仲正昌樹氏は、自著『ヘーゲルを越えるヘーゲル』で、「現代の哲学で最も影響力があるとされるのは、哲学的命題を構成する論理や言語の分析に力を入れる英米の分析哲学である。p.176」と述べています。そこでブランダムのスコア記録係というアイデア(p.182)を知り、もっとブランダムが知りたくなり、本書を購入しました。ブランダムの著書は『推論主義序説』の翻訳がありますが、難しそうなのでブランダムの周辺から攻めることにしました。これは正解でした。前期分析哲学(論理実証主義)からネオ・プラグマティズムの三つの源泉までを解説した第1章だけでも、初学者にとっては読む価値は十分にあります。三つの源泉とは、クワイン『経験主義の二つのドグマ』、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』、セラーズ『経験論と心の哲学』のことです。
・規範的な「理由を与え、求めるゲーム」
さて目的のブランダムですが、ネオ・プラグマティズムの中心であったローティ亡き後、ブランダムが中心を担っているそうです(p.95)。ブランダムの大著『明示化』のテーマは、私たちが日常的な生活において「暗黙的」に行っていることを、言語的な表現において「明示的」に解明することです(p.99)。そして、行為とはこの暗黙から明示に移行することなのです(p.99)。
ブランダムの推論主義を、規範的な「理由を与え、求めるゲーム」として理解できると説明され、得点記録ゲーム(スコア記録係)の話に続きます。この話自体は仲正氏のものと大差ないのですが、既にセラーズの「理由の空間」が説明されていることと、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」との異同が加わることで(p.108)、理解が深まります。
ブランダムの理論は、人が無意識にコミットメントしている主義・思想や規範を抽出して、その行動の理由を知ることに役立ちそうです。フロイトの精神分析より適用範囲は広がるでしょう。
・ヘーゲルの相互承認論
カントは規範性を、経験的活動を超えた何か、あるいは経験的活動の背後にある何かと考えました。ヘーゲルは、あるもののコミットメントを引き受け、その行為に責任があるとみなし、それを実践する態度を「承認」と呼ぶのです(p.116)。これは正確なヘーゲル解釈というより、ヘーゲルの「相互承認論」は、ブランダムにとっての「規範的プラグマティズム」なのです。
・左翼セラーズ主義
ブランダムは、科学主義的セラーズ理解を右翼セラーズ主義と呼び、自分とローティを左翼セラーズ主義と呼びました。以下、左翼セラーズ主義の特徴をリストしておきます(p.122-5)。
①ブランダムは、心が言語から独立した形で存在し、外界の正確な表象として真理を捉えるといった表象主義を拒否している。
②ヘーゲルの観念論解釈からも明らかなように、ブランダムは、知識や行為をつねに社会的実践として考えている。
③ブランダムは自然主義を拒否し、規範主義を標榜している。
④ブランダムの規範的プラグマティズムは、推論主義として理解されなくてはならない。
社会の変化に伴い、知の組み換えが求められています。本書が対象としたネオ・プラグマティズムは、その時代の変化に応える選択肢のひとつです。ネオ・プラグマティズムを理解するには分析哲学とプラグマティズムを知らなければなりませんが、残念ながら日本では、分析哲学やプラグマティズムはあまり知られてはいません。本書は、1979年ローティ『哲学と自然の鏡』以後の分析哲学とプラグマティズムの歴史が語られていますが、日本の現状はローティで止まっているようです。
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ネオ・プラグマティズムとは何か-ポスト分析哲学の新展開- 単行本 – 2012/4/21
岡本 裕一朗
(著)
ポストモダニズムからの新しい哲学であり、分析哲学から誕生した運動としての「ネオ・プラグマティズム」。その成立過程から、従来の哲学との対話や、実践としての環境プラグマティズムまで、エッセンスを解説した本格的入門書。
- 本の長さ282ページ
- 言語日本語
- 出版社ナカニシヤ出版
- 発売日2012/4/21
- 寸法14 x 2.8 x 19.5 cm
- ISBN-104779506077
- ISBN-13978-4779506079
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商品の説明
著者について
岡本裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
1954年 福岡県に生まれる。
1984年 九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得。
現 在 玉川大学文学部教授。(専攻/哲学・倫理学)
