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日常生活の認知行動―ひとは日常生活でどう計算し、実践するか 単行本 – 1995/4/5

4.3 5つ星のうち4.3 2個の評価

実生活における人々の認知や計算のしくみは学校で学習したものとは全く異なる--日常的な実践行動には文化と歴史が深く埋め込まれており、状況から遊離した合理的思考とは無縁であることを精緻に解明して、学校・科学信仰の基盤を解体した問題作。
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商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

生活世界の知のしくみを解明して学校信仰の基盤を解体した"認知革命"の代表的傑作。

内容(「MARC」データベースより)

日常生活において認識はどう成立するのか。認知理論、教育の形態、日常における実践の三者が複雑にからみあってそれぞれの歴史的、文化的特徴を作ってきた。学校信仰の基盤を解体した認知革命の傑作。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 新曜社 (1995/4/5)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1995/4/5
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 345ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4788505169
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4788505162
  • カスタマーレビュー:
    4.3 5つ星のうち4.3 2個の評価

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ジ−ン・レイヴ
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カスタマーレビュー

星5つ中4.3つ
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上位レビュー、対象国: 日本

2019年3月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、学校が近代合理主義のイデオロギーを再生産していることを暴いている。
数学を例にしているが、どの教科でも同じであろう。

著者たちは、アメリカの一般成人を対象に、参与観察などの方法によって、調査研究をしている。
その結果、大多数が数学ができないと思い込んでいるが、日常の計算や数的な思考・判断は十分に必要レベルを達成していることが明らかになった。

学校の数学ができなくても、日常生活に不自由はない。
それでも、自己の数学的な能力が低いと思い込まされているのである。

学校の数学は、抽象的で一般化された問題、たとえば単なる計算や図形の幾何学的証明だけを扱う。
それは、非日常的な文脈における、日常とは異なる認知活動である。

一方、日常は具体的で特殊な問題を扱う。
そこには、数字が必要であっても、それを環境と切り離すことはできないし、しない。

計算であれば、環境を利用して計算するのである。
たとえば、スパーマーケットで買い物をする場合は、買い物かごと商品に関する知識を利用する。

そのため、よく知っている商品で買い物かごがいっぱいになれば、計算しなくても金額がわかる。
実際に、レジを通過すれば、計算しなくてもわかっている金額の正しさが、確かめられるのである。

このように、わたしたちは身の回りのリソースを自在に使う。
そうすることによって、計算することなく、思考することなく、必要な行為ができる。

それにもかかわらず、学校では計算式を書かせて、答えを導くように強制する。
場合によっては、数的な思考のプロセスさえも、評価の対象にする。

学校は、日常生活と切り離して、一般化された知識や技能を教えようとするのである。
それは、デカルトやガリレオらによって開かれた近代合理主義の知を絶対視し、従順にしたがうからである。

近代以前のヨーロッパでは、宗教的な対立による殺し合いが激しかった。
そこで、平和を取り戻すことが多様に試みられた。

そのなかで、彼らは宗派が異なっていても、共有できる真理を求めた。
それには、日常を支配する宗教や迷信等とは切り離して、普遍性を志向する知識をこそ真理とする。

そのような真理は、誰でも合理的な方法によるならば、獲得、あるいは接近できると考える。
また、それを共有するならば、異なる真理の真偽や優劣を争って殺し合うこともなくなるのである。

しかし、その代償を支払うことになる。
「いつでも、どこでも、だれでも」という普遍的な真理観の確立によって、「いま、ここで、わたしとあなた」の視点を失うのである。

このような真理観が、近代の学校を支配している。
子供たちに、日常生活とは切り離して、学校的な学習を強制するのである。

やはり、学校は近代合理主義のイデオロギーを再生産している。
鮮やかに、端的にそれを描いているのが、本書である。

ただし、数学がまったく役立たない、数学には意味はないなどとは思わない。
科学技術の発展や大規模な社会調査には、欠くことができない。

数学であれ、科学であれ、一般化された知識であっても、特定の状況においてのみ役立ち、意味をもつしかない。
なぜなら、普遍性を志向することも、それを求める行為が人間の営みであるかぎり、具体的な状況がそれを可能にするからである。

さらに最近のお勧めは、次である。
S・スローマン /F・ファーンバック 2018、『知ってるつもりー無知の科学ー』 (訳・土方奈美)早川書房。
A・クラーク、2015、『生まれながらのサイボーグ―心・テクノロジー・知能の未来ー』(訳・呉羽真、他)春秋社。
L・バレット、2013、『野生の知能ー裸の脳から、身体・環境とのつながりへー』(訳・小松淳子)インターシフト。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年4月2日に日本でレビュー済み
うちの大学の文化人類学研究室で最もよく触れられるSTS(Science Technology Studies)関係の本だと思う。

文化人類学では最近はこうした認知やラボの研究も盛ん。
本書ではスーパーの買い物など日常生活での認知、計算が中心に論じられている。科学者などの知的エリートが行う「合理的思考」に対して庶民が行う「日常的思考」が必ずしも劣るというものではなく、むしろより複雑な問題解決?的思考も行われている。

一見、人類学で認知のような先端的なことを扱うのは違和感を感じられるかもしれないが、
西洋近代、合理性、秩序↔未開・野蛮、無秩序
の内後者にもスポットを当てようとする視点は非常に人類学的だといえる。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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