環境の問題を述べるに当たって著者は地球環境という言葉を始めに立てない。地球と言う物理化学的に立てられる表象に一元化されて全てが語られてしまう地球環境ということばを立てないのだ。そこで場所環境という言葉が立てられる。そして人間の意志が環境に働きかけるという視点も採らない。だからこそ「場所環境の意志」なのだ。しかしそこから著者は環境設計が新たな社会設計でもあるような道筋を政治として立てようとするのだが、その次元で言葉のニュアンスの違いが意味を持たないような実際政治で、現実と連関する脈絡を喪失するように見える。
著者自身はホスピタリティを付け加え、場所の問題を別の形で提起している。
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場所環境の意志: 地球環境設計へむけて 単行本 – 1997/9/1
山本 哲士
(著)
- 本の長さ344ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日1997/9/1
- ISBN-104788506122
- ISBN-13978-4788506121
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
これからの生活界を創出すべく、近代社会設計原理をのりこえる新しい思考と理論を、〈文化技術〉と〈場所〉の論から切り拓く、哲学設計・学問設計と社会環境設計の書。
登録情報
- 出版社 : 新曜社 (1997/9/1)
- 発売日 : 1997/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 344ページ
- ISBN-10 : 4788506122
- ISBN-13 : 978-4788506121
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,161,363位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 941位環境問題
- - 2,076位都市開発・都市問題 (本)
- - 3,132位建築・土木工学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2014年9月11日に日本でレビュー済み
明治近代以降の産業社会を形成してきた経済・科学技術・商品中心の社会秩序が述語的な場所中心の文化環境と文化経済へ大転換の時代に入ったと明示している書である。
その上で「環境・文化・資本」の本質根源を開示、既存の学問基盤からの転地に「場所環境・文化技術・文化資本」の思想哲学へ転換が必要であると示唆した画期的な提起をしている。
論述基盤は、世界レベルのイリイチ(ヴァナキュラー)、フーコー(権力論・自己のテクノロジー)、ブルデュー(ハビトゥス・文化資本(階層でない))、吉本隆明(共同幻想論)、西田幾多郎(場所論・絶対矛盾的自己同一)等の思想哲学を超え新たな地盤と地平に拓く。
西田の「述語面に意志」があるという、主語主体でなく、述語に日本文化創造の世界があることを究明。具体的なプロジェクトディレクションを通して場所環境や文化技術を開示しながら場所文化創出の道筋を示す。
つまり、均一で画一的な社会に場所環境は形成されるものではなく、抽象的な地域でもなく、場所ごとの生命環境・文化環境において、生きられる生命の場所があり場所文化があることを創起した。
本書は晦渋(かいじゅう)な論述ではなく、ただ、固定された既存・既知の認識を超え、自主自律的な新しい世界に扉を開いている。
如何に活かすかは読者に委ねられているが、これからの時代の行政政策、環境工学、都市工学、経営戦略、まちづくり、デザインなどの多様で多元的な文化生産や価値創造の根源的なものを解明した貴重な書である。
その上で「環境・文化・資本」の本質根源を開示、既存の学問基盤からの転地に「場所環境・文化技術・文化資本」の思想哲学へ転換が必要であると示唆した画期的な提起をしている。
論述基盤は、世界レベルのイリイチ(ヴァナキュラー)、フーコー(権力論・自己のテクノロジー)、ブルデュー(ハビトゥス・文化資本(階層でない))、吉本隆明(共同幻想論)、西田幾多郎(場所論・絶対矛盾的自己同一)等の思想哲学を超え新たな地盤と地平に拓く。
西田の「述語面に意志」があるという、主語主体でなく、述語に日本文化創造の世界があることを究明。具体的なプロジェクトディレクションを通して場所環境や文化技術を開示しながら場所文化創出の道筋を示す。
つまり、均一で画一的な社会に場所環境は形成されるものではなく、抽象的な地域でもなく、場所ごとの生命環境・文化環境において、生きられる生命の場所があり場所文化があることを創起した。
本書は晦渋(かいじゅう)な論述ではなく、ただ、固定された既存・既知の認識を超え、自主自律的な新しい世界に扉を開いている。
如何に活かすかは読者に委ねられているが、これからの時代の行政政策、環境工学、都市工学、経営戦略、まちづくり、デザインなどの多様で多元的な文化生産や価値創造の根源的なものを解明した貴重な書である。
2015年12月29日に日本でレビュー済み
