本書は新実在論中心の総展望と言ってよいだろう。中でも近藤和敬氏の論文「メイヤスーとバディウー真理の一義性について」を興味深く読んだ。この論文を理解するためには、バディウの近著『推移的存在論』とメイヤスーの『有限性の後で』、『亡霊のジレンマ』を読みこなす必要があるだろう。これらの書物に親しんでいない読者は、自分も含めて理解困難な論文であると思われる。
メイヤスーの主著『有限性の後で』の序文をバディウが執筆していることから、この二人には師弟関係がある。バディウが数学的存在論の立場にたって哲学を論じるのに対し、メイヤスーは新実在論の立場にたつ。メイヤスーのバディウ批判が論点の中心になるが、哲学的真理を数学的集合論から論じるバディウをメイヤスーが批判する。ところで、バディウの主著『存在と出来事』の邦訳書はまだ出版されていない。かつてある出版社がこの本の訳書を近刊として出版予定であることを宣伝していたが、なぜか出版は取り止めとなった(その理由について出版社は公表していない)。ダイジェスト版の『哲学宣言』と今回『推移的存在論』が出版されたばかりである。主著の邦訳が出版されない理由は、バディウの数学的存在論が難解で、集合論へ多少なりとも習熟していなければ、翻訳が難航するのは間違いないからだ。英語版には詳しい解説が付けられ、この本で何とか読むことは可能である。しかし、主著が翻訳されず、解説書はおろか、日本人の手になる入門書すら一冊も出版されていない現状である。これではバディウについて一般読者が何も知らないのはやむを得ない。バディウ思想に関する入門書としては、バディウのアンソロジーの英語版の『無限思想(infinite thought)』があり、英訳者による序論は、バディウの数学的集合論について簡潔に触れていて、格好のバディウ入門となっている。まだの人は参照されたい。新実在論については、メイヤスーの他にハーマン、マルクス・カブリエルの主著が邦訳されているので、その思想を知ることが出来る。
バディウとメイヤスーの共通点は、事物と言葉のみで哲学を語るには十分であると考え、哲学的真理を「多」と見なすことである。そして「多」である真理が生まれる場として「無限」を想定する。この「無限」を表現するのに、哲学的言語や詩的言語が用いられてきたが、バディウは数学的言語を用いる。つまり、数学的集合論 (ツェルメロ・フランクル公理選択理論)を用いて数学的無限を表現する。しかし、数学的言語は記号であり、要素間の関係性や量(濃度)を表現するのみである。バディウは、主著『存在と出来事』において、真理が生じる四つの次元として、科学・芸術・愛・政治(毛沢東主義)をあげる。この四つの次元において真理が生まれることが「出来事」なのだ。これがまったく理解出来ない。なぜこの四次元なのか?この問いに対する完全な解答に出会ったためしはない。まずこの問いに答えて欲しいものだ。これがバディウを理解する第一歩なのだ。とりあえず、英語版を読み進めてバディウ思想を自分で理解するしかない。とりとめもないことを書いたが、本書は役に立つ哲学界の現状報告である。
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現代思想 2019年1月号 総特集=現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ― ムック – 2018/12/26
「ポスト・ヒューマニティーズ」誕生宣言
思弁的実在論・新しい唯物論・オブジェクト指向存在論…といった思想の新潮流に
AI・人新世・フェミニズム・加速主義…といった社会の諸問題が絡み合う。
私たちはここに「ポスト・ヒューマニティーズ」の誕生を宣言し、
主要な論者たちとともにそのひらかれつつある未来を展望する。
目次予定*
【討議】
小泉義之+千葉雅也+仲山ひふみ
岸政彦+信田さよ子
【論考】
N・ランド/Q・メイヤスー/G・ハーマン/I・H・グラント/P・ボゴシアン/
R・ブライドッティ/入不二基義/水嶋一憲/篠原雅武/近藤和敬・・・
【チャート】
飯盛元章
思弁的実在論・新しい唯物論・オブジェクト指向存在論…といった思想の新潮流に
AI・人新世・フェミニズム・加速主義…といった社会の諸問題が絡み合う。
私たちはここに「ポスト・ヒューマニティーズ」の誕生を宣言し、
主要な論者たちとともにそのひらかれつつある未来を展望する。
目次予定*
【討議】
小泉義之+千葉雅也+仲山ひふみ
岸政彦+信田さよ子
【論考】
N・ランド/Q・メイヤスー/G・ハーマン/I・H・グラント/P・ボゴシアン/
R・ブライドッティ/入不二基義/水嶋一憲/篠原雅武/近藤和敬・・・
【チャート】
飯盛元章
- 本の長さ310ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2018/12/26
- 寸法14.4 x 1.5 x 22.4 cm
- ISBN-104791713753
- ISBN-13978-4791713752
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2018/12/26)
- 発売日 : 2018/12/26
- 言語 : 日本語
- ムック : 310ページ
- ISBN-10 : 4791713753
- ISBN-13 : 978-4791713752
