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現代思想 2016年1月臨時増刊号◎総特集 見田宗介=真木悠介- 未来の社会学のために (青土社) ムック – 2015/12/12
反知性主義者、人文学の危機・・・・
現代の諸問題は、見田が一連の著作で取り組んだ
問題の発展形として考えることができる。
本特集では、見田=真木の思想の根源的な問いを探求し、
それを継承、発展させていくための試みである。
目次*
【討議】
見田宗介+加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」
【テクスト】
現代社会はどこに向かうか(二〇一五版)
【エッセイ】
上野千鶴子/酒井啓子/吉川浩満/三浦展/上田紀行
【論考】
大澤真幸/内田隆三/北田暁大/吉見俊哉/成田龍一
森政稔/江原由美子/佐藤健二/奥村隆
今福龍太/若林幹夫/小形道正/江原由美子
浅野智彦/片上平二郎/小澤考人
【附録】
見田宗介「軸の時代I/軸の時代II:森をめぐる思考の冒険」
- 本の長さ286ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2015/12/12
- ISBN-104791713109
- ISBN-13978-4791713103
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2015/12/12)
- 発売日 : 2015/12/12
- 言語 : 日本語
- ムック : 286ページ
- ISBN-10 : 4791713109
- ISBN-13 : 978-4791713103
- Amazon 売れ筋ランキング: - 451,352位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 81,825位雑誌 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
文筆家、編集者、ユーチューバー。1972年3月、鳥取県米子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。晶文社にて編集業にも従事。関心領域は哲学・科学・芸術、犬・猫・鳥、デジタルガジェット、映画、ロックなど。哲学愛好家。Tシャツ愛好家。ハーレーダビッドソン愛好家。卓球愛好家。
主な著書
『哲学の門前』(紀伊國屋書店)
『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)
『理不尽な進化 増補新版──遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)
『人文的、あまりに人文的──古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(山本貴光との共著、本の雑誌社)
『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。──古代ローマの大賢人の教え』(山本との共著、筑摩書房)
『脳がわかれば心がわかるか──脳科学リテラシー養成講座』(山本との共著、太田出版)
『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)
主な訳書
『先史学者プラトン──紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(山本との共訳、朝日出版社)
『MiND 心の哲学』(山本との共訳、ちくま学芸文庫)
プロフィール
http://clnmn.net/works
【自己紹介】1971年神奈川県生まれ。東京大学情報学環教授(社会学、メディア史)。博士(社会情報学)。東京大学文学部社会学科、同大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、博士課程退学。東京大学社会情報研究所助手、筑波大学社会学系講師、東京大学社会情報研究所助教授、同大学情報学環准教授を経て現職。現在は、アメリカ社会調査史を中心に、調査という社会的行為の歴史をたどり返している。ドイツの戦時期にも手を付けないとといけないとびびっています。最新刊は『社会制作の方法』勁草書房。なんとか春までには有斐閣から社会学の教科書(というか講義録)を出したいと思っています。
カスタマーレビュー
