副題「国民国家と文化装置としての古典」
万葉集が近代日本の文化装置として国民歌集の地位を与えられ、近代天皇制に適合する伝統としてみなされるようになる過程を検証している。
安倍首相が新元号を「国書」から選ぶべしと指示したことから、興味を持ち読んだ。論旨は明快で、古文・漢文に全く素養のない私でも興味をもって読むことができた。中高の国語教員、短歌に興味のある方、文化史思想史に興味のある方は絶対おすすめです。
主要な主張は次のようなものです。
日本の古典において、純粋な「国書」などというものはそもそも存在しない。(「万葉集」の向こうに「文選」が透けて見える。) 万葉集が①天皇から庶民までの謡を集めた②民族的文化基盤から生まれた、という通説は誤りである。明治政府が、日本国民・日本民族の一体性の典拠として古事記や万葉集を利用したのである。万葉集が国民歌集の地位を与えられ、そのことによって万葉集が日本民族合一性の精華として逆立ちして意識されるようになったのである。1890年代のナショナリズムの勃興と教育勅語による「国体」観念の徹底にあわせて、古典歌集の大量に出版され、とりわけ万葉集はナショナルアイデンティーを補強する文化装置として機能してきた。国民・民族意識への刷り込みは、学校教育においてであった。教材として選ばれた歌は、天皇を賛美し、天皇は民を思い、防人は妻子をおいて雄々しく戦地に赴くというものであった。教育者かつ歌人であった島木赤彦は、日本国民の精神生活の聖典としての万葉集を喧伝し、教育界におおきな影響を与えた。詩歌・歌謡では、高山樗牛、正岡子規、上田敏、折口信夫、伊藤佐千夫、斎藤茂吉、島木赤彦などが批判の俎上に載せられている。大学においては「和漢文学部」が「和文学科」「漢文学科」へ、さらに「和文学科」は「国史学科」「国文学科」と分割されていった。
古典そして国語教科書のイデオロギー性を、歴史や文化研究の中に置いて議論しなければならないようです。国史が批判されたように、国語学・日本語学の研究もまた批判されなければならないのでしょう。
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万葉集の発明: 国民国家と文化装置としての古典 単行本 – 2001/2/1
品田 悦一
(著)
◆古典と国民国家のふかーい関係◆私たちは「万葉集」についてどういうイメージをもつでしょうか。大多数の人にとってそれは、「天皇から庶民まで」が「質朴な感動を雄渾な調べで真率に表現した」、日本民族が誇る国民歌集というものではないでしょうか。しかし、この大多数のなかで万葉集を通読したことのある人はいったい何人いるでしょうか。ここから著者は、万葉集についての強固なステレオタイプのイメージはいかにして出来上がったかを問い、古典が明治近代の国民国家の文化装置として成立したことを、文学史を博捜して緻密な論理で跡づけます。国文学の世界に新風を吹き込む骨太な書の登場です。著者は聖心女子大学文学部助教授。
- 本の長さ356ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日2001/2/1
- ISBN-104788507463
- ISBN-13978-4788507463
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
万葉集はいかにして「日本人の心のふるさと」になったか? 民族が誇る国民歌集といわれる万葉集。文学史を博捜し、緻密な論理で、国民国家・民族と、文化装置としての古典「万葉集」誕生との不可分の関係を跡づける。
著者について
聖心女子大学文学部教授
登録情報
- 出版社 : 新曜社 (2001/2/1)
- 発売日 : 2001/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 356ページ
- ISBN-10 : 4788507463
- ISBN-13 : 978-4788507463
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,189,418位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 175位万葉集
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年4月30日に日本でレビュー済み
2019年5月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
平成に次ぐ元号「令和」について、政府は、万葉集を出典とするとされ、
その事実は、多くの日本人によって歓迎され、万葉集にも注目が集まった。
18年前に出た本書が、新装版として再び刊行されたのも、そのブームゆえだが、
本書はお祭り騒ぎの根底にある「そもそも」を問い直した、異色の「あやかり本」だ。