- 寸法 : 14.4 x 1.5 x 22.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 422,112位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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大阪大学人間科学研究科准教授 大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(人間科学)
1981年埼玉県生まれ。早稲田大学卒業、中央大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(哲学)。現在、中央大学兼任講師。Twitter ID@lwrdhtw
著書に『連続と断絶―ホワイトヘッドの哲学』(人文書院、2020年)、共訳・共著書に『メルロ=ポンティ哲学者事典 第二巻・第三巻・別巻』(白水社、2017年)、主な論文に「他性と実在 レヴィナス、ハーマン、ホワイトヘッドをとおして」(『プロセス思想』第17号、日本ホワイトヘッド・プロセス学会、2016年)、主な翻訳にグレアム・ハーマン「オブジェクトへの道」(『現代思想』2018年1月号、青土社)など。
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2019年1月6日に日本でレビュー済み
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2019年6月4日に日本でレビュー済み
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思弁的実在論とポストヒューマン(これは理性的で特権的なものとされていた従来の「人間」の後ということらしい)についての論考など。これらに含まれる内容について、自分でも漠然と思索したことがある人は多いと思う。例えば数学でもって実在にアクセスできるというのはブラトン主義的数学的宇宙とかマルチバースとかに親和性があると思う。古い哲学に関心が向かいがちな私にとっては現代思想においてそれらが緻密に言語化されていることは新鮮だった。また、加速主義などいくつかの概念についても知ることができる。
ただ、自分なりの思索で世界観を構築したい向きには、必ずしも“細かく流行を追う“必要はないのではいか、とも思われた。そのため、これらの分野についてとりあえず知っておきたい読者にはこれ1巻でも十分な内容である。
ただ、自分なりの思索で世界観を構築したい向きには、必ずしも“細かく流行を追う“必要はないのではいか、とも思われた。そのため、これらの分野についてとりあえず知っておきたい読者にはこれ1巻でも十分な内容である。
2019年1月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「現代思想」は、日頃は読まないが、1月号だけは「総展望」ということで一応目を通しておくことにしてます。表題の「ポストヒューマニティー」というのにちょっと惹かれたというのもありますが^
まだあんまり読んでないが、この「ポストヒューマニティー」というのは、人間枠を超えた「物自体」にアクセスすることができるかどうか、という最近の?テツガク的話題に関するものであると思われ、このところ「数学というものを通してモノ自体としての実在に到達し得る」などと主張する思想家?たちが現れて来ている、という、まあ昨年と似たような方向の話ですね。
「数学」というものをどう捉えるか、というのは哲学にとって結構「根本的」なところにある問題だと思うのだが、私自身の感覚からすると、数学というのは、もともと存在しているなんらかの「実在」というものを探求していくというよりは、「論理」と「(自然な)一般性」というものを導き手として、その歩み自体が自身の構造や「実在」を作り出していく、というようなものではないかな、と思います。
数学は特に「経験」に縛られることはないわけだが、物理学などを通じて、不思議なほど経験的な自然現象を説明し得ている、というのも、論理はもちろん、数学的な一般化の「自然性」というものに関係しているような気がします。
数学においても、ただの無意味な抽象化というのはabstract nothingと言われてむしろ嫌われていて、様々な数学的現象を「自然に」包含するような「抽象化、一般化」のみが淘汰されて残っていく、ということになるわけだが、その「自然さ」というフィット感が現実の世界とのなんらかの「接続部分」になっているのかな、とも思われますね。
ただ数学そのものが「自然」である、というよりは、数学は数学である一つの現実とは独立した「フィクション体系」を作っているのだが、それが周辺部において自然と一部を「共有して」いる、というイメージ。
私の作品と「現実世界」との接続の仕方というのも結構それに似た部分があるのだが、この「現代思想」の論者自身たちも含めてそれに気がつく人はほとんどいないだろうな、という感じで。「現代思想」のこうした「論」自体がそもそも数学というものの信頼性というのを足がかりにしているのであって、そうした「信頼性」自体を自ら創り出すのはなかなか難しいね、というところでデスね
追加
