難しい内容ですが時間をかけてゆっくりと読みます。
本の状態も良く、ありがとうございました。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
人間の条件 そんなものない (よりみちパン!セ) 単行本(ソフトカバー) – 2011/7/16
立岩真也
(著)
世の中の決まりや価値に正しい理由なんて、あるのか。社会は人は、本当はどうあるべきなのか。泣く子も黙る「生存学」のたおやかな巨匠が、やさしく語り尽くす。
- 本の長さ392ページ
- 言語日本語
- 出版社イースト・プレス
- 発売日2011/7/16
- 寸法13.1 x 2 x 18.8 cm
- ISBN-104781690084
- ISBN-13978-4781690087
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : イースト・プレス (2011/7/16)
- 発売日 : 2011/7/16
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 392ページ
- ISBN-10 : 4781690084
- ISBN-13 : 978-4781690087
- 寸法 : 13.1 x 2 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 728,528位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 13,553位社会学概論
- - 46,030位絵本・児童書 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
たていわ・しんや 専攻:社会学 1960年佐渡島生、新潟県立両津高校卒、東京大学文学部社会学科卒、同大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。この辺り、河合塾で働く。1990年~日本学術振興会特別研究員も。1993年~千葉大学部文学部、1995年~信州大学医療技術短期大学部を経て、2002年~立命館大学。現在同大学大学院先端総合学術研究科教授。同大学生存学研究センター、その雑誌『生存学』(生活書院刊)、『Ars Vivendi Journal』(オンラインジャーナル)、ウェブサイト『arsvi.com』(→「生存学」で検索)に関わる。最初の共著書が『生の技法』(1990、藤原書店)→2012:第3版を文庫版で生活書院より。最初の単著が『私的所有論』(1997、勁草書房)→2013:第2版を文庫版で生活書院より。電子書籍の自販も試行中→http://www.arsvi.com/ts/sale.htm
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2014年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の今までの主張をぎゅっとまとめた一冊。これを読みこなせる中学生は…いるのか?高校生くらいなら、まあなんとか。
生まれてきたからには、よく生きねばー
大体、みんなそう思うだろう。学校でだって、そうやって教えているし。
ただ、よく生きるって、なんなのさ。
「仕事ができる!素晴らしい能力を持っている!よい人間だ!」
我々は、極々当たり前にそう思っている。しかしよく考えてみれば、仕事ができること、能力を有していることが即ちよい人間である結び付きなど、本当はないのだ。仕事の価値、能力の有無=人間の価値ではない。
しかし現実社会ではそうなってしまっている。それだから、人々の内で常にやりきれなさが渦巻いてしまう。
承認欲求だって、そういうこと。世間に、周囲に認められなければ、なんだか生きていて不全な感じがする。だからSNSなんかで躍起となったりする者もでてきたりするのだけど、そもそも、認めてもらえなければ「人間」として不全な感じがしてしまうって、それこそ不全じゃないか?
人間であるためにはこうあらなくてはいけないとか、人間足るもの~とか、そんな条件なんてないのだ。
生まれてきたからには、ただただ、普通に生きていける社会でなければならないのに。
生まれてきたからには、よく生きねばー
大体、みんなそう思うだろう。学校でだって、そうやって教えているし。
ただ、よく生きるって、なんなのさ。
「仕事ができる!素晴らしい能力を持っている!よい人間だ!」
我々は、極々当たり前にそう思っている。しかしよく考えてみれば、仕事ができること、能力を有していることが即ちよい人間である結び付きなど、本当はないのだ。仕事の価値、能力の有無=人間の価値ではない。
しかし現実社会ではそうなってしまっている。それだから、人々の内で常にやりきれなさが渦巻いてしまう。
承認欲求だって、そういうこと。世間に、周囲に認められなければ、なんだか生きていて不全な感じがする。だからSNSなんかで躍起となったりする者もでてきたりするのだけど、そもそも、認めてもらえなければ「人間」として不全な感じがしてしまうって、それこそ不全じゃないか?
人間であるためにはこうあらなくてはいけないとか、人間足るもの~とか、そんな条件なんてないのだ。
生まれてきたからには、ただただ、普通に生きていける社会でなければならないのに。
2020年2月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あまりに読みづらく、読むのを止めました。
本人自ら「回りくどい」と言っているあたり、持って回った表現が続きます。
難解で読みこなせないというより、付き合いきれないという感じです。
本人自ら「回りくどい」と言っているあたり、持って回った表現が続きます。
難解で読みこなせないというより、付き合いきれないという感じです。
2016年1月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
くどいですが悪くないと思います.ただ友達になるのは大変な気がします.でも悪くない.
