最終章の結論で小熊は以下の文章を書き留めている。
「ある人びとを、文明に遅れた非合理的な野蛮人とみなすことと、文明に毒されていない神秘的な自然人とみなすことは、
一見正反対のようでいて、じつは、相手が文明人たる自分たちを肯定するための野蛮人であってほしいか、
それとも批判するための自然人であってほしいかのちがいにすぎないことがある」。
「…本書でみてきたのは、国際関係における他者との関係が変化するたびに、自画像たる日本民族論がゆれ動くありさまだった。
多くの論者は、日本民族の歴史と言いつつ、じつは自分の世界観や潜在意識の投影を語っていたにすぎない」。
私たちは、他者と対峙したとき、他者を自分を映しだすための鏡に仕立て上げようとする欲望をもっている。
つまりそれは、自分を理解するために他者を利用することであり、他者を道具のように扱う姿勢である。
小熊は他者と向き合うとき、常に自分が他者をどのような鏡に仕立てるかという、この欲望に警戒をする。
だから何らかの決定論や本質主義的な話には耳こそ傾けど、それに没入することはない。
そえゆえに彼はあれほどの膨大なテキストに分け入っても、無事に現世に戻ることができるのであろう。
彼のこうした態度、姿勢は『インド日記』でも存分に発揮されていて、そのメンタリティの強靭さに驚きを隠せない。
「異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智なのである」。
筆者の他者に対する真摯な姿勢に拍手をおくりたい。
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単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜 ハードカバー – 1995/7/1
小熊 英二
(著)
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大日本帝国時代から戦後にかけて,「日本人」の支配的な自画像といわれる単一民族神話が,いつ,どのように発生したか。
民族の純血意識,均質な国民国家志向,異民族への差別や排斥など,民族というアイデンティティをめぐる膨大な言説の系譜と分析を行う。
EXCERPT: ここでわれわれは、まず二つの事実を確認しなければならない。一つは戦前の大日本帝国は、多民族国家であったということである。
こんにちでは忘れられがちなことだが、一八九五年に台湾を、一九一〇年に朝鮮を併合していらい、総人口の三割におよぶ非日系人が臣民としてこの帝国に包含されていた。戦時中の「進め一億火の玉」という名高いスローガンにうたわれた「一億」とは、朝鮮や台湾を含めた帝国の総人口であり、当時のいわゆる内地人口は七千万ほどにすぎない。
民族の純血意識,均質な国民国家志向,異民族への差別や排斥など,民族というアイデンティティをめぐる膨大な言説の系譜と分析を行う。
EXCERPT: ここでわれわれは、まず二つの事実を確認しなければならない。一つは戦前の大日本帝国は、多民族国家であったということである。
こんにちでは忘れられがちなことだが、一八九五年に台湾を、一九一〇年に朝鮮を併合していらい、総人口の三割におよぶ非日系人が臣民としてこの帝国に包含されていた。戦時中の「進め一億火の玉」という名高いスローガンにうたわれた「一億」とは、朝鮮や台湾を含めた帝国の総人口であり、当時のいわゆる内地人口は七千万ほどにすぎない。
- 本の長さ454ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日1995/7/1
- ISBN-104788505282
- ISBN-13978-4788505285
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内容(「MARC」データベースより)
多民族帝国であった大日本帝国から、単一民族神話の戦後日本へ。台湾侵略から100年、戦後50年のいま、明治から戦後までの日本民族についての言説を集大成。「日本人」とは何か、民族というアイデンティティをめぐる考察。
登録情報
- 出版社 : 新曜社 (1995/7/1)
- 発売日 : 1995/7/1
- 言語 : 日本語
- ハードカバー : 454ページ
- ISBN-10 : 4788505282
