ドゥルーズの感動が伝わる。ドゥルーズがベルグソンを読み、心を動かされた感動が本書にはある気がする。読んでいて、もちろん、ドゥルーズの著作を何冊か読んでドゥルーズに興味をもったものとして、何か親近感が湧く。ベルグソンは人格者としても名が知れているが、人を引きつける魅力もドゥルーズに伝播しているような気がする。
文字のスペースが広く、内容量はページ数よりさらに低く感じるだろう。買って、読む本という気はしないが、難しい文体に頭が疲れたとき読むには最適かと思われます。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
差異について 単行本 – 1989/7/1
ジル ドゥルーズ
(著)
- 本の長さ169ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日1989/7/1
- ISBN-104791750241
- ISBN-13978-4791750245
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 青土社 (1989/7/1)
- 発売日 : 1989/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 169ページ
- ISBN-10 : 4791750241
- ISBN-13 : 978-4791750245
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,908,381位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,279位フランス・オランダの思想
- - 10,757位思想
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.1つ
5つのうち4.1つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
6グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2005年1月11日に日本でレビュー済み
宇野邦一氏の解説によると、著者は映画論の講義で「ベルクソンほど唯物論的な思想家はいない」と語った。これはエンゲルス『自然の弁証法』の「運動の不滅性」、「物質そのものは知覚も認識も出来ない」等の主張と関係付けられなくもないが、宇野氏は本書の内容に沿って、ベルクソンが概念と事物それ自体のニュアンスとの一致を目指した点に、唯物論的なものを見出す(「フォイエルバッハの偉業は、否定の否定に対し、自らを根拠とする感性的肯定を対置したことである」マルクス)。
これをドゥンス=スコトゥスの‘此(これ)性’と比較したり(詳しくは『中世思想原典集成18』参照)、スコトゥスの抽象的な‘存在の一義性’と、ベルクソンが、多様な色を集束した「純粋の白色」に喩えた‘具体的普遍’と対比するのも、ドゥルーズ哲学の理解の上で必要だろう(スコトゥスとベルクソンの共通性については八木雄二『中世哲学への招待』参照)。
概念を一個の事物とする考えは、『千のプラトー』の概念が比喩でないことの裏書である。またこれはスピノザ論の、数学的構造や論理的可能性ではない、物理的強度としての本質や、必然的かつ自由な‘傾向’としての、ライプニッツのモナドに繋がる。著者はこれを‘開始概念’とし、諸差異を肯定する体系、「開放系の理論」(『記号と事件』)へ向かうことになる。
ベルクソンは持続の観念を基礎にしたが、ドゥルーズは『差異と反復』において、ニーチェの‘力’(「空間は力と同義である」)の方を選ぶ。だが彼の思想は基本的にベルクソンの変奏だろう。『意味の論理学』では‘意味’は、ベルクソンの「空間的延長を持たずに伸縮するゴム」といった持続の比喩のように、外延空間上では不可能な「丸い四角」「谷のない山」といった矛盾的‘超存在’とされる。そして「子供が大人に‘なる’(devenir=生成変化)」というベルクソン的観念が、一種の野生化を遂げるのだ。
これをドゥンス=スコトゥスの‘此(これ)性’と比較したり(詳しくは『中世思想原典集成18』参照)、スコトゥスの抽象的な‘存在の一義性’と、ベルクソンが、多様な色を集束した「純粋の白色」に喩えた‘具体的普遍’と対比するのも、ドゥルーズ哲学の理解の上で必要だろう(スコトゥスとベルクソンの共通性については八木雄二『中世哲学への招待』参照)。
概念を一個の事物とする考えは、『千のプラトー』の概念が比喩でないことの裏書である。またこれはスピノザ論の、数学的構造や論理的可能性ではない、物理的強度としての本質や、必然的かつ自由な‘傾向’としての、ライプニッツのモナドに繋がる。著者はこれを‘開始概念’とし、諸差異を肯定する体系、「開放系の理論」(『記号と事件』)へ向かうことになる。
ベルクソンは持続の観念を基礎にしたが、ドゥルーズは『差異と反復』において、ニーチェの‘力’(「空間は力と同義である」)の方を選ぶ。だが彼の思想は基本的にベルクソンの変奏だろう。『意味の論理学』では‘意味’は、ベルクソンの「空間的延長を持たずに伸縮するゴム」といった持続の比喩のように、外延空間上では不可能な「丸い四角」「谷のない山」といった矛盾的‘超存在’とされる。そして「子供が大人に‘なる’(devenir=生成変化)」というベルクソン的観念が、一種の野生化を遂げるのだ。