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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後年、見田石介氏の事績と宗介氏の学問との関連を点検する必要があり、石介氏編集の『理論』の全篇調査を行いました。そのときに、石介氏の捨て身の研究姿勢を知りました。この人、学問することにより貧窮に陥ることは、なんでもなかったのです。そして、それは家族として宗介氏が巻き込まれる生活状況でもあったのでしょう。『理論』最終号(1950年6月号)には、発行機関であった日本評論社の経営不振による発行終了に対する無念の気持ちが綴られていました。
宗介氏の母上に関しては、音楽界の資料整理のなかで、『月刊樂譜』のコハンスキ送別特集号(1931年1月号)に記録がありました。宗介氏の著作のどこかに「幼くして母を失ったわたしと妹」という表現があったと思います。母上ご自身の手になる文章と写真とがありましたが、子息の面影が確かにありました。
先生、さようなら。
本特集は2015年ではなく、2016年の一月号として発売されている。
「現物」の商品タイトルはしっかり2016年となっているし、何より表紙を見れば一目瞭然である。アマゾンの品質管理の程度がうかがえる。
岩波新書以外はあまり、読んでいません。
見田宗介の人となりが見えるような文章を、本誌等から引用します。
●「討議 現代社会論/比較社会学を再照射する 加藤典洋×見田宗介」(P.8 ~ P.28)
「加藤 今お話を伺っていると、見田さんの物の考え方は、ちょうどヨットのようです。ヨットというのは、風がどのように
吹いても自分で帆の方向を変えて、自分の行きたい方向に進む。逆風でもそれをうまく受けて、船と帆の向きの組み
合わせによって、前に進むことができるのですね。見田さんのものの考え方にはそういった機構があると思います。
あるいは仮象を偽物と考え真に還元させるというのではなく、その仮象性、過ち、偶然の揺らめき自体を喜ぶ、楽しむ
というような原的なポジティブ性が備わっていると思います。」(P.20)
●「見田宗介『近代日本の心情の歴史』を読む(上) 北田暁大」(P.123 ~ P.131)
「見田先生を読み直そうというきっかけは、大学院に入って実際に自分で歴史研究をしなければいけない段になったときに
あらためて読み直す機会があったということなんですが、指導を受けていた吉見俊哉さんがとにかく物凄く見田先生を尊敬
されていたので、あらためて文化分析や現代社会論などを中心に読み返していました。
当時の吉見先生は学生付き合いがいいとはいえず、飲み会に誘っても来ないし合宿もなるべくならやりたくないという
タイプの人だったので -- いま自分自身がそうした教員になっているので気持ちは痛いほどよく分かるのですが(笑)。
-- めったなことでは一緒に飲めませんでした。本当に人生の中で僕は三回ぐらいしか飲んでいないんじゃないでしょうか。
とても希少な機会なのですが、そんな吉見先生が酔うと必ずお話されるのが見田先生の話で、「あの人はすごい。あんな人
には出会ったことはない。天才だ」と仰る。また見田先生から言われたという言葉、「吉見、才能とは執念だぞ」という
のをこれは本当に繰り返しお話になる。そのときの吉見先生がちょっと異常なんです(笑)。
ふだん非常にクールで、そんなに感情の起伏を露わにするかたではないのですが、見田先生のお話をするときだけは本当に
もう目がきらきらして憧れのアイドルについて語るかのようになってしまう。私としてはわりと理論的な水準でしか見田
先生を読んできてなかったので、自分の指導教員、しかもあまりふだん感情の起伏を見せない人がここまで熱く語る見田さん
というのはどこまで凄い人なのだろうと、集中的に大学院入りたての一年生ぐらいのときに出ている本を一挙に読み返すと
いうことをやったわけです。」(P.125)
○「朝日新聞(夕刊) 2016年1月27日(水) 人生の贈りもの -- わたしの半生 見田宗介 第8回」より
「・・・・・
-- ところでこの間、プライベートで変化もあった。
見田 就職した65年に結婚し、3人子供がいたのですが、メキシコから帰国後離婚しました。夫婦仲はよく、何の不満も
なかったんですけど一人旅がしたくなって。その後、2年間旅を重ねて帰国して、「気流」(『気流の鳴る音』
書評者注)を書いた後、再婚。
-- ゼミの聴講生でした。すごい騒ぎだったとか。
見田 そうなの? 全然知らなかった。
再婚した妻との間にも3人子供がいます。父親としての存在感は相当に希薄じゃないかな。子どもが近所の人に
「お父さん何をしているの?」と聞かれて、「おヒゲを剃ってる」と言ったので、床屋さんだと思われていたことも
あった(笑)。子供たちにも放任主義で、僕の本も読んでいないと思う。大学で指導教授に言われて初めて読んだ
らしいですけど。」