2011年2月21日に日本でレビュー済み
"自分が生産したものは自分のもの"、"自分がすること出来ることが自分の価値"、みんなあたりまえのように受け入れているけれど、これって正しくないんじゃないのってことを証明しようとしている本。
できること(何かしらの能力)が人の存在価値を決めるのはおかしいっていう議論はよく聞くけど、生産したもの(労働の成果)を本人が受け取ることへの疑問は初めて見ました。
モノが余って働く必要がある人が減るから失業が起こる。消費を刺激して需要を増やすのがセオリーだが、そもそも労働需要がないってことは悪いことなのか。稼ぎがないってことが問題なのであって、労働の必要がなくなるっていうことは自体は良いことなのではないか。というようなことも言っていますが、ホントその通りだと思います。
できない・作れない人達の側に立ったただの理想論とも受け取れますが、この著者は目立つために極論を言っているのではなく、本当に実現を願っているという気持ちが伝わってきました。
こういう姿勢、かっこいいなぁって思います。
できること(何かしらの能力)が人の存在価値を決めるのはおかしいっていう議論はよく聞くけど、生産したもの(労働の成果)を本人が受け取ることへの疑問は初めて見ました。
モノが余って働く必要がある人が減るから失業が起こる。消費を刺激して需要を増やすのがセオリーだが、そもそも労働需要がないってことは悪いことなのか。稼ぎがないってことが問題なのであって、労働の必要がなくなるっていうことは自体は良いことなのではないか。というようなことも言っていますが、ホントその通りだと思います。
できない・作れない人達の側に立ったただの理想論とも受け取れますが、この著者は目立つために極論を言っているのではなく、本当に実現を願っているという気持ちが伝わってきました。
こういう姿勢、かっこいいなぁって思います。
2010年8月21日に日本でレビュー済み
〈人間の価値と,できる/できないは別〉〈ただ生きているだけでいい〉〈働ける人が働いて,必要な人が取ればいい〉……という著者の主張.そしてそれらの主張を根拠づけている〈私的所有を根拠づけている主張には論理的整合性も正当性もない(だからそんな主張を信じる必要はない)〉〈現状では,分配するための財が足りないというのはウソ(だからそれを口実に再分配を否定するのは誤り)〉……という著者の指摘.それらはじつに〈明快〉であるし,〈適切〉であるし,しかも一貫している.にもかかわらず,著者の書きもの,そして主張は〈わかりにくい〉ともっぱらの評判である.
本書は「よりみちパン!セ」シリーズの一冊である.そのせいかどうかはわからないが,著者による主張の明快さ・適切さ・一貫性はそのままだが,だいぶ〈わかりやすい〉文章となっている.文体はこれまでの著者の書きものとほとんど変わらない「まわりくどい」「ぐねぐねした」ままにもかかわらず,だ.ならば,著者の主張を〈わかりにくい〉ものにしてきたのは,けっして著者の文章・文体ではない,ということになる.
本書を一読すれば,著者の主張をわかりにくいものとしてきたのは,われわれにとって相対化できない,しかし実際のところ複数あるうちの一つでしかない〈世界のあたりまえの姿〉なのだということがわかる.そして,そんなものを信じる必要もなければ,別様の世の中のあり方を,構想し作りあげることが可能であることも,わかる.
その意味で本書は,すぐれて「社会学的啓蒙」の書だといえる(著者や,著者のファンがどのように考えているのかは,わからないが).
本書は「よりみちパン!セ」シリーズの一冊である.そのせいかどうかはわからないが,著者による主張の明快さ・適切さ・一貫性はそのままだが,だいぶ〈わかりやすい〉文章となっている.文体はこれまでの著者の書きものとほとんど変わらない「まわりくどい」「ぐねぐねした」ままにもかかわらず,だ.ならば,著者の主張を〈わかりにくい〉ものにしてきたのは,けっして著者の文章・文体ではない,ということになる.
本書を一読すれば,著者の主張をわかりにくいものとしてきたのは,われわれにとって相対化できない,しかし実際のところ複数あるうちの一つでしかない〈世界のあたりまえの姿〉なのだということがわかる.そして,そんなものを信じる必要もなければ,別様の世の中のあり方を,構想し作りあげることが可能であることも,わかる.
その意味で本書は,すぐれて「社会学的啓蒙」の書だといえる(著者や,著者のファンがどのように考えているのかは,わからないが).