著訳書 『12歳からの現代思想』(ちくま新書,2009年),『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシヤ出版,2009年),『モノ・サピエンス』(光文社新書,2006年),『ポストモダンの思想的根拠』(ナカニシヤ出版,2005年),『異議あり! 生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版,2002年),T.ネーゲル『哲学ってどんなこと?』〔共訳〕(昭和堂,1993年),他。
1954年 福岡県に生まれる。
1984年 九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得。
現 在 玉川大学文学部教授。(専攻/哲学・倫理学)
著訳書 『12歳からの現代思想』(ちくま新書,2009年),『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシヤ出版,2009年),『モノ・サピエンス』(光文社新書,2006年),『ポストモダンの思想的根拠』(ナカニシヤ出版,2005年),『異議あり! 生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版,2002年),T.ネーゲル『哲学ってどんなこと?』〔共訳〕(昭和堂,1993年),他。
登録情報
- 出版社 : ナカニシヤ出版 (2012/4/21)
- 発売日 : 2012/4/21
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 282ページ
- ISBN-10 : 4779506077
- ISBN-13 : 978-4779506079
- 寸法 : 14 x 2.8 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 715,724位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 21,999位哲学・思想 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年10月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年10月10日に日本でレビュー済み
近年になってアメリカで勃興した哲学であるネオ・プラグマティズムを紹介した著作。著者の本来の専門ではない事を考えると頑張っているとは思うが、ブランダム論と環境プラグマティズム論を除くと大して分かりやすくもない微妙な出来となっている。ただし日本語で読めるブランダム論は現時点では本書しかないのでその点では貴重。全体としてネオ・プラグマティズムに関する本としては物足りないが、ブランダム論だけは素直にお勧めできる。
ネオ・プラグマティズムとは近年になってアメリカで現れた哲学だが、日本ではあまり知られていない。著者は日本で誰か専門家がネオ・プラグマティズムの本を書いてくれることを望んでいたらしいが、それが一向に叶わないので思いきって自分で入門書を書いてみたという。そういう事情を考えるとあまり過剰な期待をして評価を辛くすべきでないとは思うのだが、とはいえその視点から見ても満足できるのはブランダム論と環境プラグマティズム論の章ぐらいで、残りのネオ・プラグマティズム前史やローティ論やマクダウェル論の章はそれほど分かりやすくもない上に場合によっては勘違いがあったりして困ってしまう。
この著作の中で白眉なのは断トツでブランダム論の章である。ネオ・プラグマティストの中でも、ロバート・ブランダムは日本では翻訳がないどころかそもそもほとんど知られてさえいない。本書はそうしたブランダムの討議的な哲学を分かりやすく説明している。ヘーゲルの対自を理由の明示化と理解するブランダムの哲学は確かに面白い。あえて文句を言えば、ブランダム哲学のどこがプラグマティックかがうまく説明できていない所だが、ブランダムのヘーゲル的な哲学を紹介する貴重な日本語文献だと思えばそこは目をつぶれなくもない。環境プラグマティズム論についても(単なる内輪の論争な気もしなくもないが)うまく紹介されていて面白く読める。
とはいえ、全体として見るとネオ・プラグマティズムの入門書としてはあまり成功していない。最初のネオ・プラグマティズム前史の章が(大して分かりやすくもない)表面的な要約でしかないのも問題だが、ローティ論やマクダウェル論の出来が微妙なのは困ってしまう。ローティ論の章は説明が不十分だし、マクダウェル論の章に至っては勘違いがあるせいかどうも説明が信用ならない。一番ひどい個所を挙げると『もう一つは、「ランパント・プラトニズム(荒々しいプラトン主義)」と呼ばれるもので、マクダウェルは主にデイヴィドソンの立場を想定している。これは、「自然」=「法則の領域」と「心」=「理由の空間」を二元論的にきっぱり分離し、その意味で「超自然主義」とも呼ばれている』(p.173)とあるが、デイヴィドソンとプラトニズムと心身二元論を一緒くたにしているなんて無茶苦茶だ。他に参考になる部分もない訳ではないが、それはあくまで読者の側で判断するしかない(それではもう入門書ではありえないが!)。
