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若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱) 単行本 – 2010/6/18
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- 本の長さ240ページ
- 出版社かもがわ出版
- 発売日2010/6/18
- ISBN-104780303605
- ISBN-13978-4780303605
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商品の説明
著者について
石川康宏 1957年生まれ。立命館大学2部経済学部、京都大学大学院経済学研究科卒業。現在、神戸女学院大学文学部教授。担当科目は、現代社会と経済学、経済学、比較経済論。著書に『現代を探求する経済学』など。
登録情報
- 出版社 : かもがわ出版 (2010/6/18)
- 発売日 : 2010/6/18
- 単行本 : 240ページ
- ISBN-10 : 4780303605
- ISBN-13 : 978-4780303605
- Amazon 売れ筋ランキング: - 430,553位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 77,896位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
1957年北海道札幌市生まれ。立命館大学産業社会学部中退、同2部経済学部卒、京都大学大学院経済学研究科後期博士課程修了。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。マルクスの経済・社会理論を背景に、経済、政治、ジェンダー、歴史「慰安婦」、原発・エネルギー問題などを論ずる。憲法が輝く兵庫県政をつくる会代表幹事、全国革新懇代表世話人など各種市民運動にも積極的に参加。ゼミ生等と毎年「慰安婦」被害者がくらす韓国「ナヌムの家」を訪れ、最近では原発被災地ふくしまにも(ゼミでの出版物は「石川康宏ゼミナール」のページに)。ブログは「はげしく学び はげしく遊ぶ(石川研究室)http://walumono.typepad.jp/」。著書に『橋下「維新の会」がやりたいこと』(新日本出版社)、『マルクスのかじり方』(新日本出版社)、『若者よ、マルクスを読もう』(内田樹氏との共著、かもがわ出版)、『憲法が輝く兵庫県政へ 2009年兵庫県知事選挙の記録』(日本機関紙出版センター)、『輝いてはたらきたいアナタへ』(ゼミ編著、冬弓舎)、『女子大生と学ぼう「慰安婦」問題』(ゼミ編著、日本機関紙出版センター)、『覇権なき世界を求めて』(新日本出版社)、『現代を探究する経済学』(新日本出版社)などがある。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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当方の知識不足が原因であろうと思うが。
それでも広く若者に分かりやすいかは疑問。
しかし、大変勉強になったので星4。
内田、石川「若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)」かもがわ出版、2010. について
1. お二人の議論はかみ合っているか
石川は、マルクスが書いた内容を述べ、内田は、マルクスの態度を述べる。(ドイツイデオロギーのここで論じられる部分の執筆者はエンゲルスだが)
内田の視点には、教えられ同感できるところが多かった。
二人の論議は一見かみ合っているように見えるがそれは表面だけで、実は余りかみ合わず論点も深まっていない。お互いに「そうそう」と言い合うだけでは、対話の必要はない。それぞれのマルクスについての記述を読めばよいのである。かみ合わない点をかみ合うようにする議論が必要なのである。
唯一かみ合っていると言っていいのは、お二人のユダヤ人問題についてのやり取りの仕方である。内田の批判も石川の反論も内容、態度ともに見事なものである。「対話におけるディセンシ―(礼儀正しさ)はしばしばそこで交わされている意見の当否や命題の真偽よりも重要である」内田、p.146 というのは、内田が石川との本件の議論を終えて語ったものである。今までの「マルクス主義者」の多くは、議論の方法に欠点があった。本書を読んだ時には、石川は、他を配慮した議論の方法を身に付けたマルクス主義者ではないかと期待を持ったものであった。
それに、全てのことがうまくはいかないものだ。このやり取りに多くが割かれたため、本来の興味深いテーマが多分失われた。
2. 著者、訳者
経済学・哲学手稿(草稿)の著者は、言うまでもなくマルクスである。訳書で求めやすいのは、岩波文庫、国民文庫、青木文庫の三冊であろう。私の最も読んだのは国民文庫であるが、他も悪くない。岩波文庫には、ヘーゲルからの抜き書きである第4手稿も入っているのがよい。
ドイツイデオロギーの訳書で求めやすいのは、岩波文庫の古在訳、広松訳の二冊と国民文庫の真下訳の三冊であろう。国民文庫の真下訳は、大月版マルクス・エンゲルス全集第三巻ドイツイデオロギーのフォイエルバッハに関する部分である。岩波文庫の古在訳は、ドイツイデオロギーのフォイエルバッハに関する部分以外の部分の抄訳を含む。
ドイツイデオロギーの岩波文庫の広松訳では、マルクスが書いた部分と、エンゲルスが書いた部分が区別して訳されている。
ドイツイデオロギー全体は、マルクス、エンゲルスの共著であるから、フォイエルバッハに関する部分もマルクス、エンゲルス両者が共同責任を持っている。したがって、石川がフォイエルバッハに関する部分の著者を「マルクス等」としているのは間違ってはいないが、内田が「マルクス」とするのは間違っている。
3. マルクス主義とは?
