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論理と歴史―東アジア仏教論理学の形成と展開 単行本 – 2015/6/10

5.0 5つ星のうち5.0 2個の評価

玄奘が残したとされる論理式「唯識比量」を巡る、東アジア全域にわたり、時代を超えて展開された議論を丹念に読み解き、さらにはそこから浮かび上がる、「論理」と「歴史」の間の「共生」的関係を解き明かす。
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商品の説明

著者について

師 茂樹(もろ・しげき)
1995年 早稲田大学第一文学部卒業。
2001年 東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。
現 在 花園大学文学部准教授(専攻/仏教学・人文情報学・情報歴史学)。
博士(文化交渉学:関西大学)。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ ナカニシヤ出版 (2015/6/10)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2015/6/10
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 480ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4779509297
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4779509292
  • カスタマーレビュー:
    5.0 5つ星のうち5.0 2個の評価

著者について

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師 茂樹
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花園大学文学部教授。博士(文化交渉学)。仏教学(東アジアの唯識思想、因明〔仏教論理学〕など)、人文情報学などを主な研究対象とする。

カスタマーレビュー

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2グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2019年3月10日に日本でレビュー済み
本書は、インド滞在中の玄奘が参加要請された戒日王主催の無遮大会(教義論争)で、小乗仏教徒も非仏教徒も論破できなかった玄奘(7世紀)の《唯識比量》を論じている。《唯識比量》とは「唯識無境〔あらゆる認識対象は認識作用から独立して存在しない、あるいは、唯(ただ)識だけがあって外界は存在しない、という主張〕を証明する論理式」である(p.4)。その論理式は、「三支作法」=「宗(命題、主張)・因(命題の根拠、理由)・喩(根拠の正当性、実例)」と呼ばれ、
【宗】真理においては、立論者・対論者の間で承認された色や形は眼の認識作用〔眼識〕を離れて存在しない。
【因】なぜなら、私が承認しているところに依れば、(色や形は、十八界の)最初の三つ〔眼根・色境・眼識〕には摂(おさ)められるが、眼には摂められないからである。
【喩】例えば、眼の認識作用〔眼識〕のように。
である。(上記は眼識の場合であるが、耳識・鼻識・舌識・身識・意識でも成立する。p.80)

本書は詳細かつ丁寧に論じられており極めて参考になるが、<釈尊の教法の真義>を奉じる私の立場は、以下の仮説を念頭において《唯識比量》の意味を読み解くことである。
【仮説01】ナーランダ大学の最高位に立つほどの玄奘であれば、『大乗五蘊論(世親著)を読む 』のレビューで紹介した<釈尊の教法の真義>を体得した上で、《唯識比量》を論じたと考える。
【仮説02】小乗仏教徒や非仏教徒が玄奘の《唯識比量》を論破できず、唯識教義の最高学府・ナーランダ大学にも玄奘を超える者はいないのだから後世の論評が玄奘を理解しているとは考えられない。
【仮説03】『解深密教』(300年頃に成立)が説く『三転法輪説〔第一時の小乗の教えはアビダルマ、特に説一切有部の思想(有)、第二時の大乗の教えは般若思想(空)、第三時の一切乗の教えは唯識思想(中)〕』は、後世の天台大師智顗(6世紀)による「五時教判」と同様に釈尊とは無関係な謬説である。

[読後感01]呂澂が注目した《唯識比量》=《真唯識量》(p.39)こそ、<釈尊の教法の真義>で紹介した「純粋な色界」という境涯にいる阿羅漢の唯識教義である。通常の《唯識比量》は、「欲界」という境涯にいる凡夫もしくは「欲界の影響を受けた〈色界・無色界〉」という境涯にいる預流・一来・不還の聖者の唯識教義である。なぜ、玄奘が著述を残さなかったか? それは<釈尊の教法の真義>の説明は最先端の現代物理学における「量子トンネル現象」「量子もつれ現象」を用いない限り正しく伝えることは出来ないからである。従って、玄奘は後世の真義解明に自らの漢訳経典を托したのであろう。
そもそも、上記した三支作法の論理式は、パーリ仏典を開けば何度も目にする文章の一部に過ぎない。その一例を相応部経典から抜粋して引用する。
《比丘の皆さん。世界が生まれるのはどのようでしょうか。(世界が生まれるのは、次のようです。)
眼cakkhuと全ての色rūpaに依存して眼識cakkhu-viññāṇaが生じます。三つのダンマ(眼根・色境・眼識)の会合samāgacchatiが触phassa〔眼cakkhuの触phassaである眼触cakkhu-samphassa〕です。眼触が縁になって眼触受(眼触所生受cakkhu-samphassajā-vedanā)があり、色想rūpa-saññāと色思rūpa-sañcetanāを伴い、眼触受が縁になって色愛欲(色愛rūpa-taṇhā)があり、色尋rūpa-vitakka
と色伺rūpa-vicāraを伴います。
愛taṇhā(愛欲)が縁になって取upādānaがあり、取が縁になって有bhava(生存、業有。または三界)があり、有が縁になって生jāti(蘊の生まれ)があり、生が縁になって老死jarā-maraṇa、悲しみsoka(愁、憂愁)と嘆きparideva(悲、悲泣)、苦dukkha、憂いdomanassa、全ての悩みupāyāsaが揃って生じます。これが世界の発生です。》
⇒ これを読めば、よほど不勉強でない限り、小乗仏教徒が上記論理式を批判できない筈は無い。
そう考えれば、玄奘の《唯識比量》=《真唯識量》は上記論理式ではなく、<釈尊の教法の真義>で紹介した《識の進化》に関する比量であると考えられる。引用した経典を読めば、釈尊は論理を述べているのではなく、煩悩が生じるメカニズムを詳細に論じており、四念処法や八正道の実践で断滅すべきプロセスを示唆しているのである。煩悩が残っている《識》から煩悩が断滅された《識》への進化を論じたのが《唯識比量》=《真唯識量》であると考えられる。それならば、ナーランダ大学を含めて誰も理解出来ず反論できない筈である。

