母・かの子の膝の上で父・一平の帰りを待つ太郎,母の相談相手になる幼い太郎,家族3人で洋行,パリで恋する太郎,リュシェンヌの泣き顔見たさにわざと泣かせる太郎,ノエミに「ああ,あなたはすれた大人になってしまったのね」と言われ,そんなこと当たり前だ,というしらけた気持で聞き流す太郎,パリにいて,愛する母の死に目に会えなかった太郎,32歳で初年兵になる太郎,戦後まもなく父を亡くし,死に顔をスケッチする太郎,女性に「(興ざめにならぬよう)男女の一番の危機の瞬間をのりこえるだけの注意と,なまめかしいデリカシーを失わないでほしい」と願うフェミニストの太郎,40代後半でスキーに果敢に挑戦する太郎…,さまざな太郎がいる。
生誕100周年の2011年,Be TARO.(太郎になれ)が合言葉になる日が今,来ている。
2011.10.13記す(読書メーターに加筆)
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人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。 (文庫ぎんが堂) (文庫ぎんが堂 お 1-1) 文庫 – 2009/5/1
岡本太郎
(著)
「私は誤解のカタマリみたいな人間こそ、すばらしいと思う」 自らの純粋さを貫き通し、誤解され世の中に敗れ去るをえなかった母、岡本かの子。彼女と運命を共に生きた父、岡本一平。苦悩、孤独、絶望、そして一瞬に煌いた二人の生と死の物語。その他、狂おしい青春と恋愛の日々、過激な男と女論、食べることへの想い、など、岡本太郎の幻の名エッセイ集が初めて文庫版で登場。鮮やかに、ページをめくるごとに、“瞬間瞬間のいのち”が膨らんでくる。 文庫解説:重松清
- 本の長さ298ページ
- 言語日本語
- 出版社イースト・プレス
- 発売日2009/5/1
- 寸法10.8 x 1.5 x 14.8 cm
- ISBN-104781670024
- ISBN-13978-4781670027
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登録情報
- 出版社 : イースト・プレス; 文庫版 (2009/5/1)
- 発売日 : 2009/5/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 298ページ
- ISBN-10 : 4781670024
- ISBN-13 : 978-4781670027
- 寸法 : 10.8 x 1.5 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 557,603位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 141位文庫ぎんが堂
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年2月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
爆発する芸術家・岡本太郎さんのエッセイを集めて編まれた本(編者は太郎さんではありません)です。解説は『ナイフ』等で知られる作家の重松清さん。なお、他のレヴュアーさんも書かれていますが、本書の内容は半分弱ほどが『芸術と青春』や『自分の中に毒を持て』『美しく怒れ』等と重複していますので、購入を検討されている方はご注意くださいね。
本書は太郎さんという個性的な芸術家の痛快で<一瞬懸命>な人生の場面場面を切り取って本にしたもの、という表現ができるでしょうか。
前半が漫画家の父・一平さんと歌人で作家の母・かの子さんとの間の岡本家独特の家族模様、後半がパリ時代のナマなジュヴナイル小伝。並外れて純粋な余りに世間から誤解され、心無い悪口や中傷にいちいち傷ついては童女の如く泣いていた母・かの子さんの文章も載っていますが、激しい情熱が詩情となって波打っている見事な文だと思います。
また、かの子さんの生前は彼女を批判していた人間達が、死後は手のひらを返したようにその文才に賛辞を贈り始めるのを見て、太郎さんは幼いながら社会の汚さに怒りと不信感を感じたとありました。私の師匠は池田大作先生ですが、トインビーやマルロー、ゴルバチョフ等の一流の識者と交友があり世界では非常に高く評価されておられるのに、日本では正当な評価を受けずそれどころか低級な文化人や週刊誌に事実無根また認識不足の誹謗記事を何度も書かれるので、悔しさが分かるように思いました。
パリでの青春編では、幾人ものパリジェンヌとの淡くも色っぽい恋愛談が赤裸々に披瀝されます。それ以外には食べ物や煙草、お酒、また飼っていた(?)カラスや猫とのエピソード、大好きなスキーでの豪放磊落な骨折談、健康の話、日常のこまごまとした事を題材にした日常の様子が独特の視点で語られています。
特に後半部分のエッセイは1テーマ3ページ程の短いものが多く、太郎さんの他の著作と比べると余り文が練り上げられていない印象でした。時間のない中で書かれたのかもしれません。
全体に割合軽い読み物風に仕立てられていて、太郎さんの著作の中ではどちらかと言うと読み応えの薄い方に分類されるかと思います。最初に読む太郎本としてはまず不向きでしょう。「太郎関連本は一通り目を通したい!!」という熱い太郎ファンでない方には、個人的には『今日の芸術』や『自分の中に毒を持て』、また『美しく怒れ』の方を読まれることをお勧めします。
本書は太郎さんという個性的な芸術家の痛快で<一瞬懸命>な人生の場面場面を切り取って本にしたもの、という表現ができるでしょうか。