「天才」というのは、往々にして、「コマったさん」が多いような気がします。市井の人々や「一般」の人々の考えや感じ方を超越
してしまうのが「天才」でしょうから。周りの人間が煙ったくないはずがありません。信者にはそこがたまらなく素晴らしいので
しょうが(見田宗介教祖に対する信者吉見俊哉みたいに)。
本誌は、見田宗介の弟子等、多彩な顔ぶれですが、師匠の文章を超えるようなものは、見当たりません。大澤真幸や吉見俊哉等の
文章も、内容はともかく、文体については、遠く師匠に及ばないような感じがします。藤田省三の文章は、その内容においても、
文体においても、師匠丸山真男に肉薄していたように思いました。
その他、上野千鶴子はばかに冷静な感じです(上野は、見田学派ではないですから、熱狂する理由がありません。フェミニズムに関して
も、江原由美子が言っているように、たぶん、そりが合わなかったと思います。江原の文章のように、当時のフェミニズムを、最終的
に理解したかどうかも怪しいものです。書評者は理解不十分ですが。冷静なのは当然ですね)し、江原由美子の文章も、見田宗介が
イヴァン・イリイチに近かったというようなことが出てきますが、見田宗介の考えや行動を見れば、それも当然かなという感じです。
昔、フェミニズムに、「区別は差別だ」というような標語があったような気がしますが、これは今も違和感を感じています。男と女は
違うのが当然でしょうし、そのように進化してきたのでしょうから。
LGBTについては、当事者主権、マイノリティ尊重という意味では、最近の傾向は良い方向だと思いますが、本当に、環境ホルモン等
の影響は関係ないのでしょうか。それが本当に意図的に伏せられていないのでしょうか(化学製品、化学薬品の大量生産、大量消費は、
目に余るものがありますから。遺伝子組み換え食品・製品も同様です)。
本誌に載っている、見田宗介の文章も、一時の魅力的な文体・内容に比べたら、いまいち、現状肯定的・楽天的な面ばかり強調され、
大言壮語ばかり目立って、見田宗介も年を取ったのかな、という印象は免れません。それに、今の日本や世界の問題もどこかにすっ飛ん
でいるようで、大丈夫かなという感じもします。脳の報酬系の活性化ばかりに気を使っていてもしようがありません。
見田宗介の著作で、かつての魅力的な内容・文体(だと書評者が勝手に思っている)の文章を引用します。
○20世紀思想家文庫12『宮沢賢治 - 存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年2月29日第1刷発行)
の「第4章 舞い降りる翼 第4節 マグノリアの谷 -- 現在が永遠である --」とできれば「あとがき」
○『白いお城と花咲く野原 - 現代日本の思想の全景』(朝日新聞社、1987年4月29日第1刷発行)
の「ガラス越しの握手 -- 関係の客観性の磁場」
上の文章(第4章第4節)は、『宮沢賢治』の中で、際立って素晴らしいと思っている文章ではありません。たとえば、「第3章
第1節 修羅と春」や「第3章 第3節 <にんげんのこわれるとき>」や「第2章 第4節 梢の鳴る場所」や「第1章 第4節 修羅」
等がありますが、下の文章の引用を考えると若干、長いかな、と思われますので、短い文章の上記にしました。それなりにまとまって
いますし、マグノリアの花がすばらしいのです。その光景が見えるようです。
また、下の文章も、見田宗介自身の評価では、「わたしの固有の問題意識と対象がスパークするようにして書くことができた文章」
(あとがき)ではありません。書評者の個人的な好みです。この文章は、植民地化した朝鮮半島や侵略した中国やそこの人々に対する
「戦後責任」の取り方を教えてくれた文章です。これと似たような趣旨の文章が、昨年末の朝日新聞に出ていました。
「戦後生まれの戦争責任は 豪の歴史学者、テッサ・モーリス=スズキさんに聞く 朝日新聞デジタル 2015年12月25日05時00分」
○『宮沢賢治』「第4章 舞い降りる翼 第4節 マグノリアの谷 -- 現在が永遠である --」全文
「宮沢賢治の生涯は「挫折」であったとひとはいう。賢治自身が「半途で倒れた」という以上それは正しいだろうし、わたし
もそのように書いてきた。けれどもいったいどこに到達すれば挫折ではなかったというのだろうか。あるひとは賢治が革命
の思想に到達しなかったから挫折だという。けれどもそれじたい挫折でなかったような革命がこれまであっただろうか。
あるひとはまた賢治じしんが、十一月三日の手帳に書きつけたことを生きられなかったところからその生涯を挫折だという。
けれどもそこにその生のうちに、到達した生涯というものがあっただろうか。わたしたちがこの生のうちになしうること
とは、力尽くさずして退くことを拒みぬくこと、力及ばずして倒れるところまで到りぬくことのほかには何があろうか。