2010年10月28日に日本でレビュー済み
この本を読んで私がいちばん触発されたのが、主婦とか、学生とか、「就労弱者」とかの、「余っている労働力」の「働き」の問題です。
そもそも、労働力が「余らされている」ということは、「足りている」証拠であり、したがって「余らされている」当人たちが責められる筋合いはないし、その人たちの価値が低いということにはならない、というのはまさにもっともです。
そうすると、問題はそこから先。余らされている人たち(この人たちが「労働者」とみなされていないことはこの場合、損失でも利点でもある、やっかいな問題なのですが)が、どうするかということ。「働きたくないから働いていない」人はその中でそう多くはないでしょう。本当は働いているつもりなのに、そうカウントしてもらえない。好きな仕事を少しずつしていきたいけど、そんな働き方は世間では通用しない。だからしょうがなくその「余らされた」立場にい続けてしまう。そうすると、「余っている労働力」の本来できる/やりたがっている/実はしている「労働」の価値をどう捉えていくのかということになります。家事労働に値段をつけるのが正解なのか? 「非営利」であるべきなのか?、それとも「起業」して稼ぐほうがいいのか? 稼げなかったら誰に保障してもらうのか?――いろいろ問題が出てきます。それを、政策的な視点だけでなく、当事者による「働きの価値づくり」の志向も視野に入れながら、考えていけたらいいな、と(この本を読んで、私個人的に)思いました。
PS. 私は先日、とあるシンポジウムで、「ろくすっぽ働けていない者たちの労働運動」のおもしろさについて話したのですが、国の「福祉的」政策や企業の「良心的配慮」なんかを期待するより先に、どんなかたちであれ働いている人たちが、勝手に集まって勝手に価値を作っていく、必要ならその価値の保障を求めて声を上げる、といったことをやっていくことのほうが先にあるべきで、あるはずだと思い、期待を寄せています。
そもそも、労働力が「余らされている」ということは、「足りている」証拠であり、したがって「余らされている」当人たちが責められる筋合いはないし、その人たちの価値が低いということにはならない、というのはまさにもっともです。
そうすると、問題はそこから先。余らされている人たち(この人たちが「労働者」とみなされていないことはこの場合、損失でも利点でもある、やっかいな問題なのですが)が、どうするかということ。「働きたくないから働いていない」人はその中でそう多くはないでしょう。本当は働いているつもりなのに、そうカウントしてもらえない。好きな仕事を少しずつしていきたいけど、そんな働き方は世間では通用しない。だからしょうがなくその「余らされた」立場にい続けてしまう。そうすると、「余っている労働力」の本来できる/やりたがっている/実はしている「労働」の価値をどう捉えていくのかということになります。家事労働に値段をつけるのが正解なのか? 「非営利」であるべきなのか?、それとも「起業」して稼ぐほうがいいのか? 稼げなかったら誰に保障してもらうのか?――いろいろ問題が出てきます。それを、政策的な視点だけでなく、当事者による「働きの価値づくり」の志向も視野に入れながら、考えていけたらいいな、と(この本を読んで、私個人的に)思いました。
PS. 私は先日、とあるシンポジウムで、「ろくすっぽ働けていない者たちの労働運動」のおもしろさについて話したのですが、国の「福祉的」政策や企業の「良心的配慮」なんかを期待するより先に、どんなかたちであれ働いている人たちが、勝手に集まって勝手に価値を作っていく、必要ならその価値の保障を求めて声を上げる、といったことをやっていくことのほうが先にあるべきで、あるはずだと思い、期待を寄せています。
2010年8月31日に日本でレビュー済み
この本を読んで、能力主義への批判とその対案を著者は考えているし考えてきていたのかと素朴に思った。著者は近代社会を能力主義を根本原則とする社会としてみなしている。そしてそのオルタナティブ(「簡単で別な姿の世界」と著者はいう)を提出している。と、いうことは、著者は近代ではない社会のあり方を提示するために物を書いてきたのだ。そのことが、本書を読んでようやくはっきりとわかった気がした。
著者は、自分の書いていることは障害者運動を含む運動のなかで言われてきたことでもあり、自分は「後衛」としてそれを一つ一つ考えているに過ぎないと述べているけれども、たぶんそれだけではない。原理だけでは世界や社会は作られていないから、具体化するためにさまざまなことを付け加えて考えなければいけないからだ。
能力主義へのオルタナティブとして著者が考えている方向性は、とりわけ障碍をめぐって端的に現れてくる、できるとかできないとかいう個々人の能力のちがいが、その人の境遇を決定的に規定してしまわない社会である。そして著者は、原理だけではなく手段(分配する対象や税の取り方など)についても、一歩一歩具体的にしていきつつある。でも、まだその世界は姿を完全に現してはいないように思われる。
著者の言っていることにわかりにくさがあるとすれば、それが我々も著者もまだ暮らしたことのない新たな世界(というか、近代社会のオルタナティブということであれば、それは「世界」ではなく、やはり「社会」ということになるのでは)について、あまり知られていない書き方で書いてあるからであるように思える。本書は、その姿がはっきり現れてくるまでの見取り図としても使うことができるだろう。
著者は、自分の書いていることは障害者運動を含む運動のなかで言われてきたことでもあり、自分は「後衛」としてそれを一つ一つ考えているに過ぎないと述べているけれども、たぶんそれだけではない。原理だけでは世界や社会は作られていないから、具体化するためにさまざまなことを付け加えて考えなければいけないからだ。
能力主義へのオルタナティブとして著者が考えている方向性は、とりわけ障碍をめぐって端的に現れてくる、できるとかできないとかいう個々人の能力のちがいが、その人の境遇を決定的に規定してしまわない社会である。そして著者は、原理だけではなく手段(分配する対象や税の取り方など)についても、一歩一歩具体的にしていきつつある。でも、まだその世界は姿を完全に現してはいないように思われる。
著者の言っていることにわかりにくさがあるとすれば、それが我々も著者もまだ暮らしたことのない新たな世界(というか、近代社会のオルタナティブということであれば、それは「世界」ではなく、やはり「社会」ということになるのでは)について、あまり知られていない書き方で書いてあるからであるように思える。本書は、その姿がはっきり現れてくるまでの見取り図としても使うことができるだろう。