▽天皇から庶民まであらゆる階層の国民の真実の声がくみ上げられている
▽貴族と民衆の歌が同一の民族的文化基盤に根差している
こうしたステレオタイプな「国民歌集としての万葉集」という考え方そのものが、
明治期の文学者たちによって「発明」されたものであることを解き明かしている。
それは、日本が国民国家としてナショナルアイデンティティーの確立を急いだ時代だった。
具体的には、正岡子規、斎藤茂吉、伊藤左千夫、島木赤彦らの活動・著作などを軸に、
万葉集の持つ価値を見いだし、位置づけていく過程を検証している。
論旨明快で、「国民歌集観」という常識の足元が揺さぶられて面白い。
一方、明治の文学者たちの著作の解釈や比較が主体で、行きつ戻りつするので、
この手の文学論(?)を読み慣れない私には、読みやすいものではなかった。
また、大正から昭和にかけて、彼らの「発明」がどのように普及し、定着したのか、
広範な読み手の受容過程についてはほとんど、言及されていないのは、
むしろそちらを期待して読み始めた身としては、物足りなかった。
著者は、「国民歌集観などというものは、生活の中には存在しない」という
短大生のレポートを紹介している。
良くも悪くも、近代日本的な「国民歌集観」は、世代が下るほど、薄れていると感じる。
令和改元によって再び万葉集が注目を集め、政府も「国民歌集観」を再利用した。
若い世代も再び「国民国家観」に染まるのか、過去の経緯も飲み込んで受け入れるのか、
あるいは一過性のブームに終わって関心が薄れていくのか。
日本と古典の来し方行く末を考えさせられる、絶好のタイミングでの復刊だった。
その事実は、多くの日本人によって歓迎され、万葉集にも注目が集まった。
18年前に出た本書が、新装版として再び刊行されたのも、そのブームゆえだが、
本書はお祭り騒ぎの根底にある「そもそも」を問い直した、異色の「あやかり本」だ。
▽天皇から庶民まであらゆる階層の国民の真実の声がくみ上げられている
▽貴族と民衆の歌が同一の民族的文化基盤に根差している
こうしたステレオタイプな「国民歌集としての万葉集」という考え方そのものが、
明治期の文学者たちによって「発明」されたものであることを解き明かしている。
それは、日本が国民国家としてナショナルアイデンティティーの確立を急いだ時代だった。
具体的には、正岡子規、斎藤茂吉、伊藤左千夫、島木赤彦らの活動・著作などを軸に、
万葉集の持つ価値を見いだし、位置づけていく過程を検証している。
論旨明快で、「国民歌集観」という常識の足元が揺さぶられて面白い。
一方、明治の文学者たちの著作の解釈や比較が主体で、行きつ戻りつするので、
この手の文学論(?)を読み慣れない私には、読みやすいものではなかった。
また、大正から昭和にかけて、彼らの「発明」がどのように普及し、定着したのか、
広範な読み手の受容過程についてはほとんど、言及されていないのは、
むしろそちらを期待して読み始めた身としては、物足りなかった。
著者は、「国民歌集観などというものは、生活の中には存在しない」という
短大生のレポートを紹介している。
良くも悪くも、近代日本的な「国民歌集観」は、世代が下るほど、薄れていると感じる。
令和改元によって再び万葉集が注目を集め、政府も「国民歌集観」を再利用した。
若い世代も再び「国民国家観」に染まるのか、過去の経緯も飲み込んで受け入れるのか、
あるいは一過性のブームに終わって関心が薄れていくのか。
日本と古典の来し方行く末を考えさせられる、絶好のタイミングでの復刊だった。
2022年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現在放送中のNHKラジオ古典講読を聞いて初めて万葉集を手に取りました。初老ですが、この年まで万葉集に一度も触れたことがなく、学生時代の古典の成績はいつも赤点という、前提知識もほとんどない者ですが、万葉集を楽しく読み始めていました。
そうした中で、たまたまこちらの本を見つけ読みましたが、読後感が大変重く、表現できない違和感を感じました。国威発揚のための万葉集発明であり、それは悪であるという前提条件に基づく証拠集めのようなご本の内容のように感じました。国家が国威発揚のため文化や芸術を利用することは繰り返されていると思います。しかしそれは果たして国威発揚のためだけなのか。時に著者は国家と同じことをしかねないのではないか、今後の読書方法に示唆をいただきました。
そうした中で、たまたまこちらの本を見つけ読みましたが、読後感が大変重く、表現できない違和感を感じました。国威発揚のための万葉集発明であり、それは悪であるという前提条件に基づく証拠集めのようなご本の内容のように感じました。国家が国威発揚のため文化や芸術を利用することは繰り返されていると思います。しかしそれは果たして国威発揚のためだけなのか。時に著者は国家と同じことをしかねないのではないか、今後の読書方法に示唆をいただきました。
2007年4月15日に日本でレビュー済み