マルクス、エンゲルスが書いたものだけでなく彼らの求めようとしたもの、今、彼らが生きていたなら解こうとしたであろう課題を解かねばならない。しかしこれは、世の「マルクス主義者」のやらない第一のことである。解くべき課題の全内容があり、ついでマルクスが彼の時代の制約の中で問題意識を持って書き残したものがあり、その中に「マルクス主義的定式化」がされたと「マルクス主義者」が理解するものがあり、最後に「マルクス主義者」によるその俗流「解説」がある。
本書で石川が言う「マルクス主義的定式化」がされた史的唯物論は、哲学でなく科学の一分野になっており、今では、内田の言うように、科学的には修正の必要なものになっている。
いかなる哲学、思想も、さらに方法でさえ、創始者が既存のものを見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、例外なく停滞し、創始者の亜流の亜流になり下がるだけでなく堕落さえするというのは、歴史が示している教訓である。現に、世の「マルクス主義」の現在は、教条の解釈をするだけの亜流の亜流になり下がり、活き活きした生き方から遠くなってしまった。これはいわゆる「新左翼」も同様であるが、特に「主流」の「マルクス主義」には際立った欠点である。それだけでなく、「マルクス主義」は、実際には、謙虚でも自己批判的でもなかったので、歴史上、多くの失敗を繰り返してきた。
内田は、マルクスの時代は、「鉄鎖」の他失うものがなかった労働者が、今はある程度失うものを持ってしまったと書いている。「失うもの」は「もの」に限らず、自分が今まで学び築いてきた観念も「失うもの」である。多分、誰しも自分のよって立つ根本を否定されるのはつらいし、変化する事実に対応できず新しい概念も理解しにくい。
物質と精神のどちらが根源的かという、今では科学の問題になってしまった定義でなく、今、生きている、エンゲルスの第二の唯物論の定義「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心する」ことはいかに難しいか。謙虚さと批判精神が必要だ。
マルクスの思考は、ある全体の粒度(粒度とは、物事の空間的時間的扱いの範囲と属性である)を考え抜き、要素または要素の種類の見直し、網羅を行い続け、相対化し続ける根源的網羅思考である。マルクス自身の書いたものについても当然、マルクスの根源的網羅思考の対象となる。
例えば、本書でも触れられている「所有」「私的所有」に関しては根源的見直しが必要である。
マルクスの「所有」は、ヘーゲルの法制度上の「所有」観念にとらわれている。ヘーゲルにおいては「所有」は「法」の直接の下位概念なのである。しかし、マルクスは「所有」という言葉を使わざるを得なかった。これは今でも事情は変わらない。
マルクスの「私的所有の廃止」は「マルクス主義的定式化」の枠では、生産財の共同所有というつまらないことになってしまう。法律を変えて社会の共有にすれば解決する問題になってしまう。これでは、生産財の共同「所有」の本来の意味も失われてしまう。つまり「マルクス主義的定式化」の枠さえも理解できないで終わる。
これらから明らかに課題として浮かび上がることは、「所有」「私的所有」の概念の克服、改変が必要であることであることである。私、他、対象の対等の関係を表す豊かな新しい意識、概念が必要である。帰属意識との統合も必要かもしれない。にもかかわらず、「所有」「私的所有」の概念の克服、改変をしなかったのは、今までのマルクス主義者「マルクス主義者」の怠慢である以外のなんであろうか?