どこかブログで、こんな先見の明が記された本が数十年前に書かれていたのかと絶賛していましたが、いま国家が妙にあやしいとき、場所が自立して環境政治・環境経済をなすべきだと論じた本書は、その価値が現在においてさらにたかまっています。環境人間学と環境客観主義への批判として(この図式はブルデューの主観的人間主義と客観的客観主義への批判をうけてなされている)、環境とは自分が立っている場所=地球であって、そこに生きる植物・動物系、水系が場所意志を出現させている、人間はそれを的確に「判断」してこそ、環境へとりくめる、地球にやさしくとか、あるいは水が地球から枯渇するなどの脅し-- -の主観主義・客観主義の二元論では環境への取り組みはなされないと論じています。西田哲学がふまえられています。場所の西欧哲学系譜学はケーシー『場所の運命』(新曜社)が、西欧哲学のなかで場所概念が空間概念へと転じられていく系譜を明示していますが(この書も山本が出版企画していたよう)、それに先立って論じられたものです。また、経済均質空間としての環境論ではだめだというのは、イリイチのジェンダー論からきている論です。場所には、歴史文化が蓄積されており、かつその場所ごとの「文化技術」が道具に現わされている、場所限定経済がなされる場所政治こそが肝要だというのです。山本理論は、文化技術論として示されていたものが、ここで場所論として、エコロジー批判もかねて独自に明示されました、主語的な人間意志論を述語意志=場所意志へ転換する考えからですが、西田が論じていた場所論を環境設計へとりこもうとしています。十勝や池田町での山本の経験からも位置づけられ、たんなる理論ではないですね、また住宅論も展開されています。
その後、場所の「述語意志」という述語理論が山本理論の基盤をなしていくのですが、このころはメキシコのバナキュラー存在が、場所論へと構成されたものだと言っています。その後の場所共同幻想の『国つ神論』とあわせていくと、吉本幻想論と環境論との関係の重要な意味がみえてきます。
世界で、場所論は多様に開花しているのですが、日本ではなおざりにされている、山本はその世界水準から論じていますが、西田—山本理論から、わたしたちは考えを新たにして、場所にとりくむことでしょう。意志が、人間主体ではない、場所にあるとするのは、どこかフーコーの意志論の隠れた潜在力をひきだしているのも、近代人間学大系を転換しないと環境論は成立しないという主張が、本書で示されています。環境は、環境商品アレンジではないということですし、測定不可能な科学閾にあるということです(矢野雅文「日本を変える」)。山本の文化論は、技術論であるのも三木清がふまえられているためですが、唯物論ではありません。エピステモロジー論を付記しているのも、環境学部形成の難しさに直面させられたかららしい、構想案が示されて興味深いです。環境論を自然科学においていては場所環境が設計されないという論点です。
ふりかえってみると、山本理論の本格的な初発は、西田哲学とフーコー哲学との交叉からなされた「場所」論のようですね。山本による西田「場所」論の詳細なコメント・ノートがありましたが、場所が資本であるということが論述されています。山本理論は、場所論と資本論とが政治=経済の軸にすえられており、社会—商品の政治経済軸をそれで転換しようとしているのだとつかめました。地方の時代、本書はおおきな指針になるのではないでしょうか。「地方」「地域」という概念を消して、「場所」にせねばならないと山本は言っていますが、同感です。
その後、場所の「述語意志」という述語理論が山本理論の基盤をなしていくのですが、このころはメキシコのバナキュラー存在が、場所論へと構成されたものだと言っています。その後の場所共同幻想の『国つ神論』とあわせていくと、吉本幻想論と環境論との関係の重要な意味がみえてきます。
世界で、場所論は多様に開花しているのですが、日本ではなおざりにされている、山本はその世界水準から論じていますが、西田—山本理論から、わたしたちは考えを新たにして、場所にとりくむことでしょう。意志が、人間主体ではない、場所にあるとするのは、どこかフーコーの意志論の隠れた潜在力をひきだしているのも、近代人間学大系を転換しないと環境論は成立しないという主張が、本書で示されています。環境は、環境商品アレンジではないということですし、測定不可能な科学閾にあるということです(矢野雅文「日本を変える」)。山本の文化論は、技術論であるのも三木清がふまえられているためですが、唯物論ではありません。エピステモロジー論を付記しているのも、環境学部形成の難しさに直面させられたかららしい、構想案が示されて興味深いです。環境論を自然科学においていては場所環境が設計されないという論点です。
ふりかえってみると、山本理論の本格的な初発は、西田哲学とフーコー哲学との交叉からなされた「場所」論のようですね。山本による西田「場所」論の詳細なコメント・ノートがありましたが、場所が資本であるということが論述されています。山本理論は、場所論と資本論とが政治=経済の軸にすえられており、社会—商品の政治経済軸をそれで転換しようとしているのだとつかめました。地方の時代、本書はおおきな指針になるのではないでしょうか。「地方」「地域」という概念を消して、「場所」にせねばならないと山本は言っていますが、同感です。