人工生命、認知の数理モデルの分野を精力的に牽引してきた研究者による待望の単著。生命(≒認知)に対面したとき、自律性を抜きには語れない。それを、主体性と呼んだり、自由と呼んだり、いくつか言い方はあるだろうが、これらの語は一体どのような様相を意味しているのだろうか。本書は、身体性と時間の中に展開される運動を通奏低音にして、自律性という捉えずらい概念を、ひも解いていこうという試みである。
【おすすめの理由】
◆多数の具体的な認知実験にもとづいている
◆そこから引き出される認知の諸側面を明確にし、それぞれについて定性的な数理モデルを提示している
◆文理をまたぐ深い教養に裏打ちされている
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動きが生命をつくる: 生命と意識への構成論的アプロ-チ 単行本 – 2007/9/1
池上 高志
(著)
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2007/9/1
- ISBN-104791763513
- ISBN-13978-4791763511
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2007/9/1)
- 発売日 : 2007/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 240ページ
- ISBN-10 : 4791763513
- ISBN-13 : 978-4791763511
- Amazon 売れ筋ランキング: - 441,232位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 508位物理学一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年8月23日に日本でレビュー済み
タイトルにもなっているダイナミクスこそが生きているということの本質であるという主張には全面的に賛同する。冒頭で語られる中間層の必要性も痛感する。と、すこぶる共鳴して読み進んだが、中盤以降、明らかに文章の質が落ちてしまい、当然、読後感をも損なっている。それでも行間から匂いたつ知の香りは豊かであり、著者の主張を理解したいと心の底から思うのだが、正直、ぼくには理解し尽くせなかった。一読後に著者の論文を渉猟して、理解を進めることができたが、それを要求する書物を「一般向け」とは呼べない。序盤が非常に平易かつ魅力的であるだけに、中盤以降明らかに失速してしまった原因は、筆者の力不足というよりは、執筆や推敲に充分に時間を割くことなく出版してしまったプロセスにあるように思われる。十全に力を注いだ、次の1冊に期待したい。
2022年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人工生命のお話はもういいかなと思いましたが、本質的なタイトルに惹かれて購入してしまいました。
以下↓こんな思索的な本文でした。
本書で問われているのは、生命とは何なのか?自律性はどう形式化されるべきか。・・・
そして、アートという表現手段はこれらの質問に答える上で科学を凌駕するものだろうか。
自分自身が生命であり知覚する主体であるために、生命そのものに過剰な思い入れが生まれ、
それがどんな生命の理論も受け入れがたいということにつながってしまっている。
複雑系という研究分野はこの「分かり方」の模索、道しるべを考えるための研究である。
人工生命は、コンピューターの中の仮想世界における新しい生命の抽象化を提供するものに他ならない。
しかし、それは生命の描き方ではなくて、生命そのものの「分かり方」とならなくてはいけない。
つまり生命を複雑系でわかるのではなくて、生命そのものが複雑系という装置なのだ、ということだが、
そうした言い方では堂々巡りになりかねない。生命であるわれわれが、生命を理解しようとする構図が、
生命そのものの問題でもある。この自分で自分の尾を噛むウロボロスのような、自己言及的な構造は、
簡単に解きほぐせるものではない。ともすれば三流の哲学談義に終わってしまう。
と、人工生命の動きと整合性を持つはずの自らの生命の思索となると、
「道は遠いなぁ。」というつぶやきが聞こえてきそうですが、
「生命の構成論的アプローチ」の現状について、整理整頓できました。
P200
複雑系においてわかる、理解するというのは、ストーリー(物語)が組み立てられることである。
「ストーリーテーリング」(物語)は、往々にして実際以上にその本質を雄弁に物語ることがある。
例えば、遺伝子の働きや量子の世界、脳の働きは、「物語」なくしては理解困難である。
「物語」とは、役者を取り出し/作り出し、その因果的な推移を語ることである。
もちろん、なぜ水が0度で凍るか、ということと、生命や意識の語り方は同じにはできない、
原子・分子だけを役者にしようとういうのが「物理フレーム」の原理主義的な立場としたら、
より妥当な「役者」、つまり物理フレーム以外の「中間レベル」(身体性)を求めてきたのが複雑系である。
というわけで、本書で問われているのは、
「生命の自律性とその形式化によって、アート(物語)が科学を凌駕するのではないか?」ということ。
通俗的ながら『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』はおすすめできます!
(→amazonレヴュー参照)
「人間は自然の中から生まれてきた。そしてこの大地に住み、一生そこから離れることができない。
人間にとってはこの自然、この大地ほど身近なものはないと言える。この自然に起こるさまざまな現象を
詳しく調べ、その間の関連を明らかにするのが自然科学であるからには、科学もまた、本来私どもの生活
と縁遠いものではないはずである。」 『詩と科学/湯川秀樹』P32より
以下↓こんな思索的な本文でした。
本書で問われているのは、生命とは何なのか?自律性はどう形式化されるべきか。・・・
そして、アートという表現手段はこれらの質問に答える上で科学を凌駕するものだろうか。
自分自身が生命であり知覚する主体であるために、生命そのものに過剰な思い入れが生まれ、
それがどんな生命の理論も受け入れがたいということにつながってしまっている。
複雑系という研究分野はこの「分かり方」の模索、道しるべを考えるための研究である。
人工生命は、コンピューターの中の仮想世界における新しい生命の抽象化を提供するものに他ならない。
しかし、それは生命の描き方ではなくて、生命そのものの「分かり方」とならなくてはいけない。
つまり生命を複雑系でわかるのではなくて、生命そのものが複雑系という装置なのだ、ということだが、
そうした言い方では堂々巡りになりかねない。生命であるわれわれが、生命を理解しようとする構図が、
生命そのものの問題でもある。この自分で自分の尾を噛むウロボロスのような、自己言及的な構造は、
簡単に解きほぐせるものではない。ともすれば三流の哲学談義に終わってしまう。
と、人工生命の動きと整合性を持つはずの自らの生命の思索となると、
「道は遠いなぁ。」というつぶやきが聞こえてきそうですが、
「生命の構成論的アプローチ」の現状について、整理整頓できました。
P200
複雑系においてわかる、理解するというのは、ストーリー(物語)が組み立てられることである。
「ストーリーテーリング」(物語)は、往々にして実際以上にその本質を雄弁に物語ることがある。
例えば、遺伝子の働きや量子の世界、脳の働きは、「物語」なくしては理解困難である。
「物語」とは、役者を取り出し/作り出し、その因果的な推移を語ることである。
もちろん、なぜ水が0度で凍るか、ということと、生命や意識の語り方は同じにはできない、
原子・分子だけを役者にしようとういうのが「物理フレーム」の原理主義的な立場としたら、
より妥当な「役者」、つまり物理フレーム以外の「中間レベル」(身体性)を求めてきたのが複雑系である。
というわけで、本書で問われているのは、
「生命の自律性とその形式化によって、アート(物語)が科学を凌駕するのではないか?」ということ。
通俗的ながら『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』はおすすめできます!
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「人間は自然の中から生まれてきた。そしてこの大地に住み、一生そこから離れることができない。
人間にとってはこの自然、この大地ほど身近なものはないと言える。この自然に起こるさまざまな現象を
詳しく調べ、その間の関連を明らかにするのが自然科学であるからには、科学もまた、本来私どもの生活
と縁遠いものではないはずである。」 『詩と科学/湯川秀樹』P32より