もう一つの問題は、マルクス、エンゲルスが、長い間、分業は悪と決め付けていることである。
必要なのは、分業の廃棄でなく、分業、分割と一体化の統合である。労働の分割は、労働の高度化のために必要である。この高度化を保持しながら、分割と一体化の両立の矛盾の解を求めるべきである。
分業の廃棄が達成されたらどうなるかを述べている有名な文がある。
「各人がどんな排他的な活動範囲をも持つことがなく、どんな任意の部門においてでも己を陶冶することができる共産主義社会にあっては、社会が全般の生産を規制し、まさにそのことによって私に、今日はこれ、明日にはあれをする可能性を与えてくれる。つまり狩人、漁師、牧者または批判者についぞなることなしに、私の気のおもむくままに、朝には狩りをし、昼には魚をとり、夕べには家畜を飼い、夕食の後には批判をする可能性である」ドイツイデオロギー、国民文庫、p.64 という叙述は、内田も肯定的に引用しており、多くの論者によって肯定的に引用されてきた。しかし、理想像としてこれほど貧弱な像があろうか?
理想像は、少なくとも自由にかつ計画的意図的に、自分の能力開花と対象の高度な全面的変革のための多様な努力を行うことであるはずである。
謙虚でない「マルクス主義者」は、安易に既存の自分の観念を「観念論的諸幻想」にしてしまう。こうしてマルクス主義者でない「マルクス主義者」「唯物論者」が世にあふれる。
「マルクス主義」とは、マルクスの書いた内容による考え方であるが、マルクス主義は、マルクスの態度、考え方、根源的網羅思考である。理想的な思想の全体は、第一に、大局的根源的な視点、粒度の設定とそれによる思考の過程である。粒度とは、物事の空間的時間的扱いの範囲と属性である。第二に、ものごとの全体の網羅性である。第三に弁証法である。
マルクスの優れていたのは、事物が関係し合い運動しているという前提の上に立った、第一、第二の粒度、網羅に基づく判断のスケールの大きさだった。この点でマルクスは極めて優れていた。
やるべきことは、第一、第二の素晴らしさをもたらしたものは何かを問うこと、第三のマルクスの矛盾、弁証法の欠点の修正である。
弁証法と、粒度と網羅の形式論理が、両輪となって新しい方法と哲学を作る。
マルクス主義は、価値、哲学・思想、方法をあわせ持つ可能性のある唯一のものである。しかし、少なくとも主流の「マルクス主義」は、マルクスの教条にしがみつき、現状維持の上で改良をするだけで革新的と思いこむ思想になってしまった。このままでは残念であるが、マルクス主義は衰退を続けるしかないであろう。
(高原利生、20120207,08,10,11,28,0301,0518,0725,27,0806,20130221,22,23,0307,18,0830)
興味が無かったわけではない。読んではいけないものと最初に刷り込まれ、それを放置
してきた結果だ。
なぜ、読んではいけないものと刷り込まれたのか?