前半が漫画家の父・一平さんと歌人で作家の母・かの子さんとの間の岡本家独特の家族模様、後半がパリ時代のナマなジュヴナイル小伝。並外れて純粋な余りに世間から誤解され、心無い悪口や中傷にいちいち傷ついては童女の如く泣いていた母・かの子さんの文章も載っていますが、激しい情熱が詩情となって波打っている見事な文だと思います。
また、かの子さんの生前は彼女を批判していた人間達が、死後は手のひらを返したようにその文才に賛辞を贈り始めるのを見て、太郎さんは幼いながら社会の汚さに怒りと不信感を感じたとありました。私の師匠は池田大作先生ですが、トインビーやマルロー、ゴルバチョフ等の一流の識者と交友があり世界では非常に高く評価されておられるのに、日本では正当な評価を受けずそれどころか低級な文化人や週刊誌に事実無根また認識不足の誹謗記事を何度も書かれるので、悔しさが分かるように思いました。
パリでの青春編では、幾人ものパリジェンヌとの淡くも色っぽい恋愛談が赤裸々に披瀝されます。それ以外には食べ物や煙草、お酒、また飼っていた(?)カラスや猫とのエピソード、大好きなスキーでの豪放磊落な骨折談、健康の話、日常のこまごまとした事を題材にした日常の様子が独特の視点で語られています。
特に後半部分のエッセイは1テーマ3ページ程の短いものが多く、太郎さんの他の著作と比べると余り文が練り上げられていない印象でした。時間のない中で書かれたのかもしれません。
全体に割合軽い読み物風に仕立てられていて、太郎さんの著作の中ではどちらかと言うと読み応えの薄い方に分類されるかと思います。最初に読む太郎本としてはまず不向きでしょう。「太郎関連本は一通り目を通したい!!」という熱い太郎ファンでない方には、個人的には『今日の芸術』や『自分の中に毒を持て』、また『美しく怒れ』の方を読まれることをお勧めします。
2014年12月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
お母さんとお父さんの話の長さに辟易してしまいました。 太郎節の魔法も解けた。
2016年5月11日に日本でレビュー済み
原著は1975年。著者は「芸術家」である(1911-1996)。
曰く・・・
芸術は、世界を欲求する、世界を自分のものにする、世界と自分を同化する、自分が世界である、言い換えれば自分が自分自身になりきるための手段にすぎない。それは一種の呪術である。
母(岡本かの子)は徹底的に無邪気だからこそ、本当に純粋だったからこそ、まわりの男が全生命をぶつけた。いじらしくて、どうしても放っておけない。みんなが彼女の兄であり父であり恋人だった。
パリ大学には文科、理科、法科、医科、薬学科などがあるが、そのうち、文科と理科だけが一つの建物の中にあってソルボンヌとよばれている。
相手に対して虚像を描き、相手も虚像をみせつける。それがとんとん拍子にうまくからみあえば恋愛が成立する。そのうち実体があらわれるが、スムーズにいけば恋愛は生活的に強化されていく。その反対の場合、危機がある。それが興ざめの瞬間であり、恐ろしい瞬間でもある。
初めて接吻するときの相手の態度、この瞬間女性の実体があらわになる。受け方、拒み方、それは教育やしつけではなく、人間本能、人生観のようなもの全体が浮かび上がってくる。
日本人は性欲の対象を極端には性器そのものに集中するが、西洋人はむしろ肉体全体にそれを求める。西洋の生活では扉を閉めればまったく外界と遮断され、その中にいれば何ものにも妨げられることはない。したがって、性行為は自由開放的で肉体全体の愉楽となる。日本の生活様式では性の営みが用心深くなりやすく、欲情は観念的、情緒的にねじ曲げられる傾向がある。
ただ舌の先で味わっているのではなく、自然のエネルギーを自分の身体の中に闘い取り吸収しているといういのちのひろがりを強烈に感じさせる、それが本当の食い物ではないか。
などなど。
曰く・・・
芸術は、世界を欲求する、世界を自分のものにする、世界と自分を同化する、自分が世界である、言い換えれば自分が自分自身になりきるための手段にすぎない。それは一種の呪術である。
母(岡本かの子)は徹底的に無邪気だからこそ、本当に純粋だったからこそ、まわりの男が全生命をぶつけた。いじらしくて、どうしても放っておけない。みんなが彼女の兄であり父であり恋人だった。
パリ大学には文科、理科、法科、医科、薬学科などがあるが、そのうち、文科と理科だけが一つの建物の中にあってソルボンヌとよばれている。
相手に対して虚像を描き、相手も虚像をみせつける。それがとんとん拍子にうまくからみあえば恋愛が成立する。そのうち実体があらわれるが、スムーズにいけば恋愛は生活的に強化されていく。その反対の場合、危機がある。それが興ざめの瞬間であり、恐ろしい瞬間でもある。
初めて接吻するときの相手の態度、この瞬間女性の実体があらわになる。受け方、拒み方、それは教育やしつけではなく、人間本能、人生観のようなもの全体が浮かび上がってくる。
日本人は性欲の対象を極端には性器そのものに集中するが、西洋人はむしろ肉体全体にそれを求める。西洋の生活では扉を閉めればまったく外界と遮断され、その中にいれば何ものにも妨げられることはない。したがって、性行為は自由開放的で肉体全体の愉楽となる。日本の生活様式では性の営みが用心深くなりやすく、欲情は観念的、情緒的にねじ曲げられる傾向がある。
ただ舌の先で味わっているのではなく、自然のエネルギーを自分の身体の中に闘い取り吸収しているといういのちのひろがりを強烈に感じさせる、それが本当の食い物ではないか。
などなど。