- ISBN-13 : 978-4788505285
- Amazon 売れ筋ランキング: - 100,193位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2019年5月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の修士論文に相当する大作である。明治初期の日本民族起源論から敗戦後の起源論まで、豊富な資料を引用しながら
その跡をたどった文章は十分な説得力を持つ。そして、学者の論説がその時々の国益の擁護にいかに影響されているかも
理解できる。この本の刊行後、遺伝子解析の進展により日本人起源論はより深く解明されるようになった。併せてその関係の書籍を読むと本書の理解がより深まるだろう。
その跡をたどった文章は十分な説得力を持つ。そして、学者の論説がその時々の国益の擁護にいかに影響されているかも
理解できる。この本の刊行後、遺伝子解析の進展により日本人起源論はより深く解明されるようになった。併せてその関係の書籍を読むと本書の理解がより深まるだろう。
2022年3月23日に日本でレビュー済み
現在慶応義塾大学教授の歴史社会学者:小熊英二氏の初期代表作であるこの著作を、今更ながら読んでみた。これは、氏のあとがきによると、大学院での修士論文を書籍化したもので1995年7月刊。四半世紀前の論考だが、今読んでも教えられるところが実に多い、非常に優れた論考である。氏は幕末・明治維新あたりからの様々な論者による「日本人(民族)論」を詳細かつ網羅的に紐解きながら、この国の人たちが自国をどのように思い描き、それを様々な政治的・社会的動きに援用していったかを克明に説いている。
所謂「国体」という概念が、江戸時代後期~本居宣長らの国学によって生み出されたものであることはよく知られているが、明治期以降のこの国での人類学の勃興~欧米諸国の人類学への反発と、ナショナリズム的発想からの「天皇を中心とした国のかたち」の主張。しかし、明治期からアジア太平洋戦争までの時期~この国では必ずしも「単一民族論」が主流を占めていたわけではなく、常に「混合民族論」と「単一民族論」が入れ子のように入れ替わりながら、その時々の政治情勢に併せるような形で主張されていったことは、私には意外な、そして大きな発見だった。特に、大日本帝国が「大東亜共栄圏」という名分の下でアジア侵略に手を染めていく過程では、この「混合民族論」が盛んに主張されていた~というのは、何ともアイロニーに満ちた「民族意識」の在り様だったことがよく分かる。アジアへの勢力拡大を唱える多くの研究者・政治家・運動家などが「日本人は南方系民族と朝鮮半島からの渡来人などの混合民族」であることを主張し、「天孫民族(天皇家を中心とした部族)がいらした高天原とは朝鮮のこと」としているのは今見ると驚きである。しかし彼らはその論理を、「日鮮同祖論」という名の下に「だから太古同じ民族だった日本と朝鮮は兄弟のようなもの。それが再び一つになるのは至極自然なこと」と「日韓併合」という植民地政策の正当化に利用していく。そして「兄弟のようなもの」と言いながらも、そこでの上下関係は厳然とあり、実態は「天皇を中心とした日本による支配関係」でしかない。こうした、「皆同じだよ」と言いながら差別抑圧する欺瞞的支配構造に、この「混合民族論」としての「日鮮同祖論」は巧妙に利用されていく。
そしてあの戦争に壊滅的に敗れたこの国が、戦後「混合民族論」から急速に「単一民族論」に傾倒していくのも、何とも象徴的。特に、所謂進歩派とされるマルクス主義歴史学者たちが、その教条主義的歴史観から「日本の古代にも原始共産制社会はあった。そこには差別抑圧や武力による他民族支配・制圧などはなく、『同じ日本人』が仲良く暮らしていた」といった一種のお花畑的概念で「単一民族論」を展開していったことは、戦後日本の「戦争をしない平和国家として再生する」願望がそこに内包されていたとはいえ、今から見ると何とも無理がある「論理」ではあった。
21世紀に入って既に20年が過ぎた現在、最新の人類学・考古学・歴史学研究やDNA鑑定などの調査結果から~「旧石器時代から縄文時代までに、広く日本列島に渡ってきた南方系民族~そしてそこに弥生時代以降に主に朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが九州・近畿などで支配勢力となっていき(天皇家・豪族などの始まり)、熊襲・蝦夷などと呼ばれていた先住民族(それらは今のアイヌや沖縄の人々の先祖でもあったろう)をその支配下に収める中で、国家としてのカタチを整えていった」というのが大まかな実相だっただろうことが伺える。