メイヤスー氏の論というのは、何か「相関主義」という地雷原の中をものすごく緊張しながら匍匐前進している、という感じでちょっと痛々しいですね。「人間枠」を脱して「絶対」に至りたい、という志はわかるが、仮にそこに達したとして、それは何か「点」のように小さな、ほとんどそれ自体何ももたらさないような「絶対」でしかないようにも思われます。
そんなことまでするくらいなら、仮に欠損があったとしても、より「人間的な」相関主義で十分なのでは、とも思ってしまいますがね笑
内容的なことについて言えば、メイヤスー氏の「スーパーカオス」にしてもバディウ氏の「純粋な多」にしても、単なる言葉だけであって、現実にそれを「自ら引き受ける」という態度は希薄なようで、それ自体が(装置として)何かの価値があるというよりは、あくまで「相関主義」(バディウ氏の場合は民主的唯物論?)に対抗するためだけの「想定」という印象があります。
これらの立場に立つと果たして「現実」というものがどのように「再構成」されることになるのか、ということについてのアプローチが弱い。バディウ氏は自らの思想的立場からの「小説」なども書いているようだが、それも恐らく単なる「傍観者」的あるいは「解説的」な「世界描写」というものにとどまっているのではないかな、と推察されます(読んでないので断言はできませんが。。)
別に「役に立つかどうか」と言ったことではなく、その思想的枠組みによって個々の事物に対する見方がどのように「転換」するのか、ということについてのイメージがない哲学というのは、結局「専門家」の中だけの「驚き」で終わってしまうのではないかな、と思います。
まだあんまり読んでないが、この「ポストヒューマニティー」というのは、人間枠を超えた「物自体」にアクセスすることができるかどうか、という最近の?テツガク的話題に関するものであると思われ、このところ「数学というものを通してモノ自体としての実在に到達し得る」などと主張する思想家?たちが現れて来ている、という、まあ昨年と似たような方向の話ですね。
「数学」というものをどう捉えるか、というのは哲学にとって結構「根本的」なところにある問題だと思うのだが、私自身の感覚からすると、数学というのは、もともと存在しているなんらかの「実在」というものを探求していくというよりは、「論理」と「(自然な)一般性」というものを導き手として、その歩み自体が自身の構造や「実在」を作り出していく、というようなものではないかな、と思います。
数学は特に「経験」に縛られることはないわけだが、物理学などを通じて、不思議なほど経験的な自然現象を説明し得ている、というのも、論理はもちろん、数学的な一般化の「自然性」というものに関係しているような気がします。
数学においても、ただの無意味な抽象化というのはabstract nothingと言われてむしろ嫌われていて、様々な数学的現象を「自然に」包含するような「抽象化、一般化」のみが淘汰されて残っていく、ということになるわけだが、その「自然さ」というフィット感が現実の世界とのなんらかの「接続部分」になっているのかな、とも思われますね。
ただ数学そのものが「自然」である、というよりは、数学は数学である一つの現実とは独立した「フィクション体系」を作っているのだが、それが周辺部において自然と一部を「共有して」いる、というイメージ。
私の作品と「現実世界」との接続の仕方というのも結構それに似た部分があるのだが、この「現代思想」の論者自身たちも含めてそれに気がつく人はほとんどいないだろうな、という感じで。「現代思想」のこうした「論」自体がそもそも数学というものの信頼性というのを足がかりにしているのであって、そうした「信頼性」自体を自ら創り出すのはなかなか難しいね、というところでデスね
追加
メイヤスー氏の論というのは、何か「相関主義」という地雷原の中をものすごく緊張しながら匍匐前進している、という感じでちょっと痛々しいですね。「人間枠」を脱して「絶対」に至りたい、という志はわかるが、仮にそこに達したとして、それは何か「点」のように小さな、ほとんどそれ自体何ももたらさないような「絶対」でしかないようにも思われます。
そんなことまでするくらいなら、仮に欠損があったとしても、より「人間的な」相関主義で十分なのでは、とも思ってしまいますがね笑
内容的なことについて言えば、メイヤスー氏の「スーパーカオス」にしてもバディウ氏の「純粋な多」にしても、単なる言葉だけであって、現実にそれを「自ら引き受ける」という態度は希薄なようで、それ自体が(装置として)何かの価値があるというよりは、あくまで「相関主義」(バディウ氏の場合は民主的唯物論?)に対抗するためだけの「想定」という印象があります。
これらの立場に立つと果たして「現実」というものがどのように「再構成」されることになるのか、ということについてのアプローチが弱い。バディウ氏は自らの思想的立場からの「小説」なども書いているようだが、それも恐らく単なる「傍観者」的あるいは「解説的」な「世界描写」というものにとどまっているのではないかな、と推察されます(読んでないので断言はできませんが。。)
別に「役に立つかどうか」と言ったことではなく、その思想的枠組みによって個々の事物に対する見方がどのように「転換」するのか、ということについてのイメージがない哲学というのは、結局「専門家」の中だけの「驚き」で終わってしまうのではないかな、と思います。
2019年8月3日に日本でレビュー済み
2018,19年と連続して1月号に信田さよ子さんの対談が掲載されていますが、プロフィールと仕事内容の紹介を充実させてほしかった。