賢治の若いころの断片『峯や谷は』には、賢治の固有の風景ともいうべきものが描かれている。
峯や谷は無茶苦茶に刻(きざ)まれ私はわらじの底を抜いてしまってその一番高いところから又低いところ又高い
ところと這(は)ひ歩いていました。
雪がのこって居てある処(ところ)ではマミと云ふ小さな獣(けもの)の群が歩いて堅(かた)くなった道があり
ました。
この峯や谷は実に私が刻んだのです。そのけわしい処にはわが獣のかなしみが凝(こ)って出来た雲が流れその谷底
には茨(いばら)や様々の潅木が暗くも被(かぶ)さりました。
後年になって賢治がこの断片を展開して完成した短編『マグノリアの木』では、「わたし」にあたる諒安(りょうあん)が
この同じ霧の底をゆき、険(けわ)しい山谷の刻(きざ)みを渉(わた)って歩きつづける。
もしもほんの少しのはり合で霧を泳いで行くことができたら一つの峯から次の巌(いわお)へずゐぶん雑作(ぞうさ)
なく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪い大きな彫刻の表面に沿(そ)ってけはしい処ではからだが燃えるように
なり少しの平らなところではほっと息をつきながら地面を這わなければならないと諒安は思ひました。(略)
何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
あるところの「少し黄金(きん)いろ」の枯草のひとつの頂上に立って、諒安がうしろをふりかえってみると、<そのいち
めんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いてゐるのでした。>マグノリアの花は至福の花である。
マグノリアはかなたの峯に咲くのではない。道のゆく先に咲くのではない。それは諒安が必死にあるいてきた峠の上り下り
のそのひとつひとつに、一面に咲いているのだ。
宮沢賢治はその生涯を、病熱をおしてひとりの農民の肥料相談に殉(じゅん)じるというかたちで閉じた。このとき賢治の
社会構想も、銀河系宇宙いっぱいの夢の数々も、この一点の行為のうちにこめられていた。りんごの中を走る汽車である。
いまここにあるこの刻(とき)の行動の中に、どのような彼方も先取りされてあるのだ。
賢治はその詩を創作の順番に配列していたが、最初の詩集の最初の詩篇は『屈折率』と題されていて、こういう詩であった。
七つ森こっちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮(ちぢ)れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫(きゃくふ)のやうに
(またアラッディン 洋燈(ラムプ)とり)
急がなければならないのか
<わたくしはでこぼこ凍(こお)ったみちをふみ/このでこぼこの雪をふみ>と、くりかえしたしかめている。あれから
賢治はその生涯を歩きつづけて、いくらか陰気な郵便脚夫のようにその生涯を急ぎつづけて、このでこぼこの道のかなたに
巨(おお)きな場所があるようにみえるのは<屈折率>のために他ならないということ、このでこぼこの道のかなたには
ほんとうはなにもないこと、このでこぼこの道のほかには彼方などありはしないのだということをあきらかに知る。
それと同時に、このでこぼこの道だけが彼方なのであり、この意地悪い大きな彫刻の表面に沿って歩きつづけることで
はじめて、その道程の刻みいちめんにマグノリアの花は咲くのだということでもある。」
○「あとがき」抜粋
「この仕事をとおしてわたしが考えてみたいと思っていたのは、人間の<自我>という問題、つまり<わたくし>という
現象は、どういう現象であるのかという問題である。第一章ばかりでなく、この本の本論の四つの章は、すべてこの問題を
追いつづけてゆくというかたちで展開されている。
ある人間が何を見てきたか、何を生きたか、何を生み出したかということは、その人間が自分で意識して考えたこと、
あるいはあるべき自分の姿として書きつけたものごとよりも、はるかに豊かなものである。近代日本の<自我>の可能性と
限界の測定という当面の作業にとって、もっと直接に作品の中に主題化されていそうな漱石や泰淳ではなく賢治をはじめに
とりあげたのは、表現という氷山のこの下の部分の巨大さの予感のごときものに魅(ひ)かれてしまったからである。
わたしはこの本を、ふつうの高校生に読んでほしいと思って書いた。<20世紀思想家文庫>のほかの本とちがって、
「エピステーメー」とかそのほかの現代思想の用語を、読者がはじめからしっているものとしては書かなかったのもその
ためである。じっさいには、ふつうの高校生が読むにはそれでもむつかしすぎる、という批判がよせられるだろう。