文学的な視点からではなく、日本社会における国家形成において万葉集の果たした働きを政治的・社会的な視点から分析しています。
民族国家として近畿地方に日本国が形成された時期である7Cから現在まで、日本社会において国家という共通概念を作り出す”文化装置”として万葉集が”発明された”という指摘に驚きました。また7Cに生み出された日本国の基本理念の影響を現在の小生の価値観が受けていると思うとなんだか感動します。
中国大陸・朝鮮半島との国際関係が政治的・軍事的に不安定な時期に、日本国・天皇といった装置が作り出されていく様が万葉集から見えてくるという点で、芸術がもつ政治的・時代的な意図というものを考える意味でも面白い一冊でした。
民族国家として近畿地方に日本国が形成された時期である7Cから現在まで、日本社会において国家という共通概念を作り出す”文化装置”として万葉集が”発明された”という指摘に驚きました。また7Cに生み出された日本国の基本理念の影響を現在の小生の価値観が受けていると思うとなんだか感動します。
中国大陸・朝鮮半島との国際関係が政治的・軍事的に不安定な時期に、日本国・天皇といった装置が作り出されていく様が万葉集から見えてくるという点で、芸術がもつ政治的・時代的な意図というものを考える意味でも面白い一冊でした。
2019年7月18日に日本でレビュー済み
本書籍のような「伝統」「古典」「美術」が国民国家形成のために創造されたとする議論の元となった言説は、1983年のホブズボウムらによる『創られた伝統』であり、それ以降に、まるで伝染病のように多発した論調である。日本の古典が、明治以降、近代国家形成のために高々100年前に創造されたいう言説は本当に信じてよいのだろうか。例えば、『源氏物語』の注釈本は鎌倉時代初期には存在するし、室町期には連歌師の基礎知識として、そして明らかに「カノン」として市井の知識人たちの常識・教養となっていた。江戸期初期には木版刷りの『万葉集』『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』など、主要な古典文学が多数刊行され、識字率の高かった江戸では、町人の多くが購読していた。これらのテキストをもとに、平安期以来、絵画化が行われ、その作例は多数現存している。ニューヨーク・メトロポリタン美術館でジョン・カーペンターらによって開催された「The Tale of Genji: a Japanese Classic Illuminated」展は、そのことを如実に物語っている。ホブズボウムらによる『創られた伝統』の冒頭で、ホブズボウム自身が明確に述べているように、伝統には実際に古代から存在している伝統がある一方、1870年代から1930年代までに国民国家形成のために、意図的に創作(発明)された「伝統」があり、この後者が問題であるとしている。ところが、『創られた伝統』に触発された研究者の中には、こうした慎重な研究態度を逸脱して、「古典」や「伝統」や「美術」は全て国民国家形成のために発明されたものとして、否定的に述べた言説が横行しているように思われる。同様のことは英国の文化史学者であるピーター・バークが著書『文化史とは何か』において鋭く指摘している。宇宙は人類が「宇宙」という言葉を創造する以前から存在し、地球も人類が「地球」という言葉を発明する以前から存在するし、人間だって、人間が「人間」という言葉を創造する以前から存在していた。ミッシェル・フーコーの言説を過信してはならない。万葉集などが古典(カノン)として近代になって創造されたというのは、こうした短絡な思考の典型ではなかろうか。有名大学の教授という肩書に惑わされてはならない。こうした言説が発表されたのが、アメリカではクリントン政権下で日本パッシングの頃のことであり、アメリカが中国を強化させようとしていた時代であった背景は興味深いし、日本では河野談話(1993)、村山談話(1995)後のことであることを時代背景として忘れてはならない。これは『創られた伝統』という、ひとつの『メタヒストリー』である可能性を、研究者は考えておく必要がある。
2004年1月17日に日本でレビュー済み
万葉集の作品個々の評価をいったん脇に置いて、なぜこの歌集が「国民の古典」とされるようになったのか、その歴史的背景に焦点を定めて論じたもの。近代日本国家が「日本」の詩歌を創出しようと試行錯誤を重ねた果てに、「万葉集」を「国民の歌集」として発明した過程が説明されている。著者の品田氏によれば、国文学研究ではこのようなアプローチは少なかったという。文章も出来る限りわかりやすく書かれており、自らを開拓者に擬する彼の意気込みが伝わってくるようだ。したがって文化研究に多少詳しい者がこの本を「よくある国民国家論の一パターン」との評価で片づけるのはやや酷だろうし、少なくとも私には充分にスリリングで、面白い本だった。内容としては既に『創造された古典』にも発表した論文に基づいており、そちらも併せて読むとなお理解が深まるのではないかと思う。