問題を提示することになった。
この本については、石井公成氏による詳細な書評を次のURLで読むことが出来る。欧米と日本でのこの本の受け止め方の違いについても触れられ、とても参考になる。
[・・・]
2006年4月3日に日本でレビュー済み
率直に言って、訳が酷い。誤訳というより、日本語になっていない箇所が散見される。しか
し、英語の原著を読むようなつもりで、著者が言わんとしているところを読みとろうとするな
らば、本書は、とりわけ日本のナイーブな仏教徒や仏教界にとって、生死を決するほど重
要な書であることがわかる。よって、あえて星5つ。
要するに、少なくとも日本において禅や仏教が常に平和主義だったなどとは、口が裂けても
言えず、それらがいとも簡単に国家主義に吸収され、むしろそれを翼賛する方向に自ら進
んでいったことが、様々な資料をもって、説得的に描かれている。鈴木大拙をはじめとする
著名な仏教者の驚くべき戦中の発言に、驚愕すると同時に、背筋が寒くなる思いだ。禅は、
そして仏教は、政治に対して、何とウブなのか、無定見なのかと。
「今の一瞬に生きる」主義の危うさをこれほど、赤裸々に暴いた本もめずらしい。著者が曹
洞宗の僧侶であるだけに、余計に説得力がある。
著者も述べているように、仏教の再生はこの本の問題提起を正面から受け止めるところか
らしか始まらないだろう。(たとえば、ナット・ハン禅師の行動はその一つのあり方を示して
いる。)
タイトル通り、全仏教徒、仏教にこれから触れようとする人々にとって、必読の書である。
改訳および、続編の翻訳を切望する。
し、英語の原著を読むようなつもりで、著者が言わんとしているところを読みとろうとするな
らば、本書は、とりわけ日本のナイーブな仏教徒や仏教界にとって、生死を決するほど重
要な書であることがわかる。よって、あえて星5つ。
要するに、少なくとも日本において禅や仏教が常に平和主義だったなどとは、口が裂けても
言えず、それらがいとも簡単に国家主義に吸収され、むしろそれを翼賛する方向に自ら進
んでいったことが、様々な資料をもって、説得的に描かれている。鈴木大拙をはじめとする
著名な仏教者の驚くべき戦中の発言に、驚愕すると同時に、背筋が寒くなる思いだ。禅は、
そして仏教は、政治に対して、何とウブなのか、無定見なのかと。
「今の一瞬に生きる」主義の危うさをこれほど、赤裸々に暴いた本もめずらしい。著者が曹
洞宗の僧侶であるだけに、余計に説得力がある。
著者も述べているように、仏教の再生はこの本の問題提起を正面から受け止めるところか
らしか始まらないだろう。(たとえば、ナット・ハン禅師の行動はその一つのあり方を示して
いる。)
タイトル通り、全仏教徒、仏教にこれから触れようとする人々にとって、必読の書である。
改訳および、続編の翻訳を切望する。
2005年12月4日に日本でレビュー済み
この書を読むまでも無く、寺院参りをして見ると、禅宗に限らず、日本仏教全体が戦争に関わった事に気がつく。
忠魂碑、慰霊塔をはじめとして、戦死者の石塔もいれてしまえば限が無い。日本軍に限らず、満州国軍のモノもある。これらが、曹洞宗寺院よりも臨済宗寺院に多いと言う研究報告もある。
或いは、戦争当時の、前線に赴いた仏教僧侶、境内で軍事教練をする僧侶の写真も残されている。
これらの事実を、感情的にも感傷的にもならずに、受け止める必要がある。そうしなければ、真の意味での日本仏教の発展は無いからである。また、それが、真に釈尊の弟子たる者のとる態度だろう。
戦後半世紀して、本書の様なモノが現れたのを、意外に思われる向きも在るかも知れないが、出るべくして出たと言うべき書ではないだろうか。
オススメである。
忠魂碑、慰霊塔をはじめとして、戦死者の石塔もいれてしまえば限が無い。日本軍に限らず、満州国軍のモノもある。これらが、曹洞宗寺院よりも臨済宗寺院に多いと言う研究報告もある。
或いは、戦争当時の、前線に赴いた仏教僧侶、境内で軍事教練をする僧侶の写真も残されている。
これらの事実を、感情的にも感傷的にもならずに、受け止める必要がある。そうしなければ、真の意味での日本仏教の発展は無いからである。また、それが、真に釈尊の弟子たる者のとる態度だろう。
戦後半世紀して、本書の様なモノが現れたのを、意外に思われる向きも在るかも知れないが、出るべくして出たと言うべき書ではないだろうか。
オススメである。
2013年12月28日に日本でレビュー済み
宗教の各宗派が一斉に戦争推進に大きく動いた。特に禅宗は最も積極的だった。この本は外国の人が書いた話題作を翻訳されたものです。反戦を貫いた内山愚童僧侶のことも書かれていますが、全体としての禅宗と僧侶はすさまじい勢いで戦争を当然のこととして積極的にあおり、活動した。宗教なるがゆえに、その言動は苛烈であった。著者はその動きに疑問を持っていた。しかし周りの動きは苛烈であり、何がそうさせているのか、事実と思索を苦悶しながら問い詰め、問いかけています。また、『曹洞宗の戦争』(一戸彰晃著)も紹介いたします。