[読後感02]引用したパーリ仏典の釈尊の言葉と深く関連するスワミ・ヴィヴェーカナンダ唯一の著作『パタンジャリのヨーガ格言集』の解説を引用する。
《私は目を持つ。しかし目が見るのではない。頭の中にある脳の中心を取り去ったとしよう。目はなおそこにあり、網膜は完全で、対象物の画像もそこに映っているが、目は見ないであろう。そのように目は二次的な道具に過ぎず、視覚器官ではない。視覚器官は、脳の神経中枢にあるのだ。二つの目では十分ではない。時々、人は目を開けたままで眠っている。光はそこ(目)にあり、画像もそこにある。しかし第三のものが必要である。すなわち、心mindが、(視覚)器官に繋がらなければならないのである。目は(心の)外部の道具である。つまり、我々は、脳の中枢と心の仲介を必要とする。馬車が街路を走っているのに、あなたはその音を聞かない。なぜか? それは、あなたの心が聴覚器官に接続されていないからである。第一に、道具(眼や耳)があり、次に器官(視覚中枢や聴覚中枢)があって、三番目にこれら二つに接続する心mindがあるのだ。心mindは印象をさらに内部へと運んで行き、それを決定能力である「ブッディbuddhi(仏教の行蘊に相当)」 に差し出す(作用)。すると、ブッディが反応する(反作用)。この反応と共に、エゴイズム(自我)の観念が浮かぶ。こうした作用(印象の提出)と反作用(印象の決定)の混合の中で対象を理解するのである。
我々は、「心mindは知能のあるものではない」ということを知る。それでもそれは、知能があるように見える。なぜか? それは、知能のある魂(自我から煩悩が除去された真の自己)がその背後にいるからだ。あなたは、唯一の「感覚のある生物」なのである。心は、あなた(の魂)が外部の世界を捉える道具に過ぎないのである。この本を例に取り上げよう。本は外部に存在するのではない。外部にあるものは、知られていないし、知ることはできないのだ。不可知のものが、心mindに一撃を与える暗示を供給する。すると心mindが、本の形で反応(反作用)を示すのだ。同じことは、一つの小石が水中に投げ入れられる(作用)と、水が波の形で投げ返す場合(反作用)が対応します。本当の宇宙とは、心に反応(反作用)を引き起こす誘因(直接原因)のことである。本の形、象の形、人の形、これらは外部にあるのではない。我々が知る全てのものは、外部の暗示から生じた我々の心の反応(反作用)である。
真の人(煩悩を断じて進化した時に現れる魂=真の自己)は心mindの背後にある。すなわち、心は彼が扱える道具である。つまり、彼の知能とは、心を通じて染み出してくるのである。(真の)あなたが心の背後に立っている時だけ、心は知能のあるものとなるのである。人がそれ(心の背後に立つ努力)を諦める時、それは粉々になって何もなくなる。これで皆さんは、チッタchittaによって意味されるものを理解なさったであろう。それは「心というものmind-stuff〔心の構成要素〕」である。そしてヴリッティvrittisは、外部の原因がそれ(心というもの)に衝突する時に、その中に生じる波wavesとさざ波ripplesである。これらのヴリッティvrittisが我々の宇宙なのである。
 湖の底を、我々は見ることができない。というのは、水面がさざ波で覆われているから。波が引き、水面が静かになった時にのみ、水底を垣間見ることができるのだ。水が濁っていたり、始終動いていたりするなら、底は見えないだろう。水が澄んでいて波が無ければ、底が見えるのだ。湖の底は、我々の真の「自己Self」である。湖はチッタchittaであり、波はヴリッティvrittisである。》
⇒ 詳しく説明する余裕は無いが、この解説は「仏性」「阿頼耶識」を論じている。
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