やさしく書くことで、わたしが言いたいと思っていることの核心をうすめることはしたくなかったからである。ただ、
わたしじしんはこの本を、とくべつな前提知識はなくても、人生と世界にたいする鮮度の高い感受性と、深くものごとを
考えようとする欲望とだけをもったふつうの高校生たちに、(そしてだれでもの内部にあって、その死の日までいきいきと
成熟をつづけてゆくようなこの感受性と欲望たちに、)よびかけるつもりで書いたということだけをここには記しておきたい
と思う。
この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、
おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちて
あるのだ。
そしてこのような様式と方法自体が、<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を
獲得するということという、この仕事の固有の主題と呼応するものであることはいうまでもない。
それでもわたしの体質のためか、この仕事もなお骨ばったものとなってしまった。この書物を踏み台として、読者がそれぞれ、
直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それで
いいと思う。
・・・・
1984年1月
見田宗介 」
この本に触発されて、ちくま文庫の『宮沢賢治全集』をほぼ全て(「書簡集」と「農民芸術概論等」はまだ未読)と、天沢退二郎や
入沢康夫、中村稔、菅谷規矩雄等の賢治論を読みましたが、この見田宗介の「宮沢賢治」論に匹敵するものはありませんでした。
その後も、続々と、「賢治論」は出ているようですが、あまり食指は伸びません。今年は宮沢賢治生誕120年のようですので、また、
様々な賢治論が出てくるのでしょうか。
やはり、見田宗介と宮沢賢治は、似ていると思いますね。見田宗介は結婚して、子どももいるようですが、話を聞いていると、旅に
ふらっと出かけたり、子供の面倒はほとんど見ない、確かに、大人のやることとしての、子作りと生計を営むことはやっているよう
ですが、それを含めても、極めて宮沢賢治に似ているように感じます。自然(人間を含む)・大地・宇宙等との交歓・交感する能力
についても近似している感じがします。「類は友を呼ぶ」ですね。
○『白いお城と花咲く野原 - 現代日本の思想の全景』の「ガラス越しの握手 -- 関係の客観性の磁場」全文
「 1986年11月28日
『朝日ジャーナル』11月20日臨時増刊号は、「AJノンフィクション大賞」の優秀作6編をまとめて掲載している。
『文藝春秋』12月号も「大宅壮一ノンフィクション賞」を発表している。
大宅章受賞作は杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋)である。5人の選考委員がはじめから全員一致で、選考委の柳田
邦男、立花隆が共に「十年に一度」の逸材であるとしている。
AJ大賞の優秀作は、姜信子「ごく普通の在日韓国人 -- 24年の総決算」、井上真「ニカラグア -- 小さな国の
いのちの革命」、玉井道「シフトチェンジ 無手勝手」、横田一「追跡・『石垣島新空港』の正体」、近藤次郎
「コルチャックの生涯」、池田直彦「イラワジ河」の6編である。(大賞は同誌連載中のふくおひろし「たった一人の
革命」)。
8編の作品についてすこしずつ、軽快なタッチで紹介するというかたちで責務を果たそうと考えていたのだけれども、姜の
記録と、これに対する宗秋月の、万感を込めた痛烈な批評というべきコメント「若者よ、偏狭と呼ぶなかれ、
わが贈る言葉を」との応酬は、ひとつひとつ解きほぐしてゆかなければならない重い思考の連鎖をわたしに強いることに
よって、はじめの横着な計画を砕いてしまった。
姜の自伝的記録自体はむしろ軽快なものである。重い主題もいくつかふれられているが、これらの重い主題にふれるこの
三世の態度の軽快さ、のびやかさが新鮮であるような作品である。そしてこの軽快さ、のびやかさ、「素直であること」
自体を問い返すというかたちで、宗秋月の重い批評は、対置されている。
姜信子は1961年生まれ、「新人類」とよばれる世代の在日三世である。自分は日本人でも韓国人でもない、<新人類>
だと感覚している。コピーライター、プランナーの仕事をしながら、産休中にこの原稿を書いた。昨年大学を卒業して
から、就職、結婚、出産と「人生の一大事を立て続けに経験した」。
日本人との結婚の婚姻届の手続きのわずらわしさに、はじめてこれは「国際結婚」なのだと気付かされたほど、「感覚は
日本人に近くなっている」。子供のころ、おひな祭りや七五三をやらない理由として母親が、「うちは韓国人だから」と