この著作が出された1995年~まだこの国は、現在の歴史修正・捏造主義者たちが跋扈するような酷い状況ではなかったが、今や「単一民族論」の名を借りた差別排外主義が当たり前のように右翼偏向メディアなどで主張される中、小熊氏のような賢明な研究者・論者がこの国のアカデミアの中にまだ健在であることは、ひとつのかすかな救いでもある。
しかし、私がこの著作を読みながら、様々な歴史事項の確認のためにネットで検索していて気付いたこと~それは、以前から多くの論者によって危惧されていた「ウィキペディアの記載の偏向ぶり」である。例えば「神功皇后」や「三韓征伐」など、日本書紀に記載されている多分に神話的事項までが、あたかも歴史的事実だったかのような記述がなされている。3~4世紀頃の朝鮮半島で、北方騎馬民族が建国した高句麗では既に鉄器が使われ、南部の新羅・百済も同様。一方、朝鮮半島からの渡来人によって当時の先端技術や文化を学び吸収していた倭の国が半島を征服した~というのは土台無理筋の作り話でしかないのは明らか。神話をどこまで信じようがそれは個人の自由だが、「ファンタジーと願望に基づいた自国意識・自画像」に乗っかった「美しき国・日本」の誇りは、実態としては誠に脆く危うい。科学的成果をしっかりと受け止めて、国家像を描いていくことの大切さ~この重厚な論考を読み進めながら、私は改めてそのことを深く考えた。
最後に小熊氏の絞めの言葉を引用しておこう~「本書の結論は、いたって単純だ。神話に対抗することは、ある神話を滅ぼしてべつの神話にいれかえること、たとえば単一民族神話を批判するために混合民族神話をもちだすことではない。求められているのは、神話からの脱却だ。それは、若干の労力を要する。年齢と経験を経るごとに、人間の知識在庫は蓄積され確信を増し、一方で相手と一人ひとり誠実に対応する体力は低下してゆく。その過信と疲労の隙間に、神話は忍びこむ。だが、そのことに意識的となり、神話に囚われる一歩手前で踏みとどまるだけの力は、誰しももちあわせているものと信じたい。異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智である。」
所謂「国体」という概念が、江戸時代後期~本居宣長らの国学によって生み出されたものであることはよく知られているが、明治期以降のこの国での人類学の勃興~欧米諸国の人類学への反発と、ナショナリズム的発想からの「天皇を中心とした国のかたち」の主張。しかし、明治期からアジア太平洋戦争までの時期~この国では必ずしも「単一民族論」が主流を占めていたわけではなく、常に「混合民族論」と「単一民族論」が入れ子のように入れ替わりながら、その時々の政治情勢に併せるような形で主張されていったことは、私には意外な、そして大きな発見だった。特に、大日本帝国が「大東亜共栄圏」という名分の下でアジア侵略に手を染めていく過程では、この「混合民族論」が盛んに主張されていた~というのは、何ともアイロニーに満ちた「民族意識」の在り様だったことがよく分かる。アジアへの勢力拡大を唱える多くの研究者・政治家・運動家などが「日本人は南方系民族と朝鮮半島からの渡来人などの混合民族」であることを主張し、「天孫民族(天皇家を中心とした部族)がいらした高天原とは朝鮮のこと」としているのは今見ると驚きである。しかし彼らはその論理を、「日鮮同祖論」という名の下に「だから太古同じ民族だった日本と朝鮮は兄弟のようなもの。それが再び一つになるのは至極自然なこと」と「日韓併合」という植民地政策の正当化に利用していく。そして「兄弟のようなもの」と言いながらも、そこでの上下関係は厳然とあり、実態は「天皇を中心とした日本による支配関係」でしかない。こうした、「皆同じだよ」と言いながら差別抑圧する欺瞞的支配構造に、この「混合民族論」としての「日鮮同祖論」は巧妙に利用されていく。
そしてあの戦争に壊滅的に敗れたこの国が、戦後「混合民族論」から急速に「単一民族論」に傾倒していくのも、何とも象徴的。特に、所謂進歩派とされるマルクス主義歴史学者たちが、その教条主義的歴史観から「日本の古代にも原始共産制社会はあった。そこには差別抑圧や武力による他民族支配・制圧などはなく、『同じ日本人』が仲良く暮らしていた」といった一種のお花畑的概念で「単一民族論」を展開していったことは、戦後日本の「戦争をしない平和国家として再生する」願望がそこに内包されていたとはいえ、今から見ると何とも無理がある「論理」ではあった。
