著者のかつてのフォロワーたちの文章が悉く硬直化していき難解になっていくのをよそに著者の文章は相変わらずの軽さを宿している。例えて言えば著者が偏愛する映画のように、読んでいる間は感動するのだが、読み終わって何が書いてあったのか細部を思い出そうとすると頭の中で上手くまとめられないくらいに軽い。だからここにレビューなど書いてもしょうがないのではあるが、1つだけ気になったことを記しておきたい。
本書は誤植が多いような気がする。しかし本当に誤植なのかどうかが分からない。例えば「小読(P.255)」。勿論その前後に「小説」という言葉があるのだから明らかに「小説」の誤植であると思うのだが、いや、これはひょっとして「小説」という概念を微妙にずらすための著者の造語なのかと勘繰らせるのだ。
では「小問使(P.319)」はどうだろう。勿論これもその前後に「小間使」という言葉があるわけだが、ひょっとすると「小さな問いの使い手」などの意味でもあるのかと勘繰ってしまうのだ。
「文学に踏み込むこむこと(P.359)」はどうだろう。「込む」の繰り返しは若手の小説家を意識してのパロディーなのか?
きりがないのでこれくらいにしておくが、このように著者は読者をまさに「表象の奈落」に突き落としてやろうと密かに企んでいるような気がしてならないのだ。
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表象の奈落: フィクションと思考の動体視力 単行本 – 2006/11/1
蓮實 重彦
(著)
- 本の長さ370ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2006/11/1
- ISBN-104791763084
- ISBN-13978-4791763085
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2006/11/1)
- 発売日 : 2006/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 370ページ
- ISBN-10 : 4791763084
- ISBN-13 : 978-4791763085
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,027,912位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 800位フランス・オランダの思想
- - 1,060位論文集・講演集・対談集
- - 5,682位哲学 (本)
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2007年11月8日に日本でレビュー済み
著者はweb上で公表された06年11月のインタビューで、「私は年齢的には整理期」に入ったと述べている。ここ最近の著者の著作ラインナップには確かにそういう気配が感じられ、著者が永年に亘って格別の関心を寄せてきた書き手たちを論じたものを中心に、ここ30年ほどに発表された文章を再録して編んだ本書も、その一つと言える。
本書中で初出年の最も早いのは、『反=日本語論』(78読売文学賞)を出した77年のフーコー・インタビューだが、40歳を過ぎたとは言え未だ「注目すべき新進批評家」的な位置に留まっていただろう著者の初々しい心の震えのようなものも伝わってきて、微笑ましい思いがする。また78年の「小説の構造」を読むと、既にこの時点で著者の「小説」を扱う視点は完成されていたことがよく分かる。著者にとってその後の活動は、自分の「読み方」が受容されうる土壌を日本に作っていくためのものだったのだと再認識した。
フーコーにおける「繊細さと大胆さとの同時的な肯定」を論じた84年の文章にある、フーコーは言語学に対する姿勢を未決状態に置くことで「それらの繊細な資質の発現を可能性として残しながら、そこに「ディスクール」を導入し、両者の共存不可能性が確立するまでゆっくりと時間をかけて戯れさせてみる」(p103)という件りなど、著者の姿勢そのものではないかと思う。また作品を「物語」と「語り=説話論的な持続」との二重性、その偏差と連関と齟齬において読もうとする同年の「『ブヴァールとペキュシェ』論」は、今読むと「形式性」を強調し過ぎているようにも感じられるが、「テクストは理解の対象ではない」(p208)、「テクスト的問題とは解明されるのではなく、それを契機としてその周囲にこれまで潜在的なものでしかなかった問題体系をそっくり浮上させる機能を帯びている」(p193)というような件りは、蓮實ダナーと思う。
しかし本書で抜きん出た厚遇を受けているのはロラン・バルトで、巻頭と巻末の両方を飾っている。著者はバルトを「繊細な心遣い」(p16)と「くつろぎ」(p324)によって特徴づけつつ、バルト没後の新刊や全集や伝記や講義録やに違和感を表明するのだが(p325)、それを読んでいるとフト、著者は待望久しい「『ボヴァリー夫人』論」を出さないで終えるつもりではないかという疑念が湧いてきた。つまり、散発的に発表されてきた論文だけを残し、総決算そのものは「空虚」とすることにより、これまでの執筆活動の総体を壮大な宙吊り状態に置いてこの世を去るつもりではないか…と。いや、まさか…
本書中で初出年の最も早いのは、『反=日本語論』(78読売文学賞)を出した77年のフーコー・インタビューだが、40歳を過ぎたとは言え未だ「注目すべき新進批評家」的な位置に留まっていただろう著者の初々しい心の震えのようなものも伝わってきて、微笑ましい思いがする。また78年の「小説の構造」を読むと、既にこの時点で著者の「小説」を扱う視点は完成されていたことがよく分かる。著者にとってその後の活動は、自分の「読み方」が受容されうる土壌を日本に作っていくためのものだったのだと再認識した。
フーコーにおける「繊細さと大胆さとの同時的な肯定」を論じた84年の文章にある、フーコーは言語学に対する姿勢を未決状態に置くことで「それらの繊細な資質の発現を可能性として残しながら、そこに「ディスクール」を導入し、両者の共存不可能性が確立するまでゆっくりと時間をかけて戯れさせてみる」(p103)という件りなど、著者の姿勢そのものではないかと思う。また作品を「物語」と「語り=説話論的な持続」との二重性、その偏差と連関と齟齬において読もうとする同年の「『ブヴァールとペキュシェ』論」は、今読むと「形式性」を強調し過ぎているようにも感じられるが、「テクストは理解の対象ではない」(p208)、「テクスト的問題とは解明されるのではなく、それを契機としてその周囲にこれまで潜在的なものでしかなかった問題体系をそっくり浮上させる機能を帯びている」(p193)というような件りは、蓮實ダナーと思う。
しかし本書で抜きん出た厚遇を受けているのはロラン・バルトで、巻頭と巻末の両方を飾っている。著者はバルトを「繊細な心遣い」(p16)と「くつろぎ」(p324)によって特徴づけつつ、バルト没後の新刊や全集や伝記や講義録やに違和感を表明するのだが(p325)、それを読んでいるとフト、著者は待望久しい「『ボヴァリー夫人』論」を出さないで終えるつもりではないかという疑念が湧いてきた。つまり、散発的に発表されてきた論文だけを残し、総決算そのものは「空虚」とすることにより、これまでの執筆活動の総体を壮大な宙吊り状態に置いてこの世を去るつもりではないか…と。いや、まさか…