ネオ・プラグマティズムの入門書としてはあまりお勧めできないが、ブランダムや環境プラグマティズムについて知りたいだけならばお勧めしても良いだろう。特にブランダム論は日本語文献として現時点で貴重だし、内容的にも興味深いので、少なくともこれだけならば堂々とお勧めできる。
ネオ・プラグマティズムとは近年になってアメリカで現れた哲学だが、日本ではあまり知られていない。著者は日本で誰か専門家がネオ・プラグマティズムの本を書いてくれることを望んでいたらしいが、それが一向に叶わないので思いきって自分で入門書を書いてみたという。そういう事情を考えるとあまり過剰な期待をして評価を辛くすべきでないとは思うのだが、とはいえその視点から見ても満足できるのはブランダム論と環境プラグマティズム論の章ぐらいで、残りのネオ・プラグマティズム前史やローティ論やマクダウェル論の章はそれほど分かりやすくもない上に場合によっては勘違いがあったりして困ってしまう。
この著作の中で白眉なのは断トツでブランダム論の章である。ネオ・プラグマティストの中でも、ロバート・ブランダムは日本では翻訳がないどころかそもそもほとんど知られてさえいない。本書はそうしたブランダムの討議的な哲学を分かりやすく説明している。ヘーゲルの対自を理由の明示化と理解するブランダムの哲学は確かに面白い。あえて文句を言えば、ブランダム哲学のどこがプラグマティックかがうまく説明できていない所だが、ブランダムのヘーゲル的な哲学を紹介する貴重な日本語文献だと思えばそこは目をつぶれなくもない。環境プラグマティズム論についても(単なる内輪の論争な気もしなくもないが)うまく紹介されていて面白く読める。
とはいえ、全体として見るとネオ・プラグマティズムの入門書としてはあまり成功していない。最初のネオ・プラグマティズム前史の章が(大して分かりやすくもない)表面的な要約でしかないのも問題だが、ローティ論やマクダウェル論の出来が微妙なのは困ってしまう。ローティ論の章は説明が不十分だし、マクダウェル論の章に至っては勘違いがあるせいかどうも説明が信用ならない。一番ひどい個所を挙げると『もう一つは、「ランパント・プラトニズム(荒々しいプラトン主義)」と呼ばれるもので、マクダウェルは主にデイヴィドソンの立場を想定している。これは、「自然」=「法則の領域」と「心」=「理由の空間」を二元論的にきっぱり分離し、その意味で「超自然主義」とも呼ばれている』(p.173)とあるが、デイヴィドソンとプラトニズムと心身二元論を一緒くたにしているなんて無茶苦茶だ。他に参考になる部分もない訳ではないが、それはあくまで読者の側で判断するしかない(それではもう入門書ではありえないが!)。
ネオ・プラグマティズムの入門書としてはあまりお勧めできないが、ブランダムや環境プラグマティズムについて知りたいだけならばお勧めしても良いだろう。特にブランダム論は日本語文献として現時点で貴重だし、内容的にも興味深いので、少なくともこれだけならば堂々とお勧めできる。
2012年12月30日に日本でレビュー済み
アメリカ哲学の影響が哲学研究の現場で強まっていることは、専門研究者ばかりではなく、哲学に関心を有している者なら誰でも認識しているだろう。最新のギリシア哲学やドイツ観念論の研究論文ですら、現代のアメリカ哲学についての知識がなければ十全な理解には至らない。しかしながら、現代アメリカ哲学に関する知識を簡便に教示してくれる入門書はあまりなかった。本書は、この欠を埋めるものとなるだろう。
ローティ、セラーズ、マクダウェル、ブランダムなど、現代アメリカ哲学を領導する哲学者たちについて、明解な解説がなされる本書は、入門書としては抜群の出来である。
ローティ、セラーズ、マクダウェル、ブランダムなど、現代アメリカ哲学を領導する哲学者たちについて、明解な解説がなされる本書は、入門書としては抜群の出来である。
2014年10月1日に日本でレビュー済み
プラグマティズムの時もあまり日本においては知られていなかったように思う。
そして「ネオ・プラグマティズム」として新に「プラグマティズム」が戻ってきたのであるが、これも日本ではほとんど知られてはいない。
本書を読めば明白なのだが、やはりプラグマティズムの思想運動はアメリカにおいては非常に重要な位置えお占め、論理実証主義的で窮屈な分析哲学という学問を打破するために、ネオ・プラグマティズムとして登場してきたというのが本当のところであるそうだ。
特にリチャード・ローティは日本でも有名であるが、やはりアメリカでもネオ・プラグマティズムの中心人物であることに間違いはないらしい。
ローティは特にヨーロッパの哲学者とも交流が有り、デリダやハイデガーなどの言説を持ち出して論じたりもしていた。