21世紀に入って既に20年が過ぎた現在、最新の人類学・考古学・歴史学研究やDNA鑑定などの調査結果から~「旧石器時代から縄文時代までに、広く日本列島に渡ってきた南方系民族~そしてそこに弥生時代以降に主に朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが九州・近畿などで支配勢力となっていき(天皇家・豪族などの始まり)、熊襲・蝦夷などと呼ばれていた先住民族(それらは今のアイヌや沖縄の人々の先祖でもあったろう)をその支配下に収める中で、国家としてのカタチを整えていった」というのが大まかな実相だっただろうことが伺える。
この著作が出された1995年~まだこの国は、現在の歴史修正・捏造主義者たちが跋扈するような酷い状況ではなかったが、今や「単一民族論」の名を借りた差別排外主義が当たり前のように右翼偏向メディアなどで主張される中、小熊氏のような賢明な研究者・論者がこの国のアカデミアの中にまだ健在であることは、ひとつのかすかな救いでもある。
しかし、私がこの著作を読みながら、様々な歴史事項の確認のためにネットで検索していて気付いたこと~それは、以前から多くの論者によって危惧されていた「ウィキペディアの記載の偏向ぶり」である。例えば「神功皇后」や「三韓征伐」など、日本書紀に記載されている多分に神話的事項までが、あたかも歴史的事実だったかのような記述がなされている。3~4世紀頃の朝鮮半島で、北方騎馬民族が建国した高句麗では既に鉄器が使われ、南部の新羅・百済も同様。一方、朝鮮半島からの渡来人によって当時の先端技術や文化を学び吸収していた倭の国が半島を征服した~というのは土台無理筋の作り話でしかないのは明らか。神話をどこまで信じようがそれは個人の自由だが、「ファンタジーと願望に基づいた自国意識・自画像」に乗っかった「美しき国・日本」の誇りは、実態としては誠に脆く危うい。科学的成果をしっかりと受け止めて、国家像を描いていくことの大切さ~この重厚な論考を読み進めながら、私は改めてそのことを深く考えた。
最後に小熊氏の絞めの言葉を引用しておこう~「本書の結論は、いたって単純だ。神話に対抗することは、ある神話を滅ぼしてべつの神話にいれかえること、たとえば単一民族神話を批判するために混合民族神話をもちだすことではない。求められているのは、神話からの脱却だ。それは、若干の労力を要する。年齢と経験を経るごとに、人間の知識在庫は蓄積され確信を増し、一方で相手と一人ひとり誠実に対応する体力は低下してゆく。その過信と疲労の隙間に、神話は忍びこむ。だが、そのことに意識的となり、神話に囚われる一歩手前で踏みとどまるだけの力は、誰しももちあわせているものと信じたい。異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智である。」
2021年9月5日に日本でレビュー済み
一度は読んでみるべき。
近代日本人達が、どのような価値観をもっていたかが、よく理解できる。
近代日本人達が、どのような価値観をもっていたかが、よく理解できる。
2006年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本当に単純に言えば、この本は「単一民族論」と「混合民族論」の二つを思考のベースにして読み進めればいい。
しかし、何しろ膨大な人物と文献を取り扱い、またその時代の社会的な背景や国際的な背景、
さらには個人的背景や古代日本史をも念頭に置くことを時には必要とするので、
私の頭脳レベルでは混乱しないように頭の中を何とか整理しながら読み進めていくだけで精一杯であった。
だからといって途中で放り出したくなるようなモノでもなく、逆にどんどん引き込まれて、
時には感嘆し時には思慮深い状態にさせられる名著であることは間違いない。
特に結論のさばき方は、論文ゆえにまさに「学問的」であり、その多面的分析方法や論理性の高さゆえ、強い説得力をもって読者に迫る。
舌を巻くとはこのことだ。
小熊氏の他の著作でもそうだが、
「現在の当たり前がいかに過去では当たり前でなかったのか」や「時代の流れの中での言説の取り扱い」の重要性を痛感させられる。
