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刑法39条はもういらない 単行本 – 2006/6/15

4.1 5つ星のうち4.1 5個の評価

精神障害者の犯罪責任を免除する刑法39条。その起源を刑法史に探り、「理性的な人間像」と対立する「非‐人間としての精神障害者」という問題性を指摘する。責任能力を認めないのは精神障害犯罪者を「人間」と見なしていないと批判して、39条の廃止を訴える。
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商品の説明

著者について

1951年、仙台市生まれ。九州大学大学院修了。九州工業大学情報工学部教員。専攻は刑事法学、現象学、世間学。著書に『「世間」の現象学』『増補版 大人の〈責任〉、子どもの〈責任〉』『〈責任〉のゆくえ』(いずれも青弓社)、『世間の目』(光文社)、『共同幻想としての刑法』(白順社)、共著に『世間学への招待』(青弓社)など。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 青弓社 (2006/6/15)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2006/6/15
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 254ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4787232584
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4787232588
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 5個の評価

著者について

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佐藤 直樹
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カスタマーレビュー

星5つ中4.1つ
5つのうち4.1つ
5グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2010年4月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
刑法学者による書物です。ある程度法律学を知っており法学史や
法の成立過程の駆け引きやその後の状況をしっていないと難しい
かもしれません。法律というフィクションがどのように作られた
のか。あるいは明治刑法というもの、そのものに存在する思想か
ら解き明かしています。
少なくとも刑法39条を擁護するためには精神分析学の完全性を
信じなければならないという点や権利というものの考え方に問題
があることを考えさせられます。すなわち権利、といった場合、
日本では享受するべきものであり賦課せられるものではないとい
う背景があるようです。つまり西洋の法、英米系であれ大陸系で
あれ他者のために自らが何かをするという考え方や個人が他者に
被害をもたらしたとき個人で何かを償うあるいは背負うという考
え方がないように思います。最終章で示唆されるように個人の内
面は完全に理解可能であるというフィクションをもとにしないと
日本においては法が成り立たなくなってしまったとも言えるでし
ょう。もちろん日本人は「西洋的な考え方が完全にできるのだ!」
というフィクションについてもそうです。深く鋭く真面目に考え
たい人には是非おすすめの書物です。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年6月9日に日本でレビュー済み
違法行為を行っても,その行為の時に「心神喪失」であれば犯罪とはならない。「心神耗弱」であれば犯罪にはなるが刑が減軽される。要するに精神を冒された状態で加害行為を行っても,不可罰となったり刑が軽くなったりすることがある。直接このことを定めたのが刑法39条だ。これに対して本書は,精神障害者も健常者と同様に罰せられるべきと主張する。

一般向けに書かれた法律学の本という体裁をとっているが,突っ込みどころが満載である。刑法学説が一般人には難しすぎるのが良くないとのたまっておきながら(p.16)この本が全く分かりやすくないとか,専門用語を誤用・曲解しており知的に誠実でないとか,立法論と解釈論の違いを十分に理解していないのではないかとか,「行為責任」という基本的視点を無視していないかとか,「他行為可能性」(第6章)を論じるなら
平野龍一『刑法の基礎』 に触れておくべきなのに一切言及がないのはどういうことなんだとか,引用論文が古いものばかりであるとか,そのくせ,取材・資料の扱いその他に問題ありまくりの 日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』 を肯定的に引用しているのはどうなんだとか,しかもその引用文(本書p.32)は 文庫化 の際にこっそり削除されているぞとか。

さらに,著者の精神障害に対する理解が「反精神医学」に基づいていることも問題にすべきだろう。ここで「反精神医学」とは,「1960年代に英米仏伊などで現れた運動で,体制としての精神医学への大規模な異議申立て運動」のことであり,「旧来の精神医療のもつ強制性と拘禁性に強い批判を向け,精神疾患が客観的な疾患ではなく,社会的過程の産物である,などと主張した」(『
現代精神医学事典 』p.854)。理論はともかく現実はどうだったか。「このような考え方は一部の精神科医を魅了したものの,その後の検証によってまったく実態を反映していないことが明らかとなっている」(『 精神障害者をどう裁くか 』p.167)と言われる。

しかし,一番の問題は,著者の刑法と刑罰に関する独自の理解である。たとえば次の一文。

 ・本書の最終的な目標は,精神障害犯罪者も健常な犯罪者も「人間」として平等に扱われるべきであり,そのためには刑法三九条は削除されるべきだが,これを根拠づけるロジックを構築することにあった。(p.224)

だが心神喪失者に刑を科すことが,なぜその者を「人間」として扱うために必要だと言えるのか。たしかに「刑罰を科されるのは人間のみである」という命題は正しいが,この命題と,「刑罰を科されないものは人間ではない」という命題は論理的に同値ではない。たとえばゴリラが人を殺しても殺人罪には問われないが,それはゴリラが文字どおり「人間(ヒト)ではない」からであって,心神喪失だからというわけではない。仮にゴリラに十分な知能や理性があったとしても,やはり罪には問われない。刑罰を科さないからといって,その者を「人間扱いしていない」ということにはならないはずである。

おそらく著者は,刑罰を科すことが精神障害者を「尊重」することにつながると言いたいのだろう。「罰とは,とりもなおさず,罪のつぐないを認めてやることにほかならない」(『
砂の女 』)というわけだ。もっとも責任主義の下では,心神喪失者は責任を問われない=無罪=罪がない,とされているのであるから,論理的に考えて「つぐなうべき罪」などあろうはずがない。結局のところ本書は,結論を先取りしているに過ぎない。しかしこの点を措くとしても,このような「心の交流」は,私人と私人(たとえば被害者と加害者)との間では想定できても,国家と私人の関係に当てはめることはできない。近代国家はそのような「心」をもたないからである。国家は自由も権利も有さない。裁量と権力を行使するだけの無色透明な存在である。

現在多くの刑法学者は,刑罰とは害悪の付科=人権侵害であって,刑罰は犯罪予防のための必要やむを得ざる措置であると考えている。本書のように,このような理解を超えて刑罰に肯定的な意味を与えることには慎重であるべきだろう。これでは「犯人を "尊重" することになるから」という理由で厳罰化が進行しかねないからである。

奥付の著者略歴を見ると,「専攻は刑事法学,〔略〕」となっている。別に資格がいるわけではないから,そう名乗るのは本人の自由だ。あとがきでは「責任能力廃棄論を主張しはじめて二十年以上になる。その間,学界ではほとんど無視された」(p.253)。そりゃまあそうでしょうねえ。なお,本書の出版は2006年だが,18ページで引用されている刑法の条文は2004年改正前のものである。法改正のフォローもできていないというのは,「刑事法学」者としては,かなり情けない。
38人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年9月12日に日本でレビュー済み
 難解な本です。  引用が多く、その原文を読むよりは分かりやすいはずののですが、フーコーやカント等犯罪の本と言うよりは、哲学書ではないのか?と思えるほどです。

 論調としては、精神障がい者の保安処分(再犯のおそれ有りと認められれば、強制入院)に反対しているように、人権に配慮しているようですが、日垣隆を引用するなど?な部分も見られ、結論も近代刑法の根本的見直しという結論に終わっており、具体的に精神障がい犯罪者をどうすれば、本人にも世間にも良いのかの実践には踏み込んでいないので、肩透かしを食らった気持ちになるやも知れません。
23人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート