家に帰るのは遺骨になってからであり、入院してから一度も家に帰れなかった。ということも多い世の中。それって死に方としてはどうなのだろうか。
「家族に迷惑をかけたくないから病院や施設で亡くなりたい」。しかし、死ぬことで残った家族は葬儀や煩雑な手続きがあるので、どちらにしてもやることは多い。だったら私は、自分の気が済むところで死にたい。
年金をあてにされている人は、家族ができるだけ長く生きていてほしいということもあるらしい。でも、本人の意識がなくて生かされているだけの状態であれば、本人にとってはどうなのだろうか。私なら、意識があるうちに大事にしてほしい。
この本については、自宅=自由なところ、病院や施設=管理されているところ。どちらで自分らしく死ねるかということであると思う。今でも緩和ケア病棟であったり、介護施設であっても「その人らしい死」、家族も満足できる看取りはある。最期まで自分のことは自分で決める、周りからも人として大事にされるのであれば死の選択肢は複数あって良いと思う。
事例がたくさん紹介されており、読みやすくて良かった。私の頭でも理解できた。
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在宅死のすすめ 生と死について考える14章 (幻冬舎ルネッサンス新書 あ 2-1) 新書 – 2010/2/25
網野 晧之
(著)
私たちが生きるために決して目をそらしてはならないのが死である。人生の終局においては、野生動物と同じように、人間も死を受容し死に場所を見つけようとする。死に向き合い、病院や施設ではなく、自分が生きてきた自分の家で穏やかに死の到来を待つこと。さらに、見送る家族も周りの者も満足することこそ、誰もが望む幸福な死のかたちであると説く一書。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社幻冬舎ルネッサンス
- 発売日2010/2/25
- ISBN-104779060176
- ISBN-13978-4779060175
商品の説明
著者について
1947年北海道美唄市生まれ。1972年札幌医科大学を卒業。1974年東京大学医学部第四内科に入局。公立昭和病院勤務を経て、1984年長野県下伊那郡泰阜村診療所に勤務。老いや死に対して現代医学は無力であるとの認識に至り、医療を診断治療型から世話型に転換、在宅医療を推進し看護を重視した医療を展開する。1996年豊島区にて在宅医療活動を再開。電気ポットによる安否確認などのボランティア活動や、本町訪問看護ステーション、赤塚クラブを開設するなど、現在も精力的に活動している。著書に『みんな、家で死にたいんだに』(日本評論社、1996)などがある。
登録情報
- 出版社 : 幻冬舎ルネッサンス (2010/2/25)
- 発売日 : 2010/2/25
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4779060176
- ISBN-13 : 978-4779060175
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,276,550位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 47,416位医学・薬学・看護学・歯科学
- - 77,832位新書
- カスタマーレビュー:
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2016年4月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ずっと減り続けていた
在宅死が、2005年から上昇に転じて
2013年には13%をこえたという。
「できることなら、家で死にたい」と願う人が
圧倒的に多いのは
物理的な不自由をがまんしても
精神的に自由に人生をしまいたい、という願いの表れで、それは
野生動物が最期、死を受容して森の奥でひっそり息絶えるのと同じ
帰巣本能ではないか、と著者は言う。
自分が最もやすらぐ場所で、痛みだけは止めてもらって
ぜいたくが許されるなら
ひとりでいい、心を許せる人に手を握ってもらって
「ありがとう。楽しかった」と言って旅立てたら最高だなあ。
強い意志で、それをかなえようと
本書を読んで改めて思った。
在宅死が、2005年から上昇に転じて
2013年には13%をこえたという。
「できることなら、家で死にたい」と願う人が
圧倒的に多いのは
物理的な不自由をがまんしても
精神的に自由に人生をしまいたい、という願いの表れで、それは
野生動物が最期、死を受容して森の奥でひっそり息絶えるのと同じ