95年の出版を知り「もっと早くこの本に出会っていれば…」なんて気持ちも湧き出した。
ところでこのところ、「日本人=サムライ(又は武士道魂)」という図式がよく見られるような気がする。
私はあまりこの意見に与しないのであるが、心理的同一性を求める「日本人=単一民族」の新たな生まれ変わりと考えられるかもしれない。
しかし、何しろ膨大な人物と文献を取り扱い、またその時代の社会的な背景や国際的な背景、
さらには個人的背景や古代日本史をも念頭に置くことを時には必要とするので、
私の頭脳レベルでは混乱しないように頭の中を何とか整理しながら読み進めていくだけで精一杯であった。
だからといって途中で放り出したくなるようなモノでもなく、逆にどんどん引き込まれて、
時には感嘆し時には思慮深い状態にさせられる名著であることは間違いない。
特に結論のさばき方は、論文ゆえにまさに「学問的」であり、その多面的分析方法や論理性の高さゆえ、強い説得力をもって読者に迫る。
舌を巻くとはこのことだ。
小熊氏の他の著作でもそうだが、
「現在の当たり前がいかに過去では当たり前でなかったのか」や「時代の流れの中での言説の取り扱い」の重要性を痛感させられる。
95年の出版を知り「もっと早くこの本に出会っていれば…」なんて気持ちも湧き出した。
ところでこのところ、「日本人=サムライ(又は武士道魂)」という図式がよく見られるような気がする。
私はあまりこの意見に与しないのであるが、心理的同一性を求める「日本人=単一民族」の新たな生まれ変わりと考えられるかもしれない。
2016年8月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本は書き込みもなくきれいで読みやすい
思った以上に面白かった
社会学必修
思った以上に面白かった
社会学必修
2014年12月22日に日本でレビュー済み
明治から戦後に至るまでの、「日本民族起源論」を丹念に追った労作である。黒船来航で開国し、欧米先進諸国による植民地化の脅威の中で、国家作りをしなければならなかった先人たちの苦労が偲ばれる。
民族起源論はほとんどの場合、ナショナリズムと深い関連を持つ。国民国家としてのアイデンティティを確立する際に民族起源論がそのイデオロギーとしての役割を果たすという訳である。「ナショナリズム」とは実に分かりにくい言葉であるが、次のように分ける考え方がある。(1)民族主義(被抑圧民族が独立を要求する運動)、(2)国民主義(ある程度は国家が出来上がっているが、完璧ではなく、民族を基盤としてより統一された国家を追及する運動)、(3)国家主義(自分たちの国家を至高の存在と考え、国家目標を実現するために個人の献身を求める思想・運動)(半藤一利・保阪正康『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』)。この分類によれば、民族起源論は、明治期には(2)の国民主義のための、昭和期には(3)の国家主義のためのイデオロギーだったことが分かる。
本書では、明治期に日本の国家を確立する上で、「単一民族神話」と「混合民族神話」がそれぞれ「日本民族の優秀さ」あるいは「朝鮮などの植民地統治理論」として創出・提案され、植民地を失った戦後は「単一民族神話」が復活したことが丹念に跡付けられる。「単一民族神話」と「混合民族神話」の根拠は、記紀神話、歴史学、人類学など様々であり、自らの説に好都合な「証拠」が摘み食いの上、適当にアレンジされ、もっともらしい言説に仕上げられる。両説に関わったのは明治初期から戦後までの、ほとんどすべての人類学者・民族学者・文学研究者・言論人などである。まさに「死屍累々の民族神話」といってよい。「民族起源論」がナショナリズムのイデオロギーであったことを証明している。
今日の科学的知見では、人種すら存在しない(「人種」と呼ばれる集団間の差異よりも、「人種」内の個人差の方が大きい)ことが明らかにされている(ベルトラン・ジョルダン著『人種は存在しない-人種問題と遺伝学』)。また、人種の更に下位概念である「民族」は、日本人を含めて、世界中どこでも、アフリカ・ヨーロッパ・アジア起源の祖先集団が様々な比率で混淆したことが明らかにされている(篠田謙一著『日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造』)。民族の起源なるものは、科学的にはDNAの混淆比率を論ずるだけであり、世界中のどの人間も「混合民族」であることは同じである。こうして、今日、「民族」を声高に叫ぶ者は、歴史・社会・文化・宗教から生じた些細な差異を恣意的に寄せ集め、ナショナリズム高揚に利用していると考えて間違いない。