1970年代に十代を過ごしたものにはわかるであろう一つ上の世代への嫌悪感とその世代
が憑りつかれた思想の構築者としての名声ゆえだ。そしてあらゆるメディアを通して浴び
せられた反共産主義(というか反ソ連)のシャワー。
これらを通して、なおマルクスを読む気になるであろうか。経済を専攻するならば必読の
著者であろうが。いや、哲学もか。
とまれ、この名前には何か呪術的なもの、誤った思想を植え付けられてしまうものとの
烙印が押されてしまったのだ。
そして、今、この本を読んだ(若者ではないけどね)。思想界ではなく、人々が実際に
生きる世界を動かした、そして悲劇的な終焉を迎えた思想の構築者の姿に少しだけ手を
触れた。
世界を動かした思想とは何か、やはり死ぬまでに、理解できないまでも触れることは「や
っておかなければならないこと」なのだと思った。
読み違えているところも多々あったことに気づかせてくれる。
二人の「日本人」哲学者の対話というデザインが、理解を更に助けてくれるのかもしれない。
カール・マルクスの一連の仕事が、我が国の明治維新の前、1845年頃にはされていたことに改めて驚く。
その書名だけ読むと礼賛一辺倒のように思われるが、そうではない。
内田樹の方がより厳しくマルクスの誤謬についても触れて、問題を指摘している。
しかし、表題の通りに出版の企画自体がマルクスの推奨本なので、
全体を通してはマルクス思想を読み直そうというかけ声に満ちている。
それでは解説本として優れているかというと、必ずしもそうではない。
全集からの引用や要約が多く、それがすべて文章のカタチで表記されているので、
マルクス思想の難解さはやわらいでいない気がする。
この書き方で「若者」の手にマルクスの書を取らせることはできないだろう。
予備校の参考書を手に取ればわかるように、
わかりやすく解説しようとするならば、図説は何より必要になるはず。
ところが、この本にはそうした気配りがまるでない。
文章だけでわかりやすく伝えたつもりになっている。
そもそも、二人の著者のやりとりが往復書簡形式であるので、
タイムラグや論点のズレも含めて、完全にはかみあっていない。
その結果、二人の意見が頭越し飛び交うのを傍観している気分にしかならない。
なぜ、対談にしなかったのか、その企画意図の真意がわからない。
この本の唯一の救いは、『辺境論』で著名となった内田樹氏のマルクス観がわかることくらい。
編集者の工夫がもう少し行き届いていれば、
もっと好著になったことが感じられる、大変惜しい本である。
内田樹先生と石川康宏先生が虜となった、知の巨人マルクスの著作「共産党宣言」「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」について、二人の間の書簡(メール)の交換を通してマルクスの魅力を伝えようとしています。
二人とも熱心なマルクス読者でもありますが、マルクスに対する評価・解説にそれぞれの個性が良く出ていて面白い。
石川先生が精緻にマルクスの文献とその意味合いを紹介し、それを受けた内田先生がマルクスの思想的な一面をわかりやすく解説するといった風。
本書の中にも出てきますが、二人の間でマルクスに対しての評価が異なっている部分も出てきます。それぞれがその立場を主張するのですが、お互いを尊重しつつ、持論も曲げない大人の(?)議論の進め方が大変楽しかった。TVの討論番組などでは、他人の説を罵倒し、自分の説を優位に見せようとするような議論が占めている中、大変貴重な議論の形式だと思いました。
マルクスへの興味以上に、このような議論の進め方の提示は、非常に価値のあるものだと思います(お二人も仰っていますが)。
一方で、この本は面白いのは間違いないのですが、マルクスに限らず原著にあたり、自分なりに賛成も反対も含めて自分の評価を持つ事が重要と言われているような気もします。他の人の解説を読む事を楽しみにしつつも、自分なりに考えるという点では足りてないなぁと感じました。
また、内田先生の書籍は何冊か読んだ事がありますが、1人で執筆された本よりも主張がより明確に感じました(多分そんなに書き方は変えていないと思いますが)。これは書簡(メール)の交換という手法と石川さんというパートナーの存在がもたらしてくれていると思います。こういった共著という形もいいですね。
個人的には自分が足りていないことを感じさせる「痛さ」もありましたが、非常に面白い試みでもあるし、また面白い本だと思いました。
是非とも続編(もちろんマルクスで)をお願いします!