帰巣本能ではないか、と著者は言う。
自分が最もやすらぐ場所で、痛みだけは止めてもらって
ぜいたくが許されるなら
ひとりでいい、心を許せる人に手を握ってもらって
「ありがとう。楽しかった」と言って旅立てたら最高だなあ。
強い意志で、それをかなえようと
本書を読んで改めて思った。
2010年9月8日に日本でレビュー済み
著者は病院医療、僻地医療、開業医療の経験をもつ医師である。
多くの人の最期を看取った経験から病院、福祉施設での死に疑問を持ち、
在宅での死が最善であるとの考えに至った。
医療機関において、終末期の老人は無意味な延命医療の対象として扱われる。
死の直前、一年間の医療費の大半は最後の2カ月に集中し50%を超えるそうである。
病院は死に逝く老人に鞭打ち、利潤をあげているようにも見える。
一方、特別養護老人ホーム、老人保健施設、老人病院、デイサービスなどにおいて、
老人は喜怒哀楽を失い、管理する対象として扱われる。
福祉施設は老人の隔離収容施設、姥捨山の様相を呈している。
高知県の疋田善平医師により提唱された「満足死」という概念がある。
定義は「死にゆく本人が満足、看取った家族も満足、周りの関係者も満足した死」で
ある。
満足死のためには自由が必要であり、病院、福祉施設では不可能である。
老人にとって最も自由度の高い自宅こそが満足死を実現できる場所である。
多くの人の最期を看取った経験から病院、福祉施設での死に疑問を持ち、
在宅での死が最善であるとの考えに至った。
医療機関において、終末期の老人は無意味な延命医療の対象として扱われる。
死の直前、一年間の医療費の大半は最後の2カ月に集中し50%を超えるそうである。
病院は死に逝く老人に鞭打ち、利潤をあげているようにも見える。
一方、特別養護老人ホーム、老人保健施設、老人病院、デイサービスなどにおいて、
老人は喜怒哀楽を失い、管理する対象として扱われる。
福祉施設は老人の隔離収容施設、姥捨山の様相を呈している。
高知県の疋田善平医師により提唱された「満足死」という概念がある。
定義は「死にゆく本人が満足、看取った家族も満足、周りの関係者も満足した死」で
ある。
満足死のためには自由が必要であり、病院、福祉施設では不可能である。
老人にとって最も自由度の高い自宅こそが満足死を実現できる場所である。
2012年9月16日に日本でレビュー済み
「やっぱり、最期は家で死にたい!」
恐らく、日本ではそう考えている人が多いのではないだろうか。
この本は、タイトルの通り、生と死のあり方を、数々の在宅死の実例を交えながら考察するものであるが、実際にこれを読んでみると、現代の日本では老いと死が完全に商品化されているように思えてしまう。
例えば、この本ではガンで亡くなった人の症例が数多く取り上げられていたが、現代の日本ではガンに罹ると、治る可能性に関係なく、ありとあらゆる治療を施される傾向が非常に強い。その結果、医療費はどんどん高騰してしまう。
しかも、現代の日本では死そのものが、完全に日常から隔絶されてしまっている。そのせいで、肉親の死に目に会うことが難しくなっている。
果たして、死へと赴く当人はそれで満足するのだろうか?
そのことを、著者の網野さんはさまざまな視点から考察していると言える。
もちろん、家で死にたくなければ、病院や老人ホームに入るのも良い。
だが、自分の死期が迫った時に、生と死について真剣に考えているか、考えていないかでは大違いである。
だから、この本は生と死について真剣に考えるためのテキストとして、多くの人に読ませるべきだと思う。
恐らく、日本ではそう考えている人が多いのではないだろうか。
この本は、タイトルの通り、生と死のあり方を、数々の在宅死の実例を交えながら考察するものであるが、実際にこれを読んでみると、現代の日本では老いと死が完全に商品化されているように思えてしまう。
例えば、この本ではガンで亡くなった人の症例が数多く取り上げられていたが、現代の日本ではガンに罹ると、治る可能性に関係なく、ありとあらゆる治療を施される傾向が非常に強い。その結果、医療費はどんどん高騰してしまう。
しかも、現代の日本では死そのものが、完全に日常から隔絶されてしまっている。そのせいで、肉親の死に目に会うことが難しくなっている。
果たして、死へと赴く当人はそれで満足するのだろうか?
そのことを、著者の網野さんはさまざまな視点から考察していると言える。
もちろん、家で死にたくなければ、病院や老人ホームに入るのも良い。
だが、自分の死期が迫った時に、生と死について真剣に考えているか、考えていないかでは大違いである。
だから、この本は生と死について真剣に考えるためのテキストとして、多くの人に読ませるべきだと思う。