著者は本書の内容を次のようにまとめている(p.404)。「異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智である」。些細な差異を声高に叫ぶ人に是非聞いてもらいたい結語である。
最近、テレビで「日本人はこんなにスゴイ!外人もビックリ!」風の番組が多い。また、戦争中の特攻作戦を美化する小説や映画が大勢の読者や観客を集めたようだ。2020年東京オリンピックの誘致や決定後のマスコミにも「日本賛美」が目立つ。本書が論じた「単一民族神話」が、「日本民族最優秀神話」に化けたようだ。近隣諸国との緊張を煽る国家ナショナリズムは、このような新たな「神話」を利用(悪用)することを決して忘れてはならない。
民族起源論はほとんどの場合、ナショナリズムと深い関連を持つ。国民国家としてのアイデンティティを確立する際に民族起源論がそのイデオロギーとしての役割を果たすという訳である。「ナショナリズム」とは実に分かりにくい言葉であるが、次のように分ける考え方がある。(1)民族主義(被抑圧民族が独立を要求する運動)、(2)国民主義(ある程度は国家が出来上がっているが、完璧ではなく、民族を基盤としてより統一された国家を追及する運動)、(3)国家主義(自分たちの国家を至高の存在と考え、国家目標を実現するために個人の献身を求める思想・運動)(半藤一利・保阪正康『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』)。この分類によれば、民族起源論は、明治期には(2)の国民主義のための、昭和期には(3)の国家主義のためのイデオロギーだったことが分かる。
本書では、明治期に日本の国家を確立する上で、「単一民族神話」と「混合民族神話」がそれぞれ「日本民族の優秀さ」あるいは「朝鮮などの植民地統治理論」として創出・提案され、植民地を失った戦後は「単一民族神話」が復活したことが丹念に跡付けられる。「単一民族神話」と「混合民族神話」の根拠は、記紀神話、歴史学、人類学など様々であり、自らの説に好都合な「証拠」が摘み食いの上、適当にアレンジされ、もっともらしい言説に仕上げられる。両説に関わったのは明治初期から戦後までの、ほとんどすべての人類学者・民族学者・文学研究者・言論人などである。まさに「死屍累々の民族神話」といってよい。「民族起源論」がナショナリズムのイデオロギーであったことを証明している。
今日の科学的知見では、人種すら存在しない(「人種」と呼ばれる集団間の差異よりも、「人種」内の個人差の方が大きい)ことが明らかにされている(ベルトラン・ジョルダン著『人種は存在しない-人種問題と遺伝学』)。また、人種の更に下位概念である「民族」は、日本人を含めて、世界中どこでも、アフリカ・ヨーロッパ・アジア起源の祖先集団が様々な比率で混淆したことが明らかにされている(篠田謙一著『日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造』)。民族の起源なるものは、科学的にはDNAの混淆比率を論ずるだけであり、世界中のどの人間も「混合民族」であることは同じである。こうして、今日、「民族」を声高に叫ぶ者は、歴史・社会・文化・宗教から生じた些細な差異を恣意的に寄せ集め、ナショナリズム高揚に利用していると考えて間違いない。
著者は本書の内容を次のようにまとめている(p.404)。「異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智である」。些細な差異を声高に叫ぶ人に是非聞いてもらいたい結語である。
最近、テレビで「日本人はこんなにスゴイ!外人もビックリ!」風の番組が多い。また、戦争中の特攻作戦を美化する小説や映画が大勢の読者や観客を集めたようだ。2020年東京オリンピックの誘致や決定後のマスコミにも「日本賛美」が目立つ。本書が論じた「単一民族神話」が、「日本民族最優秀神話」に化けたようだ。近隣諸国との緊張を煽る国家ナショナリズムは、このような新たな「神話」を利用(悪用)することを決して忘れてはならない。