しかしうした行為はやはりアメリカでは異質で、セッカチな議論で重箱の隅を突くような分析哲学系の分野では、こうしたローティの行為は「緩和」と「グレーゾーン」を意識させるのに大きな役割を担っていたといえそうである。
分析哲学の大家であるW.V.O.クワインはかなり有名な人物であるが、本書によると同時にネオ・プラグマティズムの人物でもあったことが書かれている。
しかし言われてみればそうで、クワインは「ホーリズム」という概念を提唱している。
ホーリズムの説明を誤解を恐れずに簡単にしてみると、「全体は部分の総和論」という考え方に対立する、「全体論」ということになる。
その「全体論」とは、「機械論」的な個別データの延長線上に全体があるというような古典力学による因果連鎖を考えることの逆になることだ。
とはいっても分析哲学を否定しているのではなくて、思考の多様性を意識しようという意味だと私は思っている。
そう考えると、まさに「プラグマティズム」と「ネオ・プラグマティズム」はアメリカという地域的需要性から出てきたものであるから、日本人社会からそれらを考えるのとは、かなり違う印象になるということだろう。
現に日本人がローティなどを読んでも驚きはないと思うのだ、むしろ彼の考え方は日本的出る要素が強いし、自然な意見にすら感じる。
しかしこれがアメリカ社会だと、哲学・思想の根本的な「揺り戻し効果」があるほどにインパクトがある。
その点がどうしても社会の差として、日本人には分かり難いところだと思う。
他にもセラーズやマクダウェル、そして「環境プラグマティズム」というアメリカ社会でも混迷している環境問題に対する対処の仕方における考え方にも、ネオ・プラグマティズムが大きな影響を与えているという話が続く・・・。
詳しくはここでは書ききれないが、非常に見通しのいい「ネオ・プラグマティズム」の紹介本であると、私には思えた。
たぶんネオ・プラグマティズムの考え方には日本人は親しみやすいはずであるから、本書を読むときは分析哲学系の息が詰まるような窒息状態の現状を逆に知るという気持ちで読んでみると、収穫が大きいような気がする。
どちらにしても、出色の出来になっていることは間違い無いと思いますが・・・・。
そして「ネオ・プラグマティズム」として新に「プラグマティズム」が戻ってきたのであるが、これも日本ではほとんど知られてはいない。
本書を読めば明白なのだが、やはりプラグマティズムの思想運動はアメリカにおいては非常に重要な位置えお占め、論理実証主義的で窮屈な分析哲学という学問を打破するために、ネオ・プラグマティズムとして登場してきたというのが本当のところであるそうだ。
特にリチャード・ローティは日本でも有名であるが、やはりアメリカでもネオ・プラグマティズムの中心人物であることに間違いはないらしい。
ローティは特にヨーロッパの哲学者とも交流が有り、デリダやハイデガーなどの言説を持ち出して論じたりもしていた。
しかしうした行為はやはりアメリカでは異質で、セッカチな議論で重箱の隅を突くような分析哲学系の分野では、こうしたローティの行為は「緩和」と「グレーゾーン」を意識させるのに大きな役割を担っていたといえそうである。
分析哲学の大家であるW.V.O.クワインはかなり有名な人物であるが、本書によると同時にネオ・プラグマティズムの人物でもあったことが書かれている。
しかし言われてみればそうで、クワインは「ホーリズム」という概念を提唱している。
ホーリズムの説明を誤解を恐れずに簡単にしてみると、「全体は部分の総和論」という考え方に対立する、「全体論」ということになる。
その「全体論」とは、「機械論」的な個別データの延長線上に全体があるというような古典力学による因果連鎖を考えることの逆になることだ。
とはいっても分析哲学を否定しているのではなくて、思考の多様性を意識しようという意味だと私は思っている。
そう考えると、まさに「プラグマティズム」と「ネオ・プラグマティズム」はアメリカという地域的需要性から出てきたものであるから、日本人社会からそれらを考えるのとは、かなり違う印象になるということだろう。
現に日本人がローティなどを読んでも驚きはないと思うのだ、むしろ彼の考え方は日本的出る要素が強いし、自然な意見にすら感じる。
しかしこれがアメリカ社会だと、哲学・思想の根本的な「揺り戻し効果」があるほどにインパクトがある。
その点がどうしても社会の差として、日本人には分かり難いところだと思う。
他にもセラーズやマクダウェル、そして「環境プラグマティズム」というアメリカ社会でも混迷している環境問題に対する対処の仕方における考え方にも、ネオ・プラグマティズムが大きな影響を与えているという話が続く・・・。
詳しくはここでは書ききれないが、非常に見通しのいい「ネオ・プラグマティズム」の紹介本であると、私には思えた。
たぶんネオ・プラグマティズムの考え方には日本人は親しみやすいはずであるから、本書を読むときは分析哲学系の息が詰まるような窒息状態の現状を逆に知るという気持ちで読んでみると、収穫が大きいような気がする。
どちらにしても、出色の出来になっていることは間違い無いと思いますが・・・・。