いっても、「こりゃ損だな」と思う一方、「私って、外国人なんだわ、と子供っぽい喜びを感じている」。家に来る人に、
タンスの引き出しから「外国人登録証」をひっぱり出して「おばさん、私、外国人なんだよ、ホラ見て」という。
「母が、烈火のごとく怒って外人登録証をとりあげ」、彼女をそこからつまみ出す。
大学5年目に朝鮮語を習いはじめるが、「一緒に勉強している日本人学生の方がよっぽどうまい」。英語よりもドイツ語
よりもとっつきにくく感じる。
けれども原付自動二輪の試験の受付で、「外人登録証」を携帯していないこと位でどなられたりして、突然屈辱と怒りの
感覚に投げ返される。就職は希望していた新聞社を結局あきらめることになる。いきさつは詳記してあるが、実質的には
民族差別のためである。
こういう現在の日本の社会を批判すると同時に、姜は在日韓国人社会の中での、過剰な「民族」意識にもいらだっている。
「『民族』『民族の誇り』といういかにも高尚で尊く響く言葉に酔った論議が、なんんと多いことか。それをどう考え
ようと個人の勝手ではないか。個人の思想の領域の問題ではないか」。
宗秋月はコメントの中で、こういう姜のナイーブさを批判している。「多様さを認めあえない排他意識が先の戦争であり、
何故、在日があるかの自明の理でもあるのだ。在日は列島に存在する限り永劫に、その理を問い続ける存在である」。
「消してならないのは、本国との同時代感なのである」と。
姜は自分を「ごく普通の在日韓国人」として書いている。宗はいやちがう、姜はめぐまれたエリートだという。姜が自分
を「普通の」と規定するとき、そこには、「民族」とか「国籍」というものの過剰な意味の重みのようなものから自由に、
ひとりの生活する人間として、のびのびと普通に生きたい、という在日の若い世代の、ねがいと主張がこめられている
ように思う。
わたし自身の感覚としては、「民族」というものからできるだけ自由に生きたいという姜やその同じ世代の日本人たちに、
まったく共感する。 -- けれどもこのことを、日本人であるわたしが、姜や宗にいうことはできないのである。
それは資格がないからだ。「民族」から自由でありたい、というわたし自身の思想を、もしも、不当に民族性を奪われて
きた人たちに向かっていうなら、それは関係の客観性の中で、意味が逆転し、日本の最も恥ずべき民族主義者の言葉と
同じベクトルを持ってしまうのである。
関係の磁場がことばの意味を逆転するのだ。
<関係の客観性>とは、なにか抽象的な倫理ではない。たとえばそれはわたしたちの父祖が、在日韓国人、朝鮮人の父祖
を連行してきた侵略者と同じ民族であるといった、歴史的・民族的な「連帯責任」によるのではない。(ある人の父親が
たとえ殺人者であったとしてもその人個人とは関係のないことであり、その人が肩身の狭い思いで人生を生きる必要は
全くない。父祖の罪をはっきり認めて自分は繰り返さなければいいのだ)。問題は現在の責任である。
姜信子が普通に生きたいとねがう。多くの在日外国人、少数民族が「普通に生きる」ことへの道をとざしているのは、
私たち自身が現在織り上げている日本の社会と国家、たとえ個人的には反対であれ、少なくとも力不足のために未だ一掃
することのできないでいる差別の実質のためである。それは現在わたしたちがやっていること、やっていないこと、
充分にやりきれていないことへの現実的な責任であって、先祖の行為への観念的な「負い目」というようなものではない
のだ。
わたしやわたしより若い世代の日本人の多くは、「民族」などもういいじゃないか。個人として、人間として、生命と
して、宇宙の存在として、自在に生きたい、普通に生きたいとねがっている。姜もまた、自分の好きな「この一冊」と
して、ヘレン・ワンバッハの”LIFE BEFORE LIFE”を挙げ、この本が「偏狭な民族観など軽く吹きとばします」と言って
いる。
けれどこの呼応する声と声とを、透明なつめたい壁がはねかえす。まっすぐに届いてほしいことばを、関係の客観性の
磁場がねじまげる。70万余の姜たちを普通に生きさせないでいる関係の実質の壁を、わたしたち自身の側から破砕しつく
すことのできる日までは、素直に生き交わしたいという在日外国人たちの世代と、日本人たちの世代の思いは、ガラス戸を
へだてた手と手のように、今すぐにでも届きそうにみえてたがいに届かない。」
「傍点」がうまく付けられませんので、文意が多少違ってきているかも知れません、悪しからず。しかし、「思えば遠く来たもんだ」
です。ほぼ30年前の文章ですが、今では、この文章の中の「日本の最も恥ずべき民族主義者」が首相をやっているのですから。その
首相が、謝罪はもう終わりだと言って、日韓合意を取り付けました